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1-1

ー/ー



 害虫避けの薬が切れる前に国境を越える必要がある。沼を避けて進んでも三時間あればスナルデン軍の仮設基地に到着するだろう。
 湿地帯という劣悪な環境だけを気を付ければ良いだけならばもう少し早く着いただろう。自然と同じくらい気を付けなければならないのは、敵が設置した罠だ。スナルデン国境を超えれば注意する必要はないが、それまでは地雷や落とし穴、ワイヤーを用いたトラップの全てに気を配らなければならない。
 アロナは、呆然(ぼうぜん)と立ち尽くしていた。
 トラップに気を配る必要があるとという大前提が分かったのはいいものの、どうやって気を配ればいいのか分からなかったのだ。地雷は巧妙(こうみょう)に隠されているし、専門の訓練を受けたわけでもない彼女は先に進む術が無かったのだ。
 三時間あれば仮設基地に到着する、というのは軍の進行ありきだ。ここに来て初めて、自身の無力さを痛感した。
「こんなところで諦めたくないじゃんか」
 絶望的と思われる旅路だったが、アロナに引き返す意志はなかった。
 護身用に重いナイフと拳銃を持ってきている。好都合だった。アロナはナイフで枝を切って杖に変え、蔦(つた)を切って杖の先端に石を巻き付けた。大きめな杖は地雷を検知するにはちょうどよく、石で地面を滑らせる役割を担っている。
 死者から託された想いを、自分は今持っているのだ。
 スナルデン軍の地雷は踏んで足を離してから起爆する仕組みになっている。アロナは道中、手頃な重量の小さな岩をバッグの中に入れた。足を離さなければどうということはない。
「止まれ!」
 歩き始めて三十分と経たないうちに、アロナは兵士の怒号に遭遇(そうぐう)した。前方から押し寄せてきたのはスナルデン軍だ。その数はちょうど十人。偵察(ていさつ)部隊だ。先の戦いで誰も戻ってこないから派遣(はけん)されたのだろう。
 彼らは金属製のマスクを付けていた。マスクの色によって階級が分かるようになっており、緑が下級だ。うち九人が緑色で、先頭に立って重そうな銃を持っている男は黒のマスクをしていた。全員髪は無く、没個性(ぼつこせい)的だ。
「ここで何をしている」
 黒ではなく、緑のマスクをした男の一人が銃口を向けながら訊ねた。アロナはその、空洞に(ひる)んでしまった。距離は離れているのに喉元にナイフを突きつけられているような恐怖で口を開けても言葉が出てこなかったのだ。持っていたお手製の杖も落とした。
 怯える様子をみかねて、黒のマスクをした男が手で合図をして全員の銃を降ろさせた。彼は黒いマスクを取る。年齢は四十台の後半くらいだろう。中世スナルデンの偉人のような、綺麗な顔立ちをしていた。
「お前の名前は」
 スナルデン軍がマスクを取るというのは意味があったはずだ。彼らは独立戦争以前から戦争時にはマスクを付けるという決まりがあった。二通りあり、片方は覚えている。信頼だ。
 黒マスクの男は信頼してくれたのだろうか。アロナは、小さい声で言った。
「ア、アロナです」
「よし。それじゃあ、二回深呼吸をしなさい」
 言われた通り、鼻から胸に大きく息を吸い込んだ。胸を通り越し、お腹の中にまで湿った空気を吸い込んでから口から息を吐く。触れてもいないのに、暖かい息なのだろうと実感する。
「えっと、私」
「アロナ。私は、二回と言ったはずだ。もう一度」
 (さと)すように男は言う。いつの間にか彼が持っていたはずの銃は地面に落ちていた。
 もう一度、アロナは目を瞑って息を吐いた。彼女が息を吐ききったのを見て、男は口を開いた。
「私はサリアン。そして、ここにいる皆が精鋭(せいえい)だ。私たちの目的は察しがついているだろうが、戦いがどうなっているかの偵察だった。ここから約八〇〇メートル離れている戦場」
 サリアン含む精鋭部隊が持っている情報は少し古いようだった。少なくとも今朝の段階においてはサリアンの情報は正しかった。だが、今はもう戦場だった場所は半分以下の距離になっている。
 彼が武器を落としたのは、必要が無くなったからだろう。
「聞こえてくるのは猛禽類(もうきんるい)の声と、時折地雷を踏む野生生物の断末魔(だんまつま)、草木が揺れる音。本来ならそこに銃声が聞こえてくるはずだった」
 偵察部隊の彼らにとって、スナルデン軍にいない女性が一人ここまで歩いて来ているだけで情報としては十分だった。敗北したのだ。
 まだ先の戦いに名前はついていない。だが過去の戦争を踏襲(とうしゅう)するならば、ソニアミスの戦いと呼ばれるだろう。サリアンは部下全員に銃を放棄(ほうき)させると、両手を後ろで組んで足を肩幅ほどまで広げ目を閉じた。
 空を見上げた彼らは、地面に膝をつける。その姿勢のままサリアンはこう言った。
「アロナ、君はここで何をしているんだ」
 話しかけられると思っていなかった彼女は、驚いて一瞬だけ固まった。彼らの儀に目が(くぎ)付けになっていたのもあいまって、答えるには一呼吸の間があった。
「スナルデン軍の兵士から、手紙を託されたんです」
「どんな手紙?」
 儀が終わった彼らは立ち上がり、サリアンは無機質(むきしつ)な目をアロナに向けていた。
「分かりません。中身は見ていないので。ですが、小鳥地区にいるマクスウェルという女性に届けるようにって」
 本来ならアロナは仮設基地まで出向いてそこの兵士に手紙を渡すつもりだった。可能ならば彼らに渡すのが安全だろう。まだ国境は越えていない。来た道を戻るだけならば早く着くし、まだ軍が撤退(てったい)していなければ合流できる。ロスタニクへの言い訳は帰路で考えればいいだろう。
「サリアンさん、私はスナルデンについて詳しくないんです。小鳥地区の場所も分かりません。よかったら、あなたが届けてくれませんか」
 部隊とアロナの距離は保たれている。
 初めてサリアンは無機質の態度を崩した。ほんの(わず)かな時間だったが、表情に(かげ)りが見えたのだ。
「それはできない」
 ロスタニクが不可能だと言うのは理解ができたが、スナルデン兵士であるサリアンにまで(いな)と断ぜられるとは予想もできなかった。理由を問おうとする前にサリアンは言った。
「我々は、この戦いで負ければ自害するように言われている」
 アロナは言葉を失った。
「自国のため、差し引いては己のため。その手紙は君が届けるといい」
 話はついた。サリアンは(きびす)を返し、自分達の仮設基地へ帰り始めた。敗戦したという情報を持って。
 我々、という言い方をしたからには戦争に参戦したほとんどの兵士が自害をする。ミラージとしては大きな損失だ。兵士達を処刑する以外に、奴隷にしてミラージの国力をあげようとも画策(かくさく)していたからだ。
 戦争に参加していたつもりで、全然そうではなかった。アロナは実感する。
 前を歩いていた緑マスクの男が一人振り返り、手招きをした。彼らの後についていけば安全だ。トラップの心配もない。アロナは小走りで後をついていった。
 静かだった。厳密にいえばあらゆる音は聞こえてくるから決して静寂(せいじゃく)というわけではない。なのに、静かだとアロナは思った。念のためサリアン率いる部隊とはまだ距離を狭めていない。少し離れたところで彼らを見ても、言葉を発している素振りはなかった。無線機を使っている瞬間もなかった。
 途中、兵士の一人が蛇に襲われた時にアロナは自分が医者だと教えて処置を施した。幸い毒蛇ではなかった。その時兵士からは「ありがとう」と素直に言われた。
 人に感謝されれば嬉しくなってきた人生、そのために医者になったといっても過言でもない。だが彼からの「ありがとう」はなぜか、アロナの心を締め付けた。
 仮設基地は、仮設とは思えないほどの規模だった。三階建てのコンクリートで出来ており、歩哨(ほしょう)の数は数十人を超えていた。鉄線(てっせん)とあえて露出させている罠の数も尋常ではない。誰の侵入も許さない心意気を感じさせた。



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 害虫避けの薬が切れる前に国境を越える必要がある。沼を避けて進んでも三時間あればスナルデン軍の仮設基地に到着するだろう。
 湿地帯という劣悪な環境だけを気を付ければ良いだけならばもう少し早く着いただろう。自然と同じくらい気を付けなければならないのは、敵が設置した罠だ。スナルデン国境を超えれば注意する必要はないが、それまでは地雷や落とし穴、ワイヤーを用いたトラップの全てに気を配らなければならない。
 アロナは、呆然《ぼうぜん》と立ち尽くしていた。
 トラップに気を配る必要があるとという大前提が分かったのはいいものの、どうやって気を配ればいいのか分からなかったのだ。地雷は巧妙《こうみょう》に隠されているし、専門の訓練を受けたわけでもない彼女は先に進む術が無かったのだ。
 三時間あれば仮設基地に到着する、というのは軍の進行ありきだ。ここに来て初めて、自身の無力さを痛感した。
「こんなところで諦めたくないじゃんか」
 絶望的と思われる旅路だったが、アロナに引き返す意志はなかった。
 護身用に重いナイフと拳銃を持ってきている。好都合だった。アロナはナイフで枝を切って杖に変え、蔦《つた》を切って杖の先端に石を巻き付けた。大きめな杖は地雷を検知するにはちょうどよく、石で地面を滑らせる役割を担っている。
 死者から託された想いを、自分は今持っているのだ。
 スナルデン軍の地雷は踏んで足を離してから起爆する仕組みになっている。アロナは道中、手頃な重量の小さな岩をバッグの中に入れた。足を離さなければどうということはない。
「止まれ!」
 歩き始めて三十分と経たないうちに、アロナは兵士の怒号に遭遇《そうぐう》した。前方から押し寄せてきたのはスナルデン軍だ。その数はちょうど十人。偵察《ていさつ》部隊だ。先の戦いで誰も戻ってこないから派遣《はけん》されたのだろう。
 彼らは金属製のマスクを付けていた。マスクの色によって階級が分かるようになっており、緑が下級だ。うち九人が緑色で、先頭に立って重そうな銃を持っている男は黒のマスクをしていた。全員髪は無く、没個性《ぼつこせい》的だ。
「ここで何をしている」
 黒ではなく、緑のマスクをした男の一人が銃口を向けながら訊ねた。アロナはその、空洞に怯《ひる》んでしまった。距離は離れているのに喉元にナイフを突きつけられているような恐怖で口を開けても言葉が出てこなかったのだ。持っていたお手製の杖も落とした。
 怯える様子をみかねて、黒のマスクをした男が手で合図をして全員の銃を降ろさせた。彼は黒いマスクを取る。年齢は四十台の後半くらいだろう。中世スナルデンの偉人のような、綺麗な顔立ちをしていた。
「お前の名前は」
 スナルデン軍がマスクを取るというのは意味があったはずだ。彼らは独立戦争以前から戦争時にはマスクを付けるという決まりがあった。二通りあり、片方は覚えている。信頼だ。
 黒マスクの男は信頼してくれたのだろうか。アロナは、小さい声で言った。
「ア、アロナです」
「よし。それじゃあ、二回深呼吸をしなさい」
 言われた通り、鼻から胸に大きく息を吸い込んだ。胸を通り越し、お腹の中にまで湿った空気を吸い込んでから口から息を吐く。触れてもいないのに、暖かい息なのだろうと実感する。
「えっと、私」
「アロナ。私は、二回と言ったはずだ。もう一度」
 諭《さと》すように男は言う。いつの間にか彼が持っていたはずの銃は地面に落ちていた。
 もう一度、アロナは目を瞑って息を吐いた。彼女が息を吐ききったのを見て、男は口を開いた。
「私はサリアン。そして、ここにいる皆が精鋭《せいえい》だ。私たちの目的は察しがついているだろうが、戦いがどうなっているかの偵察だった。ここから約八〇〇メートル離れている戦場」
 サリアン含む精鋭部隊が持っている情報は少し古いようだった。少なくとも今朝の段階においてはサリアンの情報は正しかった。だが、今はもう戦場だった場所は半分以下の距離になっている。
 彼が武器を落としたのは、必要が無くなったからだろう。
「聞こえてくるのは猛禽類《もうきんるい》の声と、時折地雷を踏む野生生物の断末魔《だんまつま》、草木が揺れる音。本来ならそこに銃声が聞こえてくるはずだった」
 偵察部隊の彼らにとって、スナルデン軍にいない女性が一人ここまで歩いて来ているだけで情報としては十分だった。敗北したのだ。
 まだ先の戦いに名前はついていない。だが過去の戦争を踏襲《とうしゅう》するならば、ソニアミスの戦いと呼ばれるだろう。サリアンは部下全員に銃を放棄《ほうき》させると、両手を後ろで組んで足を肩幅ほどまで広げ目を閉じた。
 空を見上げた彼らは、地面に膝をつける。その姿勢のままサリアンはこう言った。
「アロナ、君はここで何をしているんだ」
 話しかけられると思っていなかった彼女は、驚いて一瞬だけ固まった。彼らの儀に目が釘《くぎ》付けになっていたのもあいまって、答えるには一呼吸の間があった。
「スナルデン軍の兵士から、手紙を託されたんです」
「どんな手紙?」
 儀が終わった彼らは立ち上がり、サリアンは無機質《むきしつ》な目をアロナに向けていた。
「分かりません。中身は見ていないので。ですが、小鳥地区にいるマクスウェルという女性に届けるようにって」
 本来ならアロナは仮設基地まで出向いてそこの兵士に手紙を渡すつもりだった。可能ならば彼らに渡すのが安全だろう。まだ国境は越えていない。来た道を戻るだけならば早く着くし、まだ軍が撤退《てったい》していなければ合流できる。ロスタニクへの言い訳は帰路で考えればいいだろう。
「サリアンさん、私はスナルデンについて詳しくないんです。小鳥地区の場所も分かりません。よかったら、あなたが届けてくれませんか」
 部隊とアロナの距離は保たれている。
 初めてサリアンは無機質の態度を崩した。ほんの僅《わず》かな時間だったが、表情に翳《かげ》りが見えたのだ。
「それはできない」
 ロスタニクが不可能だと言うのは理解ができたが、スナルデン兵士であるサリアンにまで否《いな》と断ぜられるとは予想もできなかった。理由を問おうとする前にサリアンは言った。
「我々は、この戦いで負ければ自害するように言われている」
 アロナは言葉を失った。
「自国のため、差し引いては己のため。その手紙は君が届けるといい」
 話はついた。サリアンは踵《きびす》を返し、自分達の仮設基地へ帰り始めた。敗戦したという情報を持って。
 我々、という言い方をしたからには戦争に参戦したほとんどの兵士が自害をする。ミラージとしては大きな損失だ。兵士達を処刑する以外に、奴隷にしてミラージの国力をあげようとも画策《かくさく》していたからだ。
 戦争に参加していたつもりで、全然そうではなかった。アロナは実感する。
 前を歩いていた緑マスクの男が一人振り返り、手招きをした。彼らの後についていけば安全だ。トラップの心配もない。アロナは小走りで後をついていった。
 静かだった。厳密にいえばあらゆる音は聞こえてくるから決して静寂《せいじゃく》というわけではない。なのに、静かだとアロナは思った。念のためサリアン率いる部隊とはまだ距離を狭めていない。少し離れたところで彼らを見ても、言葉を発している素振りはなかった。無線機を使っている瞬間もなかった。
 途中、兵士の一人が蛇に襲われた時にアロナは自分が医者だと教えて処置を施した。幸い毒蛇ではなかった。その時兵士からは「ありがとう」と素直に言われた。
 人に感謝されれば嬉しくなってきた人生、そのために医者になったといっても過言でもない。だが彼からの「ありがとう」はなぜか、アロナの心を締め付けた。
 仮設基地は、仮設とは思えないほどの規模だった。三階建てのコンクリートで出来ており、歩哨《ほしょう》の数は数十人を超えていた。鉄線《てっせん》とあえて露出させている罠の数も尋常ではない。誰の侵入も許さない心意気を感じさせた。