目的の浅間坂にバスは到着した。
たった数十分の移動であるのに、一気に老け込んでしまったのではと疑うほどの疲労感が全身に停滞している。
今なら、玉手箱を開けたせいで若者から老人になってしまった浦島太郎のよき理解者になれる自信がある。
だが待てよ──上野をなだめ、周囲の乗客たちを気遣い、気苦労を重ねた殊勝なオレに対して、浦島太郎は竜宮城で享楽の限りを尽くし、いい夢を見てきたあとではないか。
浦島太郎ごときにオレの苦労がわかってたまるかと、すぐに前言を撤回する。
料金を支払い、バスを降りると、なぜか上野があとを付いて来た。
「付いてくんなよ」
乱暴に言葉をぶつけると、
「ここ、オレん家の最寄り駅。誰が崎山に付いていくかっつうの。邪魔!」
仕返しとばかりに強く肩をぶつけられ、バランスを崩してしまった。それを見た上野は満足そうに片方の唇を引き上げ笑うと、浅間坂を上っていく。
イヤなやつ。
ムッとはしたが、よくもまあ、恥ずかしげもなく泣きじゃくったあとに、ふてぶてしい態度を取れるものだ。と気持ちの上ではもはや称賛に近い。
オレは気を取り直して、スマホの地図アプリを起動させた。
莉帆から教えてもらった住所を入力したところ、誤りがあるのか、逆さまの涙マークが明後日の場所を指している。
「莉帆のやつ、自分ん家の住所を間違えるとか、マジでありえねえだろ。天然か」
「狐につままれた気分だね」
「幽霊に、だろ」
真之助と額を突き合わせ、スマホに向かってブツブツ文句を垂れていると、
「どこに行きたいんだ?」
上野が戻ってきていた。
4B鉛筆の濃い眉を怒らせ、ポケットに突っ込んだ手には凶器を隠し持つ剣呑さを漂わせているが、口調は意外にも柔らかい。
本当なら邪険にして追い払うつもりだったのに、うっかり莉帆の「戸高」姓と住所を口にしてしまったのはそのせいだ。
上野は顎に手をあて、考える素振りをしていたが、「それって」と言った。
「オレの知っている戸高さんだと思う。住所の番地が違うけど」
「番地が違うって?」
「そんな番地、この辺りには存在しねえし、戸高姓は一件しかねえんだよ」
真之助を見ると、やっぱり幽霊につままれたような顔でオレを見ている。
「戸高さんはオレん家と目と鼻の先。崎山がどうしても連れて行って欲しいと頼むんだったら、面倒だけど、連れて行ってやってもいいけど。──なんだよ、変な顔しやがって文句あんのか」
「さてはお前、見返りとしてオレから金を分捕ろうとする算段だな」
「はあ? どうしてそうなるんだよ」
上野は舌打ちを飛ばすと、イライラを振りまくように頭をかいた。
「別に金を出せって言っているわけじゃねえよ、崎山なんかに借りを作るのも癪だから言ってんの!」
そして、ボールを投げつけるように一方的に言い放ち、さっさと歩いて行ってしまった。
「やっぱり、上野君は恥ずかしかったんだね」
「あれだけバスの中で泣き叫べばな」
オレたちは起動が遅いパソコンのように、遅れて上野の背中を追いかけることにした。
新緑の匂いをたっぷり含んだ風が心地よい。木漏れ日はゆらゆらと揺れ、鳥たちの陽気な歌声をいくつも運んでは後方へと流してゆく。昼間に見る浅間坂は夜とは別世界のように生命が息づき賑やかだった。
「そういえば」
ふいに上野が立ち止まった。
「戸高さん家にはオレたちより少し年上の娘がいたんだけど、何年か前に死んだんだ。可哀想に、まだ十代だったのにな。小さい頃は一緒に遊んだこともあったんだぜ」
莉帆のことだろう。通り魔事件の立て看板の横を通り過ぎたとき、上野の横顔には珍しく同情の色が浮かんでいた。
「タイプだったから、密かにあの娘のこと狙ってたんだよ。惜しいことしたなあ」
「莉帆と幼馴染だったのか」
「そこまで親しくなかったけど」
「なあ、大ちゃんって知ってるか?」
「誰だよ、それ。んなことより、莉帆って……崎山、彼女のこと知ってんの? つうか、どうしてお前、戸高さん家に向かっているわけ?」
「ええとー、莉帆と約束したことがあったから、それを果たしに。も、もちろん約束したのは生前の話だぜ」
「あっそ」
上野は怪訝そうにしていたが、結局納得したようで深く追求してこなかった。
浅間坂の脇道、旧桜並木街道に入り、莉帆が立ち竦んでいた浅間神社裏の駐車場を通り過ぎると、長閑な田園風景が広がっていた。
作業を終えたトラクターが泥を振り落としながらのんびり走っている。
目指す先は前方の小さな集落ようだ。聞けば、上野の家もそこにあると言う。
オレたちはトラクターが振り落として行った泥を辿った。
集落に入って中ほどのところで、上野はとある一軒の家をぶっきらぼうに顎で指し示した。
古めかしい大きな二階屋で、玄関までのアプローチがやけに長い。農家に多い家の作りだ。ここが莉帆の家らしい。
「道案内、サンキューな」
「おい、崎山」
早速、家の周囲を探索し始めた真之助に合流しようと足を速めたとき、上野に呼び止められた。
振り返ると未練がましい顔がオレを見ている。
何か聞いて欲しい話がある。そう直感した。
「斑金髪のことで話があるのか?」
「そうじゃねえけど」
上野はスニーカーに視線を逃がした。
「崎山は、どうしてオレがお前を毛嫌いしているか聞かなくていいのか?」
「興味ない」
「オレがせっかく話してやるって言ってんだから、少しくらい興味を持てよ」
「だったら、三分だけ時間をやるよ。手短にな」
オレは腕時計をしていないにも関わらず、左手首をトントンと叩いて、時間に追われるサラリーマンを演出した。
というのも、時間を持て余した真之助が、庭にやって来た猫にちょっかいをかけたり、木に登ったり、と奔放に振る舞っているから、気が気でなかったのだ。
「わかった」
上野はしっかり頷いてみせたが、「オレの親、ガキの頃に離婚してんだけど」と、明らかに長丁場決定の話をしてくる。
これは三分で終わらせるつもりはないなとオレは腹を括る。真之助にはあとで厳しく注意をしよう。
「親の離婚の原因が、親父のクスリだったわけよ」
上野は淡々としていた。
「親父はクスリの常習犯でさ、逮捕されたあと、母親はすぐに離婚して新しい男を作ったんだ。親父は酒乱だったし、働かないし、どうしようもないやつだったけど、新しい男は輪をかけてサイアクで、お袋の目を盗んではオレを殴りやがった。『お前なんか死んじまえ』って唾を吐き捨てられ、寒空の中ベランダに追い出されたこともあった。ライオンのプライドと一緒。新しいボスは旧ボスの子供を殺したがるんだ。だから、オレはプライドを取り戻すため、行動に出た。中学の頃──」
上野はポケットに突っ込んでいた手を引き抜き、拳をグッと握り締め、力の限り叩きつける真似をした。
「こんな風に灰皿でぶん殴って男の寝込みを襲ったんだ。ざまあみろっての。男は大怪我を負って家から出て行った。オレはプライドの頂点を奪還したんだ」
幼少期の心の傷を、事も無げに話す上野だが、その傷は恐らく今も癒えていないだろう。高所から人を見下すような態度を取ったり、プライドのトップに異常なほどの執着を見せたりするのは、傷が化膿している証拠に思えたからだ。
オレは初めて上野に同情したが、だからと言って、自分がされたことを水に流すつもりはなかった。
「それがオレとどう関係するんだ?」
「オレの人生を狂わせたのは警察なんだよ。親父が警察に逮捕されなかったら、オレはもっとマシな人生を歩めたはずなんだ。崎山のじいさん、警察だろ?」
上野は鋭利な刃物で突き刺すように、オレに指を突きつけてきた。
「だから、崎山。お前が全部悪い!」
「逆恨みも大概にしろよ!」
上野の身勝手さには呆れ果てるしかない。
「オレが崎山を桜花川で溺れさせたのも、プールに突き落としたのも、全部お前がそうさせたんだ。オレは何も悪くねえ!」
「バカじゃねえの。全部上野が悪いんだよ。お前のせいでオレは水恐怖症になったんだぞ、オレだって一生が台無しだ!」
窮鼠、猫を噛む。この言葉を今ほど信じたことはない。窮地に陥ったとき、ネズミは猫に立ち向かうのだ。それが例えライオンであっても──。
上野を本気で殴り倒してやろうと意気込み、拳を構えたとき、
「あら、上野さんのところの聡君?」
女性の声が割って入った。
声の方を見ると、農作業着姿の中年女性が敷地内から姿を現していた。
「ドモ」
いきなり態度を豹変させた上野がしおらしく会釈をすると、女性は被っていたツバの広い帽子を脱いだ。
「しばらく見ないうちにずいぶん大きくなって」
「オレのトモダチが莉帆さんに世話になったとかで、線香を供えたいって言うから連れてきました」
借りを返しているつもりか、上野がよくできた出まかせを口にする。オレは友達じゃないと否定したかったが、ここは上野に委ねた方が賢明だと判断し言葉を飲み込む。
「ぜひ、そうしてあげて。あの子も喜ぶから。さあ、家に上ってちょうだい」
女性は莉帆とよく似た色素の薄い瞳を細め、にこりとオレに微笑んだ。
※ ※ ※
「オレ、崎山のこと嫌いだからな」
上野がいきなり公言した。
オレが玄関に向かう莉帆の母親のあとを付いて行こうとしたときだ。
ふてぶてしさを復活させた上野は、動物園からサバンナに放ったライオンのように生き生きとしている。
「オレだって上野が大嫌いだよ」
負けんと語調を強める。
「さっきので借りを返したと思うな。オレは上野がちゃんと謝るまで、今までのことを許さないからな」
「許してくれなくて結構だよ。勘違いしているみたいだから言っとくけど。オレ、本当の意味でプライドのトップになったこと、一度もねえから。母親はまた別な男を作って、オレはプライドを奪われちまったし、今もそう。学校にも家にもオレの居場所はねえんだ。ライオンは群れを作る動物なのに笑えるだろ」
そう言う上野は達観した仙人のようにあっけらかんとしていたが、オレには膝を抱え、人一倍孤独に怯えている子供のように映った。
「プライドからはぐれたライオンは野垂死にするしかねえんだ」
──オレはライオン、百獣の王。
そう強く信じ込んでいる上野が己を保つには、天に向かってどこまでも高く梯子をかけ続け、追い越そうとするものを蹴落とし、力で支配する術しか知らないのだ。良くも悪くも、それがライオンとしての上野らしい生き方なのだろう。
「家の問題はわかんないけどさ。学校の方はまた仲間作って、新しくプライドを作り直せばいいじゃん。今度は斑金髪に対抗できるくらいの大人数集めてさ」
オレとしてはライオンのプライドを守る名案を挙げたつもりだったが、
「バカか、お前。オレがまたプライドを作ったら、崎山をイジメ倒すだろうが」
「あ、そっか」
「平和ボケしてんじゃねえよ」
上野に笑われ、ムッとしたが、そこにいつもの邪気はなかった。
じめじめとした空気を蹴散らす笑い声に引きずられ、オレも少し笑った。
「失礼なやつだな」
「いいか、斑金髪には近づくなよ。崎山じゃあ、手も足も出ない相手だからな。それとこれはついでだから、教えておいてやる。オレよりヤバいやつがいる」
「だから斑金髪だろ」
「ちげーよ」上野は首を振った。
「お前もよく知ってるやつだよ。気ィ抜くんじゃねえぞ」
「どういう意味だ?」
上野は虫でも追い払うように手のひらをヒラヒラとやって去っていった。
最後に謎かけを残していく上野はやっぱり性悪ライオンだ。