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1-5

ー/ー



 起きてみて分かったのは、怠いと感じる身体の重さ。手足や(まぶた)にまで(おもり)がついているようだった。顔を横に向けて腕時計を見ると時間は朝の八時ニ一分、サリアンの姿は無かった。軍医にしては遅すぎる起床だ。
 起き上がると寝間着(ねまき)からミラージの軍医正装に着替えようとしたが、サリアンが特別に服を用意してくれていた。登山用の動きやすい服装だった。
 上は全身を(おお)い隠してくれる長袖の白シャツは虫から皮膚を守ってくれるうえに、黒のショートスカートと赤いタイツまで用意してくれていた。触ってみればどれも吸水性と保湿性が高いのが分かる。
 好意を無駄にするのはご法度だ。アロナはすぐに着替え、食堂まで向かった。
 広々とした食堂にサリアンとシェフの二人だけ。一晩にして兵士が消えてしまったかのようだった。扉が開くと二人は一斉(いっせい)に登山服スタイルの彼女を見て、シェフはお辞儀をしてサリアンは片手を上げた。
 足早に近付いたアロナは、サリアンの真横の席に腰掛けた。
「おはよう。日記はしっかりつけているか」
「つけていますが、日記にそこまでこだわりがあるのはよく分からないです」
 客観的に見て自分がつけている日記は駄文だと考えていた。あまり感情の起伏(きふく)がなく報告書に近い文章の羅列(られつ)であり、もしサリアンが読んでもつまらないと断ずるものだと日記そのものを肯定できなかった。
 三日で書かなくなってしまうだろう。だから訊ねたのだ。日記とはなんなのか。
「人類は様々な開発をしてきた。銃やナイフ、毒。アロナ、それらよりも恐ろしいものは何か分かるか」
 少し考えてからアロナは答えた。
「悪魔ですか」
 話を聞いていたシェフはキッチンの方へ戻っていった。ブーツが地面と擦れる音が反響する。軽やかなリズムは、サリアンの言葉をより色濃くしていた。
「言葉だよ」
 人類が最初に生み出したのは火だとされている。当然にも科学知識はないから、偶然か頭の良い原始人が発明したのだ。文献(ぶんけん)は残されていないから火以外にも様々な道具を発明してきたに違いない。
 言葉がない世界はどのような日常か。不便で仕方がないように思えた。
「全ての元素とも言えるのが文字だ。我々が日々使っている機械や、その昔の料理。伝文に手紙。これらは文字がなければ絶対に生まれなかった」
 キッチンからは煮込み料理の音が聞こえてくる。寸胴(ずんどう)が使われているところが脳裏(のうり)に浮かぶ。シェフは体格が良かったから、苦労せずに作れてしまうだろう。
「日記は、全ての元素だけで作られたものだ。地味なように見えて、銃よりも強い力を持つ。影響力は計り知れない」
「偉人やもっとすごい人の日記なら色んな人に読まれるんじゃないかと思いますけど、私はただの……」
 サリアンは笑みを見せたが、どこか弱々しかった。
 奥からシェフが持ってきたのは円筒状の皿だ。鉄で出来ている。その中に赤子の腕と同じくらいの大きさである木製のスプーンが入っていた。見ればビーフシチューではないか。四角い牛肉が入っている他、熟成(じゅくせい)された深み豊かな匂い。タマネギ、ブロッコリー、カボチャ。他にもパプリカや大豆に加えてコーヒーまで持ってきていた。
 たまげるアロナを見て、シェフは豪快(ごうかい)に言った。
「俺が毎日飲んでるプロテインよりも体力がつくぜ。昼食分のも作ってあるから、遠慮なく食え」
「嬉しいです、ありがとうございます!」
 料理が来る前までは特段空腹ではなかったが、香りが身体の中に入ってきてから事情が変わった。スプーンを手にしては次々とスープと肉を頬張っていく。その味は香りと同じだ。濃厚だと思っていたスープは口に入ってすぐにとろけた薄味になる。
 魔法のようだ。だが、スープと一緒に口に運ばれた牛肉は見た目以上に歯まで染み込むような味付けで、味の順番としてはこうだ。最初にスープの濃い味付けが来た後、薄くなっていくにつれ肉のピリっとした辛さが広がる。
 肉は硬くないが歯応えはある。噛んでいくうちに出て来るのが肉汁だ。ここに動物の臭みはなく、完璧な料理だった。
 夢中になって食べるアロナを見て、サリアンは笑みをずっと浮かべていた。裏表のない、素直な笑みだった。
 ご馳走を全て平らげ、保存容器に残った全てのビーフシチューが詰め込まれるのを見たアロナはリュックを背負って出入口までサリアンに案内された。外はまだ朝だからか比較的涼しく、腕時計の表示を変えて天気予報を見てみれば(きり)が出る以外に変化はなさそうだった。
 美味しいコーヒーとスタミナ料理のせいか身体は飛べそうなほど軽い。
 入ってきた南西の入り口とは違う北東の玄関を抜ける。その先に地雷は無いのだとサリアンは言った。アロナは一万リカと食料、水分の忘れ物がないのを確認した。
 長いようで短いサリアンとの別れだった。
「またいつか会えますよね」
 戦争のためにできた山の坂道を見下ろしながらアロナは言った。背後には静かな基地が立っている。
「必ずな」
 一歩。そして一歩。また一歩。二歩。重かった足取りが段々と確かなものになっていく。途中で立ち止まり振り返る。サリアンは旅立ちを見守っていた。片手にはサイレンサー付きの銃を持っている。邪魔するものが出てこようものなら容赦(ようしゃ)なく撃つと、軍人らしい。
 坂道を下りながら、ミラージの軍人達を想起(そうき)していた。スナルデン軍もミラージ軍も戦争開始当初は士気が高かった。特にミラージの国民はスナルデン建国に(ともな)う国の併合(へいごう)以降、ヒシヒシと国民感情という名の火薬が年々溜まっていたのだ。
 戦死したアロナの父は聴力が悪いという理由で軍に入れなかったものの、三度目の試験で身分を偽ってまで所属したのだ。
 背後から森鳥達が飛ぶ声が聞こえた。ミラージ軍が迫ってきているのかもしれない。
 坂道を下れば蛇腹(じゃばら)のような下り道が続く。地面は土でいくつもの足跡(あしあと)が残っていた。慎重(しんちょう)に歩いていく。
 途中で滑りそうになったが、履いてきた靴の品質が良かったおかげで尻もちはつかずに済んだ。後は山を下り、最初に訪れる街であるマリンダにいくだけだ。
 それが不可能に近付いた。アロナは足を止め、口を塞いだ。手が震え、次に足が動かなくなる。深呼吸をしようとするも、過呼吸なせいで上手くできない。
 クマが正面に立っていて、目が合っていた。体長は二メートル半はあり巨体。クマに会った時の対処法は何度も教わっていた。視線をそらさないように少しずつ下がるだけだ。しかし、足が動かないのにどうやって逃げろというのか。
 先に動いたのはクマの方だった。歩いて来ている。近寄ってくる。腹を空かせてるのだろうか、思えば近くから水音は何も聞こえない。洞窟もない。腹を空かせていないにしても、クマは快楽目的の殺人をする場合もある。
 一歩だけ下がる。上手く動けず転びそうになったから、結局は下がれない。その間にも距離は近付いてくる。
 恐怖の涙がアロナの頬を伝った。
 その瞬間、クマは勢いをつけて駆け出してきた。横は急な斜面、飛び込んだらよくて骨折、悪くて死だ。自分には不可能なミッションだったのか。彼女は最期、無念でいっぱいだった。
 クマの手が振るわれようとした瞬間、その背後から破裂音が聞こえた。驚いて後ろに転んだアロナは、すぐに散弾銃の音だと気付いた。怯んだクマは振り向くも、もう一度アロナを襲おうとする。もう一発の銃声。
 今度こそクマは振り向いてそこに立っていたミラージ軍の服を着た男性に飛び掛かった。華麗(かれい)なスライディングでクマの股下を通った男をアロナは覚えていた。ロスタニクと一緒に手紙について論議していた時、近くにいた寡黙(かもく)な兵士だ。
 彼は散弾銃を背中にかけると、もう一つの対戦車ライフルを取り出して両手でしっかり持つと、クマの頭部めがけて時間をかけずに発砲した。クマの頭部は弾け飛び、その場に倒れ込んだ。
 一連の流れを信じられないような気持ちで見ていたアロナは、男が近付いて来るのを見て基地まで走り出す。ミラージ軍から見れば脱獄者のようなものだ。だが背中に鋭い痛みが走ったかと思えば、突然目の前の景色がボヤけはじめて、誰かが魂を奪うかのように意識を失うのだった。


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 起きてみて分かったのは、怠いと感じる身体の重さ。手足や瞼《まぶた》にまで錘《おもり》がついているようだった。顔を横に向けて腕時計を見ると時間は朝の八時ニ一分、サリアンの姿は無かった。軍医にしては遅すぎる起床だ。
 起き上がると寝間着《ねまき》からミラージの軍医正装に着替えようとしたが、サリアンが特別に服を用意してくれていた。登山用の動きやすい服装だった。
 上は全身を覆《おお》い隠してくれる長袖の白シャツは虫から皮膚を守ってくれるうえに、黒のショートスカートと赤いタイツまで用意してくれていた。触ってみればどれも吸水性と保湿性が高いのが分かる。
 好意を無駄にするのはご法度だ。アロナはすぐに着替え、食堂まで向かった。
 広々とした食堂にサリアンとシェフの二人だけ。一晩にして兵士が消えてしまったかのようだった。扉が開くと二人は一斉《いっせい》に登山服スタイルの彼女を見て、シェフはお辞儀をしてサリアンは片手を上げた。
 足早に近付いたアロナは、サリアンの真横の席に腰掛けた。
「おはよう。日記はしっかりつけているか」
「つけていますが、日記にそこまでこだわりがあるのはよく分からないです」
 客観的に見て自分がつけている日記は駄文だと考えていた。あまり感情の起伏《きふく》がなく報告書に近い文章の羅列《られつ》であり、もしサリアンが読んでもつまらないと断ずるものだと日記そのものを肯定できなかった。
 三日で書かなくなってしまうだろう。だから訊ねたのだ。日記とはなんなのか。
「人類は様々な開発をしてきた。銃やナイフ、毒。アロナ、それらよりも恐ろしいものは何か分かるか」
 少し考えてからアロナは答えた。
「悪魔ですか」
 話を聞いていたシェフはキッチンの方へ戻っていった。ブーツが地面と擦れる音が反響する。軽やかなリズムは、サリアンの言葉をより色濃くしていた。
「言葉だよ」
 人類が最初に生み出したのは火だとされている。当然にも科学知識はないから、偶然か頭の良い原始人が発明したのだ。文献《ぶんけん》は残されていないから火以外にも様々な道具を発明してきたに違いない。
 言葉がない世界はどのような日常か。不便で仕方がないように思えた。
「全ての元素とも言えるのが文字だ。我々が日々使っている機械や、その昔の料理。伝文に手紙。これらは文字がなければ絶対に生まれなかった」
 キッチンからは煮込み料理の音が聞こえてくる。寸胴《ずんどう》が使われているところが脳裏《のうり》に浮かぶ。シェフは体格が良かったから、苦労せずに作れてしまうだろう。
「日記は、全ての元素だけで作られたものだ。地味なように見えて、銃よりも強い力を持つ。影響力は計り知れない」
「偉人やもっとすごい人の日記なら色んな人に読まれるんじゃないかと思いますけど、私はただの……」
 サリアンは笑みを見せたが、どこか弱々しかった。
 奥からシェフが持ってきたのは円筒状の皿だ。鉄で出来ている。その中に赤子の腕と同じくらいの大きさである木製のスプーンが入っていた。見ればビーフシチューではないか。四角い牛肉が入っている他、熟成《じゅくせい》された深み豊かな匂い。タマネギ、ブロッコリー、カボチャ。他にもパプリカや大豆に加えてコーヒーまで持ってきていた。
 たまげるアロナを見て、シェフは豪快《ごうかい》に言った。
「俺が毎日飲んでるプロテインよりも体力がつくぜ。昼食分のも作ってあるから、遠慮なく食え」
「嬉しいです、ありがとうございます!」
 料理が来る前までは特段空腹ではなかったが、香りが身体の中に入ってきてから事情が変わった。スプーンを手にしては次々とスープと肉を頬張っていく。その味は香りと同じだ。濃厚だと思っていたスープは口に入ってすぐにとろけた薄味になる。
 魔法のようだ。だが、スープと一緒に口に運ばれた牛肉は見た目以上に歯まで染み込むような味付けで、味の順番としてはこうだ。最初にスープの濃い味付けが来た後、薄くなっていくにつれ肉のピリっとした辛さが広がる。
 肉は硬くないが歯応えはある。噛んでいくうちに出て来るのが肉汁だ。ここに動物の臭みはなく、完璧な料理だった。
 夢中になって食べるアロナを見て、サリアンは笑みをずっと浮かべていた。裏表のない、素直な笑みだった。
 ご馳走を全て平らげ、保存容器に残った全てのビーフシチューが詰め込まれるのを見たアロナはリュックを背負って出入口までサリアンに案内された。外はまだ朝だからか比較的涼しく、腕時計の表示を変えて天気予報を見てみれば霧《きり》が出る以外に変化はなさそうだった。
 美味しいコーヒーとスタミナ料理のせいか身体は飛べそうなほど軽い。
 入ってきた南西の入り口とは違う北東の玄関を抜ける。その先に地雷は無いのだとサリアンは言った。アロナは一万リカと食料、水分の忘れ物がないのを確認した。
 長いようで短いサリアンとの別れだった。
「またいつか会えますよね」
 戦争のためにできた山の坂道を見下ろしながらアロナは言った。背後には静かな基地が立っている。
「必ずな」
 一歩。そして一歩。また一歩。二歩。重かった足取りが段々と確かなものになっていく。途中で立ち止まり振り返る。サリアンは旅立ちを見守っていた。片手にはサイレンサー付きの銃を持っている。邪魔するものが出てこようものなら容赦《ようしゃ》なく撃つと、軍人らしい。
 坂道を下りながら、ミラージの軍人達を想起《そうき》していた。スナルデン軍もミラージ軍も戦争開始当初は士気が高かった。特にミラージの国民はスナルデン建国に伴《ともな》う国の併合《へいごう》以降、ヒシヒシと国民感情という名の火薬が年々溜まっていたのだ。
 戦死したアロナの父は聴力が悪いという理由で軍に入れなかったものの、三度目の試験で身分を偽ってまで所属したのだ。
 背後から森鳥達が飛ぶ声が聞こえた。ミラージ軍が迫ってきているのかもしれない。
 坂道を下れば蛇腹《じゃばら》のような下り道が続く。地面は土でいくつもの足跡《あしあと》が残っていた。慎重《しんちょう》に歩いていく。
 途中で滑りそうになったが、履いてきた靴の品質が良かったおかげで尻もちはつかずに済んだ。後は山を下り、最初に訪れる街であるマリンダにいくだけだ。
 それが不可能に近付いた。アロナは足を止め、口を塞いだ。手が震え、次に足が動かなくなる。深呼吸をしようとするも、過呼吸なせいで上手くできない。
 クマが正面に立っていて、目が合っていた。体長は二メートル半はあり巨体。クマに会った時の対処法は何度も教わっていた。視線をそらさないように少しずつ下がるだけだ。しかし、足が動かないのにどうやって逃げろというのか。
 先に動いたのはクマの方だった。歩いて来ている。近寄ってくる。腹を空かせてるのだろうか、思えば近くから水音は何も聞こえない。洞窟もない。腹を空かせていないにしても、クマは快楽目的の殺人をする場合もある。
 一歩だけ下がる。上手く動けず転びそうになったから、結局は下がれない。その間にも距離は近付いてくる。
 恐怖の涙がアロナの頬を伝った。
 その瞬間、クマは勢いをつけて駆け出してきた。横は急な斜面、飛び込んだらよくて骨折、悪くて死だ。自分には不可能なミッションだったのか。彼女は最期、無念でいっぱいだった。
 クマの手が振るわれようとした瞬間、その背後から破裂音が聞こえた。驚いて後ろに転んだアロナは、すぐに散弾銃の音だと気付いた。怯んだクマは振り向くも、もう一度アロナを襲おうとする。もう一発の銃声。
 今度こそクマは振り向いてそこに立っていたミラージ軍の服を着た男性に飛び掛かった。華麗《かれい》なスライディングでクマの股下を通った男をアロナは覚えていた。ロスタニクと一緒に手紙について論議していた時、近くにいた寡黙《かもく》な兵士だ。
 彼は散弾銃を背中にかけると、もう一つの対戦車ライフルを取り出して両手でしっかり持つと、クマの頭部めがけて時間をかけずに発砲した。クマの頭部は弾け飛び、その場に倒れ込んだ。
 一連の流れを信じられないような気持ちで見ていたアロナは、男が近付いて来るのを見て基地まで走り出す。ミラージ軍から見れば脱獄者のようなものだ。だが背中に鋭い痛みが走ったかと思えば、突然目の前の景色がボヤけはじめて、誰かが魂を奪うかのように意識を失うのだった。