連絡を受けた小梢は、大急ぎで北宮坂高にやってくると重体を負った汐里に駆け寄った。
小梢はクリーム色のカーディガンの上に白衣をまとった医者だった。黒いタイツが細見の脚を美しく見せていて、お姫様カットの髪は汐里と同じ黒。彼女は緑色のプラスチック手袋をはめていた。
「無理をするなとあれほど言ったはずよ。バカね、何をしてるの」
「無茶をしたつもりはない。指数の基準値を確認しなかったミスだ」
普通、なんの変哲もない学校に基準値の高い堕人が現れるのはあり得ない。その油断が本当に命取りになるところだったのだ。
小梢は金嗣に雇われている白藤姉妹専属の医者で、普段は自宅で過ごしている。何度か小梢の家を訪れた時は、多趣味な部屋模様に誰もが揃って驚嘆するものだ。
音楽が好きな小梢は蓄音機からジャズミュージックを常に流していて、防音室の中にはレコーディングスタジオさえある。自宅の庭にはプールがあり、得意げに泳いでいるところを見せられたもので、ギターやヴァイオリンまで飾られていた。ただのお飾りではなく、実際に弾いているところも披露させられたものだ。
手先の器用さで汐里の服を手早く解いていき、患部に治療を施してものの数分で施術が終わった。小梢は手袋をとってビニール袋の中に入れると、最後に汐里の顎を片手で掴んで口を開けさせた。顔を近づけてライトで口内を照らされると、汐里は僅かに恥ずかしそうにしている。
「特に問題なしね。巫女なら、今日寝れば明日には傷は完治してるはずよ」
巫女の力を授かった恩恵として、傷の治りが一般人に比べて早い。研究が進めば不老さえ実現できると言われるほど。
口を閉じた汐里は、事の経緯をかいつまんで説明した。説明が終わる頃には、二人は黎人が眠っている教室の前まで訪れていたのだった。綾芽の代わりに子守を任されているうえに、危険な堕人まで現れているからひと時も気を抜けない。
堕人の血は無いから、学校からは遠ざかっただろう。
「けれど、どうしてあんなに強力な堕人がここにいたのか。それが不可解だ」
「でも想像はできてるんでしょう」
理解者である小梢は、既に汐里の憶測を見抜いているようだった。堕人の狙いは黎人だという、誰でも気軽に思いつける推測。汐里は根拠のない推測を口にするのは嫌いで、小梢には一瞥を送るだけだった。
後継者争いはどこの組織でもよく起こる定番だった。ミステリー作品では度々題材になっているから、後継とは縁のない一般人でもどういった経緯があるのか知る機会は多い。今回もその例に漏れないと汐里は考えていた。
妄想の域は出ないが、堕人によって黎人を篭絡させるか殺害によって新秩序の組織として再生するのだ。黎人が次の長だから狙うのは必然。
「妄想ならいくらでもできる。早く草薙家を調べないと」
「そこは月乃ちゃんに頑張ってもらいましょうよ。あなた、心臓の傷がまだ癒えていないって知ってるでしょう」
心臓に膿を生やされただけなら、小梢の外科手術で取り除ける。しかし例の堕人はそれ以上に心臓にダメージを負わせていたのだ。これは金嗣と小梢、本人にしか教えられていない。
脳と心臓、今はどっちも正常な働きをしているとは言えないのだ。本来汐里は、集中的な治療が望まれる状態だったのだ。しかし相手の力は絶大、竜を前にしてただの狼でも立ち向かわなければならない。時折世界が見せる奇跡が、汐里への生命力となっているのだ。
月乃と合流し、汐里が傷を負っているからと一度近くのラブホテルで休憩する手筈を整えた。汐里はもう慣れてしまったが、ラブホテルを本来の方法として使った過去は一度もない。月乃に手続きは全て任せきりだった。
通されたのは通常のホテルとなんら変わらない、少しチープさもある一室だった。
近頃はラブホテルで女子会を開く集団もいるようで、こういった当たり障りのない部屋が用意されるのも普通なのだという。
「大丈夫か、姉貴。相手は肉吸だったんだろう、しかも災厄級の」
月乃は肩掛けカバンを机の上に置き、汐里をベッドの上に座るよう催促した。汐里もまたカバンを枕元に置き、傷口が開かないように身体を横たえた。
「月乃はどう思いますか。今回の堕人の出現、それと綾芽との再会について」
「多分、姉貴より具体性のある推測はできてないけど。あの堕人は別の組織からの刺客って考えられないか」
てっきり派閥争いで利用された堕人だと考えていた汐里にとって、新たな着眼点だった。考えとしては一番現実的で、矛盾がないのだ。
現会長がなんらかの理由で次の後継者を早急に選ばなければならない状態、すなわち組織が不安定となっている今。弧竜会に台頭して別の組織が壊滅させにかかっている。
「けど、他に堕人を使うヤクザとかまったく知らないんだよ」
「いないとも考えられませんから、その線も捨てずにおきましょう。なんにせよ、次は黎人ではなく本部に直々にお邪魔したほうがよさそうですね」
椅子から立ち上がった月乃は、窓に近付いて道路を見下ろした。三階だから、それなりに物が小さく見える。
綾芽が組織と通じているならば、頼み込んで本部へと招いてもらえるだろうと簡単に考えられる。弧竜会はただでさえ狙われているから簡単に入れはしないだろうが、綾芽は次期会長の護衛を任されているほど信頼されているのだ。一端の雇われ傭兵ではないだろう。
月乃はレストランで得られた話を共有した。
弧竜会は組織内で二分化されていた。改革派と、穏健派。
二分化されているといっても、勢力は圧倒的に改革派のほうが強かった。穏健派の示している組織の目標が秩序と安定であり、社会的立ち位置を失った人間たち同士で絆を高め合い、家族とさえ呼べるほどの平和な世界で生きるというもの。政府が作り出した社会とは別の社会で、隔離された平和な世界で生きようとするもの。
反対に改革派は、違法な方法で入手した多額の富を使って政府に戦争を仕掛け、自分達が優位で富豪たちが築いてきた都を業火で焼き尽くすといった目標だった。
「草薙鶴敏は穏健派だというのが、今までの流れで分かりますね」
そう口にしてから、汐里は咳き込んだ。月乃は過保護なほど寄り添おうとしたが、彼女は問題ないと手で合図した。
現会長が穏健派だからこそ、改革派はこの機を逃さんとして政権略奪のような真似をしているのだ。黎人を殺害するか懐柔するかで弧竜会そのものが変わるのだ。
改革派に屈してしまえば、社会には過激な事件が流れるようになるだろう。
「分からないのは、どうして堕人を使うかなんだよな。堕人は人間がコントロールできるものじゃない」
「そこは解せませんね。言うなれば、ランダムに爆発する道具を使って戦っているようなものです。一秒後に爆発しかねない不安定なものを使うのは、戦いとしては愚かでしょう」
訳が分からないまま、社会から置いてけぼりにされて時間が流れていくような。
「そういえば、金嗣は小平竜司について犯人が話したと言いながら何を話したのか私たちには言いませんでしたね」
「あたしは深く考えないようにしてたんだが、やっぱり少しヘンだよね」
金嗣もあえて口には出さないといった、不可侵のような存在だった。
今回の事件と関係はあるが、捜査はしなくていいと判断したのだろうか。正体すら教えないのだから、これ以上付き合うのは時間の無駄かと月乃は冷蔵庫の中を物色し始めた。中には何も入っていなかったから、カバンの中から取り出した缶ビールで庫内を満たした。
――あたしビールは嫌いなんだよね。飲めるんだけど、悪酔いしちゃうから。
汐里は天井を見上げた。何人の女性が天井のシミを数えただろう。猫のようにも虎のようにも見える染みは、幾何学模様。
不純な空気が日本を取り巻こうとしている。汐里は、今度の事件は本当に弧竜会だけが問題の事件なのだろうかと考えにふけった。弧竜会の発足はそもそも、資本主義社会の致命的欠陥からなる必要悪のようなもので、今回の事件が終わったとしても無限に続くのではないか。
堕人は、日々人々に認知されつつある。都市伝説マニアにはもう必須の知識だ。中には妖怪の呼び出し方をネットに投稿している者もいた。ほとんどはデタラメだが、中には面白がって出てくる妖怪もいるのだ。
日本だけに留まった話ではない。海外では妖怪は悪魔に置き換えられ、エクソシスト達が日々奮闘している。
日本そのものが変わらないと、堕人を使った組織はまたいつ出てきてもおかしくはないのだ。
不純な空気が人々の間で渦巻いている。連盟はどこまで考えているのか。金嗣は一切を話さなかった。警察は堕人を使った事件を上手に人間の仕業として世の中に公表するだろう。しかしもし真実に触れる人間が現れて孤竜会に関する事件が明るみになれば、同じような組織が国内だけではなくさらに大きな規模となって海外から出る可能性があるのだ。
改革派は恐らく、堕人をコントロールする技術を身につけている。だから利用できるのだ。その技術が流れれば、戦争も免れないだろう。