サリアンは部下に指示を出した後、追従するようにアロナを側に置いた。
「少佐、そちらの女性は」
基地に入る時、敬礼をしながら屈強な兵士が言った。心強い門番のように思えた。
「亡命者だ」
ちょっと! アロナは彼の腰にトンと拳を当てた。
「承知しました。どうぞ中へ」
彼は訂正せず門番が開けた扉をくぐって中に入る。アロナもそれに続くと、文句を言いたげな眼差しを隣から彼に向けていた。
「すまない、他に適切な言葉が見つからなかった」
「捕虜とかあったでしょう。亡命だなんて人聞きの悪い」
「気持ちは分かるが、この国じゃ亡命者は尊重される」
上手く懐柔されたような、ごまかされたような複雑な心境を抱く。
やがてついたのは二階にある個室だった。簡易的なものだが多少は広く、二つのベッドが置かれていた。パイプの足で出来た簡素なベッドだが清潔であり、部屋の中からは殺虫剤の匂いがする。窓は観音開きになっていて、外の空気を取り入れるには問題ない。網戸からは虫が入るような隙間は見られなかった。
「ここは私の部屋だ。万が一に備えて、今日は同じ部屋で寝てもらう」
険しい道のりを想像していたアロナにとっては、同室は些細な話だった。
「分かりました。でも、敵国の私にここまで親切にしてくれていいんですか」
パイプ椅子に座ったサリアンは、持っていた銃器を解体しながら言った。あまり慣れていないようで、手こずっている。
「美味しい料理を食べたあなたは、次に友人をその店に招くだろう」
「あ、古いことわざです」
ミラージがスナルデンに合併される前からあることわざだ。本文は「美味たる女の独占は罪である」という食事ではなく古くは女性が対象になっていたが、野蛮だと差し替えられたのだ。
「私はミラージが好きなんだ。自然と融和する信仰、技術よりも個を貴ぶ社会性。狂暴だと言われがちな国民性は、裏を返せば、裏がない」
ようやく分解が終わった銃を眺め、サリアンは似合わない微笑をアロナに向けた。
「何もない部屋だが、夕食までゆっくりしてほしい。それと、良ければ日記を書いてみるのはどうだろう」
「日記ですか」
思ってもない提案だった。同時に、悪くない発想だった。
「窓際のキャビネットにノート用紙とペンがいくつかある。そこに記すんだ」
日記を書く。アロナにとっては気恥ずかしい話だ。子供の頃に書いた経験があるが、自身の字とは思えない汚さと成長しない文章力の無さに辟易した思い出ばかりだ。
それから十何年経ったか。今挑戦してみたら上手くいくかもしれない。お金をかける作業ではない。
「みんなはよく勘違いする。日記っていうのは、過去の物に過ぎないと」
違うんですか? と単刀直入、分かりやすい疑問符を浮かべながらアロナは呈した。
「日記は過去のためにあるんじゃない。未来のためにある」
彼はそう言った後、仕事を終えてくると口にして立ち上がった。アロナは出て行く彼を引き留めようと思ったが、引き留める理由が見つからなかった。
扉を開けたサリアンは、夕食は六時だと告げてから廊下に繰り出していった。
荷物をずっと背負ったままだったと気付いたアロナはバッグを降ろしベッド脇に置くと、柔らかな羽毛布団の上に座った。日記を書くかまだ心に迷いはあったが、暇つぶしをするには日記がちょうど良いように思えた。
試行錯誤して日記を書き終える頃には六時前になっていた。ノートとボールペンをいくつかバッグに閉まっているとサリアンが戻ってきた。
「食堂に案内しよう。今夜は一流のシェフが作ったステーキが楽しめるらしい」
「本当に!? 楽しみです、やった!」
細見の外見に似合わず肉食大好物なアロナにとってこれ以上ない喜びだ。幸先が良い、そう思える夕食になりそうだ。
食堂は一階に降りてすぐの木製大扉を抜けた先にあった。広々としていて既にスパイスの効いた香りが立ち込めている。入るや否や、軍人の一人がサリアンに近付いて酒を渡した。
「偵察お疲れ様です、今夜はたんと飲みましょう」
「ありがとう、レニール。お前、明るくなったな」
レニールと呼ばれた男はもう酔っているのか顔が赤い。少しだけアロナの方を見たが、ずっとサリアンを見て短い談笑で盛り上がっていた。
その最中、明るくなったのはサリアンのおかげだと彼の本心が垣間見えた。
酔ったレニールと離れてから二人で固い椅子に腰を下ろすと、次々と料理が運ばれてきた。マッシュポテトと牛のステーキ、ソースからはハーブとスパイスの香り。飲み物には赤ワインと氷の入った水。シシトウにオニオングラタンスープ。ポテトフライまで。
意外にも、ホウレンソウのバター炒めが美味しかったのが記憶に残った最高の夕食になった。
その多幸感は寝室に戻って、明かりが消えてベッドで仰向けになる時も続いていた。
「スナルデン料理はいかがだったかな、アロナ嬢」
サリアンはすっかり酒に思考回路を麻痺させられているようだ。堅物だった時と比べて口調が柔らかくなっている。アロナは酒を飲んでいないのに、なぜか雰囲気に酔わされて緊張は夜風に運ばれて飛んでいった。
「最高でしたよ、サリアンさん。お肉が柔らかくて、ソースが濃くなかったのでちょっと不安だったんですが、とにかくお肉が美味しかった。大満足です」
不思議だった。同じ部屋にいる男は、近いうちにこの世からいなくなる。そもそも今は戦時中だ。それすら現実とは思えない。
医者の役割の一つに、兵士のメンタルケアというものがある。アロナはこうして話に付き合うのも仕事のような気がしたが、今までの苦痛な時間とはまったく異なるものだ。自国の兵士とは全然違った。
「僕が今日連れていた部下の一人にアスライトという名前のやつがいる。この名前、宝石っぽいだろう」
確かにとアロナが頷くとサリアンはこう続けた。
「ある森林でまだ探検されていない洞窟を見つけたんだ。二年前だったな。それで僕ら部隊が踏査することになった。そしたらアスライトが新種の宝石を発掘したんだ」
「なんだか運命みたいですね」
名前には意味がある。他の国にはないミラージ特有の文化として、名前を決めるには国の認可が必要だった。名前自体は親が決められるが、承認には厳しい審査が必要なのだ。大抵の親は国にいくつかの名前の候補と理由を紐づけて送っている。
「したらその宝石、本当にアスライトって名前になったんだ」
大仰にアロナは驚いた。その後、なんだか可笑しくて笑いが込み上げてくるのだった。アロナにつられて、サリアンも楽し気に笑っていた。
「決まった時そいつは喜んだ。ちなみにそいつは細見だったんが、その宝石の硬度は硬くてな。それからアスライトは、宝石に見合う男になるようにって必死にトレーニングしたんだ」
結論を言う前に、サリアンは思い出し笑いのせいで続きを言えなかった。その笑い声を聞いて、今度はアロナがつられて笑った。
「けどそいつの妹がこう言ったんだよ。お兄ちゃん、単細胞だねって。頭まで筋肉をつけたらその細胞も無くなるって!」
妹の気持ちはアロナには十分過ぎるほど納得できた。筋肉質な男性は怖い印象しかなく、異性的な魅力はない。もし自分に兄がいて闘牛みたいな筋肉を蓄え始めたらやめろと言うだろう。
「結局、トレーニングは打ち切りになって元の体型に戻ったんだ。そしたら皆が、硬度足りてないんじゃないかって茶化すもんだから、僕は笑いを堪えるのに必死だった」
「大変でしたね」
笑いながらアロナは言った。サリアンは眠くなっているのか、段々声に活気は無くなっていくように思えた。
彼の思い出話は続いていたが、途中から声がいびきに変わった。光る腕時計を見れば、時刻は十二時。明日は両国とも忙しくなるだろう。これ以上の戦争は無益だから終結するだろうが、終結に向けての準備もある。
忙しいのはアロナもそうだった。朝になれば基地を出て、スナルデンに向かう。兵士が案内すると申し出てくれたがアロナは断っていた。彼らにはゆっくりと過ごす時間が必要だと思えたからだ。
基地の先は湿地帯を抜けていて、滑落しなければ自然の脅威にさらされる心配もなく山を降りられる。靴の準備も滞りはない。あと必要なのは十分な睡眠だ。アロナは目を瞑り、明日に備えた。やがて訪れる眠気が心地よい。慣れない環境ながら、自分の家にいるかのようだった。
眠りに落ちた後、身体の上に重さを感じて目覚めた。
最初は何が起こっているのか分からない。隣からはサリアンのいびきが聞こえてくる。二秒経って段々意識がはっきりしてくると、手と足が縛られているのが分かる。手は頭の上で、足は開いてベッドの出っ張りに。
身体を触られる感触、アロナは恐怖で覚醒した。叫ぼうとしたが口にはダクトテープが貼られており大きな声は出せない。それどころか唾液で湿り、よりいっそう不快感が増すだけだった。
「大丈夫だ、大丈夫。痛い思いはさせないから」
暗がりだったが、その声で男が誰なのかよく分かった。レニールだ。酒の匂いがする、まだ酔っているのだろう。そのゴツゴツとした手がお腹を撫で、圧している。アロナは開かせられた足に力をこめてベッドを揺らすも、頑丈で解ける気配はない。手も同様だ。身体が少しづつ熱くなる。恐怖を感じているせいで、身体がなおさら敏感になっている。
興奮しているレニールは止まる気配がない。
体力を無駄に消耗するくらいなら、身体を委ねるべきか。パニック状態に近いアロナにとって、何が正解か分からなかった。
だが……突然、身体が軽くなった。
「サ、サリアンさん。なんで!」
転がり落ちる音の後にレニールが言った。見れば、自分の足の少し向こう側でレニールとサリアンが向かい合っているのが見えた。
「酒に薬を混ぜたのには気付かなかった。だが、運が悪かったな。かなりの不眠症なんだ、私は」
力負けするのが分かっていて、レニールは腰から拳銃を取り出して彼に向けた。
「どうせ死ぬんなら最後くらい良い思いをして死なせてくれ、頼むよ。それくらい許されるだろ、なあ!」
宥めるような声音で「落ち着け」と何度も言いながらサリアンは彼にゆっくりと近付いていく。銃のセーフティは外れている、レニールはもうその気になっているのだ。酒で思考が麻痺していて、本当に銃を撃ちかねない。
サリアンが今命を落とすくらいなら自分の身体を捧げた方がマシだ。それを伝えようにも、口のテープが邪魔だ。
「お前はお父さんに天国で会ってなんて言うんだ。死ぬ前に、勇敢な女性を襲ったって言うのか」
レニールは泣いていた。その表情は怯え切っていた。サリアンに対して怖がっているようには見えない。
「親父のことは関係ねえ! サリアンさん、頼むよ。俺は五年間耐え忍んできた。サリアンさんも分かるだろ。俺はただ」
「言うな、もういい。今起きたことは誰にも言わない。お前はこのまま戻って寝ろ。そして明日の朝彼女に謝れ。もし謝っても許されないなら、許されるまで償え。もし謝る機会すら失ったら、祈れ」
震える手で銃を握っていた彼は、少しだけ銃口を下げた。片手で流れる涙を拭って、何度も嗚咽を漏らした。
やがて、こう言った。
「ごめんなさい」
「よせ!」
瞬く間の出来事だった。
サリアンはトリガーが引かれる前に銃口を上に向けた。天井に穴はあいたものの、どうやら消音弾を使っているようでほとんど音は鳴らなかった。サリアンが胸ポケットから鋭利で軍人用のナイフを取り出すと、その切っ先をレニールの心臓に向けた。
身体は容易く貫通するように見えたが、防弾チョッキを貫通させるには力が必要だった。クソ、とサリアンは呟くと刃先を首に向けた。そして、喉元を切り裂いた。
サリアンは力を失いつつあるレニールを背後から抱きしめながら、彼の口に手を当てて耳元で、赤ん坊をあやすような音を立てた。それがしばらく続き、レニールから生命の鼓動が失われると、ゆっくり地面に倒す。
血のついたナイフを服で拭き、彼はアロナの拘束を解いた。ダクトテープを一気に剥がされて痛みを感じたアロナだったが、起き上がった時にサリアンが落とした涙を見た。
彼は乱暴にナイフを地面に投げつけ、遺体の前に跪いて静かに語った。
「レニールはお調子者だった。みんなを笑わせるのが大好きなやつだった。戦争が始まる前こいつは、お菓子職人だった」
すまない。すまない。サリアンは彼を抱えながら、何度も詫びた。涙声で、静かな怒りも携えながら。