「ごめんなさいね、高校生が飲むようなジュースがなくて」
麦茶の入ったコップをテーブルに置くと、莉帆の母親は申し訳なさそうに笑った。
「いえ、気を遣わないでください。オレが勝手にお邪魔しているだけですから」
たった今、仏壇に供えたばかりの線香からゆらゆらと煙が立ち上り、気流に乗って廊下へ流れてゆく。
ふと莉帆がひょっこり現れそうな気がして、煙の消えた先に目を凝らしたが、そんなことが起こるわけもなく、遺影の写真が笑顔を張り付けているばかりだった。
「娘とはどんな付き合いだったの?」
莉帆の母親は座卓を挟んで真向かいに腰を下ろすと、興味津々といった顔で目を輝かせた。
娘の恋バナを期待しているようだが、オレが期待に応えられるはずもなく、申し訳ない気持ちになりながらテーブルに視線を泳がせた。
「あ、あの……莉帆さんとはそのなんというか。オレ、さっきの上野君の同級生であいつとよく遊んだんですけど、そのときに莉帆さんによくしてもらって……。そんな感じです」
我ながら咄嗟に上手い嘘を吐いたものだ。自画自賛に拍手喝采の幻聴が聞こえ始めたとき、
「よく言うよ。上野君と遊んだのは桜花川に突き飛ばされたときが最初で最後だし、莉帆ちゃんとは昨晩が初対面だ」
真之助が隣から口を挟むから、オレはムッとする。
「お前は誰の味方なんだよ」と言い返したい衝動に駆られたが、ストローに口を付けて麦茶と一緒に言葉を飲み下した。
そして、いよいよ目的を果たすために膝を正す。咳払いをひとつして、喉の調子も整えると莉帆の母親に向き合った。
「実は今朝、莉帆さんの夢を見たんです」
脳内シミュレーション通りに言葉を選ぶ。
「お母さんに伝えて欲しいことがあると莉帆さんからメッセージをもらったので、急にお邪魔しました」
「あらまあ。娘はなんて?」
莉帆の母親は莉帆とよく似た顔立ちに驚きを混ぜた。
「『親不孝な娘でごめんなさい』と言っていました」
沈黙の帳が落ちた。
柱にかかった振り子時計がチクタクと大袈裟に時を刻む。そこに空気が擦れるような音が覆い被さった。クスクスと莉帆の母親が笑ったものだから、オレは驚いた。
「いきなり笑ってしまってごめんね。あの子らしいと思って」
莉帆の母親は両掌を湯飲み茶わんで温めるように包み込んだ。
「ほら、あの子、たくさん無茶なことをしたでしょ。私に心配かけて、たくさん泣いて、お互いに傷つけ合って。莉帆のことだから、そのことを謝ったつもりなんだろうけど、私、ちっとも苦じゃなかったのよ。だって、莉帆はどんなことがあっても私の娘で、私はあの子の母親だもの。一番の親不孝はそうね、親よりも先に逝ってしまったことね。でも、これで謎が解けたわ」
「謎……ですか?」
莉帆の母親は頷いた。
「おばさんも真君と同じで、実は今朝、あの子の夢を見たのよ。小さな女の子を連れた莉帆が私に手を振ってくれたの。死ぬ前はケンカが絶えなかったんだけど、あの子のあんな笑顔、久しぶりに見た」
そう言うと眩しそうに目を細め、仏壇の写真立てに視線を流した。
つられて、オレも莉帆の笑顔を見る。
心なしか昨晩よりも少し幼く見えた。もしかすると、莉帆が亡くなる頃よりも、もっと前に撮られたものなのかもしれない。
「不思議ね、今まで夢に出てきてくれなかったのに。あの子が死んでから初めてのことよ。真君が来てくれたことで、莉帆が夢に出てきた理由がわかった気がする。あの子、やっとあの世に逝けたのね。きっと、あの小さな女の子は迷子だった莉帆を迎えに来てくれた天使だったんだと思う」
おいねと莉帆がこの話を聞いたら、どう思うだろうか。
「おいねは天使じゃなくて守護霊なのに」と母親の誤解を笑うだろうか。
それとも、母親の前で、天国から遣わされた使者を演じ続けるだろうか。
確かめてみたいと思ったが、昨夜、出会ったばかりの彼女たちはどちらも死者であり、今はもうこの世に存在しないものたちであり、オレの手が届かない遥か遠い場所に逝ってしまったのだ。
今更ながら、そんな当然のことを理解し、幽霊に出くわした気分になった。実際、幽霊なのだが。
テーブルにポトリポトリと水滴が垂れた。莉帆の母親が泣いていた。
「大丈夫ですか」とポケットからティッシュを差し出そうとしたとき、どういうわけか莉帆の母親がオレにティッシュボックスを寄越してくる。
「真君も使って」
「あ、ああ──」
気づかないうちにオレも泣いていたらしい。
健闘を称え合うサッカー選手のユニフォーム交換のように、莉帆の母親とティッシュを交換して、悲しみを分け合った。
※ ※ ※
「泣いて消費したエネルギーを補給しよう」と莉帆の母親から生クリームがたっぷり入ったシュークリームをご馳走になったあとで、オレはもうひとつの任務を思い出した。
正確には思い出したは誤りで、真之助に小突かれショック療法的に思い出さざるを得なかったといった方が正解だ。
指についた生クリームを名残惜しく舐めながら、切り出す。
「それと、もうひとつ莉帆さんからメッセージを預かっていて」
「まだあるの?」
「今度はお母さんに、ではなくて、大ちゃんという人なんですが」
「大ちゃん……?」
オウム返しに呟くと、大ちゃんに思い当たったのか、莉帆の母親は日が射し込んだかのような明るい声を上げた。
「ああ、大ちゃん!」
軽快に腰を上げた莉帆の母親は、仏壇の引き出しから何かを取り出し、オレに見せてくれた。
莉帆のスマホだった。事故による衝撃のためか、画面には稲妻のような形の亀裂が走っている。
「これ、あの子のスマホなんだけど、本当はクマのストラップがついてね」
「人を食ったような顔をしたタレ目のクマですよね」
「真君はよく覚えてくれているのね」
覚えているも何も、昨日莉帆のポケットからクマのマスコットが振り子のように揺れるのを見たばかりなのだ。
しかし、さすがにそれは言えず、莉帆の母親の瞠目の視線を受けながら、オレは愛想笑いを浮かべるしかなかった。
「あのクマなんだけど、実は四十九日に、莉帆の形見分けとして大ちゃんにあげたのよ」
「大ちゃんにあげた……?」
「ほら、莉帆はヤンチャしたり、痴漢騒ぎに遭ったりで、警察の人にお世話になることが多かったでしょ。だから、大ちゃんにも形見分けをしたの」
「大ちゃんは警察関係者なんですか?」
「そうよ。ちょっと待っててね」
莉帆の母親はもう一度席を立ち、今度は電話台の引き出しをガサゴソやったあとで、一枚の名刺を渡してくれた。
目を疑った。
「この人が大ちゃん。昨日もね、莉帆の命日だからって忘れずにお線香を上げに来てくれたのよ。今、真君が食べたシュークリームも大ちゃんが仏前に持ってきてくれた手土産だったの。懐かしいわね、あの子ったら警察の人を『大ちゃん』と馴れ馴れしく呼んでいたっけ──」
莉帆の母親の声が遠くなる。
手渡された名刺には見覚えのある名前がはっきりと印字してあった。