第1節 始まりの事件/ §2
ー/ー
―セクション2―
大杜はトーストの焼ける匂いで目が覚めた。枕元の時計を見ると6時前だ。
1階に降りると、母の梨々子がキッチンでトーストを口にしていた。
「母さん、おはよう。ずいぶん早いね」
「おはよう。父さんがトラブルだとかで会社から呼び出されて、さっき出かけたのよ。見送りに出たから、そのまま起きちゃおうと思って」
父の会社は24時間体制なので、こういったことはたびたびある。大杜は興味なさそうに、ふぅんと相槌を打った。
「それにしても朝ご飯……早過ぎない?」
「お弁当作ってたら、匂いでお腹空いてきちゃって」
「母さんが作ってくれてるの? 今日早く仕事行かなきゃいけなかったっけ? 待ってくれたら俺が作るけど――」
「あなたのを作ってるのよ」
「え?」
「いつも作ってもらってばかりで悪いしね。今日は入試でしょ。合格祈願も込めて、こんな日ぐらいはね」
大杜は一瞬言葉に詰まったが、なんとか笑ってみせた。
「ありがとう。頑張るよ」
「六連星学院って偏差値高いし、ちょっと高望みだけど、先生がぜひにって言ってくださったし、何事もチャレンジよね」
いつになく明るく笑う母に大杜は穏やかな口調で返す。
「そうだよね」
「身支度してらっしゃい。忘れ物がないように準備もね。トースト焼き始めとくわよ」
「うん」
大杜は小さく頷くと洗面所へ向かった。
ゆっくりと洗面所の鏡を覗き込むと、そこには自身の暗い表情が映っていた。明るい会話を交わした直後とは思えないその表情に、大杜は自己嫌悪の溜め息をついた。
(母さんには笑っていて欲しいし、幸せな気持ちでいて欲しい――)
だが、楽しそうに笑っているときの母を見るほどに、罪悪感が強く湧き上がってくる。
大杜は凍えるほどに冷たい流水で激しく顔を洗う。
(大切な人を傷付けるとわかっていながら歩んできた道だ。せめて母さんが笑える回数を増やせるように、頑張らなきゃ……)
大杜は手の平でパンパンと頬を叩くと、洗面台の縁をぎゅっと強く握り締めた。
六連星学院の名前が入った駅のホームは、様々な制服姿の学生であふれていた。改札口を出ると、皆同じ方向に歩き出す。目的も同じ――六連星学院の入学試験だ。
駅の情報モニターの片側がテレビになっており、ニュースが流れているのに気付いた大杜は、歩きながら視線を向けた。
『幸い、この事故での死者はゼロでした』
昨日自分が関わった事故の映像が映し出されている。一瞬シルバーウィッグの後ろ姿が見えて、大杜は内心で微笑んだ。
昨夜眠る前に報告は受けていた。つつがなく任務は遂行され、その働きに多方面から感謝されたそうだ。
駅から学校までは10分程の距離で、気が付くと門の前にいた。大杜は人の流れから外れ、道の端から校舎を見上げた。
ロマネスク様式を思わせる重厚な校舎がどっしりと建っている。歴史が古く薄汚れた部分も見えるが、それがむしろ渋さを際立たせている。
目の前を横切って門に消えていく学生の背中を、大杜はいくつも見送った。皆緊張した表情を浮かべているが、合格をつかみ取ろうという強い意志を感じさせる横顔だ。
(そりゃそうだよ。学校を「怖い」なんて気持ちで訪れているような学生は、この中にはいないだろうし)
「どうした?」
突然声が掛けられ、大杜の肩がびくりと跳ねた。
「わりぃ、驚かせたか。突っ立ってるから、どうしたのかと思ってな。早く入らないと、試験場所探すのに時間取られて、間に合わなくなるぞ」
「あ、ああ。そうだよね……」
戸惑いながら、大杜は声を掛けてきた相手を見上げた。
すらりとした背格好の割に肩幅があり、たくましい印象を与える少年だった。顔だちはシャープで知的さが際立つが、口元が緩やかに弧を描いていてるさまは人懐こさも感じさせる。
(クラスの中心にいて、みんなが信頼を向けて、それを裏切らないリーダーシップさがあって――そんな感じかな)
「忘れ物か? 筆記用具ぐらいなら貸すぞ」
「あ――いや大丈夫」
大杜が我に返って慌てて断ると、男子生徒は笑った。
「そりゃそうか。入試で筆記用具忘れるとか、さすがにないよな。体調が悪い?」
「それも大丈夫……」
「なら行こうぜ」
男子生徒は大杜の背中をぽんと叩いてから門を抜け、その先で振り返った。
「『案ずるより産むが易し』ってな。――本当に学校が嫌なら白紙で出せよ。でも案外入っちまったら、迷いなんて吹っ飛ぶかもしんねぇぜ」
心を見透かされたような言葉に驚く。
「そう――かもしれないね」
大杜は頷いて門を潜った。
男子生徒はそれを確認してから歩き出す。大杜が続く。速度は同じぐらいだ。
彼が自分を気遣ってゆっくり歩いてくれていることに気付き、大杜は嬉しいようなむず痒いような不思議な気持ちになった。
彼は啓明光学園の制服を着ている。頭脳明晰な子どもが全国から集まる幼少中高の一貫校で、大杜ですら知っているような有名な私立だ。
なぜ彼は外部受験をしているのだろうと思いながら、
「君は合格するよね」
背中に向かって言った。質問ではなく確認だ。
「まぁ余裕だな」
自信満々の答えだったが、不思議と嫌味は感じない。
「お前が受かれば友だちか。今はまだライバルだな」
「余裕で受かるんだったらライバルじゃないよ。俺は模試ギリギリだったから」
男子生徒は立ち止まって振り返った。
「俺は松宮だ。がんばれよ。――じゃあな」
そう言うと彼は前を向いて歩みを早めた。自分より背の高い彼が本気で早足になると、あっという間に距離が開いた。
大杜も慌てて速度を上げる。
「松宮君、ありがとう! 俺は次に会ったときに自己紹介するよ!」
大杜は彼の背に向かって声を張り上げる。
松宮は背を向けたまま手を上げて、挨拶を返してきた。
そのとき、部下でもあった古い友人の最期の言葉を、大杜は思い出した。
『室長という肩書きに逃げては駄目よ。人間の友だちを作って』
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―セクション2―
大杜はトーストの焼ける匂いで目が覚めた。枕元の時計を見ると6時前だ。
1階に降りると、母の|梨々子《りりこ》がキッチンでトーストを口にしていた。
「母さん、おはよう。ずいぶん早いね」
「おはよう。父さんがトラブルだとかで会社から呼び出されて、さっき出かけたのよ。見送りに出たから、そのまま起きちゃおうと思って」
父の会社は24時間体制なので、こういったことはたびたびある。大杜は興味なさそうに、ふぅんと相槌を打った。
「それにしても朝ご飯……早過ぎない?」
「お弁当作ってたら、匂いでお腹空いてきちゃって」
「母さんが作ってくれてるの? 今日早く仕事行かなきゃいけなかったっけ? 待ってくれたら俺が作るけど――」
「あなたのを作ってるのよ」
「え?」
「いつも作ってもらってばかりで悪いしね。今日は入試でしょ。合格祈願も込めて、こんな日ぐらいはね」
大杜は一瞬言葉に詰まったが、なんとか笑ってみせた。
「ありがとう。頑張るよ」
「|六連星《むつらぼし》学院って偏差値高いし、ちょっと高望みだけど、先生がぜひにって言ってくださったし、何事もチャレンジよね」
いつになく明るく笑う母に大杜は穏やかな口調で返す。
「そうだよね」
「身支度してらっしゃい。忘れ物がないように準備もね。トースト焼き始めとくわよ」
「うん」
大杜は小さく頷くと洗面所へ向かった。
ゆっくりと洗面所の鏡を覗き込むと、そこには自身の暗い表情が映っていた。明るい会話を交わした直後とは思えないその表情に、大杜は自己嫌悪の溜め息をついた。
(母さんには笑っていて欲しいし、幸せな気持ちでいて欲しい――)
だが、楽しそうに笑っているときの母を見るほどに、罪悪感が強く湧き上がってくる。
大杜は凍えるほどに冷たい流水で激しく顔を洗う。
(大切な人を傷付けるとわかっていながら歩んできた道だ。せめて母さんが笑える回数を増やせるように、頑張らなきゃ……)
大杜は手の平でパンパンと頬を叩くと、洗面台の|縁《ふち》をぎゅっと強く握り締めた。
六連星学院の名前が入った駅のホームは、様々な制服姿の学生であふれていた。改札口を出ると、皆同じ方向に歩き出す。目的も同じ――六連星学院の入学試験だ。
駅の情報モニターの片側がテレビになっており、ニュースが流れているのに気付いた大杜は、歩きながら視線を向けた。
『幸い、この事故での死者はゼロでした』
昨日自分が関わった事故の映像が映し出されている。一瞬シルバーウィッグの後ろ姿が見えて、大杜は内心で微笑んだ。
昨夜眠る前に報告は受けていた。つつがなく任務は遂行され、その働きに多方面から感謝されたそうだ。
駅から学校までは10分程の距離で、気が付くと門の前にいた。大杜は人の流れから外れ、道の端から校舎を見上げた。
ロマネスク様式を思わせる重厚な校舎がどっしりと建っている。歴史が古く薄汚れた部分も見えるが、それがむしろ渋さを際立たせている。
目の前を横切って門に消えていく学生の背中を、大杜はいくつも見送った。皆緊張した表情を浮かべているが、合格をつかみ取ろうという強い意志を感じさせる横顔だ。
(そりゃそうだよ。学校を「怖い」なんて気持ちで訪れているような学生は、この中にはいないだろうし)
「どうした?」
突然声が掛けられ、大杜の肩がびくりと跳ねた。
「わりぃ、驚かせたか。突っ立ってるから、どうしたのかと思ってな。早く入らないと、試験場所探すのに時間取られて、間に合わなくなるぞ」
「あ、ああ。そうだよね……」
戸惑いながら、大杜は声を掛けてきた相手を見上げた。
すらりとした背格好の割に肩幅があり、たくましい印象を与える少年だった。顔だちはシャープで知的さが際立つが、口元が緩やかに弧を描いていてるさまは人懐こさも感じさせる。
(クラスの中心にいて、みんなが信頼を向けて、それを裏切らないリーダーシップさがあって――そんな感じかな)
「忘れ|物《もん》か? 筆記用具ぐらいなら貸すぞ」
「あ――いや大丈夫」
大杜が我に返って慌てて断ると、男子生徒は笑った。
「そりゃそうか。入試で筆記用具忘れるとか、さすがにないよな。体調が悪い?」
「それも大丈夫……」
「なら行こうぜ」
男子生徒は大杜の背中をぽんと叩いてから門を抜け、その先で振り返った。
「『案ずるより産むが易し』ってな。――本当に学校が嫌なら白紙で出せよ。でも案外入っちまったら、迷いなんて吹っ飛ぶかもしんねぇぜ」
心を見透かされたような言葉に驚く。
「そう――かもしれないね」
大杜は頷いて門を潜った。
男子生徒はそれを確認してから歩き出す。大杜が続く。速度は同じぐらいだ。
彼が自分を気遣ってゆっくり歩いてくれていることに気付き、大杜は嬉しいようなむず痒いような不思議な気持ちになった。
彼は|啓明光《けいめいこう》学園の制服を着ている。頭脳明晰な子どもが全国から集まる幼少中高の一貫校で、大杜ですら知っているような有名な私立だ。
なぜ彼は外部受験をしているのだろうと思いながら、
「君は合格するよね」
背中に向かって言った。質問ではなく確認だ。
「まぁ余裕だな」
自信満々の答えだったが、不思議と嫌味は感じない。
「お前が受かれば友だちか。今はまだライバルだな」
「余裕で受かるんだったらライバルじゃないよ。俺は模試ギリギリだったから」
男子生徒は立ち止まって振り返った。
「俺は|松宮《まつみや》だ。がんばれよ。――じゃあな」
そう言うと彼は前を向いて歩みを早めた。自分より背の高い彼が本気で早足になると、あっという間に距離が開いた。
大杜も慌てて速度を上げる。
「松宮君、ありがとう! 俺は次に会ったときに自己紹介するよ!」
大杜は彼の背に向かって声を張り上げる。
松宮は背を向けたまま手を上げて、挨拶を返してきた。
そのとき、部下でもあった古い友人の最期の言葉を、大杜は思い出した。
『室長という肩書きに逃げては駄目よ。|人間の《・・・》友だちを作って』