ここは、王国のはずれにある、名前も地図も曖昧な村だ。
朝になると鶏が鳴き、畑に陽が射し、パンとミルクの香りが家々を包む。
誰かが命を狙われることもなければ、兵士が馬で駆けてくることもない。
――戦も、魔も、ここでは無縁。そう思っていた……。
「カイル! またパンくわえて出るつもり!?」
母さんの怒鳴り声が耳をつんざく。僕は焼きたてのパンを手に取り、口にくわえたまま玄関を飛び出した。
ドアが“バタン!”と閉まる。あぁ、また怒られる。でも気にしてられない。今日はジールと約束してたんだ。
陽の光がまぶしい。空は抜けるように青く、村の犬がのびをしながら僕を見送った。
いつもの朝。
何も変わらない風景、何も起きない一日。
けれど、後になって思う。
僕はまだ幼なく、今日この日がすべてが変わる前の“最後の日常”だと思ってすらいなかった。
⸻
「おーい! ジール!」
村の端、森の入り口にいつもの姿があった。
ジールは僕の幼なじみで、一番の悪友だ。寝癖だらけの髪と、片方だけ泥のついたズボン。首には赤い紐で縛った“勇者のマント”代わりの布きれを巻いていた。
「遅いぞカイル!」
「今日は何して遊ぶ?」
「うーん、また“あれ”でいいか?」
「……勇者ごっこ?」
「それそれ!」
ため息混じりに言いながらも、ジールの目はキラキラしていた。
僕も文句を言いつつ、結局は楽しみにしてるって、ジールもきっと気づいていたはずだ。
木々の間を抜け、森の空気を吸い込む。葉っぱの香りと土のにおい、あと少し湿った朝露の匂い。
“勇者ごっこ”の舞台は、いつもこの森だ。
「お前、知ってるか?」
ジールが急に立ち止まり、目を光らせる。
「なに?」
「勇者が……ついに魔族討伐に出たらしいぞ」
「えっ!? ほんとに!?」
「見張り番のクリスが言ってた! 『勇者一行、南に向かってる』って。つまりこの村を通るってことだろ!」
「すっげええ!」
僕の心は一気に火がついた。あの、“本物の勇者”がこの村を通る。
金の鎧に、風になびく真紅のマント。魔族を一閃で倒し、世界を救う者――そんな“伝説の人”が、僕のすぐ近くに来るのだ。
⸻
「…ってことで、今日のごっこは俺が勇者な!」
ジールが木の棒を拾って、腰に当てて構える。
「えー、ずるい! 俺だって勇者やりたい!」
「今日の主役は俺。カイルは……そうだな、ゴブリン役で!」
「はぁ? またかよ!」
「いいから、早いもん勝ちー!」
僕は小枝を拾って、背を丸め、牙をむくふりをする。
「がおー! ひっかくぞー!」
「やめろ! この魔王のしもべめ!」
「ぐあーっ、やられたー!」
二人で笑い転げながら、森の奥へと入っていく。
木漏れ日が地面に模様を描き、鳥のさえずりが風に混ざる。
虫の羽音、葉のざわめき、土の匂い――この森のすべてが、僕たちの遊び場だった。
⸻
ジールは言う。
「勇者になったら、俺はまず魔王城をぶっ壊して、そんで大剣もらって、竜を倒して……」
「やりすぎだよ!」
「で、最後は村に凱旋して、王様からメダルもらって……」
「……でもさ、本当に魔族っているのかな」
僕はふと、立ち止まってつぶやく。
「……さあな。俺も見たことない」
ジールも、ふっと笑って空を見上げた。
雲ひとつない晴れ空だった。魔族なんて、この空の向こうの話だと思ってた。
ーーその時までは。
⸻
ーー地面には濡れた赤が広がり、あたり一面、鉄の匂いが漂っていた。
冷たい視線が僕を見つめる。
青白い肌。
長い髪の隙間から、ねじ曲がった角がのぞいていた。
まるで人間のように見える、それは――魔族だった。
魔族は、血で真っ赤に染まった自らの指先をじっと見つめていた。
その足元には、動かなくなったジールの姿。ぴくりとも反応しない。
「……なんだ、人間か」
その声は、氷のように冷たく、低かった。
僕の全身から一気に血の気が引いていく。手も足も動かない。息さえできない。
「勇者の匂いを辿ったつもりが……違ったか。人間の匂いは臭くて、区別がつかん」
魔族は鼻先を歪めて嘲笑うと、こちらに顔を向けた。
「そこの人間。お前もちと匂うぞ?」
ひとつ、ゆっくりとした足音が近づいてくる。
手が伸びる。その爪先が僕の頬に届こうとした――
風が鳴いた。突風だった。
空気が揺れ、目の前にマントがなびく。
「そこまでだ、魔族!!」
その声に、僕は見上げた。
金の装飾が施された白銀の鎧。太陽の光を反射する剣。そして、風をまとった赤いマント。
――勇者だった。
魔族は目を細めた。
その口元が笑みに歪む。
「ようやくか。待ちくたびれたぞ、“人間の勇者”」
言葉と同時に、魔族の姿が霞んだ。視界から消えたかと思えば、斜め上から爪が振り下ろされる。
「っはあああ!」
勇者が剣を振る。金属の音と共に、空気が弾ける。
衝突音、閃光、木々が裂け、地面が抉れる。
目にも留まらぬ速さで、二人の影が森の中を駆ける。
まるで精霊と悪夢の戦いを見ているようだった。僕にはもう、何が起きているのかわからない。
ただ、足元でジールが動かないままだということだけが、現実だった。
⸻
どれほどの時間が経っただろうか。
森の空気が静まり返り、揺れていた葉がようやく止まる。
勇者が、剣を下ろしながら歩いてきた。肩で息をしているが、目は鋭いままだ。
恐らく魔族のものであろう返り血を浴び、ボロボロで傷だらけ。
いかに激しい戦闘で苦戦を強いられ勝利したか、勇者の姿が全てを物語っていた……。
「……間に合わず、すまない」
そう言って、僕の手を優しく取った。
「君の友人は……救えなかった」
僕は何も言えなかった。
声が出なかった。胸の奥に熱いものが込み上げてくるのに、泣くことすらできなかった。
⸻
ジールの身体は、勇者が静かに抱き上げた。
その所作は、まるで宝物でも扱うように、慎重で、丁寧だった。
村へ戻る道の途中、村へ戻る道の途中、日はとっくに沈み、あたりは夜の静寂に包まれていた。
ただ、勇者の足音と、僕の小さな呼吸音だけが続いた。
⸻
村の入り口には篝火が灯っていた。
その炎の明かりの中、母と父が駆け寄ってくる。
母は僕を見つけた瞬間、叫びながら抱きしめた。父も声を漏らしながら、その肩に手を置いた。
その隙間から、ジールの両親が見えた。
勇者がジールをそっと差し出すと、二人は崩れるように地面に膝をついた。
ジールの母が泣き叫ぶ。父は何も言えず、拳を握ったままだった。
僕はその光景を、何もできずに見ているだけだった。
勇者は、深く一礼すると、すぐに踵を返した。
村に長居はしなかった。旅の途中だったのだろう。
その背中が遠ざかる。
そのとき、僕は初めて、自分の中に芽生えたものに気づいた。
それは、喪失ではなく――憧れだった。
⸻
あれから数ヶ月が過ぎた。
季節は巡り、村はまるで何事もなかったかのように、静かな日常を取り戻していた。
畑に実がなり、鶏は卵を産み、夜には虫の声が聞こえる。
けれど僕の中には、もう戻らない時間があった。
ジールがいない森。
もう二度と、あのくだらない“勇者ごっこ”はできない。
⸻
いつもの朝。
今日も変わらぬ日常がはじまる。
しかし、陽が昇る前から、外が騒がしい。
父も母も姿が見えない。
何かあったのかと玄関を開けると、村中の大人たちが広場に集まり、声を荒げていた。
「本当なのか!? 勇者が……負けたってのは!」
「魔王軍が王都を包囲したらしい!」
「早く避難しろ! ここもすぐに戦場になる!」
「バカ言うな! 村を捨てるのか!?」
「もう逃げ場なんてないぞ!」
大人たちが口々に叫ぶ。何人かは荷車を引いて、荷物を詰め込んでいた。
中には剣や槍を手に取っている者もいる。その中に、ジールの父と母の姿があった。
「俺たちは……もう、守るものを失った。だから、戦う」
ジールの父がそう言ったとき、母が泣きながら彼の腕を握った。
でも、父の瞳は揺らがなかった。
僕はただ、見ていることしかできなかった。
大人たちが言い争い、村が二つに割れていく様子を、息を呑みながら眺めるしかなかった。
そのとき、ふいにあの夜のことを思い出す。
⸻
――村に帰る途中、勇者は何も言わなかった。
でも僕は、ずっと黙っていられなかった。
「……絶対に魔王に勝って、ジールの仇を取って」
僕は言った。小さな声だったけど、全身を振り絞るように。
勇者はしばらく黙っていた。
その沈黙が怖くて、僕は怒鳴った。
「何か言ってよ!」
勇者がようやく口を開く。
「戦いに“絶対”なんてないよ。僕は……負けるかもしれない」
「え……?」
「でもね、心配しないでほしい。たとえ僕が負けても、人間は滅びない」
意味がわからなかった。だから、聞き返した。
「……どういうこと?」
「小さくなっても、少なくなっても、人間は生き残る。そして、きっといつか、魔族に逆転する。……そういうものだよ」
しばらく考えて、僕は呟いた。
「……それって、今の魔族と同じだね」
その瞬間、勇者は目を丸くして――それから、ふっと笑った。
「ははっ。……君は面白いね」
僕は顔が熱くなるのを感じて、俯いた。
「君の言う通りかもしれない。僕たち人間は、“次の魔族”なのかもしれないね」
⸻
その言葉が、今になってやけに重く響く。
――勇者はいない。
魔王軍が来る。
村が、世界が、終わろうとしている。
だけど、僕の中には、あの言葉が残っている。
「人間は滅びない」
ジールがいなくなっても、勇者が敗れても、それでも、僕たちは生き残る。
次は、僕たちの番なんだ。
生き残り、力を蓄え、時を待ち、もう一度立ち上がる。
だから僕は、負けない。
この先、どんな絶望が来ようとも――
村の空を見上げる。
灰色の雲が広がっている。どこかで風が吠えていた。
僕は、小さくつぶやいた。
「ああ、この世界は終わるだ……」
そして、僕たちの新しい時代が始まる。
*
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
小さな終末と、ささやかな希望の物語でした。
読んでくださったあなたに、心から感謝を込めて。