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第5話 異界の扉:前編

ー/ー



 不思議な雰囲気の青年が来た。
 なんだか大学を出たてぐらいの風体の、えらく顔立ちの整った若者だ。だが、これで神社の宮司だという。青年は、弁護士からの紹介で来た者だと名乗った。


「――山、ですか」
「ええ、山です」
 青年の問いかけに、咲山(さきやま)(まこと)は頷いた。
 こんなところに人を招くのもどうかと思わなくもなかったのだが、その方が事情がわかりやすいだろうとも思って、相手に来てもらったのは都内の小さなアパートだった。その一室――というほどでもないさらに小さな居間に置いたテーブルセットに、誠は相手と向き合っている。テーブルの上には、いくつかの書面が並べてあった。一応、お茶くらいは出した方がいいのだろうと思って、ペットボトルのお茶も置いてあった。この家の中にあるものは、自分で使うのも相手に使うのもなんとなくどうかなあと思ったので手をつけていない。なぜなら、この家の主はもうこの世になく、この家の主と誠が親しかったわけでもなかったからだ。
「咲山誠さん――は、こちらにお住まいだった方の弟さん、なんですよね」
 改めて問うてくる相手に、誠は頷いた。
「はい。でも、兄は実家を継いだものと思っていたので、こんなところにひとりで暮らしていたとは思いもしませんでした。連絡もその……取り合っていなかったので……」
 そのへんの事情には、少し複雑なところがあった。だから、そもそも『この話』を、誠は弁護士に相談しなければならなかったのだ。そうして、弁護士から話が宮司に移った。とはいえ、もう一度事情の説明は必要だろうか、と誠が少し面倒くさく思ったとき、
「そのへんのご家庭内の事情は、咲山さんが相談なさった弁護士の方からうかがっています」
 そう返されて、誠は正直ほっとした。この、自分でも本当のところなにがどうなっているのかよくわからない話を、なんども他人に説明するのが、誠には億劫だったのだ。
 ことの始まりは、兄が亡くなったという知らせがあって、自分がその相続手続きをしなくてはならなくなったところから始まる。誠と兄の両親は、誠と兄よりも先に亡くなってしまっていて、その時は両親の財産の一切を、兄が相続していた。しかし兄は独身で、そのまま先日、亡くなった。そこで、兄が引きついでいた両親の財産ごと、誠が相続しなければならなくなったのだった。一方誠の実家は、とある東北のえらく奥まった田舎の村の中にあった。しかしなんというか、これが誠にとってはなんとも居心地の悪いところで、もともと家の跡を継ぐのはその家に生まれた長子に限るという慣習があったこともあって、誠は高校を卒業するとすぐに村を出ていた。その後、村を出て東京で就職した誠は、親とも兄ともほぼほぼ連絡を取ることなく、暮らした。だから、知らなかったのだ。その相続財産の中に、『売れない山』があることを。
 兄と両親から継いだ財産は、東京で生活基盤を築いた誠には不要なものばかりだった。実家の土地や建物、この兄の家、その中にある家財など。だからすべて売ってしまおうと思い、財産を調査したところ、実家にひとつ、大きな山があることがわかった。これが、『売れない山』なのだ。
 なぜ『売れない』のかというと、――まあ、こんな田舎のなんのとりえもない山には買い手もつかないという、相続あるあるもあるにはあるが、売ってはならないという妨害工作のようなものが、実家のあった村から来るのである。その山は、お前の家、咲山家が継ぐものであって、他所の者に渡してはならないのだ、と。状況を調べようと思って久しぶりに、本当に久しぶりに実家を訪れてみたところで、まず村の人間にそう言われた。現地での不動産調査を頼んだ業者も、現地で村人たちから妙な言動をされたと言っていた。
 察するに、どうも実家が持っていた山には、そういう――妙ないわくがあるらしい。しかし、そんなものはただの迷信だろう。財産的な価値がないからというならともかく、そんな迷信の類のために、売らずに自分が引き継がなければならない山など、このご時世にあるだろうか。
 まあ、うすうす村全体からそういう妙な匂いを嗅ぎ取っていたから、誠は小さい頃から気味が悪くて、早く村を出たかった。村を出てからは何かから解放された気分で、絶対に実家には近寄らなかった。でもそれは、そういう迷信のようなものを妙に大切にしているらしい、村の雰囲気、村人の雰囲気が気持ち悪かったのであって、誠自身が迷信や妙なしきたりなどを信じていたわけではないのだ。
 ただ。村人たちの振る舞いがまったく気にならないわけでもなかったので、その『山』について、誠も自分で調べてみた。そうしたら、さほど有名ではないものの怪談スポットのようなものとしての噂話が出てきた。人が行方不明になる山だとか、実際に返ってこない人がいるだとか。それだけならまだしも、その調べた話が刺激となってか、自分でも幼少期にそんなことがあったような記憶がよみがえってきてしまった。いや、もしかするとその記憶にあった出来事がきっかけで、自分はその村を離れたくなったのかもしれない。村には、山に入ってはいけないよと言われていた日が年に何日かあって、その日に山に入った子供のころの友達が、いなくなっているのだ。確か、村人たちは最初とても慌てていた。でも、村は数日で静かになったし、警察のようなものが来た記憶もないし、その後、いなくなった友達を誰も探したりはしなかった――ように思う。探すというより、もう最初から、なにかどこか妙な諦めの空気のようなものが、村全体を覆ったことと、山に入ってはいけない日があるということをさらに何度もこっぴどく大人たちから言われたことが、思い出された記憶の中にはあった。
 それで――。
「その山についての話がいったい何なのか、知りたいということですね」
 問題は山のいわくなのだということについては、相手にも説明し、誠が説明しおえると、相手の青年が静かに繰り返した。
「……はい。そんな、わけのわからないものを継がされる身としても、なんだか気味が悪くて……いや、そんな、人が消える、みたいな話を信じているわけではないんですが。弁護士さんが、そういう……いなくなった人の行方とか、ちょっと不可解なことを調べられる方を紹介することもできる、とおっしゃるので……」
「そうですね。調べることは、たぶんできます。ただ、だからといって何かが変わるとか、何かを変えられるとか、そういうことにはならない場合もありえます。それでも、かまわないでしょうか?」
 相手が指摘するのは、おそらく、山について調べたところで、この山が『売れない山』のままで終わるかもしれない、ということなのだろう。
 誠としては、山が売れてくれればそれに越したことはなかった。それに、できればそんな気味の悪いものは手放してしまいたかった。だから、そうはいってもその『山』についてのいわくの正体のようなものが解明されれば、多少売れやすくなるんじゃないだろうか、くらいの気持ちでいたのだ――その時は。
「――はい」
 と、誠は相手の言葉に頷いた。
 十代の頃にわかれたきりだった兄の、まるで見知らぬ他人のものでしかないような遺品に囲まれながら、相手の青年の顔を見返す。整った顔立ちの、それゆえ宮司だと言われればそんな感じもするかと思えなくもない青年の名前は、――(すめらぎ)柚真人(ゆまと)、といった。
 
      ☆
 
 そういった山は、おそらく、この日本中には多くある。
 ただ、山にあってそういう話のもととなる存在の正体は、様々だ。本当に何かが棲みついている山もあれば、そこに続く人の営みが生み出した単なる慣習や約束事である場合もある。
 ともあれ、確認するには自分が現地に赴くのが一番簡単であろう、と柚真人は考えた。場所は東北の少し奥地になるので遠くなる。だが、車であれば日帰りも可能であろう。そういう場合は神社のスケジュールを調整し、社務所の仕事などはほかの神職やバイトの巫女たちに任せることにしている。


 山は、依頼主からの説明では、咲白山(さきしろやま)と呼ばれているようだった。しかし登山客が訪れるようなものではなく、なんというか、地元の集落の人々が、季節により山菜取りに入ったり、もっと古くは獣や薪を取りに入ったりしていたのであろう山だ。
 そのすぐふもとまで車で入れる道路があったので、柚真人はナビのGPSを頼りにそこまで乗りつけた。田舎道を走っていた道路がだんだんと細くなり、やがて舗装がなくなり、先が無くなる――というような感じではあったが、今の柚真人にとって、『山』と『人里』の境界線は、常にはっきりしている。そのあたりに車を停めて、あとは歩きだ。ちなみにこういった場所での現地調査が必要になる場合、柚真人はなにかしらの学術研究をしている学生のような風体を装うことが多い。けっして興味本位などではなく真摯に民俗学や考古学をやっているようなことをにおわせると、たいていどこでもさほど警戒はされないし、協力的になってくれる人が多い。
 季節は晩夏であったので、山はまだ青々としていて、そこいらじゅうから蝉の声がする。そのすぐ傍までたどり着くと、おそらく地元の人間が使うのであろう、踏みならされた小さな道のようなものがあった。
 ここは、まだ、『人里』だ。柚真人にはそう判じられた。特に部外者の立ち入りを禁じたりするような表示もない。なので、柚真人はそのまま小道に足を踏み入れた。そのまま少し上っていくと――もしかしたらと柚真人があたりをつけていたものが見つかった。それは、ちょっとした社のようなものだ。いや、社というより祠が近いか。畳でいうと6畳ほどの広さのある開けた場所と、その場所を前にして据えられた祠。山へ入る道は、いちどこの場所で途切れ、それから祠の裏手へと続いているらしい。
 祠は古びてはいた。けれども、小綺麗だった。木材で出来ていて、しめ縄のようなものもそう古くない感じで飾られてある。
 しかし――。
 柚真人は何かを読み取ろうとするかのように、わずかに目を細めた。
 これは、『神』を祀ったものではないな。
 元来は、祠は小さな神社のようなものであり、神道的な観点から言えば、なにかしらの神を祀るもので、日本全国のあちこちにある。その後、神仏習合によって仏に関するものが祀られるようにもなったが、これはそういったものが祀られているものではない。
 それに。
 ――今は、『いない』、か。
 柚真人が目を細くしながら感じ取っていたのはそのことだった。
 ここに棲む『なにか』、はおそらく『在る』のだろう。いわば、『山』と『人里』の境界線はここだ。けれども、いま、その存在は、ここにはいない。それが、何で、どうしていまここには気配も感じられないのか、は、さすがにこの状態では柚真人にもわからない。
 そうなとなれば、特にここには用はない。柚真人は踵をかえし、車まで戻った。となれば、この村の人間に、直接話を聞いてみるのが良かろう。
 もちろん、咲山誠氏から先に話をうかがっていたので、村人たちの山に対する慣習や、人がいなくなることがあるらしいなどという話に土足で踏む込むことは避けるとする。たいがい、こういう場所ではそういうことを部外者に話したがる人間はいないし、そこをほじくっていらない壁をこちらから作るのも意味がない。それに、村の人間たちはすでに、山について調べに来た不動産業者といざこざをおこしているし、誠が山を処分して他人の手に渡したがっていることを知っている。
 村自体はごく普通――といってもこの国の多くの農村部が現状そうであるように、ここも限界集落というやつに近づきつつあるようだったが――の農村といった雰囲気だ。山から人里の方へと車を走らせていると道の両脇には田んぼや畑が広がっている。柚真人はまず、咲山誠から示された、彼の実家つまりはかつて両親が住んでいたがいまは主無き空き家となっているはずの家に向かった。咲山の家は、集落のなかで大事な位置づけとなっている山を所有しているだけあって、けっこうな家屋と土地を有していた。そこまでいくと、また、車は停めさせてもらうことにする。咲山の敷地への立ち入りの許可も現在唯一の相続人となった誠からもらっていたから、とくに問題はないだろう。必要があれば、実家の家屋の中への立ち入りも自由にどうぞ、と誠は柚真人に許可してくれた。
 車を停めると、さて、そこで件の山について穏便に話を聞けそうな人間は――と考える。考えながら咲山の家の敷地を出て、あたりに広がる田畑の方へと、柚真人は目を向けた。すると、日の当たる眩しい緑の中で農作業中らしい人間の姿がちらほら見られた。その中で、充分に敬意を払えば話は聞けそうだなと思しき相手に目星をつける。柚真人はそこから数十メートルほど離れたところ、なにがしかの夏野菜の畑の中にいるそこそこ老齢の女性に声をかけることにした。
「――すみません」
 見慣れない、かつ柚真人くらい若い人間がぽつんとそこにいる姿を見れば、なんだ? という反応をされるのが普通だろう。そこで柚真人は自分が装っている風体と同じように、フィールドワーク中の研究者であるかのような態を装った。それでも取りつく島もない扱いをされることもあるが、今回声をかけさせてもらった女性は、柚真人があたりをつけた通り、仕事の手を少し休めて柚真人の相手をしてくれた。
「ぼくは、日本の小さな祠やそういったものが祀られる山に関する伝承とか神様の話を調べている者です。よかったら、こちらの咲白山という山について、少し教えていただきたいのですが――」
 という問いかけに対して、彼女から聞けた話は、こうだ。
 咲白山と呼ばれる山には、村がここにできたときから守られてきた、と。そのため、山には祠があって、村を守ってくれてきた『何か』と祀っているのだと。そして、咲山の家は、だいだいその祠を管理する家であったようだ。『咲山』という苗字や、誠の話からしてもそれは推し量れた。しかしその家から人がいなくなってしまったので、いまは集落の家がもちまわりでその管理を代行しているらしい。そうしないと、山は人里を守る存在から災いをもたらす存在になる。管理というのは、その災いを回避するための山と人里との約束事を遵守するということで、具体的には決められた日には、山に入ってはならないということ。そしてその日には山で獲れたなにがしかの獣を祠に備えること。その約束を違えると、山に入った人間は山から戻れなくなるし、以降、人は山に入れなくなって、山からの恵みも絶えてしまう。山では様々な山菜や天然の果実などが取れ、獣ももちろん狩ることができ、かつては村の生活を支えた。しかし約束を違えた時には、事実、山に入った人が戻らなくなるばかりか山では何も取れなくなり、昔は、たいそう村を困らせたこともあるようだ。人がいなくなる現象が起こる、という話も、この、山から戻れなくなる、という話がそういうことになるのだろう。実際に、この村の人間以外にも、戻らぬ人間がいるということも、彼女は否定しなかった。ただ淡々と、ここはむかしからそういう山なんだよといった。ほんとうに、『そう』なんだ。だから時々やってくるお前さんのような外の人間や、話の通じない部外者を、止めたり諫めたりすることもある。その約束にともなう昔からの一連の出来事が、本当のところ、いったい『何』によるものなのかはわからない。たとえば山の祠にも、その『何か』の正体が判別できるようなものはなく、その名前や由来や歴史が記してあるわけではない。だが、昔からそういう現象は厳然として絶対的に存在し、現在も存続している。ならば、『何か』は確かに『在る』という他になく、村としては、昔から伝わる約束を守り続けるより他に――ない。

      ☆
 
「では本当に、人がいなくなる――ということなんですね」
 夜も遅い時間になってなんとか皇の社に帰りついた。
 帰宅すると、帰宅路がてら帰ってからもろもろ報告すると連絡しておいたこともあって、優麻が柚真人を待っていた。
 軽く用意してもらった遅い夕食つきで、柚真人は優麻と皇邸のダイニングで向き合っている。ちなみにテーブルに用意してあったのはテイクアウトの惣菜と缶ビールだ。
「そういう話は山となればあるあるっちゃーあるあるなんだが」
 仕事の片付けと潔斎を終え、部屋着に着替えてきた柚真人は、販売用のパッケージのまま並べられた惣菜のパックから、あっさりめの野菜の和え物を箸で摘みつつ、優麻に頷いで見せた。
「まあ、広い日本、山に棲むモノも伝承も様々だし、そもそも山自体が神域だったり、異界との境界だったり、そのあり様もさまざま――な」
 それは、優麻も知っていることだろう。
 しかし――柚真人はそこから優麻の目をまっすぐ見て、ふ、とどこかなにかおもしろそうに、唇を歪めた。
「だが今回は――俺よりも、詳しそうな話だ」
「私、ですか?」
 優麻がやや意表を突かれたような表情になるのを見て、柚真人はふたたび首肯した。
 この男が――『やっとお気づきになりました?』――などと言って、すこし呆れたような表情と、深い懐かしさを宿した瞳を向けてきた時のことを、思い出す柚真人だ。
 

 あれは、柚真人が『人』であることを棄てると決めた時。では私もお付き合いしますよ、などとと言いだした優麻に、柚真人は笑ったのだ。さすがにそこまではお前には無理だよ、と。実際、もともと前世の本性が人ならざるものであったことを自覚している柚真人に対し、優麻はただの人間だ。なればさすがに、柚真人がしようとしていることに、倣うことは不可能だ。しかし、そう返した柚真人に、優麻は告げた。そろそろ、私のことも思い出していただけると嬉しいのですが――と。つまるところ優麻は、もとより、ずっと、『人』ではなかった。ふたたび柚真人が生まれてくるのを待って、『人』に擬態していた――鬼、だったのだ。柚真人が鬼としては一度滅びを受け入れ、人として転生することで前世から現世までその存在を繋いだのと異なり、優麻はずっと待っていた、といった。そして鬼としてそれが可能だったのは、優麻が人や獣の血肉を糧とする鬼ではなく、精を糧とする性の鬼だったからである、と。このようにおおむね鬼の糧が血肉と精にわかれることを、人の側では『緋』と『蒼』に分類して呼称とする。柚真人の性は『緋』の鬼であり、その頂点にある者だったので『緋』とそのまま呼ばれた。そこまで優麻に明かされて、柚真人は前世についての記憶を手繰り、思い出した。かつて己が鬼としてこの世にあったとき、常に自分の傍らにいた者が在ったことを。その者はその性おだやかな『蒼』の鬼であったが自分と気が合い、よく連んだ。まさか、その、お前なのか、と。さすがにいささか想定外で愕然としながら問うたところで返ってきたのが、『やっとお気づきになりました?』という優麻の言葉であった。
 優麻――これはもちろん今の彼が名乗っている名前で、柚真人の記憶の中では、彼には別の名があった――は、『緋』が巫女と死別したときも、その後、草薙の者たちと鬼の征伐にあたったときも、『緋』とともにあった。だから『緋』が人として転生の輪に入ることになった経緯も、そうやって巫女にいつかふたたびまみえることを願って草薙の者たちに託した言葉も知っていた。生まれ変わることが叶うときには、徴を示す、という呪をともなった『緋』の死力をふりしぼった最期の言葉も。そうして、千二百年ほどの時が流れ、皇の社に緋色の花が咲き乱れたという報を知った優麻は、柚真人が生まれてくることになる皇の一族の中に入り込んだ。どうしてそこまでして――という感慨が柚真人の中に湧きはしたが、優麻は、『あなたの行く末が気になりましたので』と、それ以外のすべてはさしてたいしたことではないとでもいうように答えた。ではもし、自分がなにも思い出すことなく人として生きたらどうするつもりだったのかと質せば、優麻は、それならそれで、人としてのあなたを見守るに留めるつもりでいましたよと言った。それだけがずっと前から私のゆいいつの気がかりでしたから、と。
 ここでひとつ、では皇の一族にあたる笄の家に、どうやって入り込んだのか、ということになるが、優麻は、先代の笄の家の人間の胎を借りて人の身を得たのだという。皇の庭に咲く花が赤く染まり出したころ。『緋』が残した生まれ変わりの徴を信じて。そこから柚真人が生まれるまでの年月が、そのまま優麻と柚真人の年齢差だ。そのようにして鬼が人の胎に宿る術もあるにはあった。むろんそんなことを、ほかでもない『勾玉の血脈』の社家相手にそれと悟られずにしでかすには相当程度の強い力が必要となる。しかし、ともに在った存在を想い続けて千二百年も長じた鬼であれば、可能であったろう。『蒼』の鬼は、もともと長命で、性としては穏やかではあるが執着性も高く、そのため頑固で辛抱強く、非常に忍耐強い。それでなくとも千二百年前、『緋』は巫女を失ってよりこの方、眷属であるはずの鬼という鬼を殺して殺して殺しまくったことと併せて考えると、笄優麻――という名を戴いたこの者は、現存する『蒼』の鬼としては長命にして最強級の存在となっているのかもしれなかった。
 同時に、柚真人は理解した。どうしていつも、この男が妙に訳知り顔で、なんでもわかっていますよというような顔で、腹立たしいくらい落ち着き払って自分の隣にいられたのか。それはそうだろう、齢千二百年を数える鬼ともなれば。


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 不思議な雰囲気の青年が来た。
 なんだか大学を出たてぐらいの風体の、えらく顔立ちの整った若者だ。だが、これで神社の宮司だという。青年は、弁護士からの紹介で来た者だと名乗った。
「――山、ですか」
「ええ、山です」
 青年の問いかけに、咲山《さきやま》誠《まこと》は頷いた。
 こんなところに人を招くのもどうかと思わなくもなかったのだが、その方が事情がわかりやすいだろうとも思って、相手に来てもらったのは都内の小さなアパートだった。その一室――というほどでもないさらに小さな居間に置いたテーブルセットに、誠は相手と向き合っている。テーブルの上には、いくつかの書面が並べてあった。一応、お茶くらいは出した方がいいのだろうと思って、ペットボトルのお茶も置いてあった。この家の中にあるものは、自分で使うのも相手に使うのもなんとなくどうかなあと思ったので手をつけていない。なぜなら、この家の主はもうこの世になく、この家の主と誠が親しかったわけでもなかったからだ。
「咲山誠さん――は、こちらにお住まいだった方の弟さん、なんですよね」
 改めて問うてくる相手に、誠は頷いた。
「はい。でも、兄は実家を継いだものと思っていたので、こんなところにひとりで暮らしていたとは思いもしませんでした。連絡もその……取り合っていなかったので……」
 そのへんの事情には、少し複雑なところがあった。だから、そもそも『この話』を、誠は弁護士に相談しなければならなかったのだ。そうして、弁護士から話が宮司に移った。とはいえ、もう一度事情の説明は必要だろうか、と誠が少し面倒くさく思ったとき、
「そのへんのご家庭内の事情は、咲山さんが相談なさった弁護士の方からうかがっています」
 そう返されて、誠は正直ほっとした。この、自分でも本当のところなにがどうなっているのかよくわからない話を、なんども他人に説明するのが、誠には億劫だったのだ。
 ことの始まりは、兄が亡くなったという知らせがあって、自分がその相続手続きをしなくてはならなくなったところから始まる。誠と兄の両親は、誠と兄よりも先に亡くなってしまっていて、その時は両親の財産の一切を、兄が相続していた。しかし兄は独身で、そのまま先日、亡くなった。そこで、兄が引きついでいた両親の財産ごと、誠が相続しなければならなくなったのだった。一方誠の実家は、とある東北のえらく奥まった田舎の村の中にあった。しかしなんというか、これが誠にとってはなんとも居心地の悪いところで、もともと家の跡を継ぐのはその家に生まれた長子に限るという慣習があったこともあって、誠は高校を卒業するとすぐに村を出ていた。その後、村を出て東京で就職した誠は、親とも兄ともほぼほぼ連絡を取ることなく、暮らした。だから、知らなかったのだ。その相続財産の中に、『売れない山』があることを。
 兄と両親から継いだ財産は、東京で生活基盤を築いた誠には不要なものばかりだった。実家の土地や建物、この兄の家、その中にある家財など。だからすべて売ってしまおうと思い、財産を調査したところ、実家にひとつ、大きな山があることがわかった。これが、『売れない山』なのだ。
 なぜ『売れない』のかというと、――まあ、こんな田舎のなんのとりえもない山には買い手もつかないという、相続あるあるもあるにはあるが、売ってはならないという妨害工作のようなものが、実家のあった村から来るのである。その山は、お前の家、咲山家が継ぐものであって、他所の者に渡してはならないのだ、と。状況を調べようと思って久しぶりに、本当に久しぶりに実家を訪れてみたところで、まず村の人間にそう言われた。現地での不動産調査を頼んだ業者も、現地で村人たちから妙な言動をされたと言っていた。
 察するに、どうも実家が持っていた山には、そういう――妙ないわくがあるらしい。しかし、そんなものはただの迷信だろう。財産的な価値がないからというならともかく、そんな迷信の類のために、売らずに自分が引き継がなければならない山など、このご時世にあるだろうか。
 まあ、うすうす村全体からそういう妙な匂いを嗅ぎ取っていたから、誠は小さい頃から気味が悪くて、早く村を出たかった。村を出てからは何かから解放された気分で、絶対に実家には近寄らなかった。でもそれは、そういう迷信のようなものを妙に大切にしているらしい、村の雰囲気、村人の雰囲気が気持ち悪かったのであって、誠自身が迷信や妙なしきたりなどを信じていたわけではないのだ。
 ただ。村人たちの振る舞いがまったく気にならないわけでもなかったので、その『山』について、誠も自分で調べてみた。そうしたら、さほど有名ではないものの怪談スポットのようなものとしての噂話が出てきた。人が行方不明になる山だとか、実際に返ってこない人がいるだとか。それだけならまだしも、その調べた話が刺激となってか、自分でも幼少期にそんなことがあったような記憶がよみがえってきてしまった。いや、もしかするとその記憶にあった出来事がきっかけで、自分はその村を離れたくなったのかもしれない。村には、山に入ってはいけないよと言われていた日が年に何日かあって、その日に山に入った子供のころの友達が、いなくなっているのだ。確か、村人たちは最初とても慌てていた。でも、村は数日で静かになったし、警察のようなものが来た記憶もないし、その後、いなくなった友達を誰も探したりはしなかった――ように思う。探すというより、もう最初から、なにかどこか妙な諦めの空気のようなものが、村全体を覆ったことと、山に入ってはいけない日があるということをさらに何度もこっぴどく大人たちから言われたことが、思い出された記憶の中にはあった。
 それで――。
「その山についての話がいったい何なのか、知りたいということですね」
 問題は山のいわくなのだということについては、相手にも説明し、誠が説明しおえると、相手の青年が静かに繰り返した。
「……はい。そんな、わけのわからないものを継がされる身としても、なんだか気味が悪くて……いや、そんな、人が消える、みたいな話を信じているわけではないんですが。弁護士さんが、そういう……いなくなった人の行方とか、ちょっと不可解なことを調べられる方を紹介することもできる、とおっしゃるので……」
「そうですね。調べることは、たぶんできます。ただ、だからといって何かが変わるとか、何かを変えられるとか、そういうことにはならない場合もありえます。それでも、かまわないでしょうか?」
 相手が指摘するのは、おそらく、山について調べたところで、この山が『売れない山』のままで終わるかもしれない、ということなのだろう。
 誠としては、山が売れてくれればそれに越したことはなかった。それに、できればそんな気味の悪いものは手放してしまいたかった。だから、そうはいってもその『山』についてのいわくの正体のようなものが解明されれば、多少売れやすくなるんじゃないだろうか、くらいの気持ちでいたのだ――その時は。
「――はい」
 と、誠は相手の言葉に頷いた。
 十代の頃にわかれたきりだった兄の、まるで見知らぬ他人のものでしかないような遺品に囲まれながら、相手の青年の顔を見返す。整った顔立ちの、それゆえ宮司だと言われればそんな感じもするかと思えなくもない青年の名前は、――|皇《すめらぎ》|柚真人《ゆまと》、といった。
      ☆
 そういった山は、おそらく、この日本中には多くある。
 ただ、山にあってそういう話のもととなる存在の正体は、様々だ。本当に何かが棲みついている山もあれば、そこに続く人の営みが生み出した単なる慣習や約束事である場合もある。
 ともあれ、確認するには自分が現地に赴くのが一番簡単であろう、と柚真人は考えた。場所は東北の少し奥地になるので遠くなる。だが、車であれば日帰りも可能であろう。そういう場合は神社のスケジュールを調整し、社務所の仕事などはほかの神職やバイトの巫女たちに任せることにしている。
 山は、依頼主からの説明では、咲白山《さきしろやま》と呼ばれているようだった。しかし登山客が訪れるようなものではなく、なんというか、地元の集落の人々が、季節により山菜取りに入ったり、もっと古くは獣や薪を取りに入ったりしていたのであろう山だ。
 そのすぐふもとまで車で入れる道路があったので、柚真人はナビのGPSを頼りにそこまで乗りつけた。田舎道を走っていた道路がだんだんと細くなり、やがて舗装がなくなり、先が無くなる――というような感じではあったが、今の柚真人にとって、『山』と『人里』の境界線は、常にはっきりしている。そのあたりに車を停めて、あとは歩きだ。ちなみにこういった場所での現地調査が必要になる場合、柚真人はなにかしらの学術研究をしている学生のような風体を装うことが多い。けっして興味本位などではなく真摯に民俗学や考古学をやっているようなことをにおわせると、たいていどこでもさほど警戒はされないし、協力的になってくれる人が多い。
 季節は晩夏であったので、山はまだ青々としていて、そこいらじゅうから蝉の声がする。そのすぐ傍までたどり着くと、おそらく地元の人間が使うのであろう、踏みならされた小さな道のようなものがあった。
 ここは、まだ、『人里』だ。柚真人にはそう判じられた。特に部外者の立ち入りを禁じたりするような表示もない。なので、柚真人はそのまま小道に足を踏み入れた。そのまま少し上っていくと――もしかしたらと柚真人があたりをつけていたものが見つかった。それは、ちょっとした社のようなものだ。いや、社というより祠が近いか。畳でいうと6畳ほどの広さのある開けた場所と、その場所を前にして据えられた祠。山へ入る道は、いちどこの場所で途切れ、それから祠の裏手へと続いているらしい。
 祠は古びてはいた。けれども、小綺麗だった。木材で出来ていて、しめ縄のようなものもそう古くない感じで飾られてある。
 しかし――。
 柚真人は何かを読み取ろうとするかのように、わずかに目を細めた。
 これは、『神』を祀ったものではないな。
 元来は、祠は小さな神社のようなものであり、神道的な観点から言えば、なにかしらの神を祀るもので、日本全国のあちこちにある。その後、神仏習合によって仏に関するものが祀られるようにもなったが、これはそういったものが祀られているものではない。
 それに。
 ――今は、『いない』、か。
 柚真人が目を細くしながら感じ取っていたのはそのことだった。
 ここに棲む『なにか』、はおそらく『在る』のだろう。いわば、『山』と『人里』の境界線はここだ。けれども、いま、その存在は、ここにはいない。それが、何で、どうしていまここには気配も感じられないのか、は、さすがにこの状態では柚真人にもわからない。
 そうなとなれば、特にここには用はない。柚真人は踵をかえし、車まで戻った。となれば、この村の人間に、直接話を聞いてみるのが良かろう。
 もちろん、咲山誠氏から先に話をうかがっていたので、村人たちの山に対する慣習や、人がいなくなることがあるらしいなどという話に土足で踏む込むことは避けるとする。たいがい、こういう場所ではそういうことを部外者に話したがる人間はいないし、そこをほじくっていらない壁をこちらから作るのも意味がない。それに、村の人間たちはすでに、山について調べに来た不動産業者といざこざをおこしているし、誠が山を処分して他人の手に渡したがっていることを知っている。
 村自体はごく普通――といってもこの国の多くの農村部が現状そうであるように、ここも限界集落というやつに近づきつつあるようだったが――の農村といった雰囲気だ。山から人里の方へと車を走らせていると道の両脇には田んぼや畑が広がっている。柚真人はまず、咲山誠から示された、彼の実家つまりはかつて両親が住んでいたがいまは主無き空き家となっているはずの家に向かった。咲山の家は、集落のなかで大事な位置づけとなっている山を所有しているだけあって、けっこうな家屋と土地を有していた。そこまでいくと、また、車は停めさせてもらうことにする。咲山の敷地への立ち入りの許可も現在唯一の相続人となった誠からもらっていたから、とくに問題はないだろう。必要があれば、実家の家屋の中への立ち入りも自由にどうぞ、と誠は柚真人に許可してくれた。
 車を停めると、さて、そこで件の山について穏便に話を聞けそうな人間は――と考える。考えながら咲山の家の敷地を出て、あたりに広がる田畑の方へと、柚真人は目を向けた。すると、日の当たる眩しい緑の中で農作業中らしい人間の姿がちらほら見られた。その中で、充分に敬意を払えば話は聞けそうだなと思しき相手に目星をつける。柚真人はそこから数十メートルほど離れたところ、なにがしかの夏野菜の畑の中にいるそこそこ老齢の女性に声をかけることにした。
「――すみません」
 見慣れない、かつ柚真人くらい若い人間がぽつんとそこにいる姿を見れば、なんだ? という反応をされるのが普通だろう。そこで柚真人は自分が装っている風体と同じように、フィールドワーク中の研究者であるかのような態を装った。それでも取りつく島もない扱いをされることもあるが、今回声をかけさせてもらった女性は、柚真人があたりをつけた通り、仕事の手を少し休めて柚真人の相手をしてくれた。
「ぼくは、日本の小さな祠やそういったものが祀られる山に関する伝承とか神様の話を調べている者です。よかったら、こちらの咲白山という山について、少し教えていただきたいのですが――」
 という問いかけに対して、彼女から聞けた話は、こうだ。
 咲白山と呼ばれる山には、村がここにできたときから守られてきた、と。そのため、山には祠があって、村を守ってくれてきた『何か』と祀っているのだと。そして、咲山の家は、だいだいその祠を管理する家であったようだ。『咲山』という苗字や、誠の話からしてもそれは推し量れた。しかしその家から人がいなくなってしまったので、いまは集落の家がもちまわりでその管理を代行しているらしい。そうしないと、山は人里を守る存在から災いをもたらす存在になる。管理というのは、その災いを回避するための山と人里との約束事を遵守するということで、具体的には決められた日には、山に入ってはならないということ。そしてその日には山で獲れたなにがしかの獣を祠に備えること。その約束を違えると、山に入った人間は山から戻れなくなるし、以降、人は山に入れなくなって、山からの恵みも絶えてしまう。山では様々な山菜や天然の果実などが取れ、獣ももちろん狩ることができ、かつては村の生活を支えた。しかし約束を違えた時には、事実、山に入った人が戻らなくなるばかりか山では何も取れなくなり、昔は、たいそう村を困らせたこともあるようだ。人がいなくなる現象が起こる、という話も、この、山から戻れなくなる、という話がそういうことになるのだろう。実際に、この村の人間以外にも、戻らぬ人間がいるということも、彼女は否定しなかった。ただ淡々と、ここはむかしからそういう山なんだよといった。ほんとうに、『そう』なんだ。だから時々やってくるお前さんのような外の人間や、話の通じない部外者を、止めたり諫めたりすることもある。その約束にともなう昔からの一連の出来事が、本当のところ、いったい『何』によるものなのかはわからない。たとえば山の祠にも、その『何か』の正体が判別できるようなものはなく、その名前や由来や歴史が記してあるわけではない。だが、昔からそういう現象は厳然として絶対的に存在し、現在も存続している。ならば、『何か』は確かに『在る』という他になく、村としては、昔から伝わる約束を守り続けるより他に――ない。
      ☆
「では本当に、人がいなくなる――ということなんですね」
 夜も遅い時間になってなんとか皇の社に帰りついた。
 帰宅すると、帰宅路がてら帰ってからもろもろ報告すると連絡しておいたこともあって、優麻が柚真人を待っていた。
 軽く用意してもらった遅い夕食つきで、柚真人は優麻と皇邸のダイニングで向き合っている。ちなみにテーブルに用意してあったのはテイクアウトの惣菜と缶ビールだ。
「そういう話は山となればあるあるっちゃーあるあるなんだが」
 仕事の片付けと潔斎を終え、部屋着に着替えてきた柚真人は、販売用のパッケージのまま並べられた惣菜のパックから、あっさりめの野菜の和え物を箸で摘みつつ、優麻に頷いで見せた。
「まあ、広い日本、山に棲むモノも伝承も様々だし、そもそも山自体が神域だったり、異界との境界だったり、そのあり様もさまざま――な」
 それは、優麻も知っていることだろう。
 しかし――柚真人はそこから優麻の目をまっすぐ見て、ふ、とどこかなにかおもしろそうに、唇を歪めた。
「だが今回は――俺よりも、《《お前の方が》》詳しそうな話だ」
「私、ですか?」
 優麻がやや意表を突かれたような表情になるのを見て、柚真人はふたたび首肯した。
 この男が――『やっとお気づきになりました?』――などと言って、すこし呆れたような表情と、深い懐かしさを宿した瞳を向けてきた時のことを、思い出す柚真人だ。
 あれは、柚真人が『人』であることを棄てると決めた時。では私もお付き合いしますよ、などとと言いだした優麻に、柚真人は笑ったのだ。さすがにそこまではお前には無理だよ、と。実際、もともと前世の本性が人ならざるものであったことを自覚している柚真人に対し、優麻はただの人間だ。なればさすがに、柚真人がしようとしていることに、倣うことは不可能だ。しかし、そう返した柚真人に、優麻は告げた。そろそろ、私のことも思い出していただけると嬉しいのですが――と。つまるところ優麻は、もとより、ずっと、『人』ではなかった。ふたたび柚真人が生まれてくるのを待って、『人』に擬態していた――鬼、だったのだ。柚真人が鬼としては一度滅びを受け入れ、人として転生することで前世から現世までその存在を繋いだのと異なり、優麻はずっと待っていた、といった。そして鬼としてそれが可能だったのは、優麻が人や獣の血肉を糧とする鬼ではなく、精を糧とする性の鬼だったからである、と。このようにおおむね鬼の糧が血肉と精にわかれることを、人の側では『緋』と『蒼』に分類して呼称とする。柚真人の性は『緋』の鬼であり、その頂点にある者だったので『緋』とそのまま呼ばれた。そこまで優麻に明かされて、柚真人は前世についての記憶を手繰り、思い出した。かつて己が鬼としてこの世にあったとき、常に自分の傍らにいた者が在ったことを。その者はその性おだやかな『蒼』の鬼であったが自分と気が合い、よく連んだ。まさか、その、お前なのか、と。さすがにいささか想定外で愕然としながら問うたところで返ってきたのが、『やっとお気づきになりました?』という優麻の言葉であった。
 優麻――これはもちろん今の彼が名乗っている名前で、柚真人の記憶の中では、彼には別の名があった――は、『緋』が巫女と死別したときも、その後、草薙の者たちと鬼の征伐にあたったときも、『緋』とともにあった。だから『緋』が人として転生の輪に入ることになった経緯も、そうやって巫女にいつかふたたびまみえることを願って草薙の者たちに託した言葉も知っていた。生まれ変わることが叶うときには、徴を示す、という呪をともなった『緋』の死力をふりしぼった最期の言葉も。そうして、千二百年ほどの時が流れ、皇の社に緋色の花が咲き乱れたという報を知った優麻は、柚真人が生まれてくることになる皇の一族の中に入り込んだ。どうしてそこまでして――という感慨が柚真人の中に湧きはしたが、優麻は、『あなたの行く末が気になりましたので』と、それ以外のすべてはさしてたいしたことではないとでもいうように答えた。ではもし、自分がなにも思い出すことなく人として生きたらどうするつもりだったのかと質せば、優麻は、それならそれで、人としてのあなたを見守るに留めるつもりでいましたよと言った。それだけがずっと前から私のゆいいつの気がかりでしたから、と。
 ここでひとつ、では皇の一族にあたる笄の家に、どうやって入り込んだのか、ということになるが、優麻は、先代の笄の家の人間の胎を借りて人の身を得たのだという。皇の庭に咲く花が赤く染まり出したころ。『緋』が残した生まれ変わりの徴を信じて。そこから柚真人が生まれるまでの年月が、そのまま優麻と柚真人の年齢差だ。そのようにして鬼が人の胎に宿る術もあるにはあった。むろんそんなことを、ほかでもない『勾玉の血脈』の社家相手にそれと悟られずにしでかすには相当程度の強い力が必要となる。しかし、ともに在った存在を想い続けて千二百年も長じた鬼であれば、可能であったろう。『蒼』の鬼は、もともと長命で、性としては穏やかではあるが執着性も高く、そのため頑固で辛抱強く、非常に忍耐強い。それでなくとも千二百年前、『緋』は巫女を失ってよりこの方、眷属であるはずの鬼という鬼を殺して殺して殺しまくったことと併せて考えると、笄優麻――という名を戴いたこの者は、現存する『蒼』の鬼としては長命にして最強級の存在となっているのかもしれなかった。
 同時に、柚真人は理解した。どうしていつも、この男が妙に訳知り顔で、なんでもわかっていますよというような顔で、腹立たしいくらい落ち着き払って自分の隣にいられたのか。それはそうだろう、齢千二百年を数える鬼ともなれば。