地震が収まったタイミングで、松田孝は周囲を見渡した。震度5以上はあるように思えた揺れだったが、建物のほとんどは倒壊していない。道路がひび割れているようなこともない。
「大丈夫、怪我してない?」妻の理沙が、後ろの席に座っている娘の亜紗に声をかける。
「うん」妻の問いに対して、娘はうなずく。
車に乗っている最中に地震が起きた時のセオリーは、鍵をつけたまま車を降りて徒歩で移動することだ。地震で建物が倒れたりして道路が塞がっている可能性があるからだ。
しかしそれを行動に移すより先に、前の車が走り始めた。彼は少し迷った末に、周りの車が普通に走っているなら大丈夫だろう、と思って、車のエンジンをかけた。
「今の地震、大きかったね」理沙は言った。
「うん。渋滞しないうちにできるだけ進んでおきたいな。たぶん、これから混むぞ。地震が起きたからっていうので、みんな一斉に帰りだすから」
幸い、まだ車どおりは少なく、スムーズに走れていた。しかし間もなく、渋滞にはまるだろう。せめて夕飯までには家に帰れたらいいが、などと思っていると、娘が奇妙なことを言いだした。
「もえてるおうまさん」
「ん? 燃えてるお馬さん?」なんのことを言っているのかわからなくて、思わず彼は聞き返した。
「おうまさんがいる」
彼はバックミラーで後ろを確認してみた。しかし馬などいなかった。代わりに、後方で車が炎上しているのが見えた。それを見た彼は驚いた。つい先ほど通った時は何もなかったはずだ。どうやら、自分たちの車のすぐ後ろで事故が起きたらしい。そして娘は燃えている車を、燃えている馬と勘違いしたのだろう。
「やだ、あれ事故かな?」
「うん、みたいだ。消防署に通報しとくか」
彼は車を路肩に停めると、スマホで消防署に連絡し始めた。しかし、なかなかつながらない。混線しているのかもな、と彼は考えた。
やがて、留守電に切り替わってしまった。それで彼はいったん、電話を切る。
「ねえパパ! おうまさんきてる! でっかいおうまさんきてる!」
彼は体をよじって後ろを見た。しかし、後方にはなにもいなかった。娘はいったい何を見てそう言っているのか、と彼はけげんに思う。
「亜紗、大丈夫だよ。おうまさんなんていないからね」妻が娘をなだめようと声をかけていた。
と、そこで彼は娘の目の動きに気づく。娘の視線が、まるで何かを追うように向こう側から車のそばへ向かってじょじょに動いているのだ。
彼はその不可思議な光景に、目が釘付けになってしまう。そのうち、娘の視線が、車の真横で止まる。
「ママ、おうまさんが」
娘はそこで言葉を止めた。何かあったのか、と思いながら見守っていると、突然、娘の体が炎上しだした。
〇
京都御苑の近くにあるお寺の住職大観は、地震が収まったあと、寺の外に出た。いつも防災訓練の時に集まっている避難所へ行こうとしたのだ。
門を通ろうとして、彼は立ち止まった。
彼は生まれつき、霊感があって、霊が見えた。だからこそ彼にはそれが見えた。
それは、手足が骨と皮だけになるほどやせ細っていて、皮膚が灰色で、腹だけがぽっこりと出ている化け物だった。それはその場でしゃがみこんで、門から大観を覗き込んでいた。立てば背丈は門の高さを超えるだろう、とおもわれるような大きさだった。
彼は目の前のそれから、今までに感じたことのないような嫌な気配を感じた。これは恐ろしく強い存在だと、彼は瞬時に悟った。
彼は父親から聞いた話を思い出していた。父は、京都の地下には結界があって何かが封印されている、と言っていた。
目の前のこれが、おそらくその何かの正体だろう。
なんと、恐ろしいものなのか。しかしこちらには仏様がついている。負けることなど、絶対にない。
「オン アボキャ ベイロシャノウ マカボダラ マニ ハンドマジンバラ ハラバリ タヤ ウン・・・・・・」
彼は手を合わせて、光明真言を唱え始めた。
お寺の敷地を囲うように結界をかけてあるため、邪悪なものは門より先には入ってこられない。倒すまではできなくとも、追い払うことぐらいはしたい。
やつが右手の平で結界に触れる。するとやつの手のひらから煙が出る。ところがそれでもやつは手を離そうとしない。それどころかさらにやつは、頭までも結界に押し付けだした。
むりやり中へ入ってこようとしている。
道具がなければ祓えない、と悟った彼は駆け出した。お寺の中に入って、金剛鈴を手に持って、ご本尊の前に陣取って、敵を迎え撃つ態勢をとった。
「オン アボキャ ベイロシャノウ マカボダラ マニ ハンドマジンバラ ハラバリ タヤ ウン」
彼は光明真言を三度唱える。そして一回唱えるたびに、金剛鈴を鳴らす。この鈴の音が、邪気を祓うのだ。さらに後ろに控える大日如来が彼を守っている。盤石の態勢だった。
そうしたこともあってか、嫌な気配が弱まるのを感じた。
「ノウマク サンマンダ バザラダン センダ マカロシャダヤ ソワタヤ ウンタラタ カンマン」
今度は不動明王真言を三度唱える。ここでも一回唱えるたびに金剛鈴を鳴らす。
と、野太い咆哮が建物の外から聞こえてくる。同時に嫌な気配が再び強まってきて、さらにそれが近づいて来る気配がした。
「来るならば来い。神の力を見せてやる」
悪鬼が入口からぬっと顔をのぞかせた。
〇
三輪は大観のもとへ急いでいた。街を歩いていたら突然、もぐらが顔を出すみたいに地面のいたるところから化け物が飛び出してきたのだ。
彼は霊こそ見えるものの、お祓いはできない。霊のことで困った時はいつも、大観を頼っていた。だから今回も、化け物たちのあいだをかいくぐって、こうして大観を頼りにやってきたのである。
彼は大観のいる寺の門をくぐろうとして、ぎょっとする。門のすぐそばに袈裟を着たのっぺらぼうがいたのだ。それを見た彼は悲鳴をあげる。
だが少しして、そこで彼は思い違いをしていたことに気づく。顔がないのではなく、頭髪のない後頭部が体の前面をむいているのである。ようは、首が前後逆になっているわけだ。しかし、それはそれで恐ろしい。首がそんな風になっていて、人がなぜあのように立っていられるのか。
「あ˝」
そのような声を出しながら、その人物の首がぐりん、と百八十度まわって、顔が正面を向いた。その顔は、大観のものだった。彼の口元から血が垂れていた。
姿は大観そのものだ。しかし、これはもう大観ではない。化け物だ。彼は化け物になり果ててしまった。三輪の足が、がくがくと震え始めた。
その化け物が、両腕で三輪の頭をつかんだ。
直後、彼の首から枯れ枝の折れるような音がした。