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迷路の中【1話完結】

ー/ー






“あいつ”の死骸を見つけた。


 それは、私が親友のポメロといつものように巨大な迷路の中で、唯一の食糧であるチーズを探していた夜のことだった。

 グレーのコンクリート製の分厚い壁がランダムに立ち並ぶ、所々にチーズが隠された迷路をふたりで彷徨っていたら、見覚えのある大きな物体が、これまたグレーのコンクリートで出来た地面の上に横たわって動かなくなっているのを見つけて、近付いて匂いを嗅いだら“あいつ”だった。


 ポメロは“あいつ”の、私達の顔くらいにもなる大きさの指に、自分の歯型が幾つもついていることに気が付いた。
そしてその後、少し動揺したような顔をした。
 私は、ポメロの歯型から滲み出た血が固まって出来た“あいつ”の指にある赤い点々模様を眺めながら、これまでに起こったことをぼんやりと思い出しはじめた。

​───────

 “あいつ”と初めて出会った日はいつだったっけ。

 忘れたけど、私とポメロが普段寝ている時間だったってことは覚えてる。

 いつものように、ある一枚の壁に空いた穴の奥に広がる暗い空洞で寝ていた最中、私の脳内センサーが異変をとらえた。自慢の素早い察知能力が外に広がる空間に何か新しいことが起きたのを知らせたのだ。
 
私は、隣で眠るポメロを置いて異変を探りにそーっと外へ近付いた。


……なにか匂いがする。

……チーズだ。

……チーズがあるぞ!


 私達が家にしている穴の空いた壁の前には円形のひらけた空間があって、そこには私達以外誰も、いや、何も存在しなかった。
私達は壁の中の家で、寝食をして、時々外へチーズを探しに出かけて毎日を過ごしていた。

 けど、その日。

不思議なことに、
家の入り口である穴の向こうにいつもは無いはずのチーズがひとりでに現れた。

 それに気付いた私はおそるおそる穴から顔を出し、匂いを嗅いでみた。
少しだけ不思議な匂いがする。
けど、チーズにかわりはなさそう。
家に持ち帰るためにまずは持ち上げようと口を開いたその時だった。
 離れた方から、風圧と熱の乗った微かな音が聞こえた。
「……よし!…やったわ……!」
音のするほうを見ると、少し離れた壁の辺りに私やポメロとは別の生き物の足らしきものがあった。大きい。身体が地面から高く伸びている。首をめいっぱい上げても、視界の上にはまだ身体が続いていそうだ。
 
驚いた私は、急いでチーズを咥えて家の中へすっこんだ。

 ……これが“あいつ”と初めて出会った時のことだった。


 その日を境に、家の前にチーズと“あいつ”が何度も現れた。

家の入り口にチーズ、そのずっと向こうに“あいつ”が立っていて、いつも静かに鳴き声を発している。
そんな風景を、私は何度も見た。

 ポメロは“あいつ”を「チーズの先に居るデカいの」と名付けて入り口の影から毎日観察していた。
 その名の通り、“あいつ”はいつも遠く離れた地点でじーっと動かず、私達がチーズを持ち帰る様子を眺めてくるだけだった。


 そんな日々が続いてしばらく経ったある日のこと。
家でチーズを食べていた時にポメロが何気なく言った。
「“チーズの先に居るデカいの”はさ、いつも僕らの家の前に現れるのより、大きいチーズを持っているんだよ。“あいつ”、さっさとかぶりつけばいいのにその大きいチーズをわざと手で壊すんだ。その直後、“あいつ”の手から小さいチーズが僕らの家の前に向かって転がってくる。どうやらそれが、僕らの家の前にチーズが現れる仕組みらしい。思うに、“あいつ”はチーズをわけてくれているんじゃないかな?」

 私は目を丸くして、ポメロを見た。
ポメロの考えは普段から奇想天外だけど何故かいつも正解するんだ。
 けど、この時ばかりは疑ってしまった。私達より何倍も何倍も大きくて力のありそうな生き物が、どうしてわざわざ私達なんかに食糧を分け与える?
そんな必要があるのか?
あるとしたら、何故?

 私が黙って考え込むと、ポメロは軽い調子でこう言った。
「まぁ、僕の説が正しいとしたら、“あいつ”は“チーズの先に居るデカいの”から“チーズをくれるデカいの”に名前変更だな(笑)」

 細長い透明なヒゲのあちらこちらに食べかすをつけながら、長い尻尾を揺らして笑う彼の様子を見て、私の思考は霧のように散っていった。

まあ、いいか。“あいつ”がなんでも。
こうやって楽にチーズを得られて、特に、攻撃されたりもしないし。


 そんなことを考えていたその時──。
いつもとは違う、なんだか胸騒ぎがする音が聞こえてきた。

ドスドスと何度も地面を連打する忙しい音が遠くの方から近付いてきた後、

「知らない!私は知らない、何も見てない!」

と、聞いたことのあるような鳴き声が外の円形の空間にこだまして、家の中に居る私の耳まで届いた。
 “あいつ”か?鳴き声がいつもより大きくて、尖ったように聞こえるけど…。
ここに居るのは私とポメロと“あいつ”だけだから、消去法で“あいつ”しか居ない。

 いや……それだけじゃない。

“あいつ”とは別の、低い鳴き声もする。

『知らないわけないだろう。俺はあんたが毎日ここで何をしてるか影から見てたんだ。』

 聞いた事のない不穏な鳴き声に私とポメロは手に持っていたチーズをお互い同じタイミングで地面に落として、固まった。
 居る。2体居る。
“あいつ”を含めて、私達とは違う生き物が2体、居る。
“あいつ”も、いつもの感じじゃない。
何かがおかしいぞ。

 私は、よーく耳を澄ませた。
さっき聞いたのと同じ、低い鳴き声が聞こえる。
『あんたがいつもデカいチーズを持ってるのを俺はずっと見てた。どんな方法を使ってるかは知らないが、とにかくあんたはいつも他の奴らより先にチーズを手に入れてるよな?けどそれだけじゃない。そのチーズを使って、ネズミを手懐けようとしてたんだろう?本来、人間が見つけるはずのチーズを奪って、辺りを菌で汚していきやがる、汚いネズミ共を。俺は、俺たち人間のためにそいつらを利用させてもらう。』

今度は、“あいつ”の声がする。
「…なにをするつもり?」

低い鳴き声が後を続く。
『俺達が閉じ込められてる、このワケわからん迷路で、唯一の食糧であるチーズが減ってきてることは知ってるよな?それが原因で争いも勃発してる。どれもこれも、ネズミに邪魔されるせいだ。ネズミを退治しようと躍起になってる奴もいるけど、俺は違う。ネズミに紐をくくりつけて、チーズの在処を探させる。そして奴らが手に入れたり菌をつける前に横取りして人間に分配するんだ。使い古したネズミは勝手に飢えて死ぬから一石二鳥だろ。そのシステムを作った俺が、開拓費として他の人間より多めにチーズを貰う。特別に、あんたにも多めに分けてやるよ。どうだ?いい話だろう。』
 円形の床を這うように、怪しく響く鳴き声。
まるで、戦いの勃発を示唆させるための唸り声みたいだ。
“あいつ”と 低い鳴き声の主の息遣いが後から聞こえる。

 しばらくして、今度は“あいつ”の鳴き声が始まった。

「……ネズミは人間のチーズを奪ってるわけじゃない。人間よりチーズを見つける能力が高い、ただその事実があるだけよ。それに、人間にチーズが行き渡らない理由は、ネズミよりも能力が低いことだけじゃない。実際には、チーズがまだ沢山あるのを知ってる。私は、他人が手に入れたチーズを奪って、自分だけいい思いをする“人間に似た生き物”を、迷路の中で何回も見た。その生き物には、耳障りの良いことを言いながら他人を騙す習性があることも、よく知ってるのよ。」


 パタリ、パタリ、とひとつずつ、ゆっくりと地面を打つ音が静かに聞こえる。
それと同時に“あいつ”の息遣いがさっきよりも大きくなっていっている気がする。

 ポメロが家の入り口まで近付いて様子を見始めた。
 その後ろ姿がソワソワと動き、それに合わせて彼の焦げ茶色の毛の1本1本が際立って見える。ポメロも、私と同じくらいに外を警戒しているらしい。
 ポメロの背中越しに、“あいつ”が見えた。あいつに向かって、低い声の主が近付いていく。
 多分……
“あいつ”と同じ種類の生物のオスだ。
“あいつ”より身体が大きくて、ゴツゴツしていて、硬そうに見える。

 “あいつ”が震えた音で鳴き始めた。

「……私は、ネズミ達の能力を研究してたの。人間達が、今よりもっと上手くチーズを探せるようになるためにね。その為に、彼らの警戒心を解く必要があった。毎日チーズに私の匂いを含ませ、徐々に慣れてもらってたのよ。彼らには、高い警戒心と同等なくらいに、優れた適応力と勇気があった。私は彼らを、人間が成長するための“手本のひとつ”として見てたの。けど……あなたは彼らをもっと直接的に利用したいと思うのね?」

“あいつ”の息遣いが更に激しくなる。
低い鳴き声の主を警戒しているみたいだ。
 私の中で、今この場における弱肉強食の構図が出来た。
この中でいちばん強いのは多分、低い鳴き声の主。
その次が“あいつ”。
そして…最も肉になりやすいのは、
ハツカネズミである私・サクランボ、
それから、ポメロ。

 浮かんだ構図を脳内で咀嚼しているうちに、低い鳴き声が再び始まる。

『…コイツ、ただの馬鹿だった。こういうのが社会でまわりの足を引っ張るんだよ。馬鹿は淘汰されたほうがい…』

​─​──その時だった。

低い鳴き声が静まらないうちに、
ダッ!ダッ!ダッ!ダッ!
と、けたたましい音が物凄い速さで音量を上げながら近付いてきた。
 入り口すれすれで外の様子を見ていたポメロが振り向いて叫ぶ。
「サクランボ!!!奥へ!!!“チーズをくれるデカいの”が、こっちへ突進してくるぞ!!!」


 もう、

そこからは、

記憶が途切れ途切れだ。


 とにかく、あのダッ!ダッ!ダッ!ダッ!のすぐ後に、
私達の家の入り口から“あいつ”の手が物凄い勢いで侵入してきて、私は、

“なんて大きいんだろう。あいつの手が入ってきたせいで入り口から光が差し込まなくなっちゃった。”

と、立ち尽くした。

そして……。
私のすぐ目の前に…何か変わったものが乗っている物体が……硬そう…
これは……“あいつ”の爪か?
じゃあこれは……“あいつ”の……指……

ああ……これまでに家の前に現れたチーズに付着していた不思議な匂いの正体は……これか……。
もう少しで私に触れてきそう……。

「奥へ!!!早く!!!」

 叫びと共にむき出しになったポメロの歯が、私の肩の皮膚をつまむように捉え、私は、背中を地面にあわせるように倒れた。 
 そのまま、ポメロに引きずられる形で家の奥へと吸い込まれていき、“あいつ”の手からどんどん遠ざかる。

 “あいつ”の大きな鳴き声が聞こえた。

「2匹とも!!!本当にごめんなさい!!!二度と、人間の匂いがするチーズを食べてはダメ!!!どんな人間でも、絶対に信用しないで!!!」

 “あいつ”の手指はそれ以上こちらへは向かって来なかったが、ぐねぐねと奇妙な動きを続け、私とポメロの家の床を跳ね回っている。

次の瞬間​───。

 ポメロが“あいつ”の動き回る手に突進していったと思ったら、指の肉に噛みつき、穴を空けた。
その衝撃で“あいつ”の手はビクッと大きく上へ飛び跳ねたが、それでもまだ私達の家への侵入はやめなかった。
ポメロが幾つも“あいつ”の指に穴を空けて、その穴から、鉄臭い液体が滲み出てきた時だった。
 ものすごく大きな低い鳴き声が、
“あいつ”の手で塞がれた入り口の奥から響いた。

「このクソアマ!!!社会のゴミ!!!ぶっ殺してやる!!!」

 その直後、ものすごい速さで“あいつ”の血塗れの手が引っ込んでいって、
入り口から外の光が一気に差し込んできた。

 “あいつ”や低い鳴き声の主が激しく動く影で、家の中へ差し込む光が疎らに点滅する。

地面への打撃音、
2つの大きな身体がぶつかり合う音、
鈍い唸り声の数々、“あいつ”の悲鳴。

 私とポメロは、ただただ身を寄せあって、この嵐が収まるのを待っていた。


 どのくらいの時間が経っただろう。

外から「グッ」とこもった唸り声が聞こえ、「ぐはっ、ぐはっ」と、もがき苦しむ声がしばらく続いた。

その後、「ゲホゲホ」と勢いよくむせるような音が続く最中、
“あいつ”の声が、途切れ途切れに鳴り響く。

「あなたは、頭が、良いんでしょ……じゃあ、鼠咬症は、知ってるはずよね……もう、唾液を、吐き出しても、遅いわ…、あなたは、ネズミに噛まれて出血した私の指を、喉奥に突っ込まれて、私の爪で口内を引っ掻き回されて、何度も、何度も、血管内まで、ネズミの菌で汚染された。この、チーズと、チーズを探す人達と、ネズミしか存在しない迷路で、私もあなたも、じきに共倒れよ…。」

「ゲホゲホ」とむせる音は、
“あいつ”の途切れ途切れの鳴き声が響いている裏で、ずっとしていた。

 しばらく、その音しかしなくなって、
不意にポメロに声をかけられる。
「……ここを離れよう。サクランボ、もう僕らはここには居られないよ。」

 私達は、“あいつ”と低い鳴き声の主にバレないよう、こっそりと家を出た。

 家の外で起きたことがどうなったかは、そこからはずっと知らないまま​──。


​──────

 ……。

 全てを思い出した後も、

今夜、偶然見つけた
“あいつ”の死骸から
何故か私は目を逸らせない。

 視界に広がる前に関係した存在の塊と匂い、沈黙に耐えきれず、私はポメロに話しかける。

「あのさ……“チーズをくれるデカいの”は、“チーズをくれたデカいの”になってしまったね。」

 私の言葉をきっかけに、
それまで“あいつ”の指の前に佇んでいたポメロが、ゆっくりとこちらを向いた。
どことなく動揺を伴っていた顔が、
徐々に、何かの決意に満ちた表情に変わっていった。

 次のポメロの言葉を最後に、
私達は“あいつ”の死骸から去って
またチーズを探しに歩き出した。

「もう行こう、サクランボ。
“デカいの”達に見つからないように。」



〈 おしまい 〉




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“あいつ”の死骸を見つけた。
 それは、私が親友のポメロといつものように巨大な迷路の中で、唯一の食糧であるチーズを探していた夜のことだった。
 グレーのコンクリート製の分厚い壁がランダムに立ち並ぶ、所々にチーズが隠された迷路をふたりで彷徨っていたら、見覚えのある大きな物体が、これまたグレーのコンクリートで出来た地面の上に横たわって動かなくなっているのを見つけて、近付いて匂いを嗅いだら“あいつ”だった。
 ポメロは“あいつ”の、私達の顔くらいにもなる大きさの指に、自分の歯型が幾つもついていることに気が付いた。
そしてその後、少し動揺したような顔をした。
 私は、ポメロの歯型から滲み出た血が固まって出来た“あいつ”の指にある赤い点々模様を眺めながら、これまでに起こったことをぼんやりと思い出しはじめた。
​───────
 “あいつ”と初めて出会った日はいつだったっけ。
 忘れたけど、私とポメロが普段寝ている時間だったってことは覚えてる。
 いつものように、ある一枚の壁に空いた穴の奥に広がる暗い空洞で寝ていた最中、私の脳内センサーが異変をとらえた。自慢の素早い察知能力が外に広がる空間に何か新しいことが起きたのを知らせたのだ。
私は、隣で眠るポメロを置いて異変を探りにそーっと外へ近付いた。
……なにか匂いがする。
……チーズだ。
……チーズがあるぞ!
 私達が家にしている穴の空いた壁の前には円形のひらけた空間があって、そこには私達以外誰も、いや、何も存在しなかった。
私達は壁の中の家で、寝食をして、時々外へチーズを探しに出かけて毎日を過ごしていた。
 けど、その日。
不思議なことに、
家の入り口である穴の向こうにいつもは無いはずのチーズがひとりでに現れた。
 それに気付いた私はおそるおそる穴から顔を出し、匂いを嗅いでみた。
少しだけ不思議な匂いがする。
けど、チーズにかわりはなさそう。
家に持ち帰るためにまずは持ち上げようと口を開いたその時だった。
 離れた方から、風圧と熱の乗った微かな音が聞こえた。
「……よし!…やったわ……!」
音のするほうを見ると、少し離れた壁の辺りに私やポメロとは別の生き物の足らしきものがあった。大きい。身体が地面から高く伸びている。首をめいっぱい上げても、視界の上にはまだ身体が続いていそうだ。
驚いた私は、急いでチーズを咥えて家の中へすっこんだ。
 ……これが“あいつ”と初めて出会った時のことだった。
 その日を境に、家の前にチーズと“あいつ”が何度も現れた。
家の入り口にチーズ、そのずっと向こうに“あいつ”が立っていて、いつも静かに鳴き声を発している。
そんな風景を、私は何度も見た。
 ポメロは“あいつ”を「チーズの先に居るデカいの」と名付けて入り口の影から毎日観察していた。
 その名の通り、“あいつ”はいつも遠く離れた地点でじーっと動かず、私達がチーズを持ち帰る様子を眺めてくるだけだった。
 そんな日々が続いてしばらく経ったある日のこと。
家でチーズを食べていた時にポメロが何気なく言った。
「“チーズの先に居るデカいの”はさ、いつも僕らの家の前に現れるのより、大きいチーズを持っているんだよ。“あいつ”、さっさとかぶりつけばいいのにその大きいチーズをわざと手で壊すんだ。その直後、“あいつ”の手から小さいチーズが僕らの家の前に向かって転がってくる。どうやらそれが、僕らの家の前にチーズが現れる仕組みらしい。思うに、“あいつ”はチーズをわけてくれているんじゃないかな?」
 私は目を丸くして、ポメロを見た。
ポメロの考えは普段から奇想天外だけど何故かいつも正解するんだ。
 けど、この時ばかりは疑ってしまった。私達より何倍も何倍も大きくて力のありそうな生き物が、どうしてわざわざ私達なんかに食糧を分け与える?
そんな必要があるのか?
あるとしたら、何故?
 私が黙って考え込むと、ポメロは軽い調子でこう言った。
「まぁ、僕の説が正しいとしたら、“あいつ”は“チーズの先に居るデカいの”から“チーズをくれるデカいの”に名前変更だな(笑)」
 細長い透明なヒゲのあちらこちらに食べかすをつけながら、長い尻尾を揺らして笑う彼の様子を見て、私の思考は霧のように散っていった。
まあ、いいか。“あいつ”がなんでも。
こうやって楽にチーズを得られて、特に、攻撃されたりもしないし。
 そんなことを考えていたその時──。
いつもとは違う、なんだか胸騒ぎがする音が聞こえてきた。
ドスドスと何度も地面を連打する忙しい音が遠くの方から近付いてきた後、
「知らない!私は知らない、何も見てない!」
と、聞いたことのあるような鳴き声が外の円形の空間にこだまして、家の中に居る私の耳まで届いた。
 “あいつ”か?鳴き声がいつもより大きくて、尖ったように聞こえるけど…。
ここに居るのは私とポメロと“あいつ”だけだから、消去法で“あいつ”しか居ない。
 いや……それだけじゃない。
“あいつ”とは別の、低い鳴き声もする。
『知らないわけないだろう。俺はあんたが毎日ここで何をしてるか影から見てたんだ。』
 聞いた事のない不穏な鳴き声に私とポメロは手に持っていたチーズをお互い同じタイミングで地面に落として、固まった。
 居る。2体居る。
“あいつ”を含めて、私達とは違う生き物が2体、居る。
“あいつ”も、いつもの感じじゃない。
何かがおかしいぞ。
 私は、よーく耳を澄ませた。
さっき聞いたのと同じ、低い鳴き声が聞こえる。
『あんたがいつもデカいチーズを持ってるのを俺はずっと見てた。どんな方法を使ってるかは知らないが、とにかくあんたはいつも他の奴らより先にチーズを手に入れてるよな?けどそれだけじゃない。そのチーズを使って、ネズミを手懐けようとしてたんだろう?本来、人間が見つけるはずのチーズを奪って、辺りを菌で汚していきやがる、汚いネズミ共を。俺は、俺たち人間のためにそいつらを利用させてもらう。』
今度は、“あいつ”の声がする。
「…なにをするつもり?」
低い鳴き声が後を続く。
『俺達が閉じ込められてる、このワケわからん迷路で、唯一の食糧であるチーズが減ってきてることは知ってるよな?それが原因で争いも勃発してる。どれもこれも、ネズミに邪魔されるせいだ。ネズミを退治しようと躍起になってる奴もいるけど、俺は違う。ネズミに紐をくくりつけて、チーズの在処を探させる。そして奴らが手に入れたり菌をつける前に横取りして人間に分配するんだ。使い古したネズミは勝手に飢えて死ぬから一石二鳥だろ。そのシステムを作った俺が、開拓費として他の人間より多めにチーズを貰う。特別に、あんたにも多めに分けてやるよ。どうだ?いい話だろう。』
 円形の床を這うように、怪しく響く鳴き声。
まるで、戦いの勃発を示唆させるための唸り声みたいだ。
“あいつ”と 低い鳴き声の主の息遣いが後から聞こえる。
 しばらくして、今度は“あいつ”の鳴き声が始まった。
「……ネズミは人間のチーズを奪ってるわけじゃない。人間よりチーズを見つける能力が高い、ただその事実があるだけよ。それに、人間にチーズが行き渡らない理由は、ネズミよりも能力が低いことだけじゃない。実際には、チーズがまだ沢山あるのを知ってる。私は、他人が手に入れたチーズを奪って、自分だけいい思いをする“人間に似た生き物”を、迷路の中で何回も見た。その生き物には、耳障りの良いことを言いながら他人を騙す習性があることも、よく知ってるのよ。」
 パタリ、パタリ、とひとつずつ、ゆっくりと地面を打つ音が静かに聞こえる。
それと同時に“あいつ”の息遣いがさっきよりも大きくなっていっている気がする。
 ポメロが家の入り口まで近付いて様子を見始めた。
 その後ろ姿がソワソワと動き、それに合わせて彼の焦げ茶色の毛の1本1本が際立って見える。ポメロも、私と同じくらいに外を警戒しているらしい。
 ポメロの背中越しに、“あいつ”が見えた。あいつに向かって、低い声の主が近付いていく。
 多分……
“あいつ”と同じ種類の生物のオスだ。
“あいつ”より身体が大きくて、ゴツゴツしていて、硬そうに見える。
 “あいつ”が震えた音で鳴き始めた。
「……私は、ネズミ達の能力を研究してたの。人間達が、今よりもっと上手くチーズを探せるようになるためにね。その為に、彼らの警戒心を解く必要があった。毎日チーズに私の匂いを含ませ、徐々に慣れてもらってたのよ。彼らには、高い警戒心と同等なくらいに、優れた適応力と勇気があった。私は彼らを、人間が成長するための“手本のひとつ”として見てたの。けど……あなたは彼らをもっと直接的に利用したいと思うのね?」
“あいつ”の息遣いが更に激しくなる。
低い鳴き声の主を警戒しているみたいだ。
 私の中で、今この場における弱肉強食の構図が出来た。
この中でいちばん強いのは多分、低い鳴き声の主。
その次が“あいつ”。
そして…最も肉になりやすいのは、
ハツカネズミである私・サクランボ、
それから、ポメロ。
 浮かんだ構図を脳内で咀嚼しているうちに、低い鳴き声が再び始まる。
『…コイツ、ただの馬鹿だった。こういうのが社会でまわりの足を引っ張るんだよ。馬鹿は淘汰されたほうがい…』
​─​──その時だった。
低い鳴き声が静まらないうちに、
ダッ!ダッ!ダッ!ダッ!
と、けたたましい音が物凄い速さで音量を上げながら近付いてきた。
 入り口すれすれで外の様子を見ていたポメロが振り向いて叫ぶ。
「サクランボ!!!奥へ!!!“チーズをくれるデカいの”が、こっちへ突進してくるぞ!!!」
 もう、
そこからは、
記憶が途切れ途切れだ。
 とにかく、あのダッ!ダッ!ダッ!ダッ!のすぐ後に、
私達の家の入り口から“あいつ”の手が物凄い勢いで侵入してきて、私は、
“なんて大きいんだろう。あいつの手が入ってきたせいで入り口から光が差し込まなくなっちゃった。”
と、立ち尽くした。
そして……。
私のすぐ目の前に…何か変わったものが乗っている物体が……硬そう…
これは……“あいつ”の爪か?
じゃあこれは……“あいつ”の……指……
ああ……これまでに家の前に現れたチーズに付着していた不思議な匂いの正体は……これか……。
もう少しで私に触れてきそう……。
「奥へ!!!早く!!!」
 叫びと共にむき出しになったポメロの歯が、私の肩の皮膚をつまむように捉え、私は、背中を地面にあわせるように倒れた。 
 そのまま、ポメロに引きずられる形で家の奥へと吸い込まれていき、“あいつ”の手からどんどん遠ざかる。
 “あいつ”の大きな鳴き声が聞こえた。
「2匹とも!!!本当にごめんなさい!!!二度と、人間の匂いがするチーズを食べてはダメ!!!どんな人間でも、絶対に信用しないで!!!」
 “あいつ”の手指はそれ以上こちらへは向かって来なかったが、ぐねぐねと奇妙な動きを続け、私とポメロの家の床を跳ね回っている。
次の瞬間​───。
 ポメロが“あいつ”の動き回る手に突進していったと思ったら、指の肉に噛みつき、穴を空けた。
その衝撃で“あいつ”の手はビクッと大きく上へ飛び跳ねたが、それでもまだ私達の家への侵入はやめなかった。
ポメロが幾つも“あいつ”の指に穴を空けて、その穴から、鉄臭い液体が滲み出てきた時だった。
 ものすごく大きな低い鳴き声が、
“あいつ”の手で塞がれた入り口の奥から響いた。
「このクソアマ!!!社会のゴミ!!!ぶっ殺してやる!!!」
 その直後、ものすごい速さで“あいつ”の血塗れの手が引っ込んでいって、
入り口から外の光が一気に差し込んできた。
 “あいつ”や低い鳴き声の主が激しく動く影で、家の中へ差し込む光が疎らに点滅する。
地面への打撃音、
2つの大きな身体がぶつかり合う音、
鈍い唸り声の数々、“あいつ”の悲鳴。
 私とポメロは、ただただ身を寄せあって、この嵐が収まるのを待っていた。
 どのくらいの時間が経っただろう。
外から「グッ」とこもった唸り声が聞こえ、「ぐはっ、ぐはっ」と、もがき苦しむ声がしばらく続いた。
その後、「ゲホゲホ」と勢いよくむせるような音が続く最中、
“あいつ”の声が、途切れ途切れに鳴り響く。
「あなたは、頭が、良いんでしょ……じゃあ、鼠咬症は、知ってるはずよね……もう、唾液を、吐き出しても、遅いわ…、あなたは、ネズミに噛まれて出血した私の指を、喉奥に突っ込まれて、私の爪で口内を引っ掻き回されて、何度も、何度も、血管内まで、ネズミの菌で汚染された。この、チーズと、チーズを探す人達と、ネズミしか存在しない迷路で、私もあなたも、じきに共倒れよ…。」
「ゲホゲホ」とむせる音は、
“あいつ”の途切れ途切れの鳴き声が響いている裏で、ずっとしていた。
 しばらく、その音しかしなくなって、
不意にポメロに声をかけられる。
「……ここを離れよう。サクランボ、もう僕らはここには居られないよ。」
 私達は、“あいつ”と低い鳴き声の主にバレないよう、こっそりと家を出た。
 家の外で起きたことがどうなったかは、そこからはずっと知らないまま​──。
​──────
 ……。
 全てを思い出した後も、
今夜、偶然見つけた
“あいつ”の死骸から
何故か私は目を逸らせない。
 視界に広がる前に関係した存在の塊と匂い、沈黙に耐えきれず、私はポメロに話しかける。
「あのさ……“チーズをくれるデカいの”は、“チーズをくれたデカいの”になってしまったね。」
 私の言葉をきっかけに、
それまで“あいつ”の指の前に佇んでいたポメロが、ゆっくりとこちらを向いた。
どことなく動揺を伴っていた顔が、
徐々に、何かの決意に満ちた表情に変わっていった。
 次のポメロの言葉を最後に、
私達は“あいつ”の死骸から去って
またチーズを探しに歩き出した。
「もう行こう、サクランボ。
“デカいの”達に見つからないように。」
〈 おしまい 〉