肺に向かって突き進む鋭利な牙を抑えるべくして、月乃は両手で胴体を押している。
「汐里、どこから来てる!」
抜刀した汐里は周囲を探るも、まるで姿が視認できない。
やむなく黎人の所へ向かうと、彼が逃げないように腕を掴んだ。その間に、月乃は鎖に巻かれていって両手すら動けなくなっていた。
「どこのどいつだ、離せ!」
喚く力はあるものの、捕えられれば成す術もない。幽霊のように相手の姿が見えず、汐里は心眼を開いた。目を瞑るとようやく、相手がなんなのかを理解し、汐里は安堵した。
仰向けに転がされた月乃は芋虫のように壁際まで近付くも、脚を何かに踏みつけられて進めなくなった。
「いいザマだねえ、月乃。昔の私に見せたいよ、その情けない姿」
声が聞こえたかと思えば、突然空気中に女性の姿が現れた。彼女はピンク色の布マスクをしていて、ストライプの柄があるミルクティー色のワイシャツは胸元までボタンが空いていて、中のサラシが大胆に見えている。
黒いセミロングの彼女を、月乃は覚えがあった。浅い仲ではなく昔の親友だ。
「綾芽、イタズラにしては度が過ぎるぞ」
「ドが過ぎたらレになって、レが過ぎたらミになる」
「こっちは遊びじゃないんだよ」
綾芽と呼ばれた女性は月乃を立たせ、巻き付いていた鎖を解いて最後に食い込んだ錨を皮膚から抜いた。
二人がまだ高校生だった頃、お互いは武身として戦場で出会った。強い怨霊虫に寄生された堕人との闘いで九死に一生を与えたのが月乃で、それ以降二人は頻繁に会うようになっていったのだ。
「ここで何してたんだ」
埃を払いながら月乃が尋ねると、綾芽は腕を組みながら言った。
「護衛さ。そこのお坊ちゃんのね」
誰も死なないと分かると、黎人は肩の力が抜けた。綾芽は護衛のためなら手段を選ばない武身だった。黎人は、常に優しさを身に纏っている彼女が戦いの時においては冷酷になり、無慈悲になるのを目にしていた。以降は戦い事が嫌いになり、彼女を戦に立たせないようにしたいと望んでいた。
武身を護衛につけていると聞いた汐里は、すぐに違和感に気付いた。心の中に浮かべた疑問符はしかし、点だけで線はどこにも繋がらない。
「二人が言わんとしている話は分かってるよ。その子供がどんな子供か知っているのか、でしょ。それなら私は知ってるって答える。その子の親に護衛を頼まれたわけだし」
弧竜会は、活動内容こそ目立ってはいないものの反社であるのに変わらず、最近はそれにまつわる事件すら起きている。
「綾芽、いつから弧竜会と関わるようになったんだ」
「三年前だよ」
授業はもう始まっている。汐里は黎人を教室まで送り届けると月乃に告げ、二人分の足音が遠ざかっていった。放課後はまた話の続きをするだろうが、今は学生としての本業に勤しむのがいいだろう。個人の勝手で学生の貴重な青春時間を奪うわけにもいかない。
「このあと時間あるか。弧竜会について知っておきたい事柄とか色々調べなきゃならない」
「久々に親友に会えたんだもん。もちろん」
妙に照れ臭く、月乃は彼女に背中を向けた。汐里が黎人を見張る代わりに、昼休み時間になったら近くの喫茶店で話をするように申し付けた月乃は、連のいる車へと向かっていった。昼休みまではまだ一時間も残っている。
彼の車は裏門の歩道に止まっている。車のボンネットにもたれかかって、ガム風船を膨らませていた。
「何か分かったか」
校庭の方から生徒達の気怠そうな声が聞こえてくる。この暑い日に運動を強制させられているのだから仕方もない。
「黎人には護衛がついてる。あたしの親友だ」
「お前の親友ってのはつまり、武身か。だとしたら話が複雑になる。組織はジームを使って世界を掌握するつもりなのに、それらと戦う武身を雇っているのか」
武身も全員が全員正義の味方というと違う。月乃も、妖怪に唆されて武身でありながら堕人としての力を持ってしまい、欲にまみれた人間と戦った過去がある。一般人が堕人になるよりも強力な存在で、皮膚手術をしなければその時の傷は一生消えなかっただろう。皮膚が丸焦げになったのだ。
とはいえ、綾芽が堕人のようには見えなかった。前と変わらない快活な女性。
「思ったよりも事件が深そうだな。あたしの手に負えないかもしれない」
「安心しろ。お前らが活躍すんのはジーム相手だ。頭は俺が使う。元々、お前は酒で脳がやられてるだろうから期待はしてない」
「うるせぇ。お前のイカれた脳細胞よりは全然マシだよ」
月乃はあえて口にしなかったが、連も相当の酒飲みだった。趣味で飲んでる月乃と違って、彼が毎日酔って時折電柱の角に頭をぶつけるのは仕方ない。過去を知っている月乃と汐里からすれば仕方のない話だった。
外は暑いからと、月乃は車の中に入り込んでクーラーをつけた。
三年前、綾芽は弧竜会の仲間入りを果たした。きっと偶然ではなく運命の女神がこう記したと言わんばかりに、月乃と彼女は三年前に喧嘩別れした。月乃はこう考える。弧竜会という危険な組織に入れば月乃を巻き込むから、自ら嘘をでっちあげて月乃を怒らせたのだ。
月乃は喧嘩以降、一年間は清々した気分で過ごしていた。写真もほとんど消し、貰った物も全て焼却する。唯一残っていたのは、綾芽の後ろ姿だけが映った風景写真だった。
別れて二年後、月乃は夢に度々綾芽が出てくるのだ。楽しくゲームや喫茶店巡りをして遊ぶ。過去の記憶が少しだけ変わって流れ込んでくるようだった。起きた後も記憶があり、胸が締め付けられる思いをした。半年経って月乃から縁を戻そうと綾芽を探したが、地球上から消えてしまったかのように見つけられなかった。
「傷は大丈夫ですか、月乃」
戻ってきた汐里は、窓をコツンと叩いてから声をかけた。月乃は服をめくり、少しだけ切り傷のついた肌を見せてからブイサインをしてみせた。
「綾芽のやつ、手加減したみたいだよ。てっきり私を恨んでるかと思ったのに」
「恨んでいないと、三年前から月乃は知っているでしょう」
運転席に乗り込んで汐里が差しだしてきたのは、メロンのアイスと木のスプーンだった。月乃は嬉々として受け取り、颯爽と食べ始めた。
「予測ですが、綾芽は既に堕人となっています」
口に頬張った甘い味と、心の中にできた苦い風味が月乃の顔を顰めさせた。
「根拠はあるの」
「気配がまったくなかったところ。私の五感を使っても気付けなかった。それと、微かに妖心の反応がありました」
「話してる時は前とまったく変わらなかったよ」
反論したいわけではない、認めたくないだけだと月乃は分かっていた。汐里も分かっていた。だから二人とも、慎重に言葉を選ぶのだ。
「今までの堕人はどうでしたか」
これまで戦ってきた堕人はほとんどが暴徒のようになっていたし、冷静を装っても欲望までは隠しきれていなかった。中には人間を捕えるだけ捕えて、一緒にテレビゲームをしたいだけといった堕人もいた。無害か有害かは人によって異なるのだ。
仮に綾芽が堕人になって弧竜会に奉仕しているならば、金嗣どころか政府でさえ彼女の命を奪うように指示するだろう。一度堕人となれば、元に戻る方法は確立されていない。対象の戦闘能力や能力自体が低ければ収容されるだけだが、綾芽は堕人に加えて反社会勢力に加担している。
「月乃は然るべき時に、彼女の首をとれますか」
ふと、思い出した。綾芽の言葉だ。
――辛い時はね、好きな人に手を握ってもらうだけでいいんだ。それだけでいいんだよ。
二十歳の頃、月乃が初恋に敗れた時の話だった。初めて行った居酒屋で酔いつぶれて、タクシーを待っている時に綾芽がかけてくれた言葉だ。彼女はずっと手を握って、目の腫れた月乃を見守っていた。
「無理だったらどうする」
「私が、月乃も手に掛けないとなりません」
慎重に行動しろというのが金嗣の本意であり、命令だった。感情的になって綾芽を見逃したら、処分を受けるのは目に見えている。
空になったアイスカップを汐里に渡した。彼女は足元にあるダストボックスに入れて、静かにこう言った。
「まあ、私も無理なのですが」
思わぬ彼女の本心に、月乃は彼女もまた静かに笑うのだった。
連はコンビニのある方に向かって歩いて行った。
朝が早かったから、月乃は気付けば眠りについていた。一人になってしまった汐里は、自分も睡魔に襲われていると分かるとコーヒーを買いに自販機まで歩こうとした。
矢先、校内の裏庭から若い男性、間違いなく男子生徒の悲鳴が聞こえた。汐里は門を跳躍で超えて数秒で現場まで向かう。
妖心の反応。綾芽がもう行動を起こしたのかと柄に手をかけたが、着いて目にしたのは思いもよらぬ光景だった。
三人の人間がいる。一人は異常な光景に腰を抜かす男子生徒、もう一人は女性だ。彼女が着ているのは赤い模様の服かと思えたが、それが返り血であると知るには時間を要さない。それがなぜかはもう一人の人間を見れば誰でも分かる。分かってしまったから、腰を抜かした生徒は悲鳴をあげたのだ。
黒い艶のある髪に、スタイルの良い女性に首を掴まれていた教師に見える男性は、女性から伸びた幾つもの管に串刺しにされていた。その管は透明で、中に何が入っているのか一目瞭然だった。
肉だ。彼は、肉や臓物を吸われているのだ。