常軌を逸した殺戮を前に、汐里は男子生徒の腕を強引に持ち上げて背中を蹴り、後方へ逃がす根気を与えた。汐里は刀を構えたまま、冷や汗が服に染みつくのを感じていた。この堕人の主は肉吸。生きている人間の血肉をあらゆる方法で貪る生き物だが、目の前にいる堕人は狡猾であり最も効率的な方法で教師の血肉を吸っていた。
彼らは人間を食べ満腹になると最大限の力を発揮する。何度も戦っているが、そのどれもが強力な個体で殺されかけた経験を何度も持っている。
不運にも、堕人は汐里の存在に気付いている。
やがて教師は骨と皮だけになり、堕人は顔を掴んで頬の肉を噛みちぎってから遠くへ投げ捨てた。血のついた口元は三日月のように歪む。すると、四本の管が汐里に向かって一斉に射出された。
大砲のような速度で向かってくる管は上下左右からであり、腹を食いちぎる勢いだった。汐里は刀で弾くも力の強さに後方へ追いやられる。一本の管が追い打ちをかけてきたがつま先で上に蹴る。
「型式開花、雛菊。七分咲き」
切っ先を堕人に向けた汐里は、そのまま弧を描いて輪の軌跡を残す。ピンク色の円が現れ、光を放っていた。
二本の管がもう一度差し向けられる。恐るべき速度だったが、二度も見れば汐里も目が慣れていた。管が輪の間を通ろうとした時、彼女は縦に薙ぎながら大きく飛び退いた。ピンク色に光る輪が管を締め付け、火花を散らし始める。
瞬時に纏められた管の真横に立った汐里は、叩きつけるように刀を何度も振り下ろす。三回振り下ろすと、血まみれの管は切断された。
しかし、少しだけ切断に時間をかけすぎた。管に気を取られてる内に、本体が走って接近し懐を許してしまったのだ。汐里は即座にクナイを抜いたが、堕人は汐里の手を腕で掴んで手前に引くと膝で腹部を強打した。腹当越しに響く衝撃に、彼女の持っていたクナイが地面に落ちた。
まだ手は掴まれている。体勢を立て直そうと柄で堕人の側頭部を狙ったが、管が汐里の首筋に絡みついて捻り、首を絞め始めた。喘ぐ汐里の腹部にもう一度強烈なボディキックが入り、身体が痙攣する。舌を外に出して喘ぎながら視界に靄がかかるのが見えた。
「お前もガキの子守なのね。大変じゃない、ずいぶんと」
首を締め付ける力が弱まるも、地に足がついていないから不安定だった。堕人はもう一度、掌底で汐里の腹部に攻撃を仕掛けた。
「さっきの力。ほら、割っかで私の腕を捕まえたやつ。あれって巫術よね」
巫術。それが使えるのは許された人間だけだった。誰に許されるのかといえば、妖怪とは異なる八百万の神々のいずれか。汐里は万物の花を司る花神から恩寵を受けたのだ。
直接花神と会話はできない。神は人間の言葉を話さないから、代わりに試練を以てして授かるかどうかが変わるのだ。
「私たち堕人って、その巫気を吸い取れるの知ってる?」
寒気を催すような言葉。堕人はもう一本の管を伸ばすと、汐里の口元に近付けた。巫気を全て吸われてしまえば、儀式を行うまで使用できなくなる他に堕人を限界以上に強くする効果があるのだ。
決して口を開けてはならない。決意し、唇を噛みしめた。
屈辱や敗北感に耐えてるであろう汐里の様子を堕人は面白おかしく笑いながら、ナイフを脇腹に刺した。
僅かに開いた唇、その隙間から管が口内に忍び込んだ。それはプラスチックのような舌触りながら固く、嚙み切れるものではない。やがて、管の中にピンク色の呼気が見え堕人に吸収されているのが見えるようになる。
身体から力が抜けていく。満腹の時に勝負を挑んだのが、最大の敗因だったのだろう。汐里は静かに目を閉じた。
「こっちだ、化け物」
綾芽の声が聞こえたかと思えば、口から管が抜かれて身体が解放された。むせ込む汐里は、まだ身体が痙攣していて立てそうになかった。何が起こるか理解する前に、堕人は高笑いをしながらどこか遠くの方へ逃げていってしまった。
学校のチャイムが耳に響く。授業が終わり、生徒が待ち望んだ昼休みの訪れだった。静かだった校内に、色彩豊かな生徒達の声がこだまする。汐里は刀を杖代わりにしながら立ち上がり、服についた埃を払った。
堕人が逃げた方を見ると、赤い血が滴り落ちているのが見えた。後を追うのも武身としての任務だったが、万全の状態でも苦戦した相手に今の状態で勝てるはずがない。綾芽は懐からペットボトルを汐里に渡した。半分くらい無くなっているが、それはオレンジジュースだった。
「あいつ、厄介っていうレベルを超えて強いね。汐里さんがここまで苦戦するなんて」
「隙も弱点もなかった。間違いなく災厄級だ。私と月乃で挑んでも勝てるかどうか」
災厄級の堕人が巫気を全て吸い取り進化すれば、堕人から魔人に変わる。
「こんなところでひれ伏すわけにはいかない。私の血肉を捧げようとも、あの堕人を止めねば」
「大丈夫だよ。肉吸の堕人が出た話は私の主人に伝えておく。対策を練ってくれるだろうし、後は私たちが片付ける。汐里さんはゆっくり休んで」
汐里は自身を一流の武身だと金嗣に言われて育ってきた。鼓舞され、巫術を手玉に取って挑めば倒せない相手は存在しないと。金嗣は若かった頃、天狗の堕人――それも、肉吸の堕人よりも強力な災厄級と戦い勝利した汐里の憧れだった。もし肉吸という三下妖怪の堕人に負けて身を引けば、誉れ高き自尊心に罅が入る。
汐里の表情に罅が出ていたのだろう、綾芽は彼女の手を取って柔和な声音で言った。
「死んじゃったら、元も子もないでしょ」
ほんの数呼吸を置いて頷いた汐里は、持っていたペットボトルを返して壁際に座り込んだ。
「月乃には私の敗北を黙っていてくれないか。月乃は、私が傷付けられたと分かると暴走してしまうから」
「分かってるよ。そうそう、小梢さんは元気かな。よくお世話になっていたから、よろしく言っておいてね」
もう一度汐里の顔が縦に振られたのを見た綾芽は、車の停まっている方へと歩き出した。彼女の背中が見えなくなって汐里は、端末を取り出し小梢に連絡を取った。
綾芽を出迎えたのは連だった。煙草の灰色をした煙を吐き出しながら、月乃の眠っている助手席を強く手で叩いた。一度のノックでは起きず、二度目のノックは車を揺らすほどの力となり、驚いた月乃は起き上がったと同時にハンドルに額を強打して悶えた。
「なんだよ敵襲かと思ったじゃないか」
窓を開けながら不機嫌に言う月乃だったが、綾芽と目が合った途端に気まずそうに黒い目を誰もいない右に向けた。
もう昼休みになったのかと簡易版浦島太郎のような感覚に陥る月乃は、財布を持って車から外に出た。連についてくるかと尋ねたが、彼は車や汐里を見張っておくと返す。月乃の本心としては、誰でもいいから同行を望んだというのに。真横を横切った、イヤホンをしたラフな見知らぬ男性ですら良かった。
武器を下ろした綾芽は喫茶店へと早速と歩き出し「来ないの?」と口を開く。以前と変わらぬ笑みに、余計に月乃は居心地の悪さを感じていた。
月乃が綾芽とは反対方向に向かって歩き出すと、綾芽は驚いた表情をしながら彼女の後についていった。
道中、どこにいくのか訊いても月乃ははぐらかすばかり。試しに思い出話に花を咲かせようとしても、花が芽吹く前に月乃が摘み取ってしまう。ぎこちない動作で。次第に綾芽の口数も減っていき、他人の距離感を保って靴底がすり減る音と車が往来する音だけが二人の耳に届いていた。
七分歩いてついた先は、駅前のファミリーレストランだった。喫茶店だと聞いていた綾芽は最初こそ一貫性のなさに心許ない表情をしていたが、理由が分かるとむしろ可笑しくて含み笑いを漏らした。
中に入り、冷気に当たると歩いていた時に流れた汗が乾いたように感じる。店員に案内され、四人掛けのソファに対面で座った月乃はメニュー表をしばらく眺めていた。
「お腹空いたね」
月乃は興味もなさそうに「そうだな」とだけ返し、店員を呼んで注文した。生ビールを三つとポテトフライ、季節限定のアボカドサラダにホットソースのチキンステーキだ。
案の定。月乃の考えが分かった綾芽は、満足そうに自分も注文した。
「どうして、あたしの前からいなくなったんだ」
月乃は視線を合わせず、片肘をついていた。店員が水と、サービスのコンソメスープを運んできた。
「本題、違うでしょ」
「どうだっていい。答えてほしい」
喧嘩別れをして、離れると最初に口にしたのは月乃だ。しかしそれは、綾芽が離れないでほしいと言葉にするのを期待して言ったのだ。だが現実は、綾芽は月乃の宣言を受け入れた。
寂しくなって綾芽を探しても、どこにもいない。綾芽とは二度と会えない。謝りもできないまま。月乃は時折彼女を思い出し、酒に浸った日々を思い出していた。
「どうして喧嘩したんだっけ。私たち」
「原因なんてどうでもいい」
三つのビールが運ばれてくると、月乃は店員の持っていたトレイから三つまとめて奪い取る。店員はあまりの勢いに唖然としたが、すぐに定型文を口にして厨房へと戻っていった。
月乃は喉を鳴らしながら黄金のアルコールを飲んでいく。痛快な飲みっぷりだった。
泡で白い髭を作った月乃は、コップから口を離すと今度は綾芽と視線を合わせてこう口を開いた。
「大事なのは、綾芽があたしの世界からいなくなった事実だ。あれだけ仲良くて、あたしがもう一度仲直りしようと思ったのに。どうして、あたしの前から消えたんだ。町からもいなくなって」
彼女の声が少しずつ大きくなる。息も不規則で、肩が上下するほどだった。対して綾芽は冷静で、落ち着き払っていた。
「それは言えない」
「ふざけるな」
「ふざけてない」
短い応酬の中に、二人の想いが強く込められている。月乃は二杯目に口をつけ、半分まで飲んでからテーブルの上に置く。
「あたしがどんな想いをしてお前を探してたか知ってるか」
「知ってる」
綾芽の頭の中を月乃が知っているように、月乃の頭の中を綾芽も知っている。
「じゃあなんで居なくなった。なんで」
月乃は前のめりになる。机に両手をついて、伏目をする綾芽に向かう。
「寂しかった。すごく寂しかったよ。もうスマホに頼るのはやめて、町中を探し回った日もあった。マンションの中に入ってまでお前を探して、探して――」
何度マンションの管理人から煙たい顔をされたか分からない。しかしそれが気にならない程、月乃の心は憔悴しきっていた。毎日昼から酒を飲んでは酔っ払い、道端で寝ているのを汐里に介抱されて家に帰る。汐里は叱りはせず、いつも通りに接してくるのが余計胸を苦しめた。唯一、止めるように言ったのは金嗣だった。月乃は彼の心配に感謝しながらも、矛盾するように金嗣に八つ当たりし、綾芽を探し続けた。
町の中腹まで探し終わり、彼女が生きているかどうかさえ分からないと絶望的な考えが頭を過った日があった。それはある日のことだった。
月乃は夜、泥酔した状態で公園に座り込み自殺を考えた。一生抜けない棘が心臓を苦しめ、永遠に苦痛を味わうならば死んだほうがいい。月乃は銃を懐から取り出し、自分の頭に向けた。アルコールで判断力の鈍った月乃は、汐里や金嗣の顔がボンヤリとした輪郭でしか見えない。彼らの心配する表情が分からなかった。
引き金が指に乗る。固く冷たい感触。いつもこの指で、堕人を殺めてきたのだ。
覚悟をする必要もなかった。月乃は自分を殺すのに躊躇いもなく――
「そしたら幻覚が見えたんだ。お前の。その後のことは覚えてない。気付いたら、家にいたから」
「うん、知ってる」
二年間貯め込んでいた感情の半分を吐き出した月乃は、声のトーンが普段通りに戻っていた。
だからこそ、微笑してこう言ってみせた。
「さっきから知ってる、知ってるって。よく言えるよ。何も見てないくせに」
下を向いていた綾芽は、柔らかな日差しのような笑みを向けながら月乃にこう言った。
「本当にそう思う?」
「――何を言おうとしてるのか分からないが、これ以上」
「月乃の見た幻覚、あれって本当に幻覚だったのかな」
綾芽は、呆然とした月乃に顔を近づけて彼女の唇に人差し指を立てた。顔を横に向け、静かな笑みを見せながらこう言った。
「本題、はいろっか」