時間という概念を忘れて、外から聞こえてくる朝鳥の鳴声が聞こえ始めた頃にようやく意識が微睡を感じ始める。アロナはそれまで何をするでもなく、ぼうっとしていた。非通信にして携帯ゲーム機でも持ってくるべきだったかと、上の空に向かって囁く。
遺体はサリアンが一人で片付けていた。スナルデンは土葬文化だから土に埋めにいくのかと思えば、遺体を黒袋で包んだかと思えば隣の部屋に移動しただけだ。隣の部屋がどんな様相なのかは分からない。アロナはまだ見ていないからだ。扉の作りが個室と同じだったくらいは覚えている。
外に出たサリアンはすぐに戻ってきて椅子を手に持つとアロナの側に置いて腰掛けた。彼女は仰向けになったまま灰色の天井を見上げていた。
縛られた痕がまだ残っている。幸い痛みはそこまで強くない。
心の痛みはどうだろうかと、アロナは自分自身に問いかける。不思議と、辛いとか苦しいとかいった思いはなかった。恐怖はまだ残っているし、心臓もついさっきの現実に対して反抗的なリズムを鳴らしている。
どちからといえば悲しみが大きかった。次にアロナは、この悲しみの源泉を探そうとした。数時間かけて探してみたが、どこにも見当たらなかった。
座ったままのサリアンは気まずそうにしていた。朝陽が差し込む窓、ひだまりの池。赤黒い池だ。二人とも口を開けなかった。無数の激しい感情に押し込められて圧倒された。
非難しようと思えばレニールをいくらでもこき下ろせる。
扉のノック音が聞こえ、男が一人入ってきた。彼も髪をそり上げている。肌が黒いことから、ガシ人だろう。彼らは賢く義理堅いという印象の強い人種だ。
「隊長、特別措置の実行は本日夜に決定しました。さっきに、ミラージ軍が進行しているのを確認し大尉が捺印しました」
ガシ人の男は地面に落ちた血の痕を見ても何も反応せずサリアンの返事を待った。
「分かった。カプセルの手配は」
「首尾に問題はありません」
誰かを非難するのは簡単過ぎる。アロナは、それ自体が罪のように思えてならなかった。彼の言葉が耳から離れない。どうせ死ぬくらいなら良い思いをしたい、切なる叫びだった。アロナはこの目で見て、耳で聞いて実感した。彼は、壊れていたのだ。
「報告ありがとう。侵入者の件はどうなってる」
戦争が始まってからのミラージ国内では、いかにスナルデン軍が極悪非道かをマスメディアが連日報道していた。見るに堪え《た》ない映像を注意書きと共に流し、インターネットでは表では流れない更なる独立戦争の闇が公開された。どれもスナルデン軍の非人道的行為を広めるためのものだった。
仮にそれが真実だとしたらアロナはこう思う。非人道的な行いをしている兵士は人間ではない。戦争という悪魔にとりつかれた成れの果てでしかないと。
「そちらも問題ありません。尋問する必要さえないほどです」
報告を終えたガシ人は一礼し、部屋の扉を開けた。
出て行く寸前で立ち止まり、振り返りもしないままこう言った。
「私は隊長の下で生きられて幸せでした」
仮初に似た響きでありながら、彼の独白は観客であるアロナの目を開かせた。サリアンはただ一言、感謝の本心を述べた。扉の閉まる音が聞こえて室内が静まると、彼は窓を開けた。鳥の声が入ってくる他に、遠くから銃声が聞こえてきた。ミラージ軍が使う銃の音だ。
「小鳥地区がどこにあるのか、教えてください」
自分の弱々しさを隠すには目的を思い出すのが一番良い。
現実を忘れさせてくれるのはいつも未来と希望だ。小さな机の上にある手紙を視界に入れたままアロナは返事を待った。
「後で地図を渡そう。コードを読み込めば手持ちの端末でも見られるようになる」
「助かります。あと、もし罪悪感を感じてるなら」
気にしないでいいと言おうとしたのに、突然喉に何かが詰め込まれてしまったかのようだった。その先を言えないのが不思議で仕方がなかった。
「山を下ってすぐの町に優秀な精神科医がいる。紹介状が無ければ一般人は入れない」
立ち上がり引き出しから取り出されたのは、まさに今自分が口にした紹介状だろう。サリアンは二分に折り畳まれた綺麗な紙をアロナに渡した。
「私にはもう必要のないものだ。これを精神科医、ジェイクに渡しなさい。助けになってくれるはずだ」
もう一つ、サリアンは先端が鍵のようになっているネックレスをアロナの手に置いた。
鍵の部分はエメラルド色で、光沢を放っている。デザインは単純ながら、どういうわけか神秘を感じさせる。
「神書に出て来る寵愛の階段に入るための鍵、そのレプリカだ。子供達からの贈り物だった」
「そんな大事なもの、いただけません」
焦って突き返したアロナだったが、サリアンは受け取らずに窓に近付いた。彼は地面の方を見ていて、表情は綻んでいた。兵士達の楽しそうな声が聞こえてくる。彼らは今日、カプセルを飲むのを知っているだろう。酒を飲んでいるのかグラス同士が当たる音が愉快に、軽快に鳴った。
「私は君に託した。もし家族に会うことがあれば、それを妻や子供達に見せてほしい」
家の場所を語らないのは、自分の家の場所が分からないからだろうか。なぜ分からないのか詮索すべきか迷った。
何も分からない自分が、パンクズのように思えた。
「昨日会ったばかりだが君は、希望だ。スナルデンにとってではない。人類にとっての希望なんだ」
「私はそんな。ただの子供です」
するとサリアンは彼女の方を見て口角を上げながら言った。
「子供だって世界を救える」
喉に詰まっていた見えない布が溶けた。声が楽に出せるようになった。更に、その見えない布は薬だったのかもしれない。身体に羽が生えたように軽くなったからだ。
ただの手紙かもしれない。だれも救えないかもしれない。同じ過ちがまた繰り返されるかもしれない。今日の行いは結果を考えれば無意味という烙印となり、永遠に不変なものとして記憶に刻まれる。
興味深い。言い訳をしようと思えば無数にできるのだから。
数時間前まであった暗澹とした空気は消え去り、アロナの表情にも気を遣えるだけの笑みは戻ってくるのだった。本格的なトラウマのケアは精神科医のジェイクに会ってからでいいだろう。
十分な睡眠はとれず、アロナはもう一日宿泊許可を得た。ミラージ軍が基地の占領をするには時間がかかるはずだと自信に満ちたサリアンは、自分だけ特別措置の日程を後回しにするつもりで長官に会いにいくのだった。
最低な気分で始まった一日が、必ずしも悪い一日になるとは限らない。アロナは顔を洗ってからのんびり散策していると、兵士達の溜まり場に着いた。見た目は酒場で、カウンターにはワインが入った樽が置かれている。五人がまとまっている以外に誰もいなさそうだ。強面兵士の集いだったから引き返そうかと思ったが、気の良い兵士一人に誘われて一緒に酒を飲むのだった。
遺伝的なものでアロナは酒が強くない。すぐに酔いが回り始め、ヘラヘラと恐怖も麻痺する。酒の力を借りてはダメだと母にこっぴどく言われていたが、どうして毒である酒が数世紀にも渡って人類に嗜まれているのかよく分かった。
やがて、眠気に誘われてアロナは机に突っ伏した。ものの見事に涎を垂らしながら豪快に、おしとやかに眠りに落ちる。
話の聞き役に徹していた彼女は、今は安らかな夢を見ているだろう。五人いたうちの、声が野太い兵士。ラドンは麦酒をあおってからこう言った。
「お前ら、変な事考えんじゃねえぞ」
五人の中では一番の好事家だ。女性に関してはこの上なく下半身が緩く、浮気の数だけ殴られている。何度も頬にアザを作っては友人にからかわれていた。
女ったらしが似合う彼でもルールがあった。
「女性ってのは大事にしなきゃならねえんだ」
「おいお前! 今なんていった?」
ラドンに向かって度数の高いカードン(いくつものハーブによって調合された薬酒。度数の高さは六十前後であり、独特な苦みがある)を吹きかけた男はプラットだ。
「今までの奥さんの前で言ってみろ、殺されてもおかしくねえや」
彼らとて、無防備な女性が前にいたら男たるもの黙ってはいられない。どんな真面目な兵士でもそうだ。
結局アロナが起きるまで、彼らは見守るに徹した。起こさないように。男同士の時だけにする会話もしながら目覚めるのを待っていたが、話の途中で無線機から音が鳴った。時間は昼の十四時だ、大尉からで、緊急招集だ。今夜の特別措置についての話があるという。
「正直、どういうわけか怖くないんだよな」
短すぎる茶色の髪をオールバックにした兵士、テイラーが笑いながら言った。
「苦しんで死んでいった奴らを思えば、カプセルを飲むだけで楽に逝けるってんだぜ。最高だろ」
乗ったのはラドンだった。
「天国に行こうが地獄にいこうが、俺は美女がいるんだったら文句ねえや」
「悪魔ともヤるのか?」
腹を抱えながら笑ったプラットは立ち上がり、グラスをシンクまで持っていくと思い出し笑いをしながらグランドまで向かった。他の四人も彼に続いて酒場を出て行くのだった。
二時間は寝ただろうか。頬についた涎を拭ったアロナは、まだ酔いが残っていて心地よい気分だった。ラドンが用意しておいた透明な水を飲んだ彼女は立ち上がる。
酒場には誰もいない。人前で寝てしまって詫びなければならない心と、身体になんの違和感もない安心感が同時に押し寄せてきた。それらを上手く融合させて落ち着いたアロナは、もう一度座った。
座って何をすべきか分からなかったから、今度はカウンターに入った。
「三日前まではここも盛況だった」
酒場に顔を見せたのはガシ族の男だった。腕を組んでいた彼は自身をクロンドと名乗るのだった。
「酒場は兵士達の希望によって作られたから、カウンターに立つのも兵士だ」
三日前、ソニアミスの戦いが始まる前日だ。カウンターに立っていた兵士も動員されて酒場が機能しなくなったのは容易に想像がついた。アロナの不憫を感じさせる表情を見たクロンドは多くは語らない。代わりに、こんな話をした。
「戦争にウンザリしてるなら、それは真っ当な精神の反応だ。だがもし我々兵士を可哀相だと思っているのなら、やめろ」
厳しくも、直線的な意味を持つ理論にアロナは固まった。
遠くから兵士達が歩く音が聞こえてくる。五人と言わず、多くの兵士達だ。
「アロナ軍医。君は知らないかもしれないが、ほとんどの兵士は君を天使のように思ってる」
「私はただの医療従事者に過ぎません」
天使のようって言われるとは思わず、アロナはやんわりと頬を紅くした。
「酒も料理も、プロが入れれば脳が美味しいと判断する。俺は思う、天使が入れればどうなるか。きっと、心の奥底が美味しいって言うんじゃないか」
兵士達が入って来るや否や、アロナに酒を注文し始めた。目を丸くして固まっていたアロナだったが、自分がカウンターに立つ番という意味かと捉えれば行動は早かった。幸運にも彼女は院生の頃、隙間を縫うようにレストランで働いていた経験がある。給仕の心得はあるが、食堂には百人単位の兵士達が集まってきた。サリアンやクロンド含む数人に手伝ってもらいながら仕事をしていたが、忙殺状態だ。
働きながらアロナは思い出した。忙しい方がかえって考え過ぎなくていいと。専門学校に通っていた頃、アルバイトをしていた理由の一つだった。
食堂も酒場も盛り上がりを見せ始めたのが夜の七時で、それから三時間。休む暇なくアロナは動き続けるのだった。