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月下美人が咲く夜に

ー/ー



初めて付き合った人と結婚する確率、約15パーセント。

初恋の人と結婚する確率、極めて稀。

୨୧┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈୨୧

バイトに出かける前にメールチェックをする。連絡が来ていることは滅多にないが、今日は誕生日。もしかして誰かが祝ってくれているかもしれない。期待しながらフォルダを開く。私の目に飛び込んできたのは、やけにハイテンションな言葉たちだった。

「結香お疲れさま!聞いて大ニュースよ!!!大きな仕事が決まりそうなの!これであなたもブレイク間違いなし!ホントよくやったわ!急なんだけど打ち合わせをしたいから事務所まで来てちょうだい。悪いけど今夜のバイトは適当な時間に早退して。22時に待ってるから。それと、28歳のお誕生日おめでとう」

久我さんからのメッセージに思わず首を傾げる。褒められるようなことをした覚えはない。必死に記憶の糸を手繰り寄せてみるが思い出せない。
人違いかとしれないと何度も見返したが、メールの宛先は間違いなく私に向けたものだった。

最近の私はマネージャーに呆れられてばかりだと思っていた。
背水の陣で臨んだドラマのオーディションは書類審査で早々に落選。仕事のオファーなどあるはずもなく、アルバイトが本業に取って代わった。期待の新人は売り出し期間をとうに過ぎ、事務所のお荷物になりつつあった。

だから、次に事務所に呼び出される時は、引退勧告に違いないと、内心ビクビクしていたところにこのメールだ。
全くもって意味がわからない。とりあえず、話を聞いてみないと。
居酒屋のバイトは、いつもより3時間早く上がらなければならない。とりあえず代わりを探す。

「お疲れさまです。実は急用で21時までしか勤務ができなくなってしまいました。それ以降、入ってくれる方いませんか?困っているんです。お願いします。ほんとに本当にお願いします」

バイトのグループLINEに大袈裟に書き込む。世の中ずる賢いくらいの方が上手くいく。代行を秒の速さで見つけると私は大きくため息をついた。

୨୧┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈୨୧

5階建てのビルの4階。ここに私の所属している芸能プロダクションはある。急な階段を登り、株式会社ピュアと看板が掲げられたドアの前に立つ。緊張のせいか呼吸が早くなる。何回来ても慣れることがないのは、この場所くらいだ。

「待ってたわ結香。さ、座って。遠慮しないで」

会議室とは名ばかりの小部屋に招き入れられる。マネージャーの久我さんは見た目は男性、心は女性だ。たぶん。たぶんというのは、はっきりと聞いたことがないから。
短く切り揃えられた髪をツーブロックにしている。そしてスーツの上からでも分かる鍛え抜かれた体。しばらく会わないうちに、また少し成長したような気がする。
今日はいつ帰れるのだろう? せめて終電に間に合うようにここを出たい。それが叶ったことは今までに数える程しかないのだが。
背負っていたリュックを胸の前で抱え込み、指定され椅子に座る。

「それで、話って」

恐る恐る尋ねる。

「次回のミューズは結香、あなたで決まりそうなの。ついに女神降臨だわ」

うっとりとした様子でそう言うと私に向かってウィンクしてくる。

「そう。ですか…」

今の時代に女神降臨など、ますます意味がわからない。ただ久我さんのウィンクの破壊力はなかなかに凄まじく、思わずクラクラする。
最近はどれだけの頻度でジム通いをしているのだろう。食事にもこだわっているだろうから、今度教えてもらおうなどという、およそ女神とは関係のない考えばかりが、浮かんでは消えていく。

「結香!ちょっと私の話聞いてる?」

低い声に思わず我に返る。

「ごめんなさい。大きな仕事のお話ですよね」

「そうよ。ちゃんと聞いてちょうだい。それから結香、目の下クマが出来てるわ。バイトのシフト入れすぎてない?真面目なのはいいけど、無理は禁物よ。そういえばさっき思ったんだけど、あなた少し痩せたでしょ。これ以上痩せなくていいって、いつも言ってるのに。体調管理も仕事のうちなんだから。もう少しふくよかな方が、健康的に見えるわ」

確かに、前回ここに来た時より2キロほど痩せている。2キロなんて見た目的に大して変わらないと思っていたのに。さすがマネージャーきちんと見ていたらしい。こういう時は逆らわないのが一番だ。
とりあえず分かったようなフリをして頷いておく。しかし、現実は働かないと生活出来ないのだから仕方がない。

家賃、光熱費、食費、レッスン代。黙っていても必然的に消えていくお金というのは意外と多い。

「それでお仕事の話は…」

これ以上あれこれ注意されるのはごめんだ。私は慌てて話題を戻す。その時、久我さんの目がきらりと光ったように感じた。

「結香、藤田健二って知ってる?私の最近できた知り合いなんだけど」

藤田健二、映像監督。正確にはアダルトビデオの監督。

「著名な監督さんですよね」

あえてAVとは言わないでおいた。

「さすがに結香も知ってるわよね。藤田さん有名だし」

藤田健二の話はいいから早く本題に入ってほしい。こうしているうちにも、終電の時間は刻一刻と迫ってくる。時間は待ってくれない。

「いい?結香よく聞いてね」

久我さんが応接テーブルごと私を押しつぶすような勢いで、前かがみになる。

「その、藤田健二が、あなたと、ううん、清水結香と作品を作りたい。そう言っているの」

意味がわからなかった。私はセクシー系の仕事はしない。これは前から申し入れてあった事で、久我さんだって了承していたはずだ。なのになぜ?

「ワガママかもしれませんが私、そういうお仕事はしないと決めてるので。それはずっと変わらないと思います。だから、もう帰ってもいいですか?終電乗り過ごすとまずいので」

席を立とうとすると、腕をがっちりと掴まれる。

「結香、落ち着いて。説明するから。ほら、席に座りましょ」

掴んでいる手の力とは裏腹な優しい口調。久我さんの本心はどこにあるのだろう。

「いい結香?よく聞いて。私最近通うジムを変えたの。そしたら、いたのよ彼が。藤田健二が。なに鳩が豆鉄砲くらったような顔してるの?そんなに驚いた?」

話をまとめると、つまりこういうことらしい。

新しいジムに通い始めた久我さんは、映像監督の藤田健二と遭遇する。千載一遇のチャンスとばかりに、持ち前のコミュニケーションスキルをフルに使い、彼にタレントの売り込みをしたというのだ。仕事熱心にも程がある。

「そこで監督があなたを新作のミューズに起用したいと言い出したわけ。おめでとう結香!将来は約束されたのよ。今まで頑張ってきたことが報われるのよ」

藤田氏の作品に主演する女優はミューズと呼ばれる。欲望を満たしてくれる女神という意味だと思う。普段は恥ずかしくて言い出せないようなことも、画面越しのミューズはきっと優しく受け止めてくれるに違いない。夢と虚構と現実が混ざりあった世界。

そんな女神達の中には、実業家に転身したり、インフルエンサーと呼ばれている人もいる。でも、私にとっては縁のない世界なんだと思う。

「ごめんなさい。少し驚いてしまって」

考えるフリをして言葉を探す。とりあえず今は、落ち着いて一人で考えたかった。こんな閉鎖的な場所にいたら、思考回路がおかしくなってしまう。

「久我さん、このお仕事ってどこまではっきり決まっているんですか?社長はなんて?事務所的にはOKなんですか?もちろん法律的にも大丈夫なんですよね」

立て続けに質問すると久我さんが曖昧に微笑んだ。

「もちろん、すぐに返事をしろとは言わないわ。よく考えなさい。ただね結香、人生は一度きりだし、人は老ていくものなの。花の命は短いの。でも結香、あなたならまだ間に合うわ。でもこれがタレントとして最後のチャンスかもしれない。そのことだけは覚えておいてね」

頷き席を立とうとする私に、マネージャーが再び声をかけてきた。

「私は、貴女の売れた姿を見たい。貴方なら輝ける素質は十分にあるわ」

ダメ押しするのも忘れない。

「また終電逃しちゃったわね。確かこの前の打ち合わせの時もそうだたんじゃないかしら。話に夢中になるとなる時間を忘れちゃうのが私の悪い癖ね。でも安心して。ちゃんと責任もって家まで送るから」

申し出はありがたかった。ただ私はこれ以上久我さんと二人きりになるのはごめんだった。

「一人て帰れるので大丈夫です。それに」

思わせぶりに一呼吸おく。

「少し考えたいんです。今後について。知ってます久我さん?人間て歩くと良い考えが浮かぶそうですよ」

にっこり笑ってそう答えると、あっさりと解放された。ただし、家に着いたら、久我さんに帰宅の報告をするという条件付きで。

୨୧┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈୨୧

外に出ると立て続けにくしゃみが出た。家までの道をゆっくり辿る中、私は個人用のスマホを取り出した。登録してある連絡先は実家と幼なじみの水上涼太の連絡先。あとは、病院とかマンションの管理会社とかそんなところ。

無性に誰かの声が聞きたい夜が私にはある。電話越しで構わない。誰かの熱を感じることで私は自分の生を実感する。
普段は無料の相談ダイヤルに掛けて気を紛らわすのだが、今日はなんだか気が進まない。
涼太、涼太なら話を聞いてくれるかもしれない。気持ちを整理するためだけのとりとめのない戯言を。しかし今はもう真夜中。終電さえも終わっている時間だ。

迷惑なことをしようとしている。そう 頭では分かっているのに、指が勝手に動いていく。そしてスマホは、私と涼太とを透明な糸で繋ぎ始めた。

「結子?結子だよな?どうした?こんな真夜中に」

寝ていたのだろう。くぐもったような声をしている。懐かしい響につられ、清水結香と私が心の中でゆっくりと混ざり合う。結子そう呼ぶのは今では両親と涼太くらいになってしまった。

(聞いて涼太。私大きな仕事をもらえそうなの。でもそれにはいろいろ事情があって…大人の事情っていうのかな。ブレイクはするかもしれないけどリスクも大きいっていうか。ねぇ涼太はどう思う?私?私はなんかもう分からなくなっちゃって)

心の中に言葉があふれる。

しかし実際口をついて出た言葉は

「起こしちゃったよね。ごめん」

それだけだった。

「涼太、仕事は忙しい?今年の生徒たちはどんな感じ?もうすぐ夏休みに入るんでしょ。いいよね学生って。まとまった休みがあって。そうそうまだ生活指導とかやってるの?スカートの丈が短い!とか。穏やかな涼太しか知らないから、なんかウケる」

とりあえず当たり障りない話題を絞り出す。

「何で見てもいないのに、勝手にウケてんだよ。それからもう夏休みに入ってるから。俺、今年は高3の担任もやってるんだ。部活は文芸部の顧問やってる。本当に忙しくてマジで病みそう。昨日もさ、学校泊まり込んだんだぜ。帰るのめんどくさくて。ストレスだと思うんだけど抜け毛もひどいし。来年の3月まで俺、髪残ってないかもしれないわ」

「そんなこと気にしてるの?大丈夫。髪がなくなっても涼太は涼太でしょ。なんか羨ましいな〜いくつになっても青春て感じで。涼太のこと好きな女子とかいるの?卒業したら、付き合ってください的な」

「さぁ。どうだろうなぁ。この前も生徒に告白されたけど。ま、よくあることだから」

満更でもない声の調子にピンとくる。涼太はモテるんだ。生徒にも、たぶん同僚にも。学校に泊まり込んだのも一人ではなかったのかもしれない。
しかしそれを私が知ったところでどうしようもない。私が涼太の彼女だったのは、はるか昔の話で、今はただの友人の一人。しかし、こんなに心がザワつくのは、未練という一欠片が心のどこかに存在しているからに違いない。

「それで、その彼女とは?卒業したらお付き合いするの?」

「しないから。ありえないから。大学に入ったら、俺みたいなおじさん相手にしないって。どうせ付き合うなら、カッコイイ若い男と付き合うだろ」

涼太がおじさんなら、私はおばさんだ。久我さんから言われたこれが最後のチャンスという言葉がむくむくと頭をもたげてくる。

18歳と28歳、提示される将来の可能性には明らかな差が生まれていた。
高3といえば、これから先どのような人生を歩むかを決めていかなければいけない重要な学年だ。就職、進学、その中から自分に最適な進路を選び取れる18歳がどれほどいるか私は知らない。大多数は、自分が何者なのかも分からず、とりあえず楽そうだから、親が勧めた大学だからという感じで進学していくと聞いたことがあるが、実際はどうなのだろう。しかしやり直しはきく。
対する28歳、人生崖っぷち。正確には俳優人生崖っぷち。もしかしたらほとんど崖に堕ちてしまっているのかもしれない。

「いろいろ大変。だよね」

自分自身に言い聞かせるように呟く。その言葉に涼太が反応した。

「ホントそれ!何から何まで面倒見なきゃならなくてさ。最近小論文を書かせる大学が多いんだけど、今の家庭って、新聞取ってない家が多いんだよね。だから活字を読む習慣がないわけ。そんな子たちに、いきなり論文とか…マジで勘弁してほしいわ。それで?」

「それで!?なに?」

電話の向こうで、涼太が大きなため息をつく。

「そろそろ本当に言いたいこと話してほしいんだけど。悩み事、あるんだろ?俺に相談したいから電話かけてきたんじゃないの?違う?」

黙り込む私に涼太はさらに続けた。

「結子の考えてることくらいお見通しなんだよ。俺たち、小さい頃からずっと一緒に大きくなってきたんだから。幼なじみだから当たり前っていえば当たり前なんだけど。お前の悪いとこさ、何でも一人で頑張ろうとするとこだから。だけど、小さなSOSは発信してるんだよな。よく観察しないと見逃してしまうくらいの、小さな小さな心の叫び。今日だって俺から聞かなかったら、当たり障りのない話して電話切るつもりだったんじゃない?そんなことさせないから」

さすが教師。分析力が半端ない。

「何でもない。本当に何でもないの。今日もマネージャーが大きな仕事を取ってきてくれて」

私はいつも嘘つきだ。

「大きな仕事?凄いじゃん!で、どんな分野?テレビ?ラジオ?雑誌?答えられる範囲で構わないから」

「ねぇ涼太、藤田健二って監督知ってる?」

どうせ知らないだろうとタカをくくっていた。しかし涼太からの返答は私の予想を覆すものだった。

「ちょっと待って。その名前どこかで聞いたような」

これではなんで藤田健二の名前を出したのか説明しないといけなくなる。こんなことなら聞かない方がよかったと激しく後悔したが、時すでに遅し。

「最近、教卓にアダルトビデオが置いてあたったんだよね。生徒のイタズラだったんだけど。今までも成人誌は、たまに置いてあったりしたんだけどDVDは初めてでさ。その監督の名前が確か」

涼太の声が低く小さくなっていく。

「まさか結子、大きな仕事って」

「オファーがきたの。藤田健二の作品に出てみないかって。なぜが監督が私に一目惚れしたみたいで、熱烈にアプローチされてる。日本のミューズ、ううん、世界のミューズになれるのは私しかいないって」

多少話を盛るのは許されると思う。私にだって芸能人としてのプライドというものがある。

「結子、藤田健二の作品観たことあるのか?いや、観てたら観てたで、何て言ったらいいかよく分からないんだけど。まぁこの際だからはっきり言うけど、お前、アダルトビデオに出演しませんか?そう言われてるんだぞ?分かる?」

分かりきったことを改めて言われると、反論したくなる。これは昔からそうだ。

「AVが悪いなんて誰が決めたの?普通に公開している映画にだって、そういうシーンあるじゃない。教師だったら分かるよね。芸術と猥褻の違いってなに?」

「良いとか悪いの問題じゃないんだよぁ。もっとこうデリケートっていうか」

「じゃあ分かるように説明して」

「それは…」

「答えられないんでしょ。もういいから。涼太に聞いた私が馬鹿だった。教師ならもっといろいろ知っていると思ったのに」

非常口すらない真っ暗な檻に閉じ込められた人の気持ちなんてきっと誰にも分からない。でも私は心のどこかで期待していた。涼太なら、もしかして彼なら疲れきった私の気持ちに優しく寄り添ってくれるのではないかと。

「お前、さっきから無茶苦茶言うな。とりあえず少し落ち着けって。深呼吸してみ。吸ってー吐いてー」

呼吸に意識を集中すると、涙っていた心が次第に落ち着いてくるのが分かった。

「あのころはよかったな」

不意に涼太が呟く。

「理由なんてつけなくても、毎日結子と会えたし。俺、お前の顔を見るだけで幸せな気分になれたんだ。過去を振り返るのは好きじゃないけど、でももう一度やり直せるとしたら、高2の夏まで遡りたい」

高校2年の夏、涼太と同じ大学に進学することをやめた年だ。

「あの時、どうにか説得して大学進学させておけば、職場の同僚くらいにはなれてたかもしれないのに。芸能人と一般人とじゃ住む世界が違いすぎてエグいって」

淡々とした口調なのが余計に私の心を締め付ける。

「私は何も変わってない。ただ、ただ取り巻く環境が変化しただけ。それに私たち約束したよね。どんな形であれ一生一緒にいようって。私、涼太との約束があったから、頑張ってこられたの。でも、どうしていいか分からない夜もあるの。私が何かしでかす前に駆けつけて。今すぐ駆けつけて」

溢れ出した思いは止められなかった。きっとこの後私は激しく後悔するだろう。

「お前今何時だと思ってんの?せめて明日の朝まで待てないか?そしたら気分も変わるかもしれないだろ」

「朝までなんで待てない。私は今夜、涼太に会いたい。だから叶えてよ。叶えて涼太!」

口の中が塩辛い。どうやら私は泣いているようだ。

「ねぇ今日何の日かおぼえてる?正確には昨日になっちゃったけど。私、誕生日だったんだよ。ずっと前に約束したよね。28歳の誕生日を迎えた時、お互い付き合っている人がいなかったら、結婚しようって」

何を言っているのか自分でもよく分からなかった。ただ、落ち着いてきていた心が再び燃え始めたことだけは確かだった。
忘れたはず思い出が浮かんでは消えていく。初めてのデート、ファーストキス。過去に縋るような事はしたくないが、私たちの青春は輝きすぎていた。

「もう、あの頃と同じじゃないんだよ。俺だって、それなりに苦労してる。毎日目一杯働いても時間は全然足りないし。それでもさ、生徒一人一人にはちゃんと寄り添いたいと思ってる。ようやく、自分で言うけど、俺これからなんだよ。もっと飛躍できるっていうかさ。結子のことは好きだ。大事だと思ってる。だけど」

さらに涼太は続けた。

「結子が仕事を辞めて戻ってきたとする。あるいは、仕事をしながら俺とまた付き合ったとする。そうするとどういう結果になるか。結子の過去を調べ上げた市民が現れるんだよ。そして苦情がくる。芸能人と付き合ってる教師なんて信用出来ないってな。SNSに拡散されるかもしれない。偏見なのは分かってる。俺一人のことなら全然構わない。だけど、学校の評判に関わることとか、周囲の迷惑になるようなことはちょっと」

なぜはっきり言わないのだろう。私の存在自体が迷惑だと。中途半端な思いやりは時として人を傷つける。それを涼太は分かっていないのだ。

「ごめんね。もう大丈夫」

終わった。たぶん何もかもが。私が逃したのは終電だけではなかった。

「もう分かったから涼太。私がもしミューズになったら、それはずっと残るんだもんね。私がおばあちゃんになったとしても。それにこの先、もし結婚するようなことになったら、夫になる人は、私と手を繋ぐ度、キスする度、身体を重ねる度に思い出すだろうし。それはとても不幸なことかもしれないね。教えてくれてありがと」

受話器越しに、涼太がふぅーと大きくひとつ息を吐く。

「俺だって出来ることなら、今すぐ駆けつけて、思いっきり結子のことハグして、よく頑張ったなって声掛けて、それから」

電話口の涼太の声が揺れていた。

私が彼と会うことは、たぶんもう二度とない。

気がつくと柔らかな光が私を照らしていた。白い肌が闇に映える。月下美人。そんな名前の花があった気がする。

































































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初めて付き合った人と結婚する確率、約15パーセント。
初恋の人と結婚する確率、極めて稀。
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「結香お疲れさま!聞いて大ニュースよ!!!大きな仕事が決まりそうなの!これであなたもブレイク間違いなし!ホントよくやったわ!急なんだけど打ち合わせをしたいから事務所まで来てちょうだい。悪いけど今夜のバイトは適当な時間に早退して。22時に待ってるから。それと、28歳のお誕生日おめでとう」
久我さんからのメッセージに思わず首を傾げる。褒められるようなことをした覚えはない。必死に記憶の糸を手繰り寄せてみるが思い出せない。
人違いかとしれないと何度も見返したが、メールの宛先は間違いなく私に向けたものだった。
最近の私はマネージャーに呆れられてばかりだと思っていた。
背水の陣で臨んだドラマのオーディションは書類審査で早々に落選。仕事のオファーなどあるはずもなく、アルバイトが本業に取って代わった。期待の新人は売り出し期間をとうに過ぎ、事務所のお荷物になりつつあった。
だから、次に事務所に呼び出される時は、引退勧告に違いないと、内心ビクビクしていたところにこのメールだ。
全くもって意味がわからない。とりあえず、話を聞いてみないと。
居酒屋のバイトは、いつもより3時間早く上がらなければならない。とりあえず代わりを探す。
「お疲れさまです。実は急用で21時までしか勤務ができなくなってしまいました。それ以降、入ってくれる方いませんか?困っているんです。お願いします。ほんとに本当にお願いします」
バイトのグループLINEに大袈裟に書き込む。世の中ずる賢いくらいの方が上手くいく。代行を秒の速さで見つけると私は大きくため息をついた。
୨୧┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈୨୧
5階建てのビルの4階。ここに私の所属している芸能プロダクションはある。急な階段を登り、株式会社ピュアと看板が掲げられたドアの前に立つ。緊張のせいか呼吸が早くなる。何回来ても慣れることがないのは、この場所くらいだ。
「待ってたわ結香。さ、座って。遠慮しないで」
会議室とは名ばかりの小部屋に招き入れられる。マネージャーの久我さんは見た目は男性、心は女性だ。たぶん。たぶんというのは、はっきりと聞いたことがないから。
短く切り揃えられた髪をツーブロックにしている。そしてスーツの上からでも分かる鍛え抜かれた体。しばらく会わないうちに、また少し成長したような気がする。
今日はいつ帰れるのだろう? せめて終電に間に合うようにここを出たい。それが叶ったことは今までに数える程しかないのだが。
背負っていたリュックを胸の前で抱え込み、指定され椅子に座る。
「それで、話って」
恐る恐る尋ねる。
「次回のミューズは結香、あなたで決まりそうなの。ついに女神降臨だわ」
うっとりとした様子でそう言うと私に向かってウィンクしてくる。
「そう。ですか…」
今の時代に女神降臨など、ますます意味がわからない。ただ久我さんのウィンクの破壊力はなかなかに凄まじく、思わずクラクラする。
最近はどれだけの頻度でジム通いをしているのだろう。食事にもこだわっているだろうから、今度教えてもらおうなどという、およそ女神とは関係のない考えばかりが、浮かんでは消えていく。
「結香!ちょっと私の話聞いてる?」
低い声に思わず我に返る。
「ごめんなさい。大きな仕事のお話ですよね」
「そうよ。ちゃんと聞いてちょうだい。それから結香、目の下クマが出来てるわ。バイトのシフト入れすぎてない?真面目なのはいいけど、無理は禁物よ。そういえばさっき思ったんだけど、あなた少し痩せたでしょ。これ以上痩せなくていいって、いつも言ってるのに。体調管理も仕事のうちなんだから。もう少しふくよかな方が、健康的に見えるわ」
確かに、前回ここに来た時より2キロほど痩せている。2キロなんて見た目的に大して変わらないと思っていたのに。さすがマネージャーきちんと見ていたらしい。こういう時は逆らわないのが一番だ。
とりあえず分かったようなフリをして頷いておく。しかし、現実は働かないと生活出来ないのだから仕方がない。
家賃、光熱費、食費、レッスン代。黙っていても必然的に消えていくお金というのは意外と多い。
「それでお仕事の話は…」
これ以上あれこれ注意されるのはごめんだ。私は慌てて話題を戻す。その時、久我さんの目がきらりと光ったように感じた。
「結香、藤田健二って知ってる?私の最近できた知り合いなんだけど」
藤田健二、映像監督。正確にはアダルトビデオの監督。
「著名な監督さんですよね」
あえてAVとは言わないでおいた。
「さすがに結香も知ってるわよね。藤田さん有名だし」
藤田健二の話はいいから早く本題に入ってほしい。こうしているうちにも、終電の時間は刻一刻と迫ってくる。時間は待ってくれない。
「いい?結香よく聞いてね」
久我さんが応接テーブルごと私を押しつぶすような勢いで、前かがみになる。
「その、藤田健二が、あなたと、ううん、清水結香と作品を作りたい。そう言っているの」
意味がわからなかった。私はセクシー系の仕事はしない。これは前から申し入れてあった事で、久我さんだって了承していたはずだ。なのになぜ?
「ワガママかもしれませんが私、そういうお仕事はしないと決めてるので。それはずっと変わらないと思います。だから、もう帰ってもいいですか?終電乗り過ごすとまずいので」
席を立とうとすると、腕をがっちりと掴まれる。
「結香、落ち着いて。説明するから。ほら、席に座りましょ」
掴んでいる手の力とは裏腹な優しい口調。久我さんの本心はどこにあるのだろう。
「いい結香?よく聞いて。私最近通うジムを変えたの。そしたら、いたのよ彼が。藤田健二が。なに鳩が豆鉄砲くらったような顔してるの?そんなに驚いた?」
話をまとめると、つまりこういうことらしい。
新しいジムに通い始めた久我さんは、映像監督の藤田健二と遭遇する。千載一遇のチャンスとばかりに、持ち前のコミュニケーションスキルをフルに使い、彼にタレントの売り込みをしたというのだ。仕事熱心にも程がある。
「そこで監督があなたを新作のミューズに起用したいと言い出したわけ。おめでとう結香!将来は約束されたのよ。今まで頑張ってきたことが報われるのよ」
藤田氏の作品に主演する女優はミューズと呼ばれる。欲望を満たしてくれる女神という意味だと思う。普段は恥ずかしくて言い出せないようなことも、画面越しのミューズはきっと優しく受け止めてくれるに違いない。夢と虚構と現実が混ざりあった世界。
そんな女神達の中には、実業家に転身したり、インフルエンサーと呼ばれている人もいる。でも、私にとっては縁のない世界なんだと思う。
「ごめんなさい。少し驚いてしまって」
考えるフリをして言葉を探す。とりあえず今は、落ち着いて一人で考えたかった。こんな閉鎖的な場所にいたら、思考回路がおかしくなってしまう。
「久我さん、このお仕事ってどこまではっきり決まっているんですか?社長はなんて?事務所的にはOKなんですか?もちろん法律的にも大丈夫なんですよね」
立て続けに質問すると久我さんが曖昧に微笑んだ。
「もちろん、すぐに返事をしろとは言わないわ。よく考えなさい。ただね結香、人生は一度きりだし、人は老ていくものなの。花の命は短いの。でも結香、あなたならまだ間に合うわ。でもこれがタレントとして最後のチャンスかもしれない。そのことだけは覚えておいてね」
頷き席を立とうとする私に、マネージャーが再び声をかけてきた。
「私は、貴女の売れた姿を見たい。貴方なら輝ける素質は十分にあるわ」
ダメ押しするのも忘れない。
「また終電逃しちゃったわね。確かこの前の打ち合わせの時もそうだたんじゃないかしら。話に夢中になるとなる時間を忘れちゃうのが私の悪い癖ね。でも安心して。ちゃんと責任もって家まで送るから」
申し出はありがたかった。ただ私はこれ以上久我さんと二人きりになるのはごめんだった。
「一人て帰れるので大丈夫です。それに」
思わせぶりに一呼吸おく。
「少し考えたいんです。今後について。知ってます久我さん?人間て歩くと良い考えが浮かぶそうですよ」
にっこり笑ってそう答えると、あっさりと解放された。ただし、家に着いたら、久我さんに帰宅の報告をするという条件付きで。
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外に出ると立て続けにくしゃみが出た。家までの道をゆっくり辿る中、私は個人用のスマホを取り出した。登録してある連絡先は実家と幼なじみの水上涼太の連絡先。あとは、病院とかマンションの管理会社とかそんなところ。
無性に誰かの声が聞きたい夜が私にはある。電話越しで構わない。誰かの熱を感じることで私は自分の生を実感する。
普段は無料の相談ダイヤルに掛けて気を紛らわすのだが、今日はなんだか気が進まない。
涼太、涼太なら話を聞いてくれるかもしれない。気持ちを整理するためだけのとりとめのない戯言を。しかし今はもう真夜中。終電さえも終わっている時間だ。
迷惑なことをしようとしている。そう 頭では分かっているのに、指が勝手に動いていく。そしてスマホは、私と涼太とを透明な糸で繋ぎ始めた。
「結子?結子だよな?どうした?こんな真夜中に」
寝ていたのだろう。くぐもったような声をしている。懐かしい響につられ、清水結香と私が心の中でゆっくりと混ざり合う。結子そう呼ぶのは今では両親と涼太くらいになってしまった。
(聞いて涼太。私大きな仕事をもらえそうなの。でもそれにはいろいろ事情があって…大人の事情っていうのかな。ブレイクはするかもしれないけどリスクも大きいっていうか。ねぇ涼太はどう思う?私?私はなんかもう分からなくなっちゃって)
心の中に言葉があふれる。
しかし実際口をついて出た言葉は
「起こしちゃったよね。ごめん」
それだけだった。
「涼太、仕事は忙しい?今年の生徒たちはどんな感じ?もうすぐ夏休みに入るんでしょ。いいよね学生って。まとまった休みがあって。そうそうまだ生活指導とかやってるの?スカートの丈が短い!とか。穏やかな涼太しか知らないから、なんかウケる」
とりあえず当たり障りない話題を絞り出す。
「何で見てもいないのに、勝手にウケてんだよ。それからもう夏休みに入ってるから。俺、今年は高3の担任もやってるんだ。部活は文芸部の顧問やってる。本当に忙しくてマジで病みそう。昨日もさ、学校泊まり込んだんだぜ。帰るのめんどくさくて。ストレスだと思うんだけど抜け毛もひどいし。来年の3月まで俺、髪残ってないかもしれないわ」
「そんなこと気にしてるの?大丈夫。髪がなくなっても涼太は涼太でしょ。なんか羨ましいな〜いくつになっても青春て感じで。涼太のこと好きな女子とかいるの?卒業したら、付き合ってください的な」
「さぁ。どうだろうなぁ。この前も生徒に告白されたけど。ま、よくあることだから」
満更でもない声の調子にピンとくる。涼太はモテるんだ。生徒にも、たぶん同僚にも。学校に泊まり込んだのも一人ではなかったのかもしれない。
しかしそれを私が知ったところでどうしようもない。私が涼太の彼女だったのは、はるか昔の話で、今はただの友人の一人。しかし、こんなに心がザワつくのは、未練という一欠片が心のどこかに存在しているからに違いない。
「それで、その彼女とは?卒業したらお付き合いするの?」
「しないから。ありえないから。大学に入ったら、俺みたいなおじさん相手にしないって。どうせ付き合うなら、カッコイイ若い男と付き合うだろ」
涼太がおじさんなら、私はおばさんだ。久我さんから言われたこれが最後のチャンスという言葉がむくむくと頭をもたげてくる。
18歳と28歳、提示される将来の可能性には明らかな差が生まれていた。
高3といえば、これから先どのような人生を歩むかを決めていかなければいけない重要な学年だ。就職、進学、その中から自分に最適な進路を選び取れる18歳がどれほどいるか私は知らない。大多数は、自分が何者なのかも分からず、とりあえず楽そうだから、親が勧めた大学だからという感じで進学していくと聞いたことがあるが、実際はどうなのだろう。しかしやり直しはきく。
対する28歳、人生崖っぷち。正確には俳優人生崖っぷち。もしかしたらほとんど崖に堕ちてしまっているのかもしれない。
「いろいろ大変。だよね」
自分自身に言い聞かせるように呟く。その言葉に涼太が反応した。
「ホントそれ!何から何まで面倒見なきゃならなくてさ。最近小論文を書かせる大学が多いんだけど、今の家庭って、新聞取ってない家が多いんだよね。だから活字を読む習慣がないわけ。そんな子たちに、いきなり論文とか…マジで勘弁してほしいわ。それで?」
「それで!?なに?」
電話の向こうで、涼太が大きなため息をつく。
「そろそろ本当に言いたいこと話してほしいんだけど。悩み事、あるんだろ?俺に相談したいから電話かけてきたんじゃないの?違う?」
黙り込む私に涼太はさらに続けた。
「結子の考えてることくらいお見通しなんだよ。俺たち、小さい頃からずっと一緒に大きくなってきたんだから。幼なじみだから当たり前っていえば当たり前なんだけど。お前の悪いとこさ、何でも一人で頑張ろうとするとこだから。だけど、小さなSOSは発信してるんだよな。よく観察しないと見逃してしまうくらいの、小さな小さな心の叫び。今日だって俺から聞かなかったら、当たり障りのない話して電話切るつもりだったんじゃない?そんなことさせないから」
さすが教師。分析力が半端ない。
「何でもない。本当に何でもないの。今日もマネージャーが大きな仕事を取ってきてくれて」
私はいつも嘘つきだ。
「大きな仕事?凄いじゃん!で、どんな分野?テレビ?ラジオ?雑誌?答えられる範囲で構わないから」
「ねぇ涼太、藤田健二って監督知ってる?」
どうせ知らないだろうとタカをくくっていた。しかし涼太からの返答は私の予想を覆すものだった。
「ちょっと待って。その名前どこかで聞いたような」
これではなんで藤田健二の名前を出したのか説明しないといけなくなる。こんなことなら聞かない方がよかったと激しく後悔したが、時すでに遅し。
「最近、教卓にアダルトビデオが置いてあたったんだよね。生徒のイタズラだったんだけど。今までも成人誌は、たまに置いてあったりしたんだけどDVDは初めてでさ。その監督の名前が確か」
涼太の声が低く小さくなっていく。
「まさか結子、大きな仕事って」
「オファーがきたの。藤田健二の作品に出てみないかって。なぜが監督が私に一目惚れしたみたいで、熱烈にアプローチされてる。日本のミューズ、ううん、世界のミューズになれるのは私しかいないって」
多少話を盛るのは許されると思う。私にだって芸能人としてのプライドというものがある。
「結子、藤田健二の作品観たことあるのか?いや、観てたら観てたで、何て言ったらいいかよく分からないんだけど。まぁこの際だからはっきり言うけど、お前、アダルトビデオに出演しませんか?そう言われてるんだぞ?分かる?」
分かりきったことを改めて言われると、反論したくなる。これは昔からそうだ。
「AVが悪いなんて誰が決めたの?普通に公開している映画にだって、そういうシーンあるじゃない。教師だったら分かるよね。芸術と猥褻の違いってなに?」
「良いとか悪いの問題じゃないんだよぁ。もっとこうデリケートっていうか」
「じゃあ分かるように説明して」
「それは…」
「答えられないんでしょ。もういいから。涼太に聞いた私が馬鹿だった。教師ならもっといろいろ知っていると思ったのに」
非常口すらない真っ暗な檻に閉じ込められた人の気持ちなんてきっと誰にも分からない。でも私は心のどこかで期待していた。涼太なら、もしかして彼なら疲れきった私の気持ちに優しく寄り添ってくれるのではないかと。
「お前、さっきから無茶苦茶言うな。とりあえず少し落ち着けって。深呼吸してみ。吸ってー吐いてー」
呼吸に意識を集中すると、涙っていた心が次第に落ち着いてくるのが分かった。
「あのころはよかったな」
不意に涼太が呟く。
「理由なんてつけなくても、毎日結子と会えたし。俺、お前の顔を見るだけで幸せな気分になれたんだ。過去を振り返るのは好きじゃないけど、でももう一度やり直せるとしたら、高2の夏まで遡りたい」
高校2年の夏、涼太と同じ大学に進学することをやめた年だ。
「あの時、どうにか説得して大学進学させておけば、職場の同僚くらいにはなれてたかもしれないのに。芸能人と一般人とじゃ住む世界が違いすぎてエグいって」
淡々とした口調なのが余計に私の心を締め付ける。
「私は何も変わってない。ただ、ただ取り巻く環境が変化しただけ。それに私たち約束したよね。どんな形であれ一生一緒にいようって。私、涼太との約束があったから、頑張ってこられたの。でも、どうしていいか分からない夜もあるの。私が何かしでかす前に駆けつけて。今すぐ駆けつけて」
溢れ出した思いは止められなかった。きっとこの後私は激しく後悔するだろう。
「お前今何時だと思ってんの?せめて明日の朝まで待てないか?そしたら気分も変わるかもしれないだろ」
「朝までなんで待てない。私は今夜、涼太に会いたい。だから叶えてよ。叶えて涼太!」
口の中が塩辛い。どうやら私は泣いているようだ。
「ねぇ今日何の日かおぼえてる?正確には昨日になっちゃったけど。私、誕生日だったんだよ。ずっと前に約束したよね。28歳の誕生日を迎えた時、お互い付き合っている人がいなかったら、結婚しようって」
何を言っているのか自分でもよく分からなかった。ただ、落ち着いてきていた心が再び燃え始めたことだけは確かだった。
忘れたはず思い出が浮かんでは消えていく。初めてのデート、ファーストキス。過去に縋るような事はしたくないが、私たちの青春は輝きすぎていた。
「もう、あの頃と同じじゃないんだよ。俺だって、それなりに苦労してる。毎日目一杯働いても時間は全然足りないし。それでもさ、生徒一人一人にはちゃんと寄り添いたいと思ってる。ようやく、自分で言うけど、俺これからなんだよ。もっと飛躍できるっていうかさ。結子のことは好きだ。大事だと思ってる。だけど」
さらに涼太は続けた。
「結子が仕事を辞めて戻ってきたとする。あるいは、仕事をしながら俺とまた付き合ったとする。そうするとどういう結果になるか。結子の過去を調べ上げた市民が現れるんだよ。そして苦情がくる。芸能人と付き合ってる教師なんて信用出来ないってな。SNSに拡散されるかもしれない。偏見なのは分かってる。俺一人のことなら全然構わない。だけど、学校の評判に関わることとか、周囲の迷惑になるようなことはちょっと」
なぜはっきり言わないのだろう。私の存在自体が迷惑だと。中途半端な思いやりは時として人を傷つける。それを涼太は分かっていないのだ。
「ごめんね。もう大丈夫」
終わった。たぶん何もかもが。私が逃したのは終電だけではなかった。
「もう分かったから涼太。私がもしミューズになったら、それはずっと残るんだもんね。私がおばあちゃんになったとしても。それにこの先、もし結婚するようなことになったら、夫になる人は、私と手を繋ぐ度、キスする度、身体を重ねる度に思い出すだろうし。それはとても不幸なことかもしれないね。教えてくれてありがと」
受話器越しに、涼太がふぅーと大きくひとつ息を吐く。
「俺だって出来ることなら、今すぐ駆けつけて、思いっきり結子のことハグして、よく頑張ったなって声掛けて、それから」
電話口の涼太の声が揺れていた。
私が彼と会うことは、たぶんもう二度とない。
気がつくと柔らかな光が私を照らしていた。白い肌が闇に映える。月下美人。そんな名前の花があった気がする。