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1-2

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 別の場所で、老衰した男が床に伏せていた。心臓にチューブが通っていて、食事すらままならない痩せ細った肉体。声を出すのさえ彼にとっては至難の業だった。鶴敏は長男の黎人(れいと)に見守られて、一刻と迫る死を前にあらゆる遺言を遺そうとしていた。
 人間が作った時間という概念は人に安らぎを与えもすれば、試練ともなる。しかし結局は捉え方次第であり、つまるところ時間とは人間と共存する生き物に過ぎない。
 時間が死ぬ時、人もまた死ぬのだ。鶴敏は全てを受け入れ、死への恐怖を克服していた。だが弧竜会の行く末だけが、唯一の心残りだったのだ。
「かつては、弧竜会も生きとし生ける全ての民を救うオアシスだった」
 ひび割れた声で、鶴敏は語る。
 語り部の声に、黎人は慎重に耳を傾けていた。通っている学校の制服が、まるで命を看取る行政人のような威厳を思わせた。
「それが、今や失楽園そのものとなり果てた。我が身一つで築きあげてきた盤石が、日に日に崩れ去ろうとしている」
 鶴敏はまだ五十代の半ばだった。彼が自分の寿命と時間を売って築きあげたものが弧竜会である。彼は堕人だった。弱者救済のない日本社会に失望し、優秀な人材は既に日本から離れている。日本は離れられないようにあらゆる工夫をしたが、それはかえって優秀になるはずだった人間を更に追い詰めて衰退させていくだけだったのだ。
「よく聞け、俺が死ねば跡取りはお前になる」
「無茶だ。父さん。僕に父さんの真似事なんてできない」
 必ず訪れるべき重荷は、黎人の年齢にとってはあまりにも早すぎた。母親は生きているが、巻き込まないためにと鶴敏が離れて暮らしている。会えるのも三ヶ月に一度だけ。母もまだ若く四十代だが、組織を背負うには経験も度胸もなかった。
 度胸がないのは黎人も同じだった。しかし、家督も組織の長も継承できるのは黎人以外に存在しない。
「安心しろ。筒治(つつじ)がいる。綾芽(あやめ)もいる。何より、俺が肉体から離れようともお前を見守っている」
 鶴敏は最後に語る時、芯のある確かな声で黎人を鼓舞(こぶ)した。
 長話をして疲れたのだろう、彼は目を閉じて眠りに落ちようとした。
 寝室の椅子に座った黎人は、首飾りとして下げていたロケットの蓋を開けた。そこには妹の柚葉(ゆずは)の笑顔が映っている。今にも動き出しそうなほど鮮明で、写真の中で暮らしているようにさえ思えた。そして、もし写真の中で暮らしているのならばどれだけ良いかとも黎人は思うのだった。
 鶴敏が亡くなれば、彼は縁を切るつもりだった。今では、その意志も揺らいでいる。

 任務を言い渡されて次の日、汐里は朝日を浴びながらミルクティーを飲んでいた。二段ベッドの上でまだ寝ている月乃が起きるのは一時間後の七時くらいだろう。八時に家を出ると伝えているというのに、月乃はしばらく飲めないからと昨夜に酒を際限なく飲み干していた。ジョニーウォーカーの青ラベルは祝い事のためにとっておくと彼女は語りながら、一晩で空き瓶に。
 映画を観て泣いたり、菓子を食い散らかしたりした後は汐里よりも先に寝ていたものだった。いつものことだが、汐里は机の上に垂れていた彼女の涎も拭くくらい隅々まで綺麗にしてから眠りに落ちたのだ。
 時折、ベッドのはしごを登って妹の顔を見る。いつもは毒舌な彼女も、寝ている時は可愛らしい表情に変わる。その様子を見るのが汐里にとっての和みだった。
 朝食を作り終えた一時間後に月乃は目覚め、顔を洗って怠そうな表情で卵焼きを頬張っていた。
「調べるって言っても、どうすんだ。姉貴に何か心当たりでもあるのか」
 金嗣からの指令は弧竜会を調べろとだけ。昨夜話された以上の情報はなく、ヒントもない。絵の描かれていないパズルを組み立てるような思考の迷路に早速と月乃は沈んでいた。
「草薙家を先に調査しようかと考えています。私もサイトを詳しく見たところ、今統治している鶴敏こそ創始者。まずは彼に会ってみるのが一番でしょう」
「不用心が過ぎるんじゃないか。弧竜会のトップに突然会えるわけないだろう」
 そういいつつ月乃は、汐里に算段があるのを知っていた。汐里はいつも二手先を歩いているからだ。
「サイトの写真に、次期会長に関する記事が載っていました。自分の息子にすると」
「ああ、だから草薙家って言い方をしたのか。じゃあそのぼっちゃまに会いに行った方がいいんじゃないか」
 当然、というように汐里はうなずいた。
「名前は黎人。まだ高校二年生です」
 吃驚(びっくり)、というように月乃は目を丸くした。
「冗談きついな。高二のお子様が反社の長だって。そもそも、どうして次期会長の話が出てるんだよ。早急過ぎないか」
「親が子供に家督(かとく)を譲るのは当然ですが、反面快く思わない人もいるのでしょう。世襲(せしゅう)は日本の悪しき文化だという気持ちは、私も分からなくはありません」
「つまり、どういうことだ」
 朝は頭が働かないものだが、今の話は朝でなくとも分からないと月乃は自信があった。
「早い段階で次期会長を決めるのは現会長が瀕死(ひんし)の状態もしくは、早い段階から宣言しておくことによって黎人の地位を固めておくというものでしょう」
「待てよ。仮に前者だった場合、急がないとまずいんじゃないのか。くたばったら話が聞けない」
「だから、今日は八時に出発なのです。あと三十分ですよ、急いでオートミールを胃袋に入れてください」
 月乃が食事に時間をかけていたのは、苦手なオートミールがあったからだった。どんな障害も肉を食えば解決すると豪語する彼女にとって、肉のない食事ほど退屈なものはない。三大欲求の一つが満たされないのだから、最初こそ不満を口にしていた。
 とはいえ、口ではいつも汐里に負ける。それに作ってもらってる側だという認識を数年前から持ち始め、食事に文句は言わないようにと決めたのだ。
 時折、その自分への約束を破りたくなる日もあるが。
 昨日宿泊者はいなかったから、旅館はまだ開いていない。二人は金嗣に挨拶だけして、汐里が自慢しているフォード・マスタングに乗り込むとシートベルトをかけた。
 車がエンジンを吹かす音が聞こえ、性急に目的地へと走り出す。既に八時は十五分も過ぎていた。
 目的地は黎人のいる高校だ。練馬区にある公立北宮坂高校で、偏差値は平均値ほどだった。
「なんでヤクザの子供が普通の高校に通ってるんだ」
「木を隠すなら森の中。普通の人生を送っていれば国も警察も文句を言いには来ませんからね」
 エリート街道を進ませて釘を目立たせるよりは、見つかりにくい。区役所にいけば簡単に住所は割り出せるだろう。黎人の通ってる高校を割り出したというのはつまり、警察か汐里が既に調査を始めているという話に他ならない。
 だが、何よりも気になるのは後ろからついてきている黒のセダンだった。明らかに追跡しているのが見え見えだ。
 追跡中の車に乗っているのは連だ。保護監視役として彼が抜擢(ばってき)され、車を走らせる前から挨拶もなしに監視しているのが月乃には気分の悪さを覚えさせた。
「連のやつ、私らに惚れてんのか」
「おや、一体どうして」
「男が女に挨拶をしないってのは苦手か、好きすぎるかのどっちかだからだよ」
 運転しながら、汐里はクスリと上品に笑った。
「無用な接触は控えるように金嗣から言われているのです。私たちの邪魔になるんだとか」
「はあ。親父も無駄な話を。気前よく話しかけてくれたほうがむしろ気にならない」
 連と金嗣は旧友だった。犬猿の仲と呼べる時期を超え、今では二人で晩酌をするくらいにフレンドシップ。互いが犬と猿だった時代の確執(かくしつ)はあるそうだが、詳しくは二人とも聞かされていない。都合よく二人とも過去を詮索(せんさく)する気はない。
「美女二人の尻を追っかけまわして金もらえてんだから役得だろうね」
「それには私も同意します」
 旅館から高校までは一時間半ほどだった。道は空いていたが、オートミールでは足りないと駄々をこねた月乃がホットドッグを買ったり、ばったり遭遇した堕人を捕獲し交番に差し出したりしているうちに時間がかかったのだ。
 しかし幸いにも、二人が着いた時に学校は休憩時間だった。次の授業までの合間を()う時間だ。汐里は職員室に顔を出して名刺を差し出した。連の姿を探したが、彼は車の中で待機しているようだった。
 職員室でのやり取りはスムーズに済み、黎人がいる教室が分かれば、颯爽(さっそう)と二年三組まで歩みを進めた。
 次の授業は教室なのだろう、ほとんどの生徒が椅子に座って歓談(かんだん)に営んでいた。この中から黎人を探し出すのは時間がかかるだろう。中央に座っている机に突っ伏した少年、窓際ではしゃぐ女子グループ。教壇の近くで漫画を持った二人組の少年。他にも数が多い。
 だが二人が教室に入ると、何人かの生徒は話を止め二人に目を向けた。当然だろう。教室に大人が二人入ってくるだけでもいつもと違うというのに、汐里は巫女服を着ているのだから。
「今から名前を呼ばれた人は私のところへ来なさい。草薙黎人」
 生徒の中から、お前だ――お前だと声がかかる。黎人はすぐに見つけられた。
 後ろから二列目の廊下側に座り、本を読んでいた黎人は顔を上げた。彼は飾りつけのないショートヘアで、白いワイシャツの第一ボタンを外して意外そうな表情をしていた。
 すぐ隣にいた友人らしい少年は鼻の下を伸ばしながら、行ってこいよと助言する。明らかに面倒そうな表情とため息の後に立ち上がった黎人は、教室の外へ出た。姉妹二人も揃って扉をくぐり、彼を使われていない校舎裏まで誘導した。
「どうしてあたしらが来たか分かってるな」
 思い当たる節はあると、彼の表情が物語っている。
「あなた方は誰なのか、先に聞いておこう」
「私たちは武身の者。君を傷付けにきたのではなく、守りにきた。君は、弧竜会の時期会長という情報に間違いは」
 彼は首を横に振った。
「君の意志を聞きたい。君は、弧竜会についてどう思っている。会長になる気はあるのか」
 壁にもたれかかった黎人は考え込むように地面を見た。目の先には石があり、ダンゴムシが花壇に向かって歩いていた。その沈黙は、始業チャイムが鳴り終わるまで続いた。
「それを僕に聞くなんて、二人は今の弧竜会について何も知らないんだな」
「だからお前に聞きに来たんだ、あたし達は。生意気言ってないで質問に答えたらどうだ」
 太陽に照らされると、彼の眼にはクマができているのがよく分かる。生気も弱っていて、枯れかけの草のようだった。
「あんまり僕と接しないほうがいい。お姉さんたちが危ない」
「失礼、黎人。私の質問に答えてくれないと危ないのはむしろ、君の方なんだよ」
「悪いんだが、答えたくない」
 きっぱりと、確かな声で彼は拒絶した。調査どころではない、彼は心を完全に閉ざしているように見える。手を差し伸ばそうとしても掴まない。もしくは、腕を切られて掴めないのだろうか。
 同じような応酬がもう一度だけ続き、しびれを切らした月乃が彼の腕を掴もうと手を伸ばした。
 黎人は怯えたような表情をした。汐里は最初、月乃に対して怯えているのかと直感的に理解したが、すぐ次の瞬間では違う可能性を感じた。彼は月乃に怯えているのではない、これから起こる現象に対して怯えている可能性。
 武身としての勘は、外れなかった。
 鎖に繋がれた(いかり)が突然背後から伸びたかと思えば秒速で引かれ、鋭利な二か所が月乃の肺目掛けて差し込まれた。


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 別の場所で、老衰した男が床に伏せていた。心臓にチューブが通っていて、食事すらままならない痩せ細った肉体。声を出すのさえ彼にとっては至難の業だった。鶴敏は長男の黎人《れいと》に見守られて、一刻と迫る死を前にあらゆる遺言を遺そうとしていた。
 人間が作った時間という概念は人に安らぎを与えもすれば、試練ともなる。しかし結局は捉え方次第であり、つまるところ時間とは人間と共存する生き物に過ぎない。
 時間が死ぬ時、人もまた死ぬのだ。鶴敏は全てを受け入れ、死への恐怖を克服していた。だが弧竜会の行く末だけが、唯一の心残りだったのだ。
「かつては、弧竜会も生きとし生ける全ての民を救うオアシスだった」
 ひび割れた声で、鶴敏は語る。
 語り部の声に、黎人は慎重に耳を傾けていた。通っている学校の制服が、まるで命を看取る行政人のような威厳を思わせた。
「それが、今や失楽園そのものとなり果てた。我が身一つで築きあげてきた盤石が、日に日に崩れ去ろうとしている」
 鶴敏はまだ五十代の半ばだった。彼が自分の寿命と時間を売って築きあげたものが弧竜会である。彼は堕人だった。弱者救済のない日本社会に失望し、優秀な人材は既に日本から離れている。日本は離れられないようにあらゆる工夫をしたが、それはかえって優秀になるはずだった人間を更に追い詰めて衰退させていくだけだったのだ。
「よく聞け、俺が死ねば跡取りはお前になる」
「無茶だ。父さん。僕に父さんの真似事なんてできない」
 必ず訪れるべき重荷は、黎人の年齢にとってはあまりにも早すぎた。母親は生きているが、巻き込まないためにと鶴敏が離れて暮らしている。会えるのも三ヶ月に一度だけ。母もまだ若く四十代だが、組織を背負うには経験も度胸もなかった。
 度胸がないのは黎人も同じだった。しかし、家督も組織の長も継承できるのは黎人以外に存在しない。
「安心しろ。筒治《つつじ》がいる。綾芽《あやめ》もいる。何より、俺が肉体から離れようともお前を見守っている」
 鶴敏は最後に語る時、芯のある確かな声で黎人を鼓舞《こぶ》した。
 長話をして疲れたのだろう、彼は目を閉じて眠りに落ちようとした。
 寝室の椅子に座った黎人は、首飾りとして下げていたロケットの蓋を開けた。そこには妹の柚葉《ゆずは》の笑顔が映っている。今にも動き出しそうなほど鮮明で、写真の中で暮らしているようにさえ思えた。そして、もし写真の中で暮らしているのならばどれだけ良いかとも黎人は思うのだった。
 鶴敏が亡くなれば、彼は縁を切るつもりだった。今では、その意志も揺らいでいる。
 任務を言い渡されて次の日、汐里は朝日を浴びながらミルクティーを飲んでいた。二段ベッドの上でまだ寝ている月乃が起きるのは一時間後の七時くらいだろう。八時に家を出ると伝えているというのに、月乃はしばらく飲めないからと昨夜に酒を際限なく飲み干していた。ジョニーウォーカーの青ラベルは祝い事のためにとっておくと彼女は語りながら、一晩で空き瓶に。
 映画を観て泣いたり、菓子を食い散らかしたりした後は汐里よりも先に寝ていたものだった。いつものことだが、汐里は机の上に垂れていた彼女の涎も拭くくらい隅々まで綺麗にしてから眠りに落ちたのだ。
 時折、ベッドのはしごを登って妹の顔を見る。いつもは毒舌な彼女も、寝ている時は可愛らしい表情に変わる。その様子を見るのが汐里にとっての和みだった。
 朝食を作り終えた一時間後に月乃は目覚め、顔を洗って怠そうな表情で卵焼きを頬張っていた。
「調べるって言っても、どうすんだ。姉貴に何か心当たりでもあるのか」
 金嗣からの指令は弧竜会を調べろとだけ。昨夜話された以上の情報はなく、ヒントもない。絵の描かれていないパズルを組み立てるような思考の迷路に早速と月乃は沈んでいた。
「草薙家を先に調査しようかと考えています。私もサイトを詳しく見たところ、今統治している鶴敏こそ創始者。まずは彼に会ってみるのが一番でしょう」
「不用心が過ぎるんじゃないか。弧竜会のトップに突然会えるわけないだろう」
 そういいつつ月乃は、汐里に算段があるのを知っていた。汐里はいつも二手先を歩いているからだ。
「サイトの写真に、次期会長に関する記事が載っていました。自分の息子にすると」
「ああ、だから草薙家って言い方をしたのか。じゃあそのぼっちゃまに会いに行った方がいいんじゃないか」
 当然、というように汐里はうなずいた。
「名前は黎人。まだ高校二年生です」
 吃驚《びっくり》、というように月乃は目を丸くした。
「冗談きついな。高二のお子様が反社の長だって。そもそも、どうして次期会長の話が出てるんだよ。早急過ぎないか」
「親が子供に家督《かとく》を譲るのは当然ですが、反面快く思わない人もいるのでしょう。世襲《せしゅう》は日本の悪しき文化だという気持ちは、私も分からなくはありません」
「つまり、どういうことだ」
 朝は頭が働かないものだが、今の話は朝でなくとも分からないと月乃は自信があった。
「早い段階で次期会長を決めるのは現会長が瀕死《ひんし》の状態もしくは、早い段階から宣言しておくことによって黎人の地位を固めておくというものでしょう」
「待てよ。仮に前者だった場合、急がないとまずいんじゃないのか。くたばったら話が聞けない」
「だから、今日は八時に出発なのです。あと三十分ですよ、急いでオートミールを胃袋に入れてください」
 月乃が食事に時間をかけていたのは、苦手なオートミールがあったからだった。どんな障害も肉を食えば解決すると豪語する彼女にとって、肉のない食事ほど退屈なものはない。三大欲求の一つが満たされないのだから、最初こそ不満を口にしていた。
 とはいえ、口ではいつも汐里に負ける。それに作ってもらってる側だという認識を数年前から持ち始め、食事に文句は言わないようにと決めたのだ。
 時折、その自分への約束を破りたくなる日もあるが。
 昨日宿泊者はいなかったから、旅館はまだ開いていない。二人は金嗣に挨拶だけして、汐里が自慢しているフォード・マスタングに乗り込むとシートベルトをかけた。
 車がエンジンを吹かす音が聞こえ、性急に目的地へと走り出す。既に八時は十五分も過ぎていた。
 目的地は黎人のいる高校だ。練馬区にある公立北宮坂高校で、偏差値は平均値ほどだった。
「なんでヤクザの子供が普通の高校に通ってるんだ」
「木を隠すなら森の中。普通の人生を送っていれば国も警察も文句を言いには来ませんからね」
 エリート街道を進ませて釘を目立たせるよりは、見つかりにくい。区役所にいけば簡単に住所は割り出せるだろう。黎人の通ってる高校を割り出したというのはつまり、警察か汐里が既に調査を始めているという話に他ならない。
 だが、何よりも気になるのは後ろからついてきている黒のセダンだった。明らかに追跡しているのが見え見えだ。
 追跡中の車に乗っているのは連だ。保護監視役として彼が抜擢《ばってき》され、車を走らせる前から挨拶もなしに監視しているのが月乃には気分の悪さを覚えさせた。
「連のやつ、私らに惚れてんのか」
「おや、一体どうして」
「男が女に挨拶をしないってのは苦手か、好きすぎるかのどっちかだからだよ」
 運転しながら、汐里はクスリと上品に笑った。
「無用な接触は控えるように金嗣から言われているのです。私たちの邪魔になるんだとか」
「はあ。親父も無駄な話を。気前よく話しかけてくれたほうがむしろ気にならない」
 連と金嗣は旧友だった。犬猿の仲と呼べる時期を超え、今では二人で晩酌をするくらいにフレンドシップ。互いが犬と猿だった時代の確執《かくしつ》はあるそうだが、詳しくは二人とも聞かされていない。都合よく二人とも過去を詮索《せんさく》する気はない。
「美女二人の尻を追っかけまわして金もらえてんだから役得だろうね」
「それには私も同意します」
 旅館から高校までは一時間半ほどだった。道は空いていたが、オートミールでは足りないと駄々をこねた月乃がホットドッグを買ったり、ばったり遭遇した堕人を捕獲し交番に差し出したりしているうちに時間がかかったのだ。
 しかし幸いにも、二人が着いた時に学校は休憩時間だった。次の授業までの合間を縫《ぬ》う時間だ。汐里は職員室に顔を出して名刺を差し出した。連の姿を探したが、彼は車の中で待機しているようだった。
 職員室でのやり取りはスムーズに済み、黎人がいる教室が分かれば、颯爽《さっそう》と二年三組まで歩みを進めた。
 次の授業は教室なのだろう、ほとんどの生徒が椅子に座って歓談《かんだん》に営んでいた。この中から黎人を探し出すのは時間がかかるだろう。中央に座っている机に突っ伏した少年、窓際ではしゃぐ女子グループ。教壇の近くで漫画を持った二人組の少年。他にも数が多い。
 だが二人が教室に入ると、何人かの生徒は話を止め二人に目を向けた。当然だろう。教室に大人が二人入ってくるだけでもいつもと違うというのに、汐里は巫女服を着ているのだから。
「今から名前を呼ばれた人は私のところへ来なさい。草薙黎人」
 生徒の中から、お前だ――お前だと声がかかる。黎人はすぐに見つけられた。
 後ろから二列目の廊下側に座り、本を読んでいた黎人は顔を上げた。彼は飾りつけのないショートヘアで、白いワイシャツの第一ボタンを外して意外そうな表情をしていた。
 すぐ隣にいた友人らしい少年は鼻の下を伸ばしながら、行ってこいよと助言する。明らかに面倒そうな表情とため息の後に立ち上がった黎人は、教室の外へ出た。姉妹二人も揃って扉をくぐり、彼を使われていない校舎裏まで誘導した。
「どうしてあたしらが来たか分かってるな」
 思い当たる節はあると、彼の表情が物語っている。
「あなた方は誰なのか、先に聞いておこう」
「私たちは武身の者。君を傷付けにきたのではなく、守りにきた。君は、弧竜会の時期会長という情報に間違いは」
 彼は首を横に振った。
「君の意志を聞きたい。君は、弧竜会についてどう思っている。会長になる気はあるのか」
 壁にもたれかかった黎人は考え込むように地面を見た。目の先には石があり、ダンゴムシが花壇に向かって歩いていた。その沈黙は、始業チャイムが鳴り終わるまで続いた。
「それを僕に聞くなんて、二人は今の弧竜会について何も知らないんだな」
「だからお前に聞きに来たんだ、あたし達は。生意気言ってないで質問に答えたらどうだ」
 太陽に照らされると、彼の眼にはクマができているのがよく分かる。生気も弱っていて、枯れかけの草のようだった。
「あんまり僕と接しないほうがいい。お姉さんたちが危ない」
「失礼、黎人。私の質問に答えてくれないと危ないのはむしろ、君の方なんだよ」
「悪いんだが、答えたくない」
 きっぱりと、確かな声で彼は拒絶した。調査どころではない、彼は心を完全に閉ざしているように見える。手を差し伸ばそうとしても掴まない。もしくは、腕を切られて掴めないのだろうか。
 同じような応酬がもう一度だけ続き、しびれを切らした月乃が彼の腕を掴もうと手を伸ばした。
 黎人は怯えたような表情をした。汐里は最初、月乃に対して怯えているのかと直感的に理解したが、すぐ次の瞬間では違う可能性を感じた。彼は月乃に怯えているのではない、これから起こる現象に対して怯えている可能性。
 武身としての勘は、外れなかった。
 鎖に繋がれた錨《いかり》が突然背後から伸びたかと思えば秒速で引かれ、鋭利な二か所が月乃の肺目掛けて差し込まれた。