「へ、へ、へへへ、陛下ぁっ……!?」
巨漢の野太い叫びが、
人気のない通りに
木霊する。
腰を抜かしかけたのか、巨漢は、よろよろと後ろに数歩下がり、口をぱくぱくとさせた。ちらちら覗く八重歯が、厳つい顔とはあまりにも
意外で、いっそ可愛らしい。
何故、こんな
場所に女王が!? ――と。彼が、どんなに慌てふためこうとも、この国で唯一無二の容姿が示すものは決まっている。
白金の髪、青灰色の瞳の〈神の御子〉であれば、女王その人でしか、あり得ない。
巨漢は、女王を拝むように手を
擦り合わせ……。
その次の瞬間、目つきが変わった。
敵意を
剥き出しにして、近衛隊員たちを睨みつける。彼らのことを女王を狙う不届き者であると認識したのだ。そして同時に、女王の傍らに立つ
凶賊の男を護衛だと判断した。
何しろ、近衛隊員たちは私服姿だ。無頼漢同士の
抗争を装うという、結果としては、まるで意味のなかった浅知恵のために制服から着替えてしまっていた。
この状況であれば、誤解されるのも致し方ないといえよう。しかし、近衛隊としては
堪ったものではない。彼らは『
止むを得ん』と、次々に
懐から身分証明書を取り出し、巨漢に提示する。
「我々は近衛隊だ!」
「へ?」
巨漢の目玉が、こぼれ落ちそうになるほど見開かれた。あんぐりとした口からは、愛嬌いっぱいの八重歯が飛び出し、現状の深刻さを吹き飛ばすような締まりのない顔となる。
「我々は今、陛下を拉致しようとする悪党を追い詰めたところなのだ! 民間人は下がっていたまえ!」
近衛隊員が居丈高に言い放った刹那――。
「違うわ!」
間髪を
容れず、天界の音色が響き渡った。
「この方は、私がお忍びのために雇った護衛よ!」
白い手が隣の男の腕へと伸び、女王は彼を庇うように体を寄せる。距離感が近すぎる彼女の仕草は、まるで男に抱きついたようにも見え、近衛隊は勿論、巨漢も、当の男ですら目を
剥いた。
女王は周りの動揺に気づかぬまま、澄んだ青灰色の瞳を巨漢に向ける。
「ねぇ、あなた」
「は、はいぃっ!」
巨漢の声が裏返り、背筋がぴんと伸びた。
無理もない。この国は宗教国家なのだ。神と同じ異色の瞳で見つめられた上に、
女王から直接、声を掛けられれば、動転して
然るべきだろう。
無論、王家をはじめとする上流階級の人間を目の
敵にしている者たちは存在する。しかし、巨漢のこれまでの態度からすれば、彼が天空神フェイレンの敬虔なる信徒であることは間違いない。
「この方は、私に頼まれて護衛を引き受けてくださっただけなの。なのに、私を拉致しようとしていると近衛隊に疑いを掛けられ、捕らわれようとしているのよ」
「は、はいっ! はいっ!」
巨漢は、壊れたゼンマイ人形のように、こくこくと頷く。
「何度も説明しているのに、近衛隊員たちは、私の言うことをちっとも信じてくれないの」
「は、はいぃっ!? へ、陛下のおっしゃることを、こ、近衛隊の皆様が信じてくださらない……ですと!?」
神にも等しい女王の言葉に、直属の臣下であるはずの近衛隊が耳を貸さない。
この事実に、巨漢が心底、驚いたように体を震わせると、近衛隊員たちは、ばつが悪そうに目線をそらした。
近衛隊にとって、非常に困った事態になった。
幼い女王は味方を得たとばかりに喜び、
主張を聞いてくれる
巨漢に『そうなのよ!』と、必死に訴えるに違いない。このままでは、近衛隊の
体面は丸つぶれ。いったい、どうやって事態の収拾をつけようか……。
しかし――。
巨漢の驚嘆に対し、女王が声を弾ませることはなかった。
彼女は、ただ、大きな溜め息をひとつ、ついたのみ。
「それで、あなたにお願いがあるの」
「はい? は、はへっ!? へ、陛下がっ!? お、俺に頼みごとを……!?」
「私の言うことを信じてくれない近衛隊が、この方を捕まえないように、この方をあなたの車に乗せて街まで連れていってほしいの」
「は、はい! ……はいぃっ!?」
勢いよく返事をしたあとで、巨漢は目を白黒させた。何を言われたのか、頭の中で必死に整理しているのだろう。
「これ以上、騒ぎを大きくするべきでないでしょう? 仕方ないから、私はこれで、お忍びを終わりにして、近衛隊員たちと王宮に戻るわ。――だって、拉致事件なんて起きていないんですもの」
――いい? 拉致事件なんか起きていないの。
蒼天を映したような瞳が、近衛隊員たちを
睨めつけた。
その眼差しに、彼らの背中は、ぞくりと震えた。
――だから、私の護衛をしてくれた者を、この民間人の車で街まで送ってもらうことに、なんの問題もない。そうでしょう?
女王は、ぐっと顎を上げる。
陽光を模したような髪が、ふわりと広がる。
――女王に仕える者が、これ以上、民間人に醜態を晒すことは許さない。ここは私に従いなさい……!
「――!」
近衛隊員たちは、王者の圧に
平伏した。
天真爛漫で、純粋無垢な女王が、初めて見せた威厳。
それが
凶賊の男のためであるのは、複雑な心境だったが、近衛隊員たちにとって、本来、仕えるべき相手は摂政ではなく、女王であることを思い出すのに充分な風格に満ちていた。
近衛隊員たちは、低頭しながら引き下がる。
女王は、傍らの男は
拉致犯ではなく
護衛だと、民間人の前で断言した。
更に、男の身柄をその民間人に託した。
こうなっては、いくら摂政の
命があったとしても、女王直属の近衛隊としては、無関係の民間人を巻き込んでの逮捕劇を繰り広げるわけにはいかない。
女王は、傍らの男に絡めていた腕をほどき、八重歯の巨漢に声を掛ける。
「親切な、あなた。この方をお願いね」
その声が、心なしか涙声であったことに気づいた者は、この場に何人いただろうか。
少なくとも、すぐそばにいた巨漢には感じ取れたらしい。骨ばった厳つい顔が、
柄にもなく優しげに緩んだ。だが、すぐに『女王を前に、緊張する民間人』の顔に戻る。
「は、は、ははぁ! 分かりやしたぁっ!」
間の抜けた返事をしながらも、巨漢はすっと前に歩み出て、近衛隊の射線上から
男を守るような位置取りをした。女王か
民間人がそばにいなければ、
男が撃たれる可能性があることを理解しているのだ。
何故なら、彼は『民間人のふりをした、リュイセンの部下』であるのだから。
閉鎖されている『穴場の絶景スポット』付近の道路に、一般車両が入り込むことはないのだ。
無論、近衛隊員たちが考えたように、地図にない細い道が存在する可能性はある。しかし、こんなに都合のよいタイミングで、民間人が紛れ込んでくる確率など、皆無に等しい。
つまり、
巨漢の登場は偶然ではなくて、必然。通行止めの看板を無視して、乗り込んできただけだ。
女王を神の如く崇める国民の前では、近衛隊は女王を蔑ろにするような言動は取れないはず――この点を
衝いた、
女王の計略であった。
部下たちの援護を断ろうとするリュイセンに、アイリーはこう言ったのだ。
『
凶賊が大挙して押し寄せてくるのが駄目なんでしょう? だったら、ひとりだけ。それも
凶賊であることを隠して協力してもらうのならいいはずよ!』
上流階級の者――ましてや、『女王』などと関わることを、部下たちは良しとしないのではないかと、リュイセンは危惧した。けれど、運のよいことに、『訳ありの黒装束の少女』の対応をした三人の門衛たちが、援護の者の中に混じっていたのだ。ちょうど門衛の当番を終えたばかりのところを駆り出されたらしい。
彼らに、黒装束の
中身が『女王』であることを正直に明かした。
ただし、訪問の目的は『
再従姉妹のメイシアに、お忍びで会いに来た。同時に、
摂政が以前、鷹刀一族の屋敷を不当に家宅捜索をしたことについて、個人的に謝罪したかった』とした。
驚きはしたものの、アイリーと直接、言葉を交わした彼らは『あの嬢ちゃんとリュイセン様のために、ひと肌脱いでやろう』と、二つ返事で引き受けてくれた。――微妙に含みのある言い回しに、リュイセンは眉を寄せたが……。
三人共が乗り気であったが、アイリーにあれこれ世話を焼こうとした年長の者が、特に『民間人』の役をやりたがった。しかし、頬に目立つ刀傷があるために遠慮してもらったのだ。彼には申し訳ないが、あの顔で一般人を装うのには無理がある。
それで、
体格はよいものの、愛嬌のある顔立ちの八重歯の若い衆が抜擢されたのだった。
近衛隊員たちが、もう少し注意深ければ、女王が車から降りてきたとき、パーカーは着ているものの、フードはかぶらず。また、サングラスは外したままであることに、違和感を覚えたことだろう。
紫外線を考えれば、それらは女王にとって必須のもの。しかし、『民間人』に〈神の御子〉の姿を目撃してもらうために、あえて身に着けなかったのである。
リュイセンは、八重歯の巨漢と共に、彼が運転してきた車へと。
アイリーは、近衛隊員たちに囲まれながら、脱輪した車のほうへと。
ふたりの背中が離れていく。
『私が素直に、近衛隊と王宮に戻れば、これ以上、
大事にはできないと思うの』
『共犯者になるわ』と、好戦的に口の端を上げ、吐息を感じるほどの距離から、アイリーは作戦を耳打ちした。
幼さを感じる無邪気な言動をするくせに、彼女は時々、妙に物分りがよい。諦めることに慣れているのだ。
――約束しただろう? 綺麗な景色の中をドライブする、って。
リュイセンは心の中で呟く。
このままいけば、リュイセンは、ほぼ間違いなく無事に逃げられるだろう。けれど、それでは『共犯者』ではない。
『共犯者』というのは、『同じ望みを共に叶える者たち』であるはずだ。
「俺は、口にしたことを決して
違えねぇんだよ」
馬鹿なことをしようとしていると、唇が自嘲に緩む。
「リュイセン様」
にやり、と。巨漢が八重歯を覗かせた。愛嬌たっぷりの笑顔は『いつでも、いいっすよ』の合図だ。
リュイセンは、アイリーには内緒で、あらかじめ彼とメッセージを交わしてあった。
彼女が、憧れを叶えられるように――!
リュイセンは、漆黒の長身を翻す。
そして、今や、遠く離れてしまったアイリーに――近衛隊員たちの影に
埋もれそうな、小さな白金の背中に呼びかける。
「アイリー!」
口にしてから、しまったと思う。
近衛隊の前で、女王の名前を呼び捨てにしたら不敬罪だ。
けれども、差し伸べた
手の勢いは止めずに。口調だけは、
畏まったものに変更しながら、リュイセンはアイリーに向かって叫ぶ。
「まだ、ドライブの途中です。陛下には、息抜きが必要です」
この手を取ってほしい。
他愛のない小さな願いくらい、諦めなくてもよいはずだから。
「リュイセン!」
妙なる音色と共に、白蓮が花開いた。
振り返った青灰色の瞳から、朝露の涙が弾け飛ぶ。
漣のスカートを波打たせ、華奢な体が近衛隊員たちの間をすり抜ける。
「陛下!?」
まさかのできごとに、近衛隊員たちは完全に不意を
衝かれた。
「近衛隊の皆、ごめんなさい! 私、やっぱり、もう少し息抜きしたいわ! ――夕方には必ず、戻るから!」
「陛下! なりません!」
我に返った近衛隊員のひとりが、走り出したアイリーの腕を慌てて掴んだ。
「きゃあぁっ」
高く奏でられる、天上の響き。
同時に、別の近衛隊員が吠える。
「この賊めが!」
次の瞬間、リュイセンの心臓に向けられた銃口が、鋭く火を吹いた。