真田は指示された場所にやってきた。そこは上加茂神社より少し北にいったところの歩道の上だった。ちょうどそのあたりに結界があって、かつ結界のかなめとなるものが埋められている場所でもあった。公の場だが、人目など気にしている場合ではない。
地面にミネラルウォーターと日本酒をまいて、土地を清める。さらにお香を焚いて、その場の神聖な力を高めていく。
そこまでしてから、彼は神楽鈴を持った状態で、合図を待った。やがて、合図の花火があがった。そこで彼はお経を唱え始めた。
「唱え奉る光明真言は大日普門の万徳を二十三字に集めたり・・・・・・」
彼は要所で神楽鈴を鳴らして、場を清めた。そうして神様を呼び寄せて、結界を張るのだ。
「仏説 摩訶般若波羅蜜多心経 観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空・・・・・・」
彼は般若心経を唱えていく。
その時、道路の向こう側から何かがやってくるのが見えた。それが十メートルくらい近づいてきたところで、彼はぞっとするような寒気を覚えた。
それは全裸の首無し人間みたいな姿をしていて、胸のあたりに顔があって、全身の色がくすんだ肌色をしている、ジャミラのような姿をした悪鬼だった。
それが大きく跳躍して、彼のすぐ目の前に着地した。近くで見ると、目をそむけたくなるほど不気味な容姿だった。
そして悪鬼が目の前で、お経のようなものを唱えはじめた。しかしそれは、お経とは似ても似つかぬ、珍妙なものだった。
ところがそれが唱えられたとたん、彼のお経で作り出した神聖な力がかき消されていった。
彼は動揺した。なぜお経の効果がかき消されるのか。そもそもなぜ悪鬼がお経を破壊したりできる?
少しして、彼は思う。こいつはこちらのやり方を知っていて、だからこそ破壊の仕方も知っているのかもしれない、と。
そう考えてよくよく聞くと、悪鬼の唱えているものが般若心経をさかさまから読んだものだとわかった。
ふと、悪鬼と目が合った。すると、悪鬼の目に吸い込まれそうな感覚になった。急に強い眠気を感じて、立ったまま眠りそうになる。
しかしかろうじて意志の力で目を下にそらす。
どうやら幻術でこちらを眠らせようとしていたようだ。もしここで眠ったりしてしまったら、結界の張り直しに失敗するはめになる。そうなれば、眠っている間に死ぬことになるだろう。
目をそらして油断していたら、今度は悪鬼の膝のあたりで目が開いた。下を見ていた彼はその目をまともに見てしまった。
今度はだめだった。視界が暗くなっていくとともに、体から力が抜ける。お経も途絶えてしまった。
薄れゆく意識の中、悪鬼の不気味な笑みが見えた。恐怖を感じているのに、眠気にあらがえない。それが悔しかった。
その時、背中をばん、と強くたたかれた。一気に目が醒めて、同時に全身に力が戻った。
「起きてください」
若い男の声がそう言った。いつの間にか、彼の横に背の高い、天然パーマの若い男が立っていた。
天然パーマの男は目を閉じた状態で、大きな音を立てて両手のひらを合わせた。それから、両手をばっと前に突き出した。
その直前に、悪鬼が大きく左に動いた。まるで何かから逃げようとするように。
しかし完全には間に合わなかったようだった。それというのも、悪鬼の右足の動きが凍り付いたようにぴたりと止まって、悪鬼の動きが一瞬ではあるが止まったからだ。
「外したか」
天然パーマの男は両手を悪鬼のほうへ向けようとした。何が起きているのか、彼には見えない。しかしおそらく、両手が悪鬼のほうを向けば、悪鬼は完全に動けなくなるのだろう。
しかし、そうはならなかった。それというのも悪鬼は自分の右半身をちぎって、左半身だけで逃げ出したからだ。そして、ほんの一瞬のあいだにどこかへ姿を消してしまった。
「ああ、逃げられたか。でもまあ、いいか。それより、結界をなんとかしないとな」彼は独り言をつぶやいた。
「あの、すみません。あなたは何者なんですか?」
「あ。えっと、それはあとで説明します。それより今から、この張ってある結界の術式を組み直して、より強力なものにしたいのですが、いいですか?」
「え、あ、ど、どうぞ」
彼はついなんとなく、そう答えてしまった。しかし不思議と悪いかんじはせず、むしろそれでうまくいくような気がしていた。
「それでは、いきます。すみませんが、お経を唱え続けてもらってもいいですか?」若い男は言ってから、再び手を合わせた。
「あ、はい。
三世諸仏 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離 一切 顛倒夢想・・・・・・」彼は先ほどの続きからお経を唱えだした。
彼は手を合わせたまま静止していた。しばらくして、彼は両手を前に突き出した。それから、両手を左右に払うようなしぐさをして、また正面に戻した。
「是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪・・・・・・」
天然パーマの男が手を複雑に動かしたりしているあいだ、彼はお経を唱え続けた。
やがて、彼は手を下ろした。それから、大きく息を吐きながら、その場に腰を下ろした。
「もう大丈夫です」
「それは、どう大丈夫なんですか?」
「結界を、簡単には壊されないように丈夫に張り直したのと、あと邪な気持ちを持つ霊が結界に触れたら凍りついて動けなくなるようにしました。たとえると、ゴキブリホイホイみたいなかんじです」
天然パーマの男はなんでもないことのように話していたが、彼にはそれを素直に信じることができなかった。そもそも、触れた悪霊を凍りつかせる結界など、見たことも聞いたこともなかった。
しかし、信じるか信じないかは関係なく、無事に結界を張り直せたことだけは間違いないようだった。もしそうでなければ、目の前で遠巻きに見つめる黒い影たちが一斉に押し寄せていたはずだろうから。
「あの、ところでひとつ頼みごとをしてもいいですか?」
「なんですか?」
「ちょっと、思ったより結界がでかすぎて力を使いすぎてしまいまして。動けなくなってしまったんですけど、家まで送ってもらってもいいですか?」