それから二日過ぎた昼。引き戸を叩く音を聞いた慚愧が声を張る。
「開いている」
引き戸が開けられ、鎖那がひょっこりと顔を出す。
――なんでそうなるんだよ、普通に入ってこい。普通に。
内心で苦笑しつつ、慚愧は左手で手招きをしながら、中に入るよう目で促す。
すると一礼した鎖那が中に入ってきて、板の間に腰かけ、懐から舞扇を取り出す。
「気になっていたのだが。そういう柄だったのか」
「なにっ!?」
いつもの場所から動かないと思っていた鎖那は文字通り飛び上がる。
見れば、隣にきていて、慚愧が舞扇を見つめている。しかもその距離はかなり近い。
鎖那はつい、その美しさに見惚れて固まってしまう。
かなりドキドキすると思いながら、顔が赤くなるのを感じていた。
「手に取ってみてもいいか?」
「え? あ、どうぞ?」
その声で我に返った鎖那は、舞扇を慚愧に渡す。
開いたままの舞扇を受け取った慚愧は、じっくりとそれを見つめて、一人でうなずいた。
きょとんとする鎖那を見つめつつ、満足したのか舞扇を握らせる。
なにごともなかったかのような顔をして、いつも座る場所へと戻っていった。
「面白いものが見れた。くくっ」
慚愧は変わった笑い方をする。
鎖那はその言葉を聞き、首をかしげる。
面白いものってどういうことよ! と心の中で突っ込みを入れる。
不満そうな表情に気づいた慚愧が、肩を震わせる。
「むう」
鎖那はむくれて慚愧を睨みつける。
「それで? 今日はなにをしにきたんだ?」
「なに勝手に、満足したような顔をしてるの!」
鎖那はキッと慚愧を睨む。
「それは事実だろうに。その舞扇、なかなかに綺麗じゃねぇか。ちょっと派手かもしれんが、女子の持ち物にしては、最高だな」
よくもまあペラペラと、嘘かホントか知れない、褒め言葉の嵐が返ってきた。
しかも、薄く笑っている。笑っていなくても見惚れてしまうのに、ほんの少し微笑んだだけの刺激の強さと言ったら、たまったものではない。その効果の強さを分かっているのだろうなと、思わずにはいられない。
「ちょっと質問があるのだけれど?」
それに面食らった鎖那は、閉じた舞扇で慚愧を指し示す。
「なんだ?」
「熱でもある? あなたがそこまで褒めるって初めてだから」
「熱はねぇぞ。素直に褒めただけで、なんで疑われるんだよ?」
慚愧は心外なという顔をする。
「それ自体しないと思ってたのー!」
鎖那は思わず叫ぶ。
照れていることを隠したかったから、つい子どものように言ってしまった。
「そんなに不思議かぁ?」
慚愧はニヤリと笑って、聞き返す。
「だからー! いちいち笑顔を振りまかないでよ!」
顔が赤くなったのを自覚しつつ、鎖那が叫ぶ。
「からかいが過ぎたな。それで、今日の用件は?」
笑みを引っ込めた慚愧が、改めて尋ねる。
「やっと切り出せるわ……。話はしてくれたの?」
居住まいを正した鎖那が笑みを消す。
「ああ。話しておかねば意味がなかろう。その前にいくつか確認したい」
「なんなりと」
「この件、依頼人の望みは?」
慚愧が低い声で聞く。
「あれから依頼人に話してみたのよ。手段は問わないようね。腹を括ったのでしょう。甘い考えは捨てたように見えたわ」
鎖那はそこまで言うと、舞扇をばっと開いて、口許を隠す。
「分かった。では、お前に問う。これから知り得ることをすべて、誰にも明かさぬ。そう、この場で誓えるか?」
その言葉は刃のように鋭く、鎖那に向けられる視線にはかなりの冷たさが宿っていた。
「ずいぶんな真似ねぇ。口は堅いし、誓うわよ? そうしなきゃ、きっとなにも教えてくれないでしょう?」
舞扇をずらして、鎖那は言う。
満面の笑みであっさりと誓ってみせた鎖那に、慚愧は拍子抜けしてしまう。
「んん、翁からの言伝だ。よく聞け」
慚愧が咳払いをしてそこで言葉を切る。
「なあに?」
鎖那が首をかしげる。
「此度の依頼、引き受けることとする。その男は救いようもないため殺めることと相成った。咎を引き受けることは当然だが、依頼人がどうなろうが、知ったことではない」
慚愧はそこでいったん言葉を切る。
「それは構わないけれど?」
鎖那が再び首をかしげる。
「人を殺めてほしいと願うからには、それ相応の意志の強さと、多額の金を用意しろ。それが呑めないのであれば、一生苦しみ続けるしかない。……以上だ」
冷ややかな声で告げた慚愧は、鎖那に視線を向ける。
「もう怖いなぁ。それと、依頼人から此度の件にかかるお金を預かってるの」
鎖那は苦笑しつつ、懐から銭百枚を取り出して板の間に置く。
「その様子だと額は充分そうだな」
大量の銭を見つめて、慚愧が呟く。
「依頼人には、そのこと伝えてみるわ。翁の提示してきた条件はこれで解決かしら?」
「依頼人には不承知だけは認めん、と言っておけば黙るかもしれねぇしな。選択権など与えはしない。そうとなれば、動くのは早い方がいいだろうな。明日の夜にでも、出向くよう伝えておく」
慚愧は小声でこれは預かると言い、銭百枚を手にして、巾着袋に放り込んだ。
「まったく……。なんでそんなに殺気立ってるのよ?」
「それについて答える気はない」
慚愧は牙を剥くかのように、鋭い雰囲気を放ち続ける。
「じゃあ、明後日の夜にくればいいかしら?」
「その方が助かる」
慚愧はそこまで言うと、引き戸を指さした。
鎖那はふっと溜息を吐きながら、板の間から立ち上がり、一礼した。
会釈で返した慚愧を見つめ、くるりと背を向けて家を出ていった。
日が落ちかけていることに気づいた鎖那は、人目のある大通りを歩いて、依頼人に話をして強引だが納得させてから、家に帰る。
厨がなく土間と狭い部屋があるだけだが、それさえあれば鎖那は充分なのだ。
薄い布団を敷いて枕元に、舞扇を置く。
大事そうに見つめた後、鎖那は慚愧のことを思い浮かべながら、眠りについた。
一人になった慚愧は、ふうっと細く長く息を吐き出す。
――しかしあの娘。からかうと面白いな。
そんなことを思い出しながら、つい苦笑を浮かべる慚愧。
近くで舞扇を見ていただけで驚くわ、赤面するわで、見ていて飽きないと思った。
あんなに感情を正直に表に出す人間を久しぶりに見た。
――物珍しさもあるのかもしれないが。違う生き方もあったかもしれない、なんて思っているのか? 俺はすべてを隠すことでしか生きられないというのに。今さらないものねだりなど、してはならん。過去はどうやったって変えられないのだから。
慚愧は天井を睨みつけて、忌々しげに顔を歪める。
「なんとか誤魔化せた……ということでいいんだよな?」
鎖那がきたとき、うっかり打ち明けてしまわないように、細心の注意を払った。
案内人などいう嘘を信じてくれて助かった。
ある秘密を墓場まで持っていこうと決めている。
だが、そんなことができるのだろうか?
そんな疑問が脳裏をよぎる。
隠そうと躍起になっても誰かに知られてしまったら。口封じに殺めることしかできないのだろうか。
知られてしまえば、怯えさせてしまうだろうか。軽蔑されるのかもしれない。
そんな人間達は数多く見てきた。白い目で見られることの方がまだ慣れている。
だから、斬り捨てられる心づもりだけはしておかねば。
そんな哀しい決意を慚愧はするしかないのだ。
それ以外に選択肢などありはしない。
誰にも知られてはならない秘密。それはもうひとつの俺というのが〝悪魔の翁〟であること。