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1-6

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 ホテルを出る頃には、学校の下校時間になっていた。黎人は入部しておらず、放課後は自由な時間が保証されている。鶴敏から学校への勅令のようなものだった。
 汐里の車を使って再び学校を訪れると、連が校門前で小梢と話しているのが見えた。二人も姉妹に気付くと、小梢はそっと手を振った。
 肉吸が出た時に備えて小梢はまだ残っていたというが、二人で調査しても痕跡があるだけで姿を完全に消したそうだ。
 小梢は家に戻り、月乃と連は車に乗り込んだ。汐里は黎人と交渉している。
「しかし、不思議なもんだ」
 運転席に座っていた連は、物怖じせずウィスキーの小瓶を開けて飲んでいた。飲酒運転を現役の刑事がしていると国民が知ればどんな顔をするだろう。
「登下校、黎人は綾芽って女に守られてるとはいえ徒歩だ。組織の連中が送迎するような待遇はない」
「ここは普通の高校。目立つのは組織としても困るんじゃないか」
「素人の考えだな」
 反社のヒエラルキーでは上位にいくにつれ知名度が下がる。例外はいるが、上手く社会と溶け込んでいるのだ。それこそ幽霊のように、確かに存在しているのに誰にも名前すら認知されないような組織。連も何度も凶悪な者共と戦ってきて、それらの「幽霊」にはある共通点があるのが分かった。
 隠れてはいるが、爪痕は残すのだ。刑事事件に発展したり、死人を出したりするのが主な行動にはなるものの、小さな行動で自分達の力を誇示するのだ。連はだが、弧竜会の穏健派にはそういった自己主張が不足しているように思えてならなかった。
「そういえば、小平竜司について私たちは何も教えてもらってないんだけど」
 名前が出た途端、連はウィスキーの小瓶をポケットに閉まった。
 ガラスを小気味よく叩く音。連は窓を開けた。
「月乃、鶴敏の隠れ家に案内してくれるそうです。行きましょう」
 口八丁な汐里は交渉術も上手にまとめられたのだろう、黎人の猜疑心(さいぎしん)をくぐりぬけてアポイントメントを取る手腕は妹の月乃でさえ驚くものだった。出会ってまだ一日目の自分達に対し、心を開くのが早いように思えたからだ。綾芽と友人だったというのもあるのかもしれない。
 連は何も言わず車のロックを解除した。話の続きは次回にするとして、月乃は汐里の後に続いて隠れ家までの道のりを歩き始めた。
 一人、車の中で連はぼうっと車窓から下校する生徒達を眺めていた。
 ――成長していれば、あいつも今頃は。
 勤務中にする妄想にしては不出来で、連は頭の中にある映像を追い払った。
 眼の端に奇妙なものが映った。
 最初は黒い煙のように見えたそれは段々と形が作られていく。連は直感的に、この存在が怪異であると認識した。咄嗟にアクセルを踏もうとした連だが、異形の者に足を掴まれて身動きを禁じられた。

 隠れ家とはいうものの、今ではそこが黎人の実家だった。
 電車に乗らず、学校から徒歩で一時間をかけた道は周りくねったクセの強い道のりだ。途中民家の裏にある茂みを通る道があり、二人も横に並べない窮屈な帰路だ。そういった道を進むと駅ビルに着き、地下駐車場へのエレベーターを降りる。月乃は大変だろうと声をかけるも、黎人の返事は素っ気なかった。
 ポケットから車のキーを出した黎人は、ボタンを押してこげ茶色のワゴン車のドアを横に開けた。姉妹に待っているよう告げた後、車の中で端末を操作する。
 すると車はその場で横回転し、地面に丸い扉が現れた。マンホールに取っ手がついたような扉だ。
 車から出てきた黎人は、蓋を力強く開けた。大人が一人分入れる大きさの穴で、梯子が地下に続いている。
「先に降りていいよ」
 促された二人は、相談する必要もなく月乃から先に降りていった。梯子を下っている途中、黎人は扉を閉め監禁するのではないかと憶測が過ったが、ただの杞憂に終わった。
 地面は湿った大理石のタイルだった。狭い通路を進むと、鉄製の両扉がある。黎人は扉の横にある電子ロックの解除装置を操作し、キーを入力して扉が開く。
 扉の先にあったのは玄関と廊下だった。質素なつくりでどれも木製。靴棚の上には鍵や壺、骨董品(こっとうひん)が並べられている。
 黒いスーツを着た家政婦が姉妹に会釈をして、黎人は途中にある自室だろう部屋に入っていった。二人はそのまま家政婦の背中を追いかけ、着いたのは異様に豪華な装飾(そうしょく)の施された扉だった。埃(ほこり)はなく綺麗で、黒い漆喰(しっくい)の素材で作られた精巧(せいこう)なもの。
 鍵は掛かっていないらしく、家政婦は扉を開けて二人を見ていた。寡黙(かもく)な彼女に導かれるまま中に入ると、ゆっくりと扉は閉められた。
 部屋は薄暗く、中は見にくい。しかし、寝室と書斎が兼任された部屋だとはすぐに分かるのだった。部屋の中央に天蓋(てんがい)のついたベッドが置かれていて、その周りには医療器具が並べられている。
 ベッドでは一人の老人が座っていて、偽りの星空を眺めていた。この部屋の天井は星が描かれていて、輝いているのだ。
「いずれは、誰か見知らぬ人がここに来るのは分かっていた」
 使い古された喉に、罅が入ったような声で彼は言った。
「鶴敏、ですね。私は汐里、こっちは月乃。あなたの助けとなりに参じました」
「私は助けを呼んだつもりはない」
「自らが作り上げてきた灯が消えゆく様を、そこで見ているだけのおつもりでしょうか」
 鶴敏の表情は(かげ)りを帯びていて窺えない。しかし、ほんの僅かな輪郭(りんかく)は笑みを作っているのだろうと分かるものだった。
 彼はサイドテーブルに置かれているタンブラーに口をつけ、唇を潤してから言った。
「なぜここに来た。言ってみるといい」
 威風に怯まず、汐里は答えた。
「人類を、ひいては善人を救うため」
「人類を救うと。本気か」
 隣で応酬を耳にしていた月乃は、心臓がいつもより騒がしいと感じていた。言葉の一つでも間違えれば、今すぐに死んでいてもおかしくないからだ。
 ひしひしと感じるのだ。この部屋には、通常では考えられない凶器が隠されている。不審な言動一つで人間を一人殺せるほどの装置があるのだと。目が慣れてきて、ベッドの奥に見えた物を見て月乃は確信さえ覚えた。
 小さな穴がある。人差し指ほどの穴だ。
「弧竜会も最初はそうだった。人類の進化に貢献し、失われるべきでない民を救おうとしていた」
 タンブラーが動くと、薬品の匂いが鼻を刺激する。
「しかし、人類はあまりにも愚かだった。なぜどの国も核を捨てないか。抑止論はもはや古い価値観だとなぜ決め捨てられないのか。バベルの塔は、人間同士を争わせるために作られたのではない。人間という価値ある存在の中で倫理観を改めさせ、高次元なる存在に導かれるために作られたのだ」
 鶴敏は冷静に、淡々と語る。しかし汐里は、その冷静さの中に宿る怒気を聞き逃さなかった。
「弧竜会の本来の目的は、人類の進化だと」
「そうだ。今人間共は低い次元で争い、日々堕落する。堕人がいい例だ。己の欲望を制御できず、本能のまま人を傷付ける。一匹の(あり)は象には及ばないが、一万匹いれば象を食い殺せる。いいか、小娘。今は愚かな人間共が、優秀な遺伝子を食い殺しているんだ」
 日本では出る杭は打たれるとして糾弾(きゅうだん)される。アメリカや中国といった大国では杭は出る前に摘まれる。メディアやネットで言論統制が行われているのは過去だけではないのだ。
 現代は知識を持った支配者が、高度な知識を持った従者にプロパガンダを作らせて国さえ動かすのが日常。
「私はそんな世界に抗おうとした。だが数十年も救おうとして今、分かったのだよ。人類は一つにはなれないとな」
 男女という性別の垣根を超えただけで、年齢が違うだけで争いが勝手に巻き起こるのが人間の性。
「ある人は言う。そんな人類が、どうして国同士で仲良くできようかと」
 彼の言葉には、それ自体が歴史書の一ページであると言わんばかりの重厚さが存在していた。ここに至るまで何度も葛藤(かっとう)し、打ち勝ってきたのだろう。しかし病に伏せ、その葛藤に抗う気力すら失われてしまったのだろう。
 老獪(ろうかい)さとは違う、諦観。
「私は巫女です。八百万の神から認められた存在です」
「それが、何か」
 凛とした声音で、汐里はこう言ってみせた。
「その巫女が、言います。あなたは間違っていると」
「世界の現状を見てそう言い切るのか」
「はい。あなたの考えは間違っている」
 心の声が漏れていないのを月乃は願っていた。汐里の勇敢さは褒められるものではなく、無謀であるとも思えたからだ。バカ姉貴、という本心が知られていないといい。
「ならば私が間違っていると証明してみせよ。私は死してなお、この世に居座るぞ。人類の破滅を見届けるために」
 無礼な物言いをしながら、鶴敏は激昂(げっこう)せずに汐里に命題を突き出した。
 このまま人類が低次元のまま争い続ければ、近い将来破滅すると語っているようにも思える。あまりにも遠い将来の話に感じたが、汐里の眼は真剣そのものだった。
「相田(あいだ)正司(しょうじ)という男が改革派のトップだ。その男について調べろ」
 口を閉ざした鶴敏は、枕に頭を乗せて息を整え始めた。話すことは全て話し終えたから出ていけという合図のようだった。月乃は意味深に開いた穴から何も出てこないと安堵(あんど)すると、寝室から表へ出た。家政婦はもういないからと、月乃は大きく息を吐いてから汐里に向かって言った。
「姉貴、正直生きた心地がしなかったよ」
「まったく、貧弱な精神ですね。月乃はイケイケな雰囲気をしているのに、どうしてそんなに臆病なのでしょう」
 あのなあ、と月乃が苦言を呈そうとすると黎人の部屋の扉が開いた。彼は申し訳なさそうな表情をした後に姉妹を手招いて、三人が中に入ると黎人は急いで扉を閉めた。
 中は一般的な高校生の部屋だ。勉強机の上にパソコンがあり、明かりは余すところなく部屋中に広がっている。バンドのポスターが貼ってあるが、月乃の好きなバンドではなかった。
 一番目を惹いたのは実験器具のようなものだった。
「部屋の物には触らないでほしい。触ってもいいことは起きないから」
 試験管や顕微鏡といった素人でも名前が分かる器具から、月乃は目にした記憶もない道具まで一式が揃っていた。
「お前、まさかの科学オタクか」
 反社という金が大きく動く組織に属しているから機材が揃えられるのだろうと考えている矢先、汐里に肩を叩かれた月乃は思わぬものを目にして目を丸くした。
 それは、蓋のされたフラスコの中に入っていたのだ。
 まだ生きている憑虫だった。


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 ホテルを出る頃には、学校の下校時間になっていた。黎人は入部しておらず、放課後は自由な時間が保証されている。鶴敏から学校への勅令のようなものだった。
 汐里の車を使って再び学校を訪れると、連が校門前で小梢と話しているのが見えた。二人も姉妹に気付くと、小梢はそっと手を振った。
 肉吸が出た時に備えて小梢はまだ残っていたというが、二人で調査しても痕跡があるだけで姿を完全に消したそうだ。
 小梢は家に戻り、月乃と連は車に乗り込んだ。汐里は黎人と交渉している。
「しかし、不思議なもんだ」
 運転席に座っていた連は、物怖じせずウィスキーの小瓶を開けて飲んでいた。飲酒運転を現役の刑事がしていると国民が知ればどんな顔をするだろう。
「登下校、黎人は綾芽って女に守られてるとはいえ徒歩だ。組織の連中が送迎するような待遇はない」
「ここは普通の高校。目立つのは組織としても困るんじゃないか」
「素人の考えだな」
 反社のヒエラルキーでは上位にいくにつれ知名度が下がる。例外はいるが、上手く社会と溶け込んでいるのだ。それこそ幽霊のように、確かに存在しているのに誰にも名前すら認知されないような組織。連も何度も凶悪な者共と戦ってきて、それらの「幽霊」にはある共通点があるのが分かった。
 隠れてはいるが、爪痕は残すのだ。刑事事件に発展したり、死人を出したりするのが主な行動にはなるものの、小さな行動で自分達の力を誇示するのだ。連はだが、弧竜会の穏健派にはそういった自己主張が不足しているように思えてならなかった。
「そういえば、小平竜司について私たちは何も教えてもらってないんだけど」
 名前が出た途端、連はウィスキーの小瓶をポケットに閉まった。
 ガラスを小気味よく叩く音。連は窓を開けた。
「月乃、鶴敏の隠れ家に案内してくれるそうです。行きましょう」
 口八丁な汐里は交渉術も上手にまとめられたのだろう、黎人の猜疑心《さいぎしん》をくぐりぬけてアポイントメントを取る手腕は妹の月乃でさえ驚くものだった。出会ってまだ一日目の自分達に対し、心を開くのが早いように思えたからだ。綾芽と友人だったというのもあるのかもしれない。
 連は何も言わず車のロックを解除した。話の続きは次回にするとして、月乃は汐里の後に続いて隠れ家までの道のりを歩き始めた。
 一人、車の中で連はぼうっと車窓から下校する生徒達を眺めていた。
 ――成長していれば、あいつも今頃は。
 勤務中にする妄想にしては不出来で、連は頭の中にある映像を追い払った。
 眼の端に奇妙なものが映った。
 最初は黒い煙のように見えたそれは段々と形が作られていく。連は直感的に、この存在が怪異であると認識した。咄嗟にアクセルを踏もうとした連だが、異形の者に足を掴まれて身動きを禁じられた。
 隠れ家とはいうものの、今ではそこが黎人の実家だった。
 電車に乗らず、学校から徒歩で一時間をかけた道は周りくねったクセの強い道のりだ。途中民家の裏にある茂みを通る道があり、二人も横に並べない窮屈な帰路だ。そういった道を進むと駅ビルに着き、地下駐車場へのエレベーターを降りる。月乃は大変だろうと声をかけるも、黎人の返事は素っ気なかった。
 ポケットから車のキーを出した黎人は、ボタンを押してこげ茶色のワゴン車のドアを横に開けた。姉妹に待っているよう告げた後、車の中で端末を操作する。
 すると車はその場で横回転し、地面に丸い扉が現れた。マンホールに取っ手がついたような扉だ。
 車から出てきた黎人は、蓋を力強く開けた。大人が一人分入れる大きさの穴で、梯子が地下に続いている。
「先に降りていいよ」
 促された二人は、相談する必要もなく月乃から先に降りていった。梯子を下っている途中、黎人は扉を閉め監禁するのではないかと憶測が過ったが、ただの杞憂に終わった。
 地面は湿った大理石のタイルだった。狭い通路を進むと、鉄製の両扉がある。黎人は扉の横にある電子ロックの解除装置を操作し、キーを入力して扉が開く。
 扉の先にあったのは玄関と廊下だった。質素なつくりでどれも木製。靴棚の上には鍵や壺、骨董品《こっとうひん》が並べられている。
 黒いスーツを着た家政婦が姉妹に会釈をして、黎人は途中にある自室だろう部屋に入っていった。二人はそのまま家政婦の背中を追いかけ、着いたのは異様に豪華な装飾《そうしょく》の施された扉だった。埃《ほこり》はなく綺麗で、黒い漆喰《しっくい》の素材で作られた精巧《せいこう》なもの。
 鍵は掛かっていないらしく、家政婦は扉を開けて二人を見ていた。寡黙《かもく》な彼女に導かれるまま中に入ると、ゆっくりと扉は閉められた。
 部屋は薄暗く、中は見にくい。しかし、寝室と書斎が兼任された部屋だとはすぐに分かるのだった。部屋の中央に天蓋《てんがい》のついたベッドが置かれていて、その周りには医療器具が並べられている。
 ベッドでは一人の老人が座っていて、偽りの星空を眺めていた。この部屋の天井は星が描かれていて、輝いているのだ。
「いずれは、誰か見知らぬ人がここに来るのは分かっていた」
 使い古された喉に、罅が入ったような声で彼は言った。
「鶴敏、ですね。私は汐里、こっちは月乃。あなたの助けとなりに参じました」
「私は助けを呼んだつもりはない」
「自らが作り上げてきた灯が消えゆく様を、そこで見ているだけのおつもりでしょうか」
 鶴敏の表情は翳《かげ》りを帯びていて窺えない。しかし、ほんの僅かな輪郭《りんかく》は笑みを作っているのだろうと分かるものだった。
 彼はサイドテーブルに置かれているタンブラーに口をつけ、唇を潤してから言った。
「なぜここに来た。言ってみるといい」
 威風に怯まず、汐里は答えた。
「人類を、ひいては善人を救うため」
「人類を救うと。本気か」
 隣で応酬を耳にしていた月乃は、心臓がいつもより騒がしいと感じていた。言葉の一つでも間違えれば、今すぐに死んでいてもおかしくないからだ。
 ひしひしと感じるのだ。この部屋には、通常では考えられない凶器が隠されている。不審な言動一つで人間を一人殺せるほどの装置があるのだと。目が慣れてきて、ベッドの奥に見えた物を見て月乃は確信さえ覚えた。
 小さな穴がある。人差し指ほどの穴だ。
「弧竜会も最初はそうだった。人類の進化に貢献し、失われるべきでない民を救おうとしていた」
 タンブラーが動くと、薬品の匂いが鼻を刺激する。
「しかし、人類はあまりにも愚かだった。なぜどの国も核を捨てないか。抑止論はもはや古い価値観だとなぜ決め捨てられないのか。バベルの塔は、人間同士を争わせるために作られたのではない。人間という価値ある存在の中で倫理観を改めさせ、高次元なる存在に導かれるために作られたのだ」
 鶴敏は冷静に、淡々と語る。しかし汐里は、その冷静さの中に宿る怒気を聞き逃さなかった。
「弧竜会の本来の目的は、人類の進化だと」
「そうだ。今人間共は低い次元で争い、日々堕落する。堕人がいい例だ。己の欲望を制御できず、本能のまま人を傷付ける。一匹の蟻《あり》は象には及ばないが、一万匹いれば象を食い殺せる。いいか、小娘。今は愚かな人間共が、優秀な遺伝子を食い殺しているんだ」
 日本では出る杭は打たれるとして糾弾《きゅうだん》される。アメリカや中国といった大国では杭は出る前に摘まれる。メディアやネットで言論統制が行われているのは過去だけではないのだ。
 現代は知識を持った支配者が、高度な知識を持った従者にプロパガンダを作らせて国さえ動かすのが日常。
「私はそんな世界に抗おうとした。だが数十年も救おうとして今、分かったのだよ。人類は一つにはなれないとな」
 男女という性別の垣根を超えただけで、年齢が違うだけで争いが勝手に巻き起こるのが人間の性。
「ある人は言う。そんな人類が、どうして国同士で仲良くできようかと」
 彼の言葉には、それ自体が歴史書の一ページであると言わんばかりの重厚さが存在していた。ここに至るまで何度も葛藤《かっとう》し、打ち勝ってきたのだろう。しかし病に伏せ、その葛藤に抗う気力すら失われてしまったのだろう。
 老獪《ろうかい》さとは違う、諦観。
「私は巫女です。八百万の神から認められた存在です」
「それが、何か」
 凛とした声音で、汐里はこう言ってみせた。
「その巫女が、言います。あなたは間違っていると」
「世界の現状を見てそう言い切るのか」
「はい。あなたの考えは間違っている」
 心の声が漏れていないのを月乃は願っていた。汐里の勇敢さは褒められるものではなく、無謀であるとも思えたからだ。バカ姉貴、という本心が知られていないといい。
「ならば私が間違っていると証明してみせよ。私は死してなお、この世に居座るぞ。人類の破滅を見届けるために」
 無礼な物言いをしながら、鶴敏は激昂《げっこう》せずに汐里に命題を突き出した。
 このまま人類が低次元のまま争い続ければ、近い将来破滅すると語っているようにも思える。あまりにも遠い将来の話に感じたが、汐里の眼は真剣そのものだった。
「相田《あいだ》正司《しょうじ》という男が改革派のトップだ。その男について調べろ」
 口を閉ざした鶴敏は、枕に頭を乗せて息を整え始めた。話すことは全て話し終えたから出ていけという合図のようだった。月乃は意味深に開いた穴から何も出てこないと安堵《あんど》すると、寝室から表へ出た。家政婦はもういないからと、月乃は大きく息を吐いてから汐里に向かって言った。
「姉貴、正直生きた心地がしなかったよ」
「まったく、貧弱な精神ですね。月乃はイケイケな雰囲気をしているのに、どうしてそんなに臆病なのでしょう」
 あのなあ、と月乃が苦言を呈そうとすると黎人の部屋の扉が開いた。彼は申し訳なさそうな表情をした後に姉妹を手招いて、三人が中に入ると黎人は急いで扉を閉めた。
 中は一般的な高校生の部屋だ。勉強机の上にパソコンがあり、明かりは余すところなく部屋中に広がっている。バンドのポスターが貼ってあるが、月乃の好きなバンドではなかった。
 一番目を惹いたのは実験器具のようなものだった。
「部屋の物には触らないでほしい。触ってもいいことは起きないから」
 試験管や顕微鏡といった素人でも名前が分かる器具から、月乃は目にした記憶もない道具まで一式が揃っていた。
「お前、まさかの科学オタクか」
 反社という金が大きく動く組織に属しているから機材が揃えられるのだろうと考えている矢先、汐里に肩を叩かれた月乃は思わぬものを目にして目を丸くした。
 それは、蓋のされたフラスコの中に入っていたのだ。
 まだ生きている憑虫だった。