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1-4

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 九時を境に人の数は減っていったが、激務が多忙に変わっただけで落ち着ける暇はない。視野を狭めていた彼女にとっては、たった一個のグラスが落ちる音は些末(さまつ)な出来事にしか思えなかったが、次に聞こえてきた怒号で酒場の雰囲気は静まり返った。
「ふざけるな。お前はいいよな、死ななくていいんだ」
 注文を待っていた男性の兵士、隣で手伝いをしていたサリアンも含めて全員が男の方に注目した。背はさほど大きくないアロナは何が起きているのか分からなかった。お祭り騒ぎが静まるくらいの叫びが聞こえてきたとしか分からない。
 誰しも音を立ててはならないという決まりでもできたかのようだった。
「落ち着きなさい。水を飲んで、さあ」
 もう一つ、グラスが(くだ)け散る音が聞こえた。
「神がなんだ。俺を救ってくれるのか。神は平等に全員救ってくれるのか。なんで分かる。神書に書いてあったからか。神郷(しんきょう)ってのは本当にあるのか。なあ、絶対にあるって言ってくれよ」
 詰められている男は黙っていた。段差を上って二人の様子を見てみる。
 熱気のせいだろう、片方の男は上着を脱いで黒のノースリーブは汗まみれだった。彼は中腰になって顔を赤くしながら、向かい側の男を睨みつけている。
 司祭(しさい)だった。この暑い中、深い青のコートを着ている。赤いネクタイは波のように広がっていて、彼は座りながら狼狽(うろた)えていた。年齢は還暦(かんれき)手前くらいの老司祭であり、髭(ひげ)はなく前髪(まえがみ)を大胆に分けているおかげで汗が(したた)っているのが遠目から見ても分かる。黒い髪まで濡れていた。
「神郷ってのは死んだらいけるんだよな。善行を積んでればいけるんだろ。でも俺、人殺しちゃったよ。一人だけじゃないぜ。何人もだよ」
「人を殺めたのはあなたではない。我々の人生は天により導かれている。全ては天命(てんめい)のあるがままだ」
 中腰になっていた兵士は机を力強く叩いた。他の兵士は止めようとする素振りを見せたが誰も止めない。
「俺が殺したんだ。銃で撃ったらそいつの腕が吹き飛んだ、トドメを刺そうとしたら別のところから銃弾が飛んできて俺は手榴弾(しゅりゅうだん)を投げた。何人も死んだ、俺の意志だ」
 その場にいるほとんどの兵士が忘れようとしていた考えを引き出しているからだ。恐怖の根源を司祭は(はら)ってくれるのではないか。全員が期待していた。
 マンド教の聖典である神書。万人が死後に神郷に()けると書いてありながら、罪の果実を食したものは深き(ばつ)によって大いなる無秩序(むちつじょ)が招かれんとも記されている。広義では罪の果実とはマンド教が制定した教律(きょうりつ)によるもの、スナルデン含めマンド教が人口の七割を超える国の法律(ほうりつ)を破れば罪の果実を食したとされる。
 当然、どの国でもマンド教律でも殺人は違法だった。
「教えてくれ。俺がしたのは殺人だ。殺人鬼が人を殺すのと何が違うんだ」
「あなたは大義のために戦った。神はよく分かっている」
 間に入ってアロナが(なだ)めようとも考えた。
 動揺は周囲の兵士にも感染(かんせん)していくのが空気を伝ってアロナの身体に届く。我慢の限界だと、見切り発車にアロナはカウンターから出ようとした。
 しかし、彼女の肩を叩いたサリアンは代わりに彼が席まで歩いていった。人溜まりをかき分けながら進んでいくと、すぐに人波に紛れてしまった。
「何度も聞いたよ、お前は何も分かっちゃいない。皆もそうだろ。名誉(めいよ)の死だと、冗談じゃない。俺は戦って死にたかった。人を殺したうえに自殺かよ。どんな罰が待ってんだ、俺たちには」
 司祭は決まった話以外はできない。持論を述べるのはご法度(はっと)なのだ。司祭の言葉は神の言葉とされている。神の言葉は神書に描かれている。納得するまで繰り返し言うしかない。司祭にとっても苦しいのは目に見えて分かる。
 サバイバーズギルト、これも一種の病気だ。戦争や事故において生き残ってしまった人が死者と向き合い、後悔と自責、罪悪に苦しむ病。マンド教では他者を思いやる教律が多いために、信奉(しんぽう)する人々や司祭にとって苦渋(くじゅう)を生むのは必然だ。
「そこまでにしておけ、ロッティ」
 目的地に着いたようだ。サリアンの声が聞こえた。
 ロッティと呼ばれた兵士はバツが悪そうにしたものの言い返すのだった。
「少佐、俺はただ」
 くぐもった音が聞こえた。最初は何か分からなかったが、すぐにアロナは思い出した。昨夜聞いたのと同じ音だ。
 サイレンサー付きの銃声。防弾チョッキを着ていなかったから、ロッティはすぐに倒れた。自身の死すら自覚できなかっただろう、銃声が聞こえてからすぐに倒れてうめき声も何も聞こえなかったからだ。
「ここにいる全員に私から命令する。今夜は部屋に戻らず、ここでカプセルを飲め。酒をたんまり飲んで、酔って吐きたくなったら裏口から外へ。立てなくなったら倒れろ」
 最後にサリアンは、こう言うのだ。そうしたら、後は永い眠りに落ちるだけだと。
 クロンドがロッティの遺体に近付くのが見えた。クロンドだけじゃなく、何人かの兵士と協力してロッティを裏口から外に連れ出していった。
 アロナの前にいた兵士が、葉がこぼすような声でこう言った。
「死んだほうがマシだろうに」
 彼の本音もまた、兵士達の(かく)にある物だった。
 誰も上官からの命令に(そむ)かない。絶対的な権力があるからだとも言えるだろう。名誉ある死だと言い訳したところで残るものは変わらない。
 酒場は再び人の声が飛び交い始め、元通りとはいかないまでも忙しくなり始めるのだった。
 途中、仕事を終えたクロンドが交代を申し出た。サリアンから部屋に戻してほしいと頼まれていたのだ。アロナは言われた通りカウンターから外に出てサリアンの部屋に戻るのだった。部屋にいたのは赤ワインをボトルごと飲んでいた部屋主の姿だ。
「今日はもう寝るといい。シェフが君のためにスタミナ料理を作ってくれるみたいだ。楽しみだな」
 鍵のネックレスを手で握り、ベッドに腰掛ける。仰向けになってみる。
 喉の奥を流れていく赤ワインの音が聞こえてくる。アロナは働いていくうちにすっかり酔いが()めていた。眠気はない。瞼(まぶた)は確かに重い。疲労だろうが、なぜか眠れる気がしなかった。
 眠ったフリをしたり瞑想(めいそう)したり、工夫を(ほどこ)してみても変わらない。窓から見える月は移動しているのだろうか。永遠の夜に閉じ込められてしまったかのような気分だった。
「死が怖くないかと言われれば嘘になる」
 何度も寝返りを打っていたアロナが(あきら)めて天井を見上げているとサリアンは唐突(とうとつ)に言った。
「だがそれ以上に、戦争が終わった後の世界を生きる方がよっぽど怖い」
 今からどんな助言を作ろうとしても全て失敗作になるだろう。年齢差も離れている。自分が思いつく気休めの言葉は、彼は既に何度も通っているだろうと思えてアロナは声にはならなかった。起き上がって抱きしめようとも思った。
 何もできなかった。自分の思いつきが全部浅はかに思えて仕方がなかった。
「今は無力を感じているかもしれない。当然だ。君は優しいから、私たちを助けられない自責の念のようなものがあってもおかしくない」
 アロナは口を開いた。風が吹けばかき消されてしまいそうな弱々しい声だった。
「ごめんなさい。私はどうすれば良かったのか、分からなくて」
「十分頑張った。私は君に出会えなかったらミラージを恨んだまま生涯(しょうがい)を終えていただろう。会えてよかった。君は未来だ、アロナ」
 もう一度鍵を握った。未来を担う鍵。扉がどこにあるかは分からない。
 開けるには、長くも辛い道のりを歩む必要がある。
「一万リカ用意しておいた。持っていくといい」
 恩返しができない。アロナは反射的に断ってしまったが、サリアンは短く返した。
「神郷には必要のないものだ」
 一万リカあれば三ヶ月は暮らせるはずだ。二千リカしか持って来られなかったアロナにとって恩恵(おんけい)は凄まじいものだったが、心のどこかでまだ渋る自分に気付いていた。
「尽くされてばかりで、私の義理が黙っていません」
 死んでしまったらお金は返せないのだ。泊まれる場所を用意してくれたうえに金銭までもらえるのは居心地の悪さを覚えさせる。これこそ罪の果実を受け取ってもらうような、違和感。
「じゃあその一万リカは、手紙を託した兵士のために使いなさい。自分のためだけじゃなく」
 新たな考え方を提示されてしまえば、今度は断る道理を失った。金は無名の兵士のため。確かながら、金がなければ小鳥地区に辿り着くには時間がかかるだろう。
 もっと良い方法をアロナは思いついた。画期的で、自分が後悔しない選択だ。彼女は調子の良い口ぶりでこう言った。
「サリアンさん、一緒に来るっていうのはどうですか。カプセルを飲まずに」
 名案だと思えた。サリアンを失うのはスナルデンにとって大きな損失だったから。
 心のどこかでは分かっていた。サリアンは首を横に振った。
「同志達を裏切れない」
「やっぱりですよね」
 今度こそ眠ろうと努力した。自分の吐息音とサリアンが酒を飲む音を頼りに、一歩一歩夢の中で進む。時折目を開くと、小さなサリアンの背中が見える。背中を見ると起きてしまうから、また目を(つむ)る。何度も同じ動作を反復する。
 隣の部屋から物音が聞こえる。重たい物が地面に落ちたような物音だ。立て続けに二回鳴った。
 痛々しい声は聞こえない。誰かが叫ぶ声も聞こえない。
 静かな虐殺(ぎゃくさつ)だ。
 息をお腹で吸って、数秒をかけて吐いていく。サリアンはまだ起きている。カプセルを飲んではいない。明日アロナが無事に旅立つのを見送るためだ。
 変わらずに眠れないアロナは、頭の中でチョコレートを思い浮かべた。それがどんどん溶けていって、甘く砂糖と交わる。ミルクが加わり更に美味しくなる。辛(から)いの反対は甘い。ミルクチョコレートをたくさん作って、浴槽(よくそう)に入れた。
 想像の中なら何をしても許されるのだ。
 入ってみれば思ったよりも苦い香りがした。


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 注文を待っていた男性の兵士、隣で手伝いをしていたサリアンも含めて全員が男の方に注目した。背はさほど大きくないアロナは何が起きているのか分からなかった。お祭り騒ぎが静まるくらいの叫びが聞こえてきたとしか分からない。
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 もう一つ、グラスが砕《くだ》け散る音が聞こえた。
「神がなんだ。俺を救ってくれるのか。神は平等に全員救ってくれるのか。なんで分かる。神書に書いてあったからか。神郷《しんきょう》ってのは本当にあるのか。なあ、絶対にあるって言ってくれよ」
 詰められている男は黙っていた。段差を上って二人の様子を見てみる。
 熱気のせいだろう、片方の男は上着を脱いで黒のノースリーブは汗まみれだった。彼は中腰になって顔を赤くしながら、向かい側の男を睨みつけている。
 司祭《しさい》だった。この暑い中、深い青のコートを着ている。赤いネクタイは波のように広がっていて、彼は座りながら狼狽《うろた》えていた。年齢は還暦《かんれき》手前くらいの老司祭であり、髭《ひげ》はなく前髪《まえがみ》を大胆に分けているおかげで汗が滴《したた》っているのが遠目から見ても分かる。黒い髪まで濡れていた。
「神郷ってのは死んだらいけるんだよな。善行を積んでればいけるんだろ。でも俺、人殺しちゃったよ。一人だけじゃないぜ。何人もだよ」
「人を殺めたのはあなたではない。我々の人生は天により導かれている。全ては天命《てんめい》のあるがままだ」
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 その場にいるほとんどの兵士が忘れようとしていた考えを引き出しているからだ。恐怖の根源を司祭は祓《はら》ってくれるのではないか。全員が期待していた。
 マンド教の聖典である神書。万人が死後に神郷に往《ゆ》けると書いてありながら、罪の果実を食したものは深き罰《ばつ》によって大いなる無秩序《むちつじょ》が招かれんとも記されている。広義では罪の果実とはマンド教が制定した教律《きょうりつ》によるもの、スナルデン含めマンド教が人口の七割を超える国の法律《ほうりつ》を破れば罪の果実を食したとされる。
 当然、どの国でもマンド教律でも殺人は違法だった。
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「あなたは大義のために戦った。神はよく分かっている」
 間に入ってアロナが宥《なだ》めようとも考えた。
 動揺は周囲の兵士にも感染《かんせん》していくのが空気を伝ってアロナの身体に届く。我慢の限界だと、見切り発車にアロナはカウンターから出ようとした。
 しかし、彼女の肩を叩いたサリアンは代わりに彼が席まで歩いていった。人溜まりをかき分けながら進んでいくと、すぐに人波に紛れてしまった。
「何度も聞いたよ、お前は何も分かっちゃいない。皆もそうだろ。名誉《めいよ》の死だと、冗談じゃない。俺は戦って死にたかった。人を殺したうえに自殺かよ。どんな罰が待ってんだ、俺たちには」
 司祭は決まった話以外はできない。持論を述べるのはご法度《はっと》なのだ。司祭の言葉は神の言葉とされている。神の言葉は神書に描かれている。納得するまで繰り返し言うしかない。司祭にとっても苦しいのは目に見えて分かる。
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「そこまでにしておけ、ロッティ」
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 ロッティと呼ばれた兵士はバツが悪そうにしたものの言い返すのだった。
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 眠ったフリをしたり瞑想《めいそう》したり、工夫を施《ほどこ》してみても変わらない。窓から見える月は移動しているのだろうか。永遠の夜に閉じ込められてしまったかのような気分だった。
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 何度も寝返りを打っていたアロナが諦《あきら》めて天井を見上げているとサリアンは唐突《とうとつ》に言った。
「だがそれ以上に、戦争が終わった後の世界を生きる方がよっぽど怖い」
 今からどんな助言を作ろうとしても全て失敗作になるだろう。年齢差も離れている。自分が思いつく気休めの言葉は、彼は既に何度も通っているだろうと思えてアロナは声にはならなかった。起き上がって抱きしめようとも思った。
 何もできなかった。自分の思いつきが全部浅はかに思えて仕方がなかった。
「今は無力を感じているかもしれない。当然だ。君は優しいから、私たちを助けられない自責の念のようなものがあってもおかしくない」
 アロナは口を開いた。風が吹けばかき消されてしまいそうな弱々しい声だった。
「ごめんなさい。私はどうすれば良かったのか、分からなくて」
「十分頑張った。私は君に出会えなかったらミラージを恨んだまま生涯《しょうがい》を終えていただろう。会えてよかった。君は未来だ、アロナ」
 もう一度鍵を握った。未来を担う鍵。扉がどこにあるかは分からない。
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 恩返しができない。アロナは反射的に断ってしまったが、サリアンは短く返した。
「神郷には必要のないものだ」
 一万リカあれば三ヶ月は暮らせるはずだ。二千リカしか持って来られなかったアロナにとって恩恵《おんけい》は凄まじいものだったが、心のどこかでまだ渋る自分に気付いていた。
「尽くされてばかりで、私の義理が黙っていません」
 死んでしまったらお金は返せないのだ。泊まれる場所を用意してくれたうえに金銭までもらえるのは居心地の悪さを覚えさせる。これこそ罪の果実を受け取ってもらうような、違和感。
「じゃあその一万リカは、手紙を託した兵士のために使いなさい。自分のためだけじゃなく」
 新たな考え方を提示されてしまえば、今度は断る道理を失った。金は無名の兵士のため。確かながら、金がなければ小鳥地区に辿り着くには時間がかかるだろう。
 もっと良い方法をアロナは思いついた。画期的で、自分が後悔しない選択だ。彼女は調子の良い口ぶりでこう言った。
「サリアンさん、一緒に来るっていうのはどうですか。カプセルを飲まずに」
 名案だと思えた。サリアンを失うのはスナルデンにとって大きな損失だったから。
 心のどこかでは分かっていた。サリアンは首を横に振った。
「同志達を裏切れない」
「やっぱりですよね」
 今度こそ眠ろうと努力した。自分の吐息音とサリアンが酒を飲む音を頼りに、一歩一歩夢の中で進む。時折目を開くと、小さなサリアンの背中が見える。背中を見ると起きてしまうから、また目を瞑《つむ》る。何度も同じ動作を反復する。
 隣の部屋から物音が聞こえる。重たい物が地面に落ちたような物音だ。立て続けに二回鳴った。
 痛々しい声は聞こえない。誰かが叫ぶ声も聞こえない。
 静かな虐殺《ぎゃくさつ》だ。
 息をお腹で吸って、数秒をかけて吐いていく。サリアンはまだ起きている。カプセルを飲んではいない。明日アロナが無事に旅立つのを見送るためだ。
 変わらずに眠れないアロナは、頭の中でチョコレートを思い浮かべた。それがどんどん溶けていって、甘く砂糖と交わる。ミルクが加わり更に美味しくなる。辛《から》いの反対は甘い。ミルクチョコレートをたくさん作って、浴槽《よくそう》に入れた。
 想像の中なら何をしても許されるのだ。
 入ってみれば思ったよりも苦い香りがした。