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プロローグ

ー/ー



 木枯(こが)らしの銃声が一発鳴り響く。ジャングルの湿地帯に、一人の兵士が倒れた。それと同時に、一兵卒(いっぺいそつ)の男が歓喜(かんき)の声をあげた。
「敵の殲滅(せんめつ)を確認、殲滅を確認」
 若く瑞々(みずみず)しい声だった。電報を聞けばミラージ国内は祝祭(しゅくさい)(ばん)を全ての町で行うだろう。古今東西の酒、料理を招集した勝利の(うたげ)だ。第三六大隊が攻め入ったソニアミス山脈は、敵国であるスナルデンの兵糧(ひょうろう)ルートの一つであり、飛行場でもあった。スナルデンにとってこの場所は絶対に譲れない土地だったのだ。
 五年にも及ぶミラージの独立戦争は、終わりの足音を迎えようとしていた。
 ミラージ兵士は列を作り、倒れたスナルデン兵士達の方を向いた。彼らは直立したままライフル銃を真上に向け、片手で銃を持ったまま腰を少しだけ曲げる礼をした。戦死者達に対する慰霊(いれい)()だった。
 儀が終わると、ほとんどの兵士はその場に座り込んだ。
 ジャングルでの戦いは消耗戦だった。
「皆さん、お水が届きました。お待たせしました」
 兵士達の背後から、医療班と食料班が訪れる。率先して先立っていたのは医療班の新人、アロナ・クレッタだ。彼女は楕円形(だえんけい)の眼鏡をかけた二十三歳の最年少であり、真面目で誠実な性格もあいまって新人ながら戦場で活躍していた。水の到着で兵士達の士気を上げようとしたアロナだったが、ミラージ兵士達の疲弊(ひへい)はとうに限界を超えていた。
 班で別れて水とパンを全員に配る傍ら、アロナは大隊長であるロスタニクに駆け寄った。彼は前の戦いで右腕を失っており義手になっている。尋問で傷だらけになった身体を(おお)い隠すように黒い軍服を着ていて、首には彼にとってのお守りである銀色のネックレスが巻かれていた。
 他の兵士達と同じく、ロスタニクもまた困憊(こんぱい)の真っ只中にいた。持っていた銃を落とし、木に持たれかかっている。アロナは彼の肩に入り込もうとしていたムカデを追い払うと、自分の水筒を開けて彼の口に運んだ。ロスタニクは短い黒紅色の髪を揺らしながら、水を求めて次々と飲んでいった。
「ロスタニクさん、傷は大丈夫ですか」
 アロナは触診(しょくしん)しながら訊ねた。
「義手が使い物にならなくなったくらいだ」
 身長が高く、大柄な隊長。アロナはそんな彼が、今は小さく見えた。
 持ってきたブルーベリーバターのパンを差し出すと、ロスタニクは黙ってそれを受け取る。細長く、手のひらに乗ったら溢れんばかりの大きさだ。焼きたてらしく外は熱がまだ残っていて、硬い。数ヶ月のジャングル生活の中で一番の貢献者(こうけんしゃ)といえば、彼はパンを挙げるだろう。
 片腕でそれを見ていたロスタニクは、不自然な笑みを浮かべた。アロナは首を傾げたが、その途端彼女の口の中にパンが入り込んできた。ロスタニクが突っ込んだのだ。
 唐突(とうとつ)悪戯(いたずら)にアロナは(あわ)てて、落としかけたパンをギリギリ掴んだ。
「それはアンタが食べな。口の中に入ったら、そいつはもうアンタの物だ」
 着ていた白の上着にパンクズが落ちた。それを手で払ったアロナは、愚痴でももらすかのように口を尖らせてこう言った。
「せっかくロスタニクさんのために作ったのに。これ、特製だったんですよ」
 仕方なく出来立ての内に自分で作ったパンを食べるアロナに向けて、大隊長は活気が少し戻ったかのような笑い声を上げるのだった。
 薬の効果が出ており、兵士達にヒルや危険な生物はついていない。ソニアミス山脈に生息する毒ヘビにも効果があり、医療班は直接戦闘には立っていないが勝利に導くためには必要不可欠な存在だった。アロナは戦争に参加した自分の勇気に誇らしい感情を抱いていた。
「後はスナルデンの降伏を待つだけですね」
 独立戦争を引き起こした張本人の個民(こみん)党、党首であるスカルマチョは昨日の電報を聞いてから既にスナルデンに叩きつけるための条約を作り始めていた。勝ちを確信したからだ。内容を知っているのは本人と彼が従えている私兵のみ。
「そうだな」
 戦いに勝利した。それは喜ばしいことだ。独立が認められ、ここに新たな歴史が刻まれていく。歓びに浸るアロナと比べて、ロスタニクの目はどこか遠い空の彼方(かなた)にあるのだった。
 パンを食べ終えた彼女は立ち上がり、周囲を見回した。身体を一回転させるほど大げさに。
 一言で言い表せないほどの凄惨(せいさん)さに、さっきまで心に浮かんでいた勝利という文字が消え失せた。戦場に慣れたとはいえ、心が圧し(つぶ)されそうになる。
 空を見上げたまま、ロスタニクは(つぶや)いた。
「俺たちは何に勝ったんだろうな」
 負傷した兵士は次々と貨物用ヘリや馬車、ジャングル用のトラックに乗せられていく。ほとんどの兵士には麻酔(ますい)が使われるが、今日では麻酔の不足を招いて麻薬が使われていた。非合法だが、四の五の言っている時間は無かった。
 担架(たんか)で運ばれていく様子を見ながらも、ロスタニクの問いかけにどう答えを出すべきか悩んだ。分からなかったのだ。
「残存兵士一名確認! 隊長、指示を求めます!」
 近くから声が聞こえてきた。アロナは咄嗟(とっさ)に声がした方へと駆け出した。ロスタニクは重い腰を持ち上げゆっくりとアロナの後を追った。
 生き残ったスナルデン兵は灰色のベレー帽をかぶっていて半裸、アロナはその兵士に付着した小型のヒルをピンセットで排除した後、傷口を確認した。
 ぬかるんだ地面の上で横たわっていた彼に時間はなかった。銃創(じゅうそう)はいくつも目立っていて、貫通していない弾丸もある。血はとめどなく流れており、例え最新の医療室で手術をしたとしても助かる見込みはない。
 彼を思うならば、ここで頭を撃つ方がまだ人道的だった。
 ロスタニクもそのつもりで、部下にそう命じた。
「三分、時間をくれないか」
 兵士は弱々しい声で言った。アロナはこう感じた、彼は兵士に向いていないのではないかと。まるで、花屋の店主だ。美しい花をあるべき人に売るような優しい顔立ちをしていた。まだ若く、三十台くらいだろうか。
 彼の傷口が見えないように、アロナは羽織っていた白の上着を彼の上半身にかけた。
「君は、医者だね」
 持っていたハンカチで彼の顔を拭きながらアロナは頷いた。
「誰でもいい。これを、とある人に届けてくれないか」
 小刻みに震える手を使いながら、兵士は懸命(けんめい)にポケットの中をまさぐっていた。
 取り出してアロナに渡したのは、血のついた封筒(ふうとう)だった。振ってみると、中から紙が(こす)れる音が聞こえる。白い封筒には筆記体で名前が書かれている。
「スナルデンの小鳥(ことり)地区に……マクスウェルという女性がいる。彼女に、これを」
 喉の奥から絞り出すような声でそう告げた後、兵士はロスタニクの方を向き最後の力を振り絞って首を縦に振った。ロスタニクもそれに応じると、部下に射殺を命じた。
 封筒を受け取ったアロナは立ち上がり、銃声が鳴る前に耳を塞いで後ろを向いた。
 小鳥地区。ミラージで育ってきたアロナにとって聞き覚えのない場所だった。主要都市は把握(はあく)しているから、田舎か農村かどちらかだろう。
 こもった銃声が鳴り終わると、彼女はロスタニクの方を向いた。
「確か、二十一小隊の人達はスナルデンの土地に詳しかったですよね。その人達に任せるというのはどうでしょうか」
 一番適当な判断だと思えた。だがロスタニクはアロナに見向きもせずにこう言った。
「手紙は、燃やさなければならない」
「そんな!」
 奪われてしまうような気がして、アロナは手紙を守るように自分の胸に引き寄せた。
「大事な手紙かもしれません。あの人は私たちに託してくれたんですよ」
 沈黙(ちんもく)を破るのに、ロスタニクは数秒かけた。
「マクスウェルというのがどんな奴かも分からん。この男は見た目こそ一般兵士だが――じゃあ仮に、その手紙のせいで俺たちの……日々が、無駄になったらどうする」
 反論する言葉を持ち合わせていないアロナにとって、唯一の対抗手段が手紙を守るというものだった。ロスタニクは彼女を一瞥(いちべつ)したものの、強引に奪い取ろうとする素振りはみせない。二人のやり取りを最初から見ていた、銃によって命の尊厳(そんげん)を保った兵士は黙して無表情だ。
「もし一時間経っても反論できないならその手紙を俺に渡せ。いいな」
 厳しい提案だったが、これもまた反論の余地がない。むしろ一時間という時間をくれただけ恩赦(おんしゃ)だろう。
 敵兵士の望みを叶える。立派な反逆罪だ。スカルマチョにとってスナルデンは憎むべき敵対勢力であり、それらの兵士一人一人を皆殺しにしろという命令が下されている。ロスタニクも寡黙(かもく)な兵士も、司令部に報告すれば刑務所行は免れない。
 しかし、アロナは諦めなかった。部隊から少し離れた場所で一人、与えられた一時間を使って必死に考えた。この手紙は届けるべきだという根拠のない確信を、どう大隊長に伝えるべきか。
「いや、それじゃあ不十分だよね」
 川の前に立ち、独り言のように呟く。血が黒い染みとなって乾き始めており、遺品とも言えるそれを大事に見降ろしながらアロナは何度も何度も考えた。
 大隊長に言うのではない、スカルマチョに言うべきだと頭を切り替える。スナルデンを憎んでいる男に、どうやって説明するべきかと。
 五十分経ち、彼女はとある結論に辿り着いた。最初から答えなんてないのだ。ロスタニクには反論できるだろう、これはただの手紙かもしれない。考え過ぎだと。問題はその後、考えられるほとんどの手紙を燃やすべき理由に対して明確な答えが見つけられずにいたのだ。
 一時間が経過する五分前。アロナはとある決断をした。
 手紙を隠しながらトラックの前まで戻り、同僚の分だった水筒とパンを二つくすねる。周囲の人達はまだ軽傷の手当や水の確保に勤しんでいる。兵士達は疲れ果ててまだ立ち上がれそうにない。つまり好機(こうき)は今だった。
 アロナはパンと水筒、手紙を持って――逃げた。
 地面は滑りやすいし、靴はもう泥が足に侵食していて衛生的とは言えない。今すぐにでもシャワーを浴びたい気持ちを抑えて、黒いシャツと膝元までのズボンという軽装でスナルデンとの国境に向かって歩き始めた。


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 木枯《こが》らしの銃声が一発鳴り響く。ジャングルの湿地帯に、一人の兵士が倒れた。それと同時に、一兵卒《いっぺいそつ》の男が歓喜《かんき》の声をあげた。
「敵の殲滅《せんめつ》を確認、殲滅を確認」
 若く瑞々《みずみず》しい声だった。電報を聞けばミラージ国内は祝祭《しゅくさい》の晩《ばん》を全ての町で行うだろう。古今東西の酒、料理を招集した勝利の宴《うたげ》だ。第三六大隊が攻め入ったソニアミス山脈は、敵国であるスナルデンの兵糧《ひょうろう》ルートの一つであり、飛行場でもあった。スナルデンにとってこの場所は絶対に譲れない土地だったのだ。
 五年にも及ぶミラージの独立戦争は、終わりの足音を迎えようとしていた。
 ミラージ兵士は列を作り、倒れたスナルデン兵士達の方を向いた。彼らは直立したままライフル銃を真上に向け、片手で銃を持ったまま腰を少しだけ曲げる礼をした。戦死者達に対する慰霊《いれい》の儀《ぎ》だった。
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 班で別れて水とパンを全員に配る傍ら、アロナは大隊長であるロスタニクに駆け寄った。彼は前の戦いで右腕を失っており義手になっている。尋問で傷だらけになった身体を覆《おお》い隠すように黒い軍服を着ていて、首には彼にとってのお守りである銀色のネックレスが巻かれていた。
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 唐突《とうとつ》な悪戯《いたずら》にアロナは慌《あわ》てて、落としかけたパンをギリギリ掴んだ。
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 仕方なく出来立ての内に自分で作ったパンを食べるアロナに向けて、大隊長は活気が少し戻ったかのような笑い声を上げるのだった。
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 一言で言い表せないほどの凄惨《せいさん》さに、さっきまで心に浮かんでいた勝利という文字が消え失せた。戦場に慣れたとはいえ、心が圧し潰《つぶ》されそうになる。
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 反論する言葉を持ち合わせていないアロナにとって、唯一の対抗手段が手紙を守るというものだった。ロスタニクは彼女を一瞥《いちべつ》したものの、強引に奪い取ろうとする素振りはみせない。二人のやり取りを最初から見ていた、銃によって命の尊厳《そんげん》を保った兵士は黙して無表情だ。
「もし一時間経っても反論できないならその手紙を俺に渡せ。いいな」
 厳しい提案だったが、これもまた反論の余地がない。むしろ一時間という時間をくれただけ恩赦《おんしゃ》だろう。
 敵兵士の望みを叶える。立派な反逆罪だ。スカルマチョにとってスナルデンは憎むべき敵対勢力であり、それらの兵士一人一人を皆殺しにしろという命令が下されている。ロスタニクも寡黙《かもく》な兵士も、司令部に報告すれば刑務所行は免れない。
 しかし、アロナは諦めなかった。部隊から少し離れた場所で一人、与えられた一時間を使って必死に考えた。この手紙は届けるべきだという根拠のない確信を、どう大隊長に伝えるべきか。
「いや、それじゃあ不十分だよね」
 川の前に立ち、独り言のように呟く。血が黒い染みとなって乾き始めており、遺品とも言えるそれを大事に見降ろしながらアロナは何度も何度も考えた。
 大隊長に言うのではない、スカルマチョに言うべきだと頭を切り替える。スナルデンを憎んでいる男に、どうやって説明するべきかと。
 五十分経ち、彼女はとある結論に辿り着いた。最初から答えなんてないのだ。ロスタニクには反論できるだろう、これはただの手紙かもしれない。考え過ぎだと。問題はその後、考えられるほとんどの手紙を燃やすべき理由に対して明確な答えが見つけられずにいたのだ。
 一時間が経過する五分前。アロナはとある決断をした。
 手紙を隠しながらトラックの前まで戻り、同僚の分だった水筒とパンを二つくすねる。周囲の人達はまだ軽傷の手当や水の確保に勤しんでいる。兵士達は疲れ果ててまだ立ち上がれそうにない。つまり好機《こうき》は今だった。
 アロナはパンと水筒、手紙を持って――逃げた。
 地面は滑りやすいし、靴はもう泥が足に侵食していて衛生的とは言えない。今すぐにでもシャワーを浴びたい気持ちを抑えて、黒いシャツと膝元までのズボンという軽装でスナルデンとの国境に向かって歩き始めた。