呪い
ー/ー 目前に佇む白銀の獅子を見て、勇斗は意識が遠のいていく感覚に襲われた。
三メートル級の胴体。氷のプレートで覆われた四肢。最も目を奪ったのは、背中から伸びている氷結晶だった。結晶は幾重にも重なり、龍の翼を思わせる。
獅子が咆哮する。雪混じりの烈風が前方から叩きつけてきた。右腕で目を守り、脚に力を入れて踏ん張る。
来る――
勇斗はマントの内側からドラシガーを素早く取り出し、ガントレット甲側の宝珠から放たれる青白い炎で先端に火を灯す。緑煙を噴く葉巻を咥え、聖剣を鞘から引き抜くと、戦闘が始まった。
雪を蹴り、勇斗が跳ぶ。獅子も前脚を軸に跳んだ。
弾丸のような突進を紙一重でかわしながら、勇斗は聖剣に炎と風の精霊術を重ねる。剣を大きく一振りすると、炎の竜巻が巻き起こった。
獅子は急停止して反転した。蒼いブレスを吐き、炎を凍気で押し消す。
「岩よ、貫け!」
チカップが空に茶色の魔法陣を描く。地面から噴出した岩槍が獅子の胴体を裂く。
獅子は唸り、身体を激しく振って岩槍を粉砕。視線をチカップに向ける。
「うっ」
チカップがたじろいだ。獅子の突進を受けると、彼の体は軽々と粉砕されるだろう。そうはさせない。
勇斗がランパに目配せする。
「おりゃっ!」
ランパが精霊樹の枝をかざす。蔓が伸び、跳躍した獅子を絡め取る。しかし、拘束は一瞬で千切れ飛んだ。鋭い爪牙がチカップへ迫る。
勇斗は心の中で舌打ちをした。
脚に煙を纏い、一瞬で間合いを詰める。聖剣が獅子の喉を貫き、黒い血飛沫が白雪に撒き散らされた。巨体が崩れ落ちる。
「た、助かったっス」
尻餅をついていたチカップは震える声を出しながら立ち上がった。
勇斗は剣を雪に突き立て、ドラシガーを口から離した。口腔内に溜まった煙を放出する。
「まだ生きている。畳みかけよう」
再びドラシガーを咥え、聖剣を握る。長期戦に持ち込む気は、元々なかった。ドラシガーの副作用が現れるまで戦闘が長引くと一気に状況が不利になってしまう。
二人は連撃を浴びせる。やがて獅子は完全に沈黙した。
勇斗は聖剣を鞘に収め、天に向かって煙を吐いた。
「さすがですわー!」
駆け寄ってきたソーマが、勇斗に抱きついた。
「ユート、かなり強くなってますわね。惚れ惚れする動きでしたわ。チカップさんの魔法も素晴らしかったですわよ」
「あ、いや、それほどでも」
頬を赤らめた勇斗は、ソーマから視線をそらし、ドラシガーの煙を吸引した。
「それに比べ、ランパさんは本当に役立たずですわね」
ソーマは、ぼーっと突っ立ているランパに向けて嫌らしい口調で言った。
そうだ。もし自分が即座に動かなければ、チカップは死んでいたじゃないか。そもそもランパの精霊術は戦闘向きじゃないんだから、後ろで大人しくしていればいいのに。なんで戦場にしゃしゃり出てくるんだ。
勇斗の胸に得体の知れぬ苛立ちが芽生える――おかしい、どうしてランパに?
「ユート、あのデカブツ、まだ死んでないぞ」
「えっ?」
ランパの声に振り返る。倒れた獅子の残骸から黒い瘴気が沸き立っていた。白い胴体が痙攣し、結晶の翼が悲鳴のような音を立てて砕け散る。砕片が降るたび、雪面を細い漆黒の亀裂が走った。
もがきながら、巨体が起き上がる。
鈍い「ゴキュン」「メリメリ」という濁音が耳にまとわりつく。やがて、獅子の皮膚の表面がどろりと黒く溶け始めた。
勇斗たちは、その奇妙な光景に釘付けとなった。
何だ。いったい、何が起ころうとしているんだ。ぞわっと、全身に悪寒が走る。
徐々に空気が歪む。錆臭と腐臭の入り混じったおぞましい臭いが鼻を刺す。降りしきる雪は濃い灰色へと変化した。
「キュィィィィィァァァァァァァィィィ」
赤ん坊の泣き声のような、甲高い音が響いた。
獅子の背が破裂し、数十本の黒い触手が噴き出した。踊る触手の先端、一際太い一本が裂け開き、赤黒い単眼が産声のように開く。
目の前で生まれたのは、威厳など微塵も感じない、異形の化け物だった。
気持ち悪くなったのか、ソーマは手で口を押さえ、化け物から急いで距離を取り始めた。
しかし、化け物は彼女の動きを逃さなかった。無数の触手がソーマに狙いを定める。
まずい!
勇斗は雪を蹴った。瞬間、背後から衝撃。熱く鈍い痛覚で視界が乱れる。
「あぁ、ユート。私を庇って――」
五本の触手が、勇斗の身体を鎧ごと貫いていた。左肩、右上腕、両腿、そして腹部。体に穴を空けられるのは、何度目だろう。
触手が抜け、血が雪に滴る。
痛みが神経を焼く。勇斗はドラシガーを噛み、煙を鋭く吸い込んだ。
「ユート、逃げろっ!」
ランパが叫ぶ。
勇斗はソーマを突き飛ばし、身を捻る。
ピタッと体が固まった。途端に動悸が激しくなる。
わずか十センチ先に、巨大な単眼が存在していた。笑っているように見えた。
単眼がすっと距離を取り、大きく膨らむ。
刹那、蒼白いブレスが唸りを上げて放たれた。氷刃の奔流が勇斗の全身を削ぎ、鎧の隙間から骨の芯まで瞬時に凍り付かせる。
「ぐうううううぅぅっ」
低く唸った勇斗は、両膝を折った。
体内で何かが暴れ出す。
次の瞬間、勇斗の体から瘴気が噴き上がった。
「うああああああああっ!」
ドラシガーが落ち、雪面に転がる。
痛い、苦しい、気持ち悪い。
雪に倒れ、体をねじり、絶叫を撒き散らす。視界が黒に染まる。
「これは、呪い!?」
チカップが青ざめた。
「いっしょだ。あのときと、いっしょだ――」
ランパの手から精霊樹の枝が滑り落ちる。
「勇斗――ルーク――救えない」
エメラルドグリーンの髪が血を吸ったようにじわりと赤へ染まっていく。
ランパの両目が大きく開かれる。異常なほど血走っている。
「ユートォォォォッ!!」
絶叫と同時に、周囲が紅蓮の幕で覆われた。雪が赤く、風が赤く、大気さえ赤く脈動する。
轟音。赤い柱が天へ噴き上がる。
世界が、一瞬にして赤色に塗り替わった。
化け物が消滅してから三十分後、勇斗はドラシガーを右手に持ち、淡い緑煙を吐きながらタプカ湖を見下ろしていた。
雪はすっかり止み、雲間から射す陽光が鏡のような湖面を白銀に反射させている。
化け物の死と同時に呪いは霧散していた。体中の穴はふさがり、出血も止まっている。ドラシガーの煙と、ラマシルと呼ばれていた不思議な核――ルークの力を受け継いでいるのなら、自分の体内に存在していてもおかしくはない――のおかげだ。
勇斗はドラシガーを咥え、呪いに侵されている最中に垣間見た光景を思い返す。
髪が赤く染まったランパの、暴力的ともいえる破壊の力。周囲が赤く燃え、怪物は一瞬で灰塵と化していた。
その直後に浮かんだランパの薄気味悪い笑みが脳裏から離れない。食いしんぼうで無邪気とは正反対の、底冷えする悪意――思い返すだけで鳥肌が立つ。
今、ランパは雪上で昏倒したままだ。
――ランパは何者なんだ。自分は彼を信じていいのか。
気づけば、ドラシガーのほとんどが白い灰となっていた。
「ユート、ランパが全然目を覚まさないので、おぶってほしいっス」
「わ、わかった」
勇斗は最後の煙を吐き出し、ランパを背負って湖へ向かい始める。
なだらかな斜面を下り、氷の縁取りが続く湖畔にたどり着く。空気は澄みきっていて冷たい。
「あれは――」
湖の中央に突き出した岩のまわりで水面が渦を巻く。渦は高さを増し、やがて龍の輪郭を結んだ。
龍の形をした水は、日の光を呑み込みながら瑠璃色に輝き、氷霧を纏ってゆっくりと旋回した。
巨大な目に捉えられた途端、時が凍り付く。
脳内に声が響く。勇ましい男性の声だった。
『記憶を――』
勇斗の視界が青い光に包まれる。次の瞬間には意識が飛んでいた。
眠りに落ちた勇斗の視点は現在から離れ、時空をさまよった。
やがて視点は一組の男女を捉えた。
黄金色の鎧を身に纏う男――伝説の勇者ルークの頬を涙がつたっていた。彼の両腕には、少女――レタが抱かれている。
レタは動かなかった。霞色の長髪は、つやのない白色へと変化していた。
「きみともっと話したかった。もし、来世で再開できたら、そのときは――」
ルークは、レタにそっと口づけをした。
映像がぐにゃりと歪む。視点は、別の場所へと移動した。
クスクス――
静かな回廊を、ルークとランパが歩いていた。その背後を、始祖精霊であるレヴンとコタが伴う。
「いよいよ魔神との決戦ですね。みなさん、ここが踏ん張りどころですよ!」
コタの第三の目が大きく見開かれる。
「コタ、もしかしてビビってる?」
大きなあくびをしながら、レブンが言った。
「び、ビビってなんかいませんよ。それよりレヴン、あなたは緊張感がなさすぎです。あくびなんてしている場合じゃないでしょう!」
「はいはい」
レヴンは大きな牙を見せ、ニっと笑った。
「それとルーク、いつまでも沈んでちゃダメですよ。レタさんのことは無念ですが、今は目の前の戦いに集中を」
「あぁ、すまない」
力なく漏れた声が回廊に木霊する。
再び映像が歪み、視点は大きな広間へと飛んだ。
クスクス――クスクス――
壁は崩れ、裂けた床からマグマが噴き上がっていた。
「魔神は倒しましたが、これは、新たな問題が発生しましたね」
「こりゃぁ、不味い。チキサ様から受け継いだ力が、暴走している」
広間中央でランパが赤色に染まった髪を振り乱し、意味を成さぬ咆哮を上げている。
「このままじゃ魔神の城だけでなく、世界そのものが壊れてしまいます」
「私は、どうしたら――」
ルークは頭を抱え、膝をつく。
「四大精霊の力で、彼の記憶と力を封印するのです」
「それではランパが――」
「長い眠りにつくでしょう。しかし、今はそれしかありません」
「あぁ――」
ルークの口から、悲痛な嘆きがこぼれる。
「まさか、一番の災厄が、チビくんだったなんてねぇ」
クスクス――
「この力は、永久に封印しなければなりません。わかりますね、ルーク?」
クスクス――
「仕方ない、のか――」
ルークは立ち上がり、聖剣クトネシスの刃の先をランパに向けた。
「さようなら、ランパ」
クスクス――クスクス――
映像が途切れ、視点が現在へと舞い戻る。
目覚めの直前、勇斗の脳裏で低い声が木霊する。
――騙されるな。
三メートル級の胴体。氷のプレートで覆われた四肢。最も目を奪ったのは、背中から伸びている氷結晶だった。結晶は幾重にも重なり、龍の翼を思わせる。
獅子が咆哮する。雪混じりの烈風が前方から叩きつけてきた。右腕で目を守り、脚に力を入れて踏ん張る。
来る――
勇斗はマントの内側からドラシガーを素早く取り出し、ガントレット甲側の宝珠から放たれる青白い炎で先端に火を灯す。緑煙を噴く葉巻を咥え、聖剣を鞘から引き抜くと、戦闘が始まった。
雪を蹴り、勇斗が跳ぶ。獅子も前脚を軸に跳んだ。
弾丸のような突進を紙一重でかわしながら、勇斗は聖剣に炎と風の精霊術を重ねる。剣を大きく一振りすると、炎の竜巻が巻き起こった。
獅子は急停止して反転した。蒼いブレスを吐き、炎を凍気で押し消す。
「岩よ、貫け!」
チカップが空に茶色の魔法陣を描く。地面から噴出した岩槍が獅子の胴体を裂く。
獅子は唸り、身体を激しく振って岩槍を粉砕。視線をチカップに向ける。
「うっ」
チカップがたじろいだ。獅子の突進を受けると、彼の体は軽々と粉砕されるだろう。そうはさせない。
勇斗がランパに目配せする。
「おりゃっ!」
ランパが精霊樹の枝をかざす。蔓が伸び、跳躍した獅子を絡め取る。しかし、拘束は一瞬で千切れ飛んだ。鋭い爪牙がチカップへ迫る。
勇斗は心の中で舌打ちをした。
脚に煙を纏い、一瞬で間合いを詰める。聖剣が獅子の喉を貫き、黒い血飛沫が白雪に撒き散らされた。巨体が崩れ落ちる。
「た、助かったっス」
尻餅をついていたチカップは震える声を出しながら立ち上がった。
勇斗は剣を雪に突き立て、ドラシガーを口から離した。口腔内に溜まった煙を放出する。
「まだ生きている。畳みかけよう」
再びドラシガーを咥え、聖剣を握る。長期戦に持ち込む気は、元々なかった。ドラシガーの副作用が現れるまで戦闘が長引くと一気に状況が不利になってしまう。
二人は連撃を浴びせる。やがて獅子は完全に沈黙した。
勇斗は聖剣を鞘に収め、天に向かって煙を吐いた。
「さすがですわー!」
駆け寄ってきたソーマが、勇斗に抱きついた。
「ユート、かなり強くなってますわね。惚れ惚れする動きでしたわ。チカップさんの魔法も素晴らしかったですわよ」
「あ、いや、それほどでも」
頬を赤らめた勇斗は、ソーマから視線をそらし、ドラシガーの煙を吸引した。
「それに比べ、ランパさんは本当に役立たずですわね」
ソーマは、ぼーっと突っ立ているランパに向けて嫌らしい口調で言った。
そうだ。もし自分が即座に動かなければ、チカップは死んでいたじゃないか。そもそもランパの精霊術は戦闘向きじゃないんだから、後ろで大人しくしていればいいのに。なんで戦場にしゃしゃり出てくるんだ。
勇斗の胸に得体の知れぬ苛立ちが芽生える――おかしい、どうしてランパに?
「ユート、あのデカブツ、まだ死んでないぞ」
「えっ?」
ランパの声に振り返る。倒れた獅子の残骸から黒い瘴気が沸き立っていた。白い胴体が痙攣し、結晶の翼が悲鳴のような音を立てて砕け散る。砕片が降るたび、雪面を細い漆黒の亀裂が走った。
もがきながら、巨体が起き上がる。
鈍い「ゴキュン」「メリメリ」という濁音が耳にまとわりつく。やがて、獅子の皮膚の表面がどろりと黒く溶け始めた。
勇斗たちは、その奇妙な光景に釘付けとなった。
何だ。いったい、何が起ころうとしているんだ。ぞわっと、全身に悪寒が走る。
徐々に空気が歪む。錆臭と腐臭の入り混じったおぞましい臭いが鼻を刺す。降りしきる雪は濃い灰色へと変化した。
「キュィィィィィァァァァァァァィィィ」
赤ん坊の泣き声のような、甲高い音が響いた。
獅子の背が破裂し、数十本の黒い触手が噴き出した。踊る触手の先端、一際太い一本が裂け開き、赤黒い単眼が産声のように開く。
目の前で生まれたのは、威厳など微塵も感じない、異形の化け物だった。
気持ち悪くなったのか、ソーマは手で口を押さえ、化け物から急いで距離を取り始めた。
しかし、化け物は彼女の動きを逃さなかった。無数の触手がソーマに狙いを定める。
まずい!
勇斗は雪を蹴った。瞬間、背後から衝撃。熱く鈍い痛覚で視界が乱れる。
「あぁ、ユート。私を庇って――」
五本の触手が、勇斗の身体を鎧ごと貫いていた。左肩、右上腕、両腿、そして腹部。体に穴を空けられるのは、何度目だろう。
触手が抜け、血が雪に滴る。
痛みが神経を焼く。勇斗はドラシガーを噛み、煙を鋭く吸い込んだ。
「ユート、逃げろっ!」
ランパが叫ぶ。
勇斗はソーマを突き飛ばし、身を捻る。
ピタッと体が固まった。途端に動悸が激しくなる。
わずか十センチ先に、巨大な単眼が存在していた。笑っているように見えた。
単眼がすっと距離を取り、大きく膨らむ。
刹那、蒼白いブレスが唸りを上げて放たれた。氷刃の奔流が勇斗の全身を削ぎ、鎧の隙間から骨の芯まで瞬時に凍り付かせる。
「ぐうううううぅぅっ」
低く唸った勇斗は、両膝を折った。
体内で何かが暴れ出す。
次の瞬間、勇斗の体から瘴気が噴き上がった。
「うああああああああっ!」
ドラシガーが落ち、雪面に転がる。
痛い、苦しい、気持ち悪い。
雪に倒れ、体をねじり、絶叫を撒き散らす。視界が黒に染まる。
「これは、呪い!?」
チカップが青ざめた。
「いっしょだ。あのときと、いっしょだ――」
ランパの手から精霊樹の枝が滑り落ちる。
「勇斗――ルーク――救えない」
エメラルドグリーンの髪が血を吸ったようにじわりと赤へ染まっていく。
ランパの両目が大きく開かれる。異常なほど血走っている。
「ユートォォォォッ!!」
絶叫と同時に、周囲が紅蓮の幕で覆われた。雪が赤く、風が赤く、大気さえ赤く脈動する。
轟音。赤い柱が天へ噴き上がる。
世界が、一瞬にして赤色に塗り替わった。
化け物が消滅してから三十分後、勇斗はドラシガーを右手に持ち、淡い緑煙を吐きながらタプカ湖を見下ろしていた。
雪はすっかり止み、雲間から射す陽光が鏡のような湖面を白銀に反射させている。
化け物の死と同時に呪いは霧散していた。体中の穴はふさがり、出血も止まっている。ドラシガーの煙と、ラマシルと呼ばれていた不思議な核――ルークの力を受け継いでいるのなら、自分の体内に存在していてもおかしくはない――のおかげだ。
勇斗はドラシガーを咥え、呪いに侵されている最中に垣間見た光景を思い返す。
髪が赤く染まったランパの、暴力的ともいえる破壊の力。周囲が赤く燃え、怪物は一瞬で灰塵と化していた。
その直後に浮かんだランパの薄気味悪い笑みが脳裏から離れない。食いしんぼうで無邪気とは正反対の、底冷えする悪意――思い返すだけで鳥肌が立つ。
今、ランパは雪上で昏倒したままだ。
――ランパは何者なんだ。自分は彼を信じていいのか。
気づけば、ドラシガーのほとんどが白い灰となっていた。
「ユート、ランパが全然目を覚まさないので、おぶってほしいっス」
「わ、わかった」
勇斗は最後の煙を吐き出し、ランパを背負って湖へ向かい始める。
なだらかな斜面を下り、氷の縁取りが続く湖畔にたどり着く。空気は澄みきっていて冷たい。
「あれは――」
湖の中央に突き出した岩のまわりで水面が渦を巻く。渦は高さを増し、やがて龍の輪郭を結んだ。
龍の形をした水は、日の光を呑み込みながら瑠璃色に輝き、氷霧を纏ってゆっくりと旋回した。
巨大な目に捉えられた途端、時が凍り付く。
脳内に声が響く。勇ましい男性の声だった。
『記憶を――』
勇斗の視界が青い光に包まれる。次の瞬間には意識が飛んでいた。
眠りに落ちた勇斗の視点は現在から離れ、時空をさまよった。
やがて視点は一組の男女を捉えた。
黄金色の鎧を身に纏う男――伝説の勇者ルークの頬を涙がつたっていた。彼の両腕には、少女――レタが抱かれている。
レタは動かなかった。霞色の長髪は、つやのない白色へと変化していた。
「きみともっと話したかった。もし、来世で再開できたら、そのときは――」
ルークは、レタにそっと口づけをした。
映像がぐにゃりと歪む。視点は、別の場所へと移動した。
クスクス――
静かな回廊を、ルークとランパが歩いていた。その背後を、始祖精霊であるレヴンとコタが伴う。
「いよいよ魔神との決戦ですね。みなさん、ここが踏ん張りどころですよ!」
コタの第三の目が大きく見開かれる。
「コタ、もしかしてビビってる?」
大きなあくびをしながら、レブンが言った。
「び、ビビってなんかいませんよ。それよりレヴン、あなたは緊張感がなさすぎです。あくびなんてしている場合じゃないでしょう!」
「はいはい」
レヴンは大きな牙を見せ、ニっと笑った。
「それとルーク、いつまでも沈んでちゃダメですよ。レタさんのことは無念ですが、今は目の前の戦いに集中を」
「あぁ、すまない」
力なく漏れた声が回廊に木霊する。
再び映像が歪み、視点は大きな広間へと飛んだ。
クスクス――クスクス――
壁は崩れ、裂けた床からマグマが噴き上がっていた。
「魔神は倒しましたが、これは、新たな問題が発生しましたね」
「こりゃぁ、不味い。チキサ様から受け継いだ力が、暴走している」
広間中央でランパが赤色に染まった髪を振り乱し、意味を成さぬ咆哮を上げている。
「このままじゃ魔神の城だけでなく、世界そのものが壊れてしまいます」
「私は、どうしたら――」
ルークは頭を抱え、膝をつく。
「四大精霊の力で、彼の記憶と力を封印するのです」
「それではランパが――」
「長い眠りにつくでしょう。しかし、今はそれしかありません」
「あぁ――」
ルークの口から、悲痛な嘆きがこぼれる。
「まさか、一番の災厄が、チビくんだったなんてねぇ」
クスクス――
「この力は、永久に封印しなければなりません。わかりますね、ルーク?」
クスクス――
「仕方ない、のか――」
ルークは立ち上がり、聖剣クトネシスの刃の先をランパに向けた。
「さようなら、ランパ」
クスクス――クスクス――
映像が途切れ、視点が現在へと舞い戻る。
目覚めの直前、勇斗の脳裏で低い声が木霊する。
――騙されるな。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
目前に佇む白銀の獅子を見て、勇斗は意識が遠のいていく感覚に襲われた。
三メートル級の胴体。氷のプレートで覆われた四肢。最も目を奪ったのは、背中から伸びている氷結晶だった。結晶は幾重にも重なり、龍の翼を思わせる。
獅子が咆哮する。雪混じりの烈風が前方から叩きつけてきた。右腕で目を守り、脚に力を入れて踏ん張る。
来る――
勇斗はマントの内側からドラシガーを素早く取り出し、ガントレット甲側の宝珠から放たれる青白い炎で先端に火を灯す。緑煙を噴く葉巻を咥え、聖剣を鞘から引き抜くと、戦闘が始まった。
雪を蹴り、勇斗が跳ぶ。獅子も前脚を軸に跳んだ。
弾丸のような突進を紙一重でかわしながら、勇斗は聖剣に炎と風の精霊術を重ねる。剣を大きく一振りすると、炎の竜巻が巻き起こった。
獅子は急停止して反転した。蒼いブレスを吐き、炎を凍気で押し消す。
「岩よ、貫け!」
チカップが空に茶色の魔法陣を描く。地面から噴出した岩槍が獅子の胴体を裂く。
獅子は唸り、身体を激しく振って岩槍を粉砕。視線をチカップに向ける。
「うっ」
チカップがたじろいだ。獅子の突進を受けると、彼の体は軽々と粉砕されるだろう。そうはさせない。
勇斗がランパに目配せする。
「おりゃっ!」
ランパが精霊樹の枝をかざす。蔓が伸び、跳躍した獅子を絡め取る。しかし、拘束は一瞬で千切れ飛んだ。鋭い爪牙がチカップへ迫る。
勇斗は心の中で舌打ちをした。
脚に煙を纏い、一瞬で間合いを詰める。聖剣が獅子の喉を貫き、黒い血飛沫が白雪に撒き散らされた。巨体が崩れ落ちる。
「た、助かったっス」
尻餅をついていたチカップは震える声を出しながら立ち上がった。
勇斗は剣を雪に突き立て、ドラシガーを口から離した。口腔内に溜まった煙を放出する。
「まだ生きている。畳みかけよう」
再びドラシガーを咥え、聖剣を握る。長期戦に持ち込む気は、元々なかった。ドラシガーの副作用が現れるまで戦闘が長引くと一気に状況が不利になってしまう。
二人は連撃を浴びせる。やがて獅子は完全に沈黙した。
勇斗は聖剣を鞘に収め、天に向かって煙を吐いた。
「さすがですわー!」
駆け寄ってきたソーマが、勇斗に抱きついた。
「ユート、かなり強くなってますわね。惚れ惚れする動きでしたわ。チカップさんの魔法も素晴らしかったですわよ」
「あ、いや、それほどでも」
頬を赤らめた勇斗は、ソーマから視線をそらし、ドラシガーの煙を吸引した。
「それに比べ、ランパさんは本当に役立たずですわね」
ソーマは、ぼーっと突っ立ているランパに向けて嫌らしい口調で言った。
そうだ。もし自分が即座に動かなければ、チカップは死んでいたじゃないか。そもそもランパの精霊術は戦闘向きじゃないんだから、後ろで大人しくしていればいいのに。なんで戦場にしゃしゃり出てくるんだ。
勇斗の胸に得体の知れぬ苛立ちが芽生える――おかしい、どうしてランパに?
「ユート、あのデカブツ、まだ死んでないぞ」
「えっ?」
ランパの声に振り返る。倒れた獅子の残骸から黒い瘴気が沸き立っていた。白い胴体が痙攣し、結晶の翼が悲鳴のような音を立てて砕け散る。砕片が降るたび、雪面を細い漆黒の亀裂が走った。
もがきながら、巨体が起き上がる。
鈍い「ゴキュン」「メリメリ」という濁音が耳にまとわりつく。やがて、獅子の皮膚の表面がどろりと黒く溶け始めた。
勇斗たちは、その奇妙な光景に釘付けとなった。
何だ。いったい、何が起ころうとしているんだ。ぞわっと、全身に悪寒が走る。
徐々に空気が歪む。錆臭と腐臭の入り混じったおぞましい臭いが鼻を刺す。降りしきる雪は濃い灰色へと変化した。
「キュィィィィィァァァァァァァィィィ」
赤ん坊の泣き声のような、甲高い音が響いた。
獅子の背が破裂し、数十本の黒い触手が噴き出した。踊る触手の先端、一際太い一本が裂け開き、赤黒い単眼が産声のように開く。
目の前で生まれたのは、威厳など微塵も感じない、異形の化け物だった。
気持ち悪くなったのか、ソーマは手で口を押さえ、化け物から急いで距離を取り始めた。
しかし、化け物は彼女の動きを逃さなかった。無数の触手がソーマに狙いを定める。
まずい!
勇斗は雪を蹴った。瞬間、背後から衝撃。熱く鈍い痛覚で視界が乱れる。
「あぁ、ユート。私を庇って――」
五本の触手が、勇斗の身体を鎧ごと貫いていた。左肩、右上腕、両腿、そして腹部。体に穴を空けられるのは、何度目だろう。
触手が抜け、血が雪に滴る。
痛みが神経を焼く。勇斗はドラシガーを噛み、煙を鋭く吸い込んだ。
「ユート、逃げろっ!」
ランパが叫ぶ。
勇斗はソーマを突き飛ばし、身を捻る。
ピタッと体が固まった。途端に動悸が激しくなる。
わずか十センチ先に、巨大な単眼が存在していた。笑っているように見えた。
単眼がすっと距離を取り、大きく膨らむ。
刹那、蒼白いブレスが唸りを上げて放たれた。氷刃の奔流が勇斗の全身を削ぎ、鎧の隙間から骨の芯まで瞬時に凍り付かせる。
「ぐうううううぅぅっ」
低く唸った勇斗は、両膝を折った。
体内で何かが暴れ出す。
次の瞬間、勇斗の体から瘴気が噴き上がった。
「うああああああああっ!」
ドラシガーが落ち、雪面に転がる。
痛い、苦しい、気持ち悪い。
雪に倒れ、体をねじり、絶叫を撒き散らす。視界が黒に染まる。
「これは、呪い!?」
チカップが青ざめた。
「いっしょだ。あのときと、いっしょだ――」
ランパの手から精霊樹の枝が滑り落ちる。
「勇斗――ルーク――救えない」
エメラルドグリーンの髪が血を吸ったようにじわりと赤へ染まっていく。
ランパの両目が大きく開かれる。異常なほど血走っている。
「ユートォォォォッ!!」
絶叫と同時に、周囲が紅蓮の幕で覆われた。雪が赤く、風が赤く、大気さえ赤く脈動する。
轟音。赤い柱が天へ噴き上がる。
世界が、一瞬にして赤色に塗り替わった。
化け物が消滅してから三十分後、勇斗はドラシガーを右手に持ち、淡い緑煙を吐きながらタプカ湖を見下ろしていた。
雪はすっかり止み、雲間から射す陽光が鏡のような湖面を白銀に反射させている。
化け物の死と同時に呪いは霧散していた。体中の穴はふさがり、出血も止まっている。ドラシガーの煙と、ラマシルと呼ばれていた不思議な核――ルークの力を受け継いでいるのなら、自分の体内に存在していてもおかしくはない――のおかげだ。
勇斗はドラシガーを咥え、呪いに侵されている最中に垣間見た光景を思い返す。
髪が赤く染まったランパの、暴力的ともいえる破壊の力。周囲が赤く燃え、怪物は一瞬で灰塵と化していた。
その直後に浮かんだランパの薄気味悪い笑みが脳裏から離れない。食いしんぼうで無邪気とは正反対の、底冷えする悪意――思い返すだけで鳥肌が立つ。
今、ランパは雪上で昏倒したままだ。
――ランパは何者なんだ。自分は彼を信じていいのか。
気づけば、ドラシガーのほとんどが白い灰となっていた。
「ユート、ランパが全然目を覚まさないので、おぶってほしいっス」
「わ、わかった」
勇斗は最後の煙を吐き出し、ランパを背負って湖へ向かい始める。
なだらかな斜面を下り、氷の縁取りが続く湖畔にたどり着く。空気は澄みきっていて冷たい。
「あれは――」
湖の中央に突き出した岩のまわりで水面が渦を巻く。渦は高さを増し、やがて龍の輪郭を結んだ。
龍の形をした水は、日の光を呑み込みながら瑠璃色に輝き、氷霧を纏ってゆっくりと旋回した。
巨大な目に捉えられた途端、時が凍り付く。
脳内に声が響く。勇ましい男性の声だった。
『記憶を――』
勇斗の視界が青い光に包まれる。次の瞬間には意識が飛んでいた。
眠りに落ちた勇斗の視点は現在から離れ、時空をさまよった。
やがて視点は一組の男女を捉えた。
黄金色の鎧を身に纏う男――伝説の勇者ルークの頬を涙がつたっていた。彼の両腕には、少女――レタが抱かれている。
レタは動かなかった。霞色の長髪は、つやのない白色へと変化していた。
「きみともっと話したかった。もし、来世で再開できたら、そのときは――」
ルークは、レタにそっと口づけをした。
映像がぐにゃりと歪む。視点は、別の場所へと移動した。
クスクス――
静かな回廊を、ルークとランパが歩いていた。その背後を、始祖精霊であるレヴンとコタが伴う。
「いよいよ魔神との決戦ですね。みなさん、ここが踏ん張りどころですよ!」
コタの第三の目が大きく見開かれる。
「コタ、もしかしてビビってる?」
大きなあくびをしながら、レブンが言った。
「び、ビビってなんかいませんよ。それよりレヴン、あなたは緊張感がなさすぎです。あくびなんてしている場合じゃないでしょう!」
「はいはい」
レヴンは大きな牙を見せ、ニっと笑った。
「それとルーク、いつまでも沈んでちゃダメですよ。レタさんのことは無念ですが、今は目の前の戦いに集中を」
「あぁ、すまない」
力なく漏れた声が回廊に木霊する。
再び映像が歪み、視点は大きな広間へと飛んだ。
クスクス――クスクス――
壁は崩れ、裂けた床からマグマが噴き上がっていた。
「魔神は倒しましたが、これは、新たな問題が発生しましたね」
「こりゃぁ、不味い。チキサ様から受け継いだ力が、暴走している」
広間中央でランパが赤色に染まった髪を振り乱し、意味を成さぬ咆哮を上げている。
「このままじゃ魔神の城だけでなく、世界そのものが壊れてしまいます」
「私は、どうしたら――」
ルークは頭を抱え、膝をつく。
「四大精霊の力で、彼の記憶と力を封印するのです」
「それではランパが――」
「長い眠りにつくでしょう。しかし、今はそれしかありません」
「あぁ――」
ルークの口から、悲痛な嘆きがこぼれる。
「まさか、一番の災厄が、チビくんだったなんてねぇ」
クスクス――
「この力は、永久に封印しなければなりません。わかりますね、ルーク?」
クスクス――
「仕方ない、のか――」
ルークは立ち上がり、聖剣クトネシスの刃の先をランパに向けた。
「さようなら、ランパ」
クスクス――クスクス――
映像が途切れ、視点が現在へと舞い戻る。
目覚めの直前、勇斗の脳裏で低い声が木霊する。
――騙されるな。