表示設定
表示設定
目次 目次




第5話 異界の扉:後編

ー/ー



 
 
「お前の方の眷属は、植物や樹木を好んで山に棲んでることも多いだろ。お前自身、そうやってあちこちフラフラしてたとも言っていたよな。だから、俺よりは、今回みたいな事案についちゃ、もろもろ詳しんじゃないのか、って」
 柚真人が言うと、優麻の表情はなるほどというものになった。
「それは……そうかもしれないですけれども」
「今回はちゃんとした祠もちってこともあって、うろんなモノじゃなさそうだ。村との協定もしっかりしていて、それが現代にまで続いている。だから年齢的にも、お前に近いくらいの古い……『何か』がいるんじゃないかと思うんだよ」
 続けて、柚真人は缶ビールをあおった。こういう時は、グラスも使わず、缶から直で済ますことが多い。柚真人にならって、優麻も自分の手元にある缶ビールにひとくち、口をつけた。
「たしかに、その感じだと、おそらく同族……の可能性が高そうですねえ」
「そういう場合、そこに棲んでいるモノを強制的にどかす、とか、昔からそこにあって守られてきた協定を部外者がひっくりかえす、ってのはあんま得策じゃあないよな」
「まあ……でしょうねえ。だとしても、それを依頼主のために祓い除けるべきものとみなして、今の貴方がそうしようと思えばおそらくどんなものでも祓い除けることは出来るんじゃないかとは思いますが――」
「――お前。そうはいいつつ俺がそういう実力行使をするとは毛ほども思ってないだろ。つーかンなことしたら『勾玉の祭司長』以下鎮護官どもと西の連中が黙っちゃいねえよ。でなくてもしねえけど」
 多少行儀は悪い行為なのだが、柚真人は言いながら手にしていた箸でちょいちょいと優麻を指した。表情は苦笑いだ。
 優麻はこんなふうに柚真人を焚きつけるような言動を昔からよくする。けれども、同時に柚真人の行動と優麻が焚きつける言動の内容は常に相反しがちであることを理解しているのだった。
 もともと、そのあたりがかつて――かつてもかつて、前世の時に――本来であれば相反する性を持つともいえる『緋』の首魁であった柚真人と、『蒼』の鬼であった優麻の気が合った所以でもある。『緋』の首魁には力があった。だから他者と無駄に争う必要がなかったし、生き物の血肉を好むとはいっても荒事にわざわざ手を染める必要もなかったのだ。もちろん鬼であったから、自らの欲求や快楽のためにも人や獣を嬲りはした。しかしそのために人を狩り立てたりするよりも、誘惑したり誑かしたりするほうを好んだ。優麻は、そういう『緋』と一緒にいるのが愉しかったようだ。
 そんな前世を覚醒した柚真人であったから、今であれば、山に張りつく鬼や怪異のひとつやふたつ、凪ぎ祓おうとすればできなくはない。優麻の言葉はそのことを示唆していた。が、そのような行動に出ることはまかりならないという制約が、柚真人には課せられている。柚真人が『黙っちゃいない』というのはそれをさし、これは柚真人が『勾玉の血脈』に現状でも名を連ね続けるための条件なのだ。もちろん、優麻もそのことは重々知っていた。なぜなら優麻の本性も含めて、柚真人は管理せねばならず、柚真人に課せられた制約は優麻にも適用されるからである。皇神社の宮司たること、その本分から逸脱しないこと、すなわち柚真人はあくまでも人でなくてはならず、死者のための宮司でなくてはならず、鬼として覚醒したために得た――というか記憶に備わって取り戻したというべきか――力は使えない。他方、柚真人が『西の連中』というのは退魔を生業とし西日本を主に活動拠点とする宮司たちの集団で、皇の一族とはまた別の『勾玉の血脈』に属する者たちだ。彼らは退魔の巫なだけあって、それでなくとも柚真人を毛嫌いしている感がある。鎮護官の命があるからお互い助け合うこともあるが、柚真人が皇の宮司としてちょっとでも下手を打ったりすれば、これ幸いと難癖をつけにくるだろう。
 柚真人には、それらの嫌悪や誹りを受け、いかなる制約を課せられようとも、皇の宮司であり続ける必要がある。少なくとも、柚真人が皇の人間として絶対の至上命題としていることを果たすまでは。――彼女を、彼女としてこの社に取り戻すまでは。
「……そこで、だ」
「はい」
「ごくごく穏便に、ちょっと相手と話をするぐらいなら、まあ、問題はないんじゃないかと思うわけだ」
 そう、続けて柚真人は優麻に向けた。
 箸では総菜の中に見える緑色の豆を、いたずらでもするみたいに選んでつまむ。
「山に何かいるとして、それがどんなやつかっていうのと、契約の内容ぐらいは確認できるなら、しておきたいだろ? 村の住人に伝わってる話は、聞いてみたけどほとんど形だけのものしか残ってないんだよな。まあ、住人や戸数も減っている村で、そもそも山の相続人が何も知らなかったぐらいだからそこは致し方ないんだろうが、かつて人と約束をした『本人』にもし話が聞けるならそれにこしたことはないっつーか」
 依頼主は、山を処分したいと言っていた。そしておそらく処分するつもりでいるだろう。それが可能であるのか、そうでないならどうすべきなのか、できれば最善の方法を、こちらとしては、いちおう伝える義務がある。
「だから、次はお前もちょっと付き合え」
 すると優麻はちょっとだけ目を瞬いた。
「お前がいた方が、たぶん、いいような気がする」
 柚真人がつけくわえて口許を歪めると、応えてなるほどといったような表情になる。
「――そういうことですか」
 呑み込み顔となった相棒に、柚真人は大きく首を縦に振って見せた。
「そういうこと」

      ☆
 
 件の咲白山に限らず、いずれの山にしても、その日は山に入ってはいけないとされる禁忌の日や、そういった言い伝えがあるものである。これは山の仕事などに携わる人間や、山とともに暮らしてきた人間の間には、今でも伝わる民俗的・伝承的なものだ。その日にはおおむね『山の神様』が関わっているとされる。柚真人が村人から聞いた、咲白山における禁忌の日も、日付としては同じであった。
「その日なら、逆を言えば、山に『入れ』るはずだ」
 柚真人は助手席からステアリングを握る優麻に言った。
 あと数時間ほどで日を跨げは、日付は件の山の日になる。そんな中、柚真人と優麻は車を走らせている。わざわざ禁忌とされる日に、明るい時間帯に村で見慣れぬ人間が山に近づこうとすればさすがに人目につくだろう。そう予想されることもあって、今回は深夜のうちに山に入ろうというのが柚真人の考えだった。
 山というものは、多くが人里と異界の境、あるいはそのどちらともいえる場所である。そうして、山の日というのは、その境が揺らぐ、いわば人にとっては異界への扉がひらく時をさす。山の怪異、山の主、山の神、いずれと呼ばれるものであっても、つまるところそのような山の異界に棲む。人が消えたり、祭が行われたり、山に立ち入ってはならないとされたりするのは、その日、山が異界と繋がるからなのだ。
 都内にある皇神社から都道府県単位の移動は高速を使い、高速を降りると、国道から県道、さらに細い道へと入っていく。
 その途中で、
「車のライトを消しましょうか」
 と、優麻が言った。
 助手席の柚真人が何か返答する前に、優麻は車内から点灯を操作できる車のライトを消してしまう。そうするとすでに街灯もろくにないような田舎道では前方が本当に真っ暗になってしまうが、引き続き、優麻の運転には淀みが無かった。なんのことはない、優麻も柚真人も、本性としてはどちらかというと宵闇の世界に属しているので、夜を見るのに現状物理的な灯りのような光は必要ないのだ。
 これもある意味では、柚真人たちには禁じられているはずの、人の身には備わっていないはずの異質の能力を行使することになる。しかしこの程度のものであれば、人にとっては夜目を凝らすようなものなので、見逃される範囲であるといえよう。
 車のライトを消したのは、田舎の夜道で目立たないようにするためだ。といってもブレーキランプは消しようがないのだが、人目に付きにくくする効果はあるだろう。車は闇の中を滑るように山への道へと入っていく。
 そして先日柚真人がひとりでここにやってきたのと同じところで車を停め、さらに同じように二人は歩いて山に向かった。柚真人は、今は、白い神職服に身を包んでいる。優麻は対照的に闇に紛れるようなダークスーツだ。
 目的地は、これも同じく柚真人が見つけた、山の祠。そこまでいけば、おそらく――とは思ったものの、二人にとってはその前から、山の空気の違いを感じた。優麻が腕時計で時間を確認すると、零時を少し回ったところであった。
 暦からいっても、連日未だ残暑が続いていることからいっても、蝉や虫の声が聞こえていてもおかしくはない時期であり場所のはず。しかしあたりはしんと静かで、それが異様だった。むしろ逆に、自分たちが立てているはずの足音や木の葉や草木の擦れる音、そんなものが周りの空気に吸われて消えていくような感じさえする。柚真人は、優麻を半歩後ろの傍らに、そんな雰囲気を気にした風もなく山への道を入って行った。
 闇の中を少し行き、あの時祠とちょっとした広間のようになっていた空間のあったところへたどり着く。するとそこには、以前柚真人がここに来た時にはなかった祭壇のようなものがあり、大型の獣――おそらくは、シカだろう――が供えてあった。その他にも、供え物として、果物や、米、酒瓶のようなものも見て取れる。見て取れる、というのは物理的な明るさのような感覚を伴って見て取れる、ということであって、つまりそこ、祠と祭壇を中心に広間のような空間全体が、青白い光に包まれて在った。光の源は、灯りのようなものではない。ものではなく。
 ちょうど祠のあるあたりの空間から生えるみたいに――白くて巨大な、――なんと、表現するべきか。
異形のもの、がそこにあった。というか、居た、というか。
 印象としては、女性、あるいは雌だった。まあ、もともと、山の神と云われるものには女性だと言われることが多い。印象としては、という前置きになったのは、はっきりとした人間のような姿を、その白いものがしていたわけではないためだ。どちらかというと、樹木、植物、それがわさわさと大きく育ち、縦横に枝を伸ばし、葉を茂らせ、蔦をあちこちに這わせながら不気味に蠢いている、といった感じであった。白く、ぼんやりとした光を纏いながら。
 その白いものは、おそらく柚真人と優麻、ふたりの人間らしきものの気配に気が付いて顕現したのだと思われる。わさわさと蠢く白い巨大な何かは、しばらくそうやって不審げにあるいは不満げに何かを探るような気配を漂わせていた。
「――畏み畏み申す。山の主とお見受けする。少しばかり話がしたい」
 柚真人は怯んだ風もなく、まっすぐそのものと村人たちが昨日のうちにしつらえておいたのであろう供物と祭壇の正面に立ってそう発した。
 すると。
 わさわさしていた白いものは、す、と静かになり。
 やがてほどなく空気の中から滲み出てくるように、白い、ひとがたがあらわれた。異形・怪異はこうしてひとの姿を模すことがそもそもままあるのだが、今は、柚真人の言葉に応じてひとの似姿になってくれたものと思われた。
 ひとがたは、そして、これもまた白いさまざまな花や葉などでからだを飾っている。そのことからも、これはやはり推測した通り、この山の地に棲む、怪異のたぐいなのだろう。
 こちらの話をしたいという意志を受けて、それに応じた姿をあらわしてくれたことに対して、まず柚真人が謝辞を述べようとした、――その時。
『――其方、人デハナイナ。何故ソノヨウナ出立デココニ在ル』
 そのような出立とは、人の神職の恰好のことだろうか。柚真人がそう推測したとき、それはさらに重ねて、
『――オ前モ面妖デアルナ。オ前、我ラノ同族デアロウニ、……何故、ソノヨウナ?』
 お前、というのは優麻のことだ。訊かれたことは同じことであったので、柚真人と優麻はちらりと視線を合わせるように、顔を見合わせた。


 その後、話が出来たところによると、山の怪異の言い分はこうだった。
 もともと、このあたりは人の住む場所ではなかったらしい。とはいえもともとといってもそれはかなり昔のことである。そこへ、人が入ってきた。そして村ができ、人は山にも入ってくるようになった。山には主の他にも人ならざるものがたくさん棲んでいたため、人が山に入り始めたばかりの頃は、人を襲ってしまうものや、住処の境界線について人と争いになってしまうものが、多かった。そのうち、人と山との間に入れる者がやってきて、その間をとりなし、人と山との間に約束ごとを設け、ことを収めた。その約束ごととは、月に一度の山の日だけは、人は山に入らないこと。そうして、その日にはかならず獣肉の供えものをすること。そうすれば、山の主は月に一度の山の日をのぞいて、山に人を受け入れる。ただし、供え物を忘れたり、禁忌の日に山に入ったりすれば、この山に棲むものたちが、どのように機嫌を損ね、人にどんな災いをもたらすかはわからない。主はいちおうこの山の怪異たちの長のようなものであるが、それは単なるまとめ役のようなものであり、ここに一番長く棲んでいるいるというだけで、彼らを束ね従わせるような存在ではない。
「では、その約定を違えない限り、人に危害は加えないということだな?」
 柚真人があらためて確認するように尋ねると、白く仄かに光るひとがたは、その顔容のなかにある、一対の黒い飴玉のような目を、柚真人に向けた。
『――ソウ、約シテイル』
「山の、人側の持ち主が変わっても、問題はない? 人里の方では、山に仕える人間の家が、代々決まっていたようだが」 
『――ソレハ、人ノ事情デアロウ。家ダノ代ダノトイウコトハ、我ラノ関与スルトコロデハナイナ』
 そうか。柚真人が考えたのは、では約束さえ破られなければ、山の持ち主が変わっても現状にかわるところはないのだな、ということだ。
 ところが。
 ふと。
 小さな、間、のようなものがあった。
 それから、ひとがたとなった山の主は、こう――付け足した。
『――ソモソモ、我ラニハ、イニシエヨリ、約束ヲ守リ続ケル義務モナイ。タダ――イニシエ、我ラト約束ヲ交ワシタ巫女ニ免ジテ。人ヲイタズラニ狩ルコトハシナイト約シタダケノコト』
「…………巫女……?」
『――ソウ。人ト我ラトノ間ニ入ルモノ。ココニヤッテキタノハ、人ノ女巫デアッタ。ソノ者ノ誠意ヲ、我ラハ認メタノダ。アノ巫女デアレバ、我ラヲ退ケルコトモ、アルイハ滅ボスコトモ、デキタデアロウ。シカシ、アノ巫女ハ、ソウデハナク、人ト我ラヲ、トリナシタ。ソレユエ、我ラハ人ヲ受ケ入レタ』
「…………」
 昔は、この山の主が言うように、人と人ならざる者との間に入って交渉することや、それらと争い戦って退けることを生業にする者はたくさんいた。だから、女がやってきた、といわれたとて、別に珍しいことではない。ただ――巫女、となると。しかも山の主が我らを滅ぼすこともできたであろうというほどの者で、しかしそれだけの力がありながら力ではない方法で山の怪異たちを退けた者。さらには、この山に人が入ってき始めた頃の年代。いや――。
 柚真人がふいに黙ったことを、何か訝しんだものと思ったのか、山の主は、
『――ナニ。其方ノ傍ラニ在ル者ト、我ラノ在リ方ハ、サシテ変ワルマイ』
 と、話の矛先を急に優麻の方へと向けた。優麻はそれこそ柚真人の隣でずっと黙ったままことの成り行きを見守っていただけであったが、
『――オ前ハ、ナゼ、我ラト、同族デアルノニ、ソコニ在ル』
 と、優麻に問う。
 そこで優麻はやっと口を開いた。
「私は、こちらの――私の主の傍らにいたいからいるのです」
『――ダガ、オ前ニ、ソノ義務ハ、ナカロウ?』
「はい」
『――我ラモ、同ジ。アノ巫女ニ、頼マレタユエ、ソノ願イヲ聞キ届ケ、守ッテイル』
 それだけのこと、それだけのこと、と山の主は繰り返した。
 話が終わると、柚真人は自分からも祭壇に酒ともち米を備え、山を辞することにした。この身は人のかたちをしていながら、禁忌の日にこの場を騒がせたことには謝罪して。自分の身の上を説明すると、山の主は、お前もあの巫女のようにあくまで人の中にあるのだなというようなことを言った。そのように、異形のちからにあふれておるのに、と。
 
 
 帰路に就いたとき、車内の時間のデジタル表示は午前2時ちょっとすぎを示していた。山に入った時には日付を越えていて、あの場にはもっと長くいたような気がするから、今日という禁忌の日には、山の中は異界であると同時に時間の流れも現世とは切り離されたところにあるのだろう。もっとも、今の柚真人と優麻もまた、同じような幽世の時間を生きる身ではあるが。
 村の領域を出ると、優麻が運転する車はふたたびライトを灯し、高速に乗る。
 その間も、柚真人は黙って助手席に身体を沈めていた。そんな柚真人の横顔を、優麻はちらりと目で見遣る。
 山の主の前を辞する時、柚真人は山の主に尋ねていた。
 ――その巫女は、剣を刷いていたか。
 と。
 山の主は肯と言い、
 ――恐ロシイ剣ヲ従エテイタ。
 と答えた。
 その答えの意味を、おそらく噛みしめているのだろう――柚真人は。こんなことがあるんだろうか、と優麻も思う。同じように柚真人も感じているはずだ。しかし推定される時代に山の怪異を鎮めに来て、荒事を起こさずに場を収めた、『恐ろしい剣』を『従え』た巫女となるとやはり思い当たるのはひとりしかいない。
「……俺と出逢う前から、変わらないんだな、彼女は」
 そんなふうに、やっと、ふと、柚真人が呟いた。柚真人の方から何か声にしてくれなければ、そのことに優麻から触れるつもりはなかった。優麻とて、同じように、いやひょっとしたらその彼女よりずっとひたすらに変わらずいま隣にいる者を負い続けてきたのではあるけれど、柚真人にとっての優麻と彼女ではその存在がもつ意味も意義も経緯も変遷も違う。
「貴方と出逢う前、ですか」
 対する柚真人は、小さく、どこか遠慮がちなくらいに小さく、ふ、と頷いた。
 『緋の禍鬼』は、草薙の巫女と出逢って惹かれてより以降は、ずっと彼女のことを見ていた。そ
『緋の禍鬼』の記憶の中に、この山での出来事は刻まれていなかった。だから山の主が語った巫女が彼女であるのなら、『緋』と出逢う前の出来事であると推測できるのだ。
 それにしても、そんなことがあるだろうか。
 こんな、ときに。こんな、ところで。
 千年以上もの時を越え。偶さか触れた彼女の痕跡。
 だからこそ、それは柚真人の心を焼くだろう――と、優麻は考えた。
 今の柚真人は、必ず、必ず、未来にふたたび彼女を取り戻す、と。それを頼りに、生きている。その確信を抱くからこそ、今は彼女への募る想いや悔いや怒りや焦りを黙らせて、平静を保っていられているのである。彼女が消えたその日から、柚真人が『こう』なるまでにもかなりの時間や説得を要した。荒れて手のつけようのない鬼の前世を持つ異能者を、なんとか宥めすかして前を向かせるのが、どれほど大変であったか。その頃のことを思えば、今のこの瞬間に心の中まで穏やかでいろとはとても言えない。
 それに――山の主が言い、柚真人もそう言ったように、彼女の、言葉には代えがたい力、美しく清浄な空気を、優麻も良く知っている。それを愛した、『緋』の気持ちは。己が柚真人に向ける気持ちと、同じではないが似てはいるはずである。
「……」
 柚真人が、なにか呟いた。
 と、優麻は思った。
 それは聞き取れたようでも、聞き違いのようでも、あるいは自分が勝手に拾ったが実は聞き落しただけの、言葉のようでもあった。
「……」
 問い返そうとは、思わない。
 そのまま優麻も、黙って車を走らせた。

      ☆

 ご報告をします。
 そう言われたので、咲山誠は、とある神社を訪れた。
 相手は、ご希望があれば、どこへでも行きますよといってくれ、話を通してくれた弁護士からもうちの事務所を使ってくれてもかわないと言われたのだけれど、なんとなく、あの時に出会った、青年宮司がどんなところに勤めているのか見てみたいような好奇心が勝った。
 神社は都内郊外の、大きな坂の上にあり、規模は大社というほどではないもののどこにでもあるいわゆる神社よりは少し規模が大きくひろびろとしているなという印象だった。
 訪れると、あの青年宮司が出て来て、誠は社務所に通された。神社の境内で、ちゃんとした神職の衣服で身なりを整えている人物を見ると、なるほど紛うことなき宮司であるなと、少しの威厳や神秘感さえ伴って感じるから不思議だ。――自分が親の代から譲り受ける妙な因習のある山すら、売り払いたいと思っている自分なのに。
 ところが、社務所で報告を受けてたところによると、山はやはり売らない方が良いと思うという話であり――。
「売っても、咲山さんに直接なにかがあるとか、そういうことはないはずです。山との関係において言えば、の話ですが。ただ――咲山さんが聞き及んでいる通り、今まで守られてきた約束事は守らないと、人がいなくなったり、山が枯れたりはします」
 します、と断言するんだなあ、と誠は思った。
 宮司の青年は、大したことでもないような面持ちで、語るが。
「それは――ええと、どういう……?」
 誠が首を傾げると、宮司は誠に入れてくれたお茶をすすめながら、
「説明を、してもいいのですが……咲山さんは、あまりその手のお話には触れたくないものとお見受けします。ならば、知らないままの方がいいのではないかと思います。起きた事実、起きる事実、だけをきちんと認識していただければ、いいかと」
「……それって、その、いなくなった人のこと、とかですか」
「そうですね。それ以前に、山に入ってはいけない日を守る、これまで続いてきた祭禮を怠りなく続ける、といったことも、です。これは、あの集落に人がいる間は誰かに任せてもかまいませんし、外から他の誰かが行っても、変わりはありません。大事なのは、その約束事だけです」
「……」
「馬鹿馬鹿しいとか、今どきありえない怪談だ、というお気持ちはお察しします。だとしても、起こることは起こります。山を他人に売り渡しても、たとえば開発事業などで人や業者が入るようになっても。そういうものが往々にして成功しない土地、とか、どうしても事故や不幸が起きてしまう土地、人が入ってもやがてなぜか廃墟にもどってしまう土地、などは他にも例があるでしょう」
「……」
「売って、山から逃れるのも自由です。咲山さんに責任はありません。ただ、――あそこは『そういう』山です。それは、どうにもしようがありません。……それと、それとこれとは別にして、山の売却について村人がどういう行動を起こすかは、私にはわかりません。村の人たちは村の人たちで、山を畏れているようですので」
「……畏れて……」
「はい」
「……あの。……では、昔、いなくなったと記憶している子供の頃の、あの友達の子は……」
 結局、誰も探さなかった。禁忌を破ったからだと誰もが諦め気味だった。自分が一番、そんなことあるわけないだろうと思っていたその一点を、誠は宮司に向けてみた。
 宮司は少し言葉を探したような間のあとで、
「そうですね……山のものになった、とでも言えばいいでしょうか。他に出ている行方不明者にしても、今も、生死は不明でしょうが、だとしても取り戻すことはできません。村の人たちは、そのことを知っていた。そしてそれは今後も同じです。そういう決まりだから、と認識する他はないでしょう」
「……はあ……」
「私から言えるのは、そういうことです。売却するしないの自由は、咲山さんにあります。ただし、もし売却が成立した場合には、咲山さんの家が守ってきた言い伝えを、きちんと伝えて守ってもらうべきだと、私としては思います」
 それは、おそらく。
 山での出来事について。村人たちの言い分について。
 信じるも信じないも、自由ではある、ということなのだろう。
 その時、誠は、はじめにこの青年に逢ってこの話をしたとき、何もかわらないかもしれないがそれでもいいかと、この青年が言っていたことを思い出した。
 もしかしたら、その時すでに、こういう答えを、この青年――宮司は、なんとなく予想していたのかもしれない。


 社務所を後にするとき、誠はふと、もうひとつ思うことがあって、宮司に尋ねた。
 それは、
「あの――じゃあ、あの村から、人がいなくなったら――山は、どうなるんです? 祭禮のようなことを、誰も、しなくなったら」
 自分は、村の妙な雰囲気を嫌って都会に出た。だが、それでなくとも自分の故郷はもういわゆる限界集落にも近い状態であるはずだ。田んぼや畑はあるものの、それを預かる農家はみんな老齢だろう。
 すると宮司は、なんでもないことのように、するっと答えた。
「人がいなくなれば、人のよりつけない山に『戻る』だけですよ」
 
 


スタンプを贈って作者を応援しよう!

次のエピソードへ進む 第6話 縁の来し方:前編


みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



  
「お前の方の眷属は、植物や樹木を好んで山に棲んでることも多いだろ。お前自身、そうやってあちこちフラフラしてたとも言っていたよな。だから、俺よりは、今回みたいな事案についちゃ、もろもろ詳しんじゃないのか、って」
 柚真人が言うと、優麻の表情はなるほどというものになった。
「それは……そうかもしれないですけれども」
「今回はちゃんとした祠もちってこともあって、うろんなモノじゃなさそうだ。村との協定もしっかりしていて、それが現代にまで続いている。だから年齢的にも、お前に近いくらいの古い……『何か』がいるんじゃないかと思うんだよ」
 続けて、柚真人は缶ビールをあおった。こういう時は、グラスも使わず、缶から直で済ますことが多い。柚真人にならって、優麻も自分の手元にある缶ビールにひとくち、口をつけた。
「たしかに、その感じだと、おそらく同族……の可能性が高そうですねえ」
「そういう場合、そこに棲んでいるモノを強制的にどかす、とか、昔からそこにあって守られてきた協定を部外者がひっくりかえす、ってのはあんま得策じゃあないよな」
「まあ……でしょうねえ。だとしても、それを依頼主のために祓い除けるべきものとみなして、今の貴方がそうしようと思えばおそらくどんなものでも祓い除けることは出来るんじゃないかとは思いますが――」
「――お前。そうはいいつつ俺がそういう実力行使をするとは毛ほども思ってないだろ。つーかンなことしたら『勾玉の祭司長』以下鎮護官どもと西の連中が黙っちゃいねえよ。でなくてもしねえけど」
 多少行儀は悪い行為なのだが、柚真人は言いながら手にしていた箸でちょいちょいと優麻を指した。表情は苦笑いだ。
 優麻はこんなふうに柚真人を焚きつけるような言動を昔からよくする。けれども、同時に柚真人の行動と優麻が焚きつける言動の内容は常に相反しがちであることを理解しているのだった。
 もともと、そのあたりがかつて――かつてもかつて、前世の時に――本来であれば相反する性を持つともいえる『緋』の首魁であった柚真人と、『蒼』の鬼であった優麻の気が合った所以でもある。『緋』の首魁には力があった。だから他者と無駄に争う必要がなかったし、生き物の血肉を好むとはいっても荒事にわざわざ手を染める必要もなかったのだ。もちろん鬼であったから、自らの欲求や快楽のためにも人や獣を嬲りはした。しかしそのために人を狩り立てたりするよりも、誘惑したり誑かしたりするほうを好んだ。優麻は、そういう『緋』と一緒にいるのが愉しかったようだ。
 そんな前世を覚醒した柚真人であったから、今であれば、山に張りつく鬼や怪異のひとつやふたつ、凪ぎ祓おうとすればできなくはない。優麻の言葉はそのことを示唆していた。が、そのような行動に出ることはまかりならないという制約が、柚真人には課せられている。柚真人が『黙っちゃいない』というのはそれをさし、これは柚真人が『勾玉の血脈』に現状でも名を連ね続けるための条件なのだ。もちろん、優麻もそのことは重々知っていた。なぜなら優麻の本性も含めて、柚真人は管理せねばならず、柚真人に課せられた制約は優麻にも適用されるからである。皇神社の宮司たること、その本分から逸脱しないこと、すなわち柚真人はあくまでも人でなくてはならず、死者のための宮司でなくてはならず、鬼として覚醒したために得た――というか記憶に備わって取り戻したというべきか――力は使えない。他方、柚真人が『西の連中』というのは退魔を生業とし西日本を主に活動拠点とする宮司たちの集団で、皇の一族とはまた別の『勾玉の血脈』に属する者たちだ。彼らは退魔の巫なだけあって、それでなくとも柚真人を毛嫌いしている感がある。鎮護官の命があるからお互い助け合うこともあるが、柚真人が皇の宮司としてちょっとでも下手を打ったりすれば、これ幸いと難癖をつけにくるだろう。
 柚真人には、それらの嫌悪や誹りを受け、いかなる制約を課せられようとも、皇の宮司であり続ける必要がある。少なくとも、柚真人が皇の人間として絶対の至上命題としていることを果たすまでは。――彼女を、彼女としてこの社に取り戻すまでは。
「……そこで、だ」
「はい」
「ごくごく穏便に、ちょっと相手と話をするぐらいなら、まあ、問題はないんじゃないかと思うわけだ」
 そう、続けて柚真人は優麻に向けた。
 箸では総菜の中に見える緑色の豆を、いたずらでもするみたいに選んでつまむ。
「山に何かいるとして、それがどんなやつかっていうのと、契約の内容ぐらいは確認できるなら、しておきたいだろ? 村の住人に伝わってる話は、聞いてみたけどほとんど形だけのものしか残ってないんだよな。まあ、住人や戸数も減っている村で、そもそも山の相続人が何も知らなかったぐらいだからそこは致し方ないんだろうが、かつて人と約束をした『本人』にもし話が聞けるならそれにこしたことはないっつーか」
 依頼主は、山を処分したいと言っていた。そしておそらく処分するつもりでいるだろう。それが可能であるのか、そうでないならどうすべきなのか、できれば最善の方法を、こちらとしては、いちおう伝える義務がある。
「だから、次はお前もちょっと付き合え」
 すると優麻はちょっとだけ目を瞬いた。
「お前がいた方が、たぶん、いいような気がする」
 柚真人がつけくわえて口許を歪めると、応えてなるほどといったような表情になる。
「――そういうことですか」
 呑み込み顔となった相棒に、柚真人は大きく首を縦に振って見せた。
「そういうこと」
      ☆
 件の咲白山に限らず、いずれの山にしても、その日は山に入ってはいけないとされる禁忌の日や、そういった言い伝えがあるものである。これは山の仕事などに携わる人間や、山とともに暮らしてきた人間の間には、今でも伝わる民俗的・伝承的なものだ。その日にはおおむね『山の神様』が関わっているとされる。柚真人が村人から聞いた、咲白山における禁忌の日も、日付としては同じであった。
「その日なら、逆を言えば、山に『入れ』るはずだ」
 柚真人は助手席からステアリングを握る優麻に言った。
 あと数時間ほどで日を跨げは、日付は件の山の日になる。そんな中、柚真人と優麻は車を走らせている。わざわざ禁忌とされる日に、明るい時間帯に村で見慣れぬ人間が山に近づこうとすればさすがに人目につくだろう。そう予想されることもあって、今回は深夜のうちに山に入ろうというのが柚真人の考えだった。
 山というものは、多くが人里と異界の境、あるいはそのどちらともいえる場所である。そうして、山の日というのは、その境が揺らぐ、いわば人にとっては異界への扉がひらく時をさす。山の怪異、山の主、山の神、いずれと呼ばれるものであっても、つまるところそのような山の異界に棲む。人が消えたり、祭が行われたり、山に立ち入ってはならないとされたりするのは、その日、山が異界と繋がるからなのだ。
 都内にある皇神社から都道府県単位の移動は高速を使い、高速を降りると、国道から県道、さらに細い道へと入っていく。
 その途中で、
「車のライトを消しましょうか」
 と、優麻が言った。
 助手席の柚真人が何か返答する前に、優麻は車内から点灯を操作できる車のライトを消してしまう。そうするとすでに街灯もろくにないような田舎道では前方が本当に真っ暗になってしまうが、引き続き、優麻の運転には淀みが無かった。なんのことはない、優麻も柚真人も、本性としてはどちらかというと宵闇の世界に属しているので、夜を見るのに現状物理的な灯りのような光は必要ないのだ。
 これもある意味では、柚真人たちには禁じられているはずの、人の身には備わっていないはずの異質の能力を行使することになる。しかしこの程度のものであれば、人にとっては夜目を凝らすようなものなので、見逃される範囲であるといえよう。
 車のライトを消したのは、田舎の夜道で目立たないようにするためだ。といってもブレーキランプは消しようがないのだが、人目に付きにくくする効果はあるだろう。車は闇の中を滑るように山への道へと入っていく。
 そして先日柚真人がひとりでここにやってきたのと同じところで車を停め、さらに同じように二人は歩いて山に向かった。柚真人は、今は、白い神職服に身を包んでいる。優麻は対照的に闇に紛れるようなダークスーツだ。
 目的地は、これも同じく柚真人が見つけた、山の祠。そこまでいけば、おそらく――とは思ったものの、二人にとってはその前から、山の空気の違いを感じた。優麻が腕時計で時間を確認すると、零時を少し回ったところであった。
 暦からいっても、連日未だ残暑が続いていることからいっても、蝉や虫の声が聞こえていてもおかしくはない時期であり場所のはず。しかしあたりはしんと静かで、それが異様だった。むしろ逆に、自分たちが立てているはずの足音や木の葉や草木の擦れる音、そんなものが周りの空気に吸われて消えていくような感じさえする。柚真人は、優麻を半歩後ろの傍らに、そんな雰囲気を気にした風もなく山への道を入って行った。
 闇の中を少し行き、あの時祠とちょっとした広間のようになっていた空間のあったところへたどり着く。するとそこには、以前柚真人がここに来た時にはなかった祭壇のようなものがあり、大型の獣――おそらくは、シカだろう――が供えてあった。その他にも、供え物として、果物や、米、酒瓶のようなものも見て取れる。見て取れる、というのは物理的な明るさのような感覚を伴って見て取れる、ということであって、つまりそこ、祠と祭壇を中心に広間のような空間全体が、青白い光に包まれて在った。光の源は、灯りのようなものではない。ものではなく。
 ちょうど祠のあるあたりの空間から生えるみたいに――白くて巨大な、――なんと、表現するべきか。
異形のもの、がそこにあった。というか、居た、というか。
 印象としては、女性、あるいは雌だった。まあ、もともと、山の神と云われるものには女性だと言われることが多い。印象としては、という前置きになったのは、はっきりとした人間のような姿を、その白いものがしていたわけではないためだ。どちらかというと、樹木、植物、それがわさわさと大きく育ち、縦横に枝を伸ばし、葉を茂らせ、蔦をあちこちに這わせながら不気味に蠢いている、といった感じであった。白く、ぼんやりとした光を纏いながら。
 その白いものは、おそらく柚真人と優麻、ふたりの人間らしきものの気配に気が付いて顕現したのだと思われる。わさわさと蠢く白い巨大な何かは、しばらくそうやって不審げにあるいは不満げに何かを探るような気配を漂わせていた。
「――畏み畏み申す。山の主とお見受けする。少しばかり話がしたい」
 柚真人は怯んだ風もなく、まっすぐそのものと村人たちが昨日のうちにしつらえておいたのであろう供物と祭壇の正面に立ってそう発した。
 すると。
 わさわさしていた白いものは、す、と静かになり。
 やがてほどなく空気の中から滲み出てくるように、白い、ひとがたがあらわれた。異形・怪異はこうしてひとの姿を模すことがそもそもままあるのだが、今は、柚真人の言葉に応じてひとの似姿になってくれたものと思われた。
 ひとがたは、そして、これもまた白いさまざまな花や葉などでからだを飾っている。そのことからも、これはやはり推測した通り、この山の地に棲む、怪異のたぐいなのだろう。
 こちらの話をしたいという意志を受けて、それに応じた姿をあらわしてくれたことに対して、まず柚真人が謝辞を述べようとした、――その時。
『――其方、人デハナイナ。何故ソノヨウナ出立デココニ在ル』
 そのような出立とは、人の神職の恰好のことだろうか。柚真人がそう推測したとき、それはさらに重ねて、
『――オ前モ面妖デアルナ。オ前、我ラノ同族デアロウニ、……何故、ソノヨウナ?』
 お前、というのは優麻のことだ。訊かれたことは同じことであったので、柚真人と優麻はちらりと視線を合わせるように、顔を見合わせた。
 その後、話が出来たところによると、山の怪異の言い分はこうだった。
 もともと、このあたりは人の住む場所ではなかったらしい。とはいえもともとといってもそれはかなり昔のことである。そこへ、人が入ってきた。そして村ができ、人は山にも入ってくるようになった。山には主の他にも人ならざるものがたくさん棲んでいたため、人が山に入り始めたばかりの頃は、人を襲ってしまうものや、住処の境界線について人と争いになってしまうものが、多かった。そのうち、人と山との間に入れる者がやってきて、その間をとりなし、人と山との間に約束ごとを設け、ことを収めた。その約束ごととは、月に一度の山の日だけは、人は山に入らないこと。そうして、その日にはかならず獣肉の供えものをすること。そうすれば、山の主は月に一度の山の日をのぞいて、山に人を受け入れる。ただし、供え物を忘れたり、禁忌の日に山に入ったりすれば、この山に棲むものたちが、どのように機嫌を損ね、人にどんな災いをもたらすかはわからない。主はいちおうこの山の怪異たちの長のようなものであるが、それは単なるまとめ役のようなものであり、ここに一番長く棲んでいるいるというだけで、彼らを束ね従わせるような存在ではない。
「では、その約定を違えない限り、人に危害は加えないということだな?」
 柚真人があらためて確認するように尋ねると、白く仄かに光るひとがたは、その顔容のなかにある、一対の黒い飴玉のような目を、柚真人に向けた。
『――ソウ、約シテイル』
「山の、人側の持ち主が変わっても、問題はない? 人里の方では、山に仕える人間の家が、代々決まっていたようだが」 
『――ソレハ、人ノ事情デアロウ。家ダノ代ダノトイウコトハ、我ラノ関与スルトコロデハナイナ』
 そうか。柚真人が考えたのは、では約束さえ破られなければ、山の持ち主が変わっても現状にかわるところはないのだな、ということだ。
 ところが。
 ふと。
 小さな、間、のようなものがあった。
 それから、ひとがたとなった山の主は、こう――付け足した。
『――ソモソモ、我ラニハ、イニシエヨリ、約束ヲ守リ続ケル義務モナイ。タダ――イニシエ、我ラト約束ヲ交ワシタ巫女ニ免ジテ。人ヲイタズラニ狩ルコトハシナイト約シタダケノコト』
「…………巫女……?」
『――ソウ。人ト我ラトノ間ニ入ルモノ。ココニヤッテキタノハ、人ノ女巫デアッタ。ソノ者ノ誠意ヲ、我ラハ認メタノダ。アノ巫女デアレバ、我ラヲ退ケルコトモ、アルイハ滅ボスコトモ、デキタデアロウ。シカシ、アノ巫女ハ、ソウデハナク、人ト我ラヲ、トリナシタ。ソレユエ、我ラハ人ヲ受ケ入レタ』
「…………」
 昔は、この山の主が言うように、人と人ならざる者との間に入って交渉することや、それらと争い戦って退けることを生業にする者はたくさんいた。だから、女がやってきた、といわれたとて、別に珍しいことではない。ただ――巫女、となると。しかも山の主が我らを滅ぼすこともできたであろうというほどの者で、しかしそれだけの力がありながら力ではない方法で山の怪異たちを退けた者。さらには、この山に人が入ってき始めた頃の年代。いや――。
 柚真人がふいに黙ったことを、何か訝しんだものと思ったのか、山の主は、
『――ナニ。其方ノ傍ラニ在ル者ト、我ラノ在リ方ハ、サシテ変ワルマイ』
 と、話の矛先を急に優麻の方へと向けた。優麻はそれこそ柚真人の隣でずっと黙ったままことの成り行きを見守っていただけであったが、
『――オ前ハ、ナゼ、我ラト、同族デアルノニ、ソコニ在ル』
 と、優麻に問う。
 そこで優麻はやっと口を開いた。
「私は、こちらの――私の主の傍らにいたいからいるのです」
『――ダガ、オ前ニ、ソノ義務ハ、ナカロウ?』
「はい」
『――我ラモ、同ジ。アノ巫女ニ、頼マレタユエ、ソノ願イヲ聞キ届ケ、守ッテイル』
 それだけのこと、それだけのこと、と山の主は繰り返した。
 話が終わると、柚真人は自分からも祭壇に酒ともち米を備え、山を辞することにした。この身は人のかたちをしていながら、禁忌の日にこの場を騒がせたことには謝罪して。自分の身の上を説明すると、山の主は、お前もあの巫女のようにあくまで人の中にあるのだなというようなことを言った。そのように、異形のちからにあふれておるのに、と。
 帰路に就いたとき、車内の時間のデジタル表示は午前2時ちょっとすぎを示していた。山に入った時には日付を越えていて、あの場にはもっと長くいたような気がするから、今日という禁忌の日には、山の中は異界であると同時に時間の流れも現世とは切り離されたところにあるのだろう。もっとも、今の柚真人と優麻もまた、同じような幽世の時間を生きる身ではあるが。
 村の領域を出ると、優麻が運転する車はふたたびライトを灯し、高速に乗る。
 その間も、柚真人は黙って助手席に身体を沈めていた。そんな柚真人の横顔を、優麻はちらりと目で見遣る。
 山の主の前を辞する時、柚真人は山の主に尋ねていた。
 ――その巫女は、剣を刷いていたか。
 と。
 山の主は肯と言い、
 ――恐ロシイ剣ヲ従エテイタ。
 と答えた。
 その答えの意味を、おそらく噛みしめているのだろう――柚真人は。こんなことがあるんだろうか、と優麻も思う。同じように柚真人も感じているはずだ。しかし推定される時代に山の怪異を鎮めに来て、荒事を起こさずに場を収めた、『恐ろしい剣』を『従え』た巫女となるとやはり思い当たるのはひとりしかいない。
「……俺と出逢う前から、変わらないんだな、彼女は」
 そんなふうに、やっと、ふと、柚真人が呟いた。柚真人の方から何か声にしてくれなければ、そのことに優麻から触れるつもりはなかった。優麻とて、同じように、いやひょっとしたらその彼女よりずっとひたすらに変わらずいま隣にいる者を負い続けてきたのではあるけれど、柚真人にとっての優麻と彼女ではその存在がもつ意味も意義も経緯も変遷も違う。
「貴方と出逢う前、ですか」
 対する柚真人は、小さく、どこか遠慮がちなくらいに小さく、ふ、と頷いた。
 『緋の禍鬼』は、草薙の巫女と出逢って惹かれてより以降は、ずっと彼女のことを見ていた。そ
『緋の禍鬼』の記憶の中に、この山での出来事は刻まれていなかった。だから山の主が語った巫女が彼女であるのなら、『緋』と出逢う前の出来事であると推測できるのだ。
 それにしても、そんなことがあるだろうか。
 こんな、ときに。こんな、ところで。
 千年以上もの時を越え。偶さか触れた彼女の痕跡。
 だからこそ、それは柚真人の心を焼くだろう――と、優麻は考えた。
 今の柚真人は、必ず、必ず、未来にふたたび彼女を取り戻す、と。それを頼りに、生きている。その確信を抱くからこそ、今は彼女への募る想いや悔いや怒りや焦りを黙らせて、平静を保っていられているのである。彼女が消えたその日から、柚真人が『こう』なるまでにもかなりの時間や説得を要した。荒れて手のつけようのない鬼の前世を持つ異能者を、なんとか宥めすかして前を向かせるのが、どれほど大変であったか。その頃のことを思えば、今のこの瞬間に心の中まで穏やかでいろとはとても言えない。
 それに――山の主が言い、柚真人もそう言ったように、彼女の、言葉には代えがたい力、美しく清浄な空気を、優麻も良く知っている。それを愛した、『緋』の気持ちは。己が柚真人に向ける気持ちと、同じではないが似てはいるはずである。
「……」
 柚真人が、なにか呟いた。
 と、優麻は思った。
 それは聞き取れたようでも、聞き違いのようでも、あるいは自分が勝手に拾ったが実は聞き落しただけの、言葉のようでもあった。
「……」
 問い返そうとは、思わない。
 そのまま優麻も、黙って車を走らせた。
      ☆
 ご報告をします。
 そう言われたので、咲山誠は、とある神社を訪れた。
 相手は、ご希望があれば、どこへでも行きますよといってくれ、話を通してくれた弁護士からもうちの事務所を使ってくれてもかわないと言われたのだけれど、なんとなく、あの時に出会った、青年宮司がどんなところに勤めているのか見てみたいような好奇心が勝った。
 神社は都内郊外の、大きな坂の上にあり、規模は大社というほどではないもののどこにでもあるいわゆる神社よりは少し規模が大きくひろびろとしているなという印象だった。
 訪れると、あの青年宮司が出て来て、誠は社務所に通された。神社の境内で、ちゃんとした神職の衣服で身なりを整えている人物を見ると、なるほど紛うことなき宮司であるなと、少しの威厳や神秘感さえ伴って感じるから不思議だ。――自分が親の代から譲り受ける妙な因習のある山すら、売り払いたいと思っている自分なのに。
 ところが、社務所で報告を受けてたところによると、山はやはり売らない方が良いと思うという話であり――。
「売っても、咲山さんに直接なにかがあるとか、そういうことはないはずです。山との関係において言えば、の話ですが。ただ――咲山さんが聞き及んでいる通り、今まで守られてきた約束事は守らないと、人がいなくなったり、山が枯れたりはします」
 します、と断言するんだなあ、と誠は思った。
 宮司の青年は、大したことでもないような面持ちで、語るが。
「それは――ええと、どういう……?」
 誠が首を傾げると、宮司は誠に入れてくれたお茶をすすめながら、
「説明を、してもいいのですが……咲山さんは、あまりその手のお話には触れたくないものとお見受けします。ならば、知らないままの方がいいのではないかと思います。起きた事実、起きる事実、だけをきちんと認識していただければ、いいかと」
「……それって、その、いなくなった人のこと、とかですか」
「そうですね。それ以前に、山に入ってはいけない日を守る、これまで続いてきた祭禮を怠りなく続ける、といったことも、です。これは、あの集落に人がいる間は誰かに任せてもかまいませんし、外から他の誰かが行っても、変わりはありません。大事なのは、その約束事だけです」
「……」
「馬鹿馬鹿しいとか、今どきありえない怪談だ、というお気持ちはお察しします。だとしても、起こることは起こります。山を他人に売り渡しても、たとえば開発事業などで人や業者が入るようになっても。そういうものが往々にして成功しない土地、とか、どうしても事故や不幸が起きてしまう土地、人が入ってもやがてなぜか廃墟にもどってしまう土地、などは他にも例があるでしょう」
「……」
「売って、山から逃れるのも自由です。咲山さんに責任はありません。ただ、――あそこは『そういう』山です。それは、どうにもしようがありません。……それと、それとこれとは別にして、山の売却について村人がどういう行動を起こすかは、私にはわかりません。村の人たちは村の人たちで、山を畏れているようですので」
「……畏れて……」
「はい」
「……あの。……では、昔、いなくなったと記憶している子供の頃の、あの友達の子は……」
 結局、誰も探さなかった。禁忌を破ったからだと誰もが諦め気味だった。自分が一番、そんなことあるわけないだろうと思っていたその一点を、誠は宮司に向けてみた。
 宮司は少し言葉を探したような間のあとで、
「そうですね……山のものになった、とでも言えばいいでしょうか。他に出ている行方不明者にしても、今も、生死は不明でしょうが、だとしても取り戻すことはできません。村の人たちは、そのことを知っていた。そしてそれは今後も同じです。そういう決まりだから、と認識する他はないでしょう」
「……はあ……」
「私から言えるのは、そういうことです。売却するしないの自由は、咲山さんにあります。ただし、もし売却が成立した場合には、咲山さんの家が守ってきた言い伝えを、きちんと伝えて守ってもらうべきだと、私としては思います」
 それは、おそらく。
 山での出来事について。村人たちの言い分について。
 信じるも信じないも、自由ではある、ということなのだろう。
 その時、誠は、はじめにこの青年に逢ってこの話をしたとき、何もかわらないかもしれないがそれでもいいかと、この青年が言っていたことを思い出した。
 もしかしたら、その時すでに、こういう答えを、この青年――宮司は、なんとなく予想していたのかもしれない。
 社務所を後にするとき、誠はふと、もうひとつ思うことがあって、宮司に尋ねた。
 それは、
「あの――じゃあ、あの村から、人がいなくなったら――山は、どうなるんです? 祭禮のようなことを、誰も、しなくなったら」
 自分は、村の妙な雰囲気を嫌って都会に出た。だが、それでなくとも自分の故郷はもういわゆる限界集落にも近い状態であるはずだ。田んぼや畑はあるものの、それを預かる農家はみんな老齢だろう。
 すると宮司は、なんでもないことのように、するっと答えた。
「人がいなくなれば、人のよりつけない山に『戻る』だけですよ」