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バス停にて

ー/ー



 薄いトタンの板が三方にぐるりと張り付けられたバスの待合所。所々黒ずんでいて、赤錆も浮いている。屋根は完全に真っ赤に染まって、元の色が分からない。
 薄汚れた待合所の前には、青い小さな苗が遠くの山にぶつかるまで広がっている。空は田んぼよりもさらに広く青かった。
 少し飛び出た庇が小さな日陰をつくってくれている。鞄を体の前で提げて、私はその日陰の隅に立った。時折、伽藍堂の時刻表に目を遣った。もう覚えているから見る必要はないけれども。
 視界の端にちらっと何か写った。来た。のそのそとこちらに近づいてくる。あくびをしているのが見えた。陽光を受けて眩しく光る白いシャツは、彼の純真さを表しているようだった。彼は私と反対側の角に立った。私の頭半個分くらい背が高い。一つ二つ言葉を交わし、お互いに黙りこくった。
 ずっと道路を眺める。時々左を見る。そしてまた道路を眺める。たまに目があった。鞄を持つ手に力がこもる。青い稲が波打った。髪が乱れる。左手で前髪を直しながら、やはり彼を見る。
 自分の心臓の音に覆い被さるように、道路の向こうからエンジン音が近づいてきた。バスが私たちの前に停まる。私たちはいつも通りにそれに乗り込む。そうしてその日のささやかな、本当にささやかな逢瀬は終わる。

 鈍い色彩の中でも、稲はその青さを失っていなかった。少し大きくなっている気もする。
 灰汁をかき混ぜたような空だった。夏目漱石はロンドンの空をそういう風に表現したらしい。それなら今日からしばらくの空はロンドンだ。そんなくだらないことを考えながらバス停へ向かう。
 待合所のベンチに誰か座っている。彼だ。片手で本を開き、もう片方の手で顎を支えている。
 私は彼がいつも立っている場所に陣取った。そしていつも通り彼をのぞき見る。裏表紙しか見えないから何を読んでいるのかわからない。
 ページを繰る音が聞こえる。あまりに真剣に読んでいるから、声をかけられなかった。何を読んでいるのだろう。夏目漱石だったらいいな。
 そしてバスが来る。今日が終わる。

 ロンドンはどこかへ行ってしまった。代わりに空と稲の青が濃くなった。掌で顔を仰いでみるが気晴らしにもならない。風が吹いてくれたらいいのに全くの無風だ。やや湿り気を含んだ空気が重い。息が苦しい。
 今日は一人でバスを待った。額に前髪が張り付く。道路を眺める。横は見ない。
 定刻通りバスが来た。そのまま乗り込もうとしたら、靴の音がもの凄い速さで近づいてきた。息を切らし、汗だくになっている。半袖のシャツを着ていた。あ、思ったよりも腕が細いなぁ。
 息が苦しい。けれども先ほどまでとは違い、快い気もする。私は前髪を整えた。

 入道雲がもくもくと膨らんだ。トタン屋根が太鼓みたいに打ち鳴らされる。滝のように水が流れ落ちる音が聞こえる。気まぐれに、いつもより早めに家を出てよかった。ロンドンの空をぼうっと眺める。
 水飛沫を飛ばしながら走ってくる影が見えた。鞄を掲げている。シャツがぴったり張り付いていた。
 待合所の中に避難すると、彼は大きく息を吐き出した。そしてこちらを見た。まさかこんなことになるなんて、そんなことを言って白い歯を見せた。私もつられて口元を綻ばせた。
 上目遣いで彼を見る。頭半個分の差だと思っていたけど、頭一つくらい大きかった。こうして少しずつ、彼を知っていくのだろうか。あの時読んでいた本も、いつか知ることができるだろうか。
 日向が、紙に水が滲むように広がった。雫を滴らせた稲は、陽光を受けてキラキラと輝いていた。緑の絨毯を敷いているようだった。きっと今年は重い穂を実らせるだろう。
 エンジンの音が聞こえてきて、その日の逢瀬は終わった。


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 薄いトタンの板が三方にぐるりと張り付けられたバスの待合所。所々黒ずんでいて、赤錆も浮いている。屋根は完全に真っ赤に染まって、元の色が分からない。
 薄汚れた待合所の前には、青い小さな苗が遠くの山にぶつかるまで広がっている。空は田んぼよりもさらに広く青かった。
 少し飛び出た庇が小さな日陰をつくってくれている。鞄を体の前で提げて、私はその日陰の隅に立った。時折、伽藍堂の時刻表に目を遣った。もう覚えているから見る必要はないけれども。
 視界の端にちらっと何か写った。来た。のそのそとこちらに近づいてくる。あくびをしているのが見えた。陽光を受けて眩しく光る白いシャツは、彼の純真さを表しているようだった。彼は私と反対側の角に立った。私の頭半個分くらい背が高い。一つ二つ言葉を交わし、お互いに黙りこくった。
 ずっと道路を眺める。時々左を見る。そしてまた道路を眺める。たまに目があった。鞄を持つ手に力がこもる。青い稲が波打った。髪が乱れる。左手で前髪を直しながら、やはり彼を見る。
 自分の心臓の音に覆い被さるように、道路の向こうからエンジン音が近づいてきた。バスが私たちの前に停まる。私たちはいつも通りにそれに乗り込む。そうしてその日のささやかな、本当にささやかな逢瀬は終わる。
 鈍い色彩の中でも、稲はその青さを失っていなかった。少し大きくなっている気もする。
 灰汁をかき混ぜたような空だった。夏目漱石はロンドンの空をそういう風に表現したらしい。それなら今日からしばらくの空はロンドンだ。そんなくだらないことを考えながらバス停へ向かう。
 待合所のベンチに誰か座っている。彼だ。片手で本を開き、もう片方の手で顎を支えている。
 私は彼がいつも立っている場所に陣取った。そしていつも通り彼をのぞき見る。裏表紙しか見えないから何を読んでいるのかわからない。
 ページを繰る音が聞こえる。あまりに真剣に読んでいるから、声をかけられなかった。何を読んでいるのだろう。夏目漱石だったらいいな。
 そしてバスが来る。今日が終わる。
 ロンドンはどこかへ行ってしまった。代わりに空と稲の青が濃くなった。掌で顔を仰いでみるが気晴らしにもならない。風が吹いてくれたらいいのに全くの無風だ。やや湿り気を含んだ空気が重い。息が苦しい。
 今日は一人でバスを待った。額に前髪が張り付く。道路を眺める。横は見ない。
 定刻通りバスが来た。そのまま乗り込もうとしたら、靴の音がもの凄い速さで近づいてきた。息を切らし、汗だくになっている。半袖のシャツを着ていた。あ、思ったよりも腕が細いなぁ。
 息が苦しい。けれども先ほどまでとは違い、快い気もする。私は前髪を整えた。
 入道雲がもくもくと膨らんだ。トタン屋根が太鼓みたいに打ち鳴らされる。滝のように水が流れ落ちる音が聞こえる。気まぐれに、いつもより早めに家を出てよかった。ロンドンの空をぼうっと眺める。
 水飛沫を飛ばしながら走ってくる影が見えた。鞄を掲げている。シャツがぴったり張り付いていた。
 待合所の中に避難すると、彼は大きく息を吐き出した。そしてこちらを見た。まさかこんなことになるなんて、そんなことを言って白い歯を見せた。私もつられて口元を綻ばせた。
 上目遣いで彼を見る。頭半個分の差だと思っていたけど、頭一つくらい大きかった。こうして少しずつ、彼を知っていくのだろうか。あの時読んでいた本も、いつか知ることができるだろうか。
 日向が、紙に水が滲むように広がった。雫を滴らせた稲は、陽光を受けてキラキラと輝いていた。緑の絨毯を敷いているようだった。きっと今年は重い穂を実らせるだろう。
 エンジンの音が聞こえてきて、その日の逢瀬は終わった。