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小さなひび割れ

ー/ー



 ランパとチカップが眠ったことを確かめると、勇斗は鎧を装着し、音を立てぬよう蒼樹の湯宿を抜け出した。

 夜更けの町は深い静寂に沈んでいた。軒先に吊された魔石の光が雪煙を淡く照らし、粉雪がその光の中をふわりと舞っていた。勇斗の吐く息は白く弾け、すぐに闇の中へと消えていった。

 宿で手に入れた地図を頼りに路地を抜け、勇斗は町の中央に架かる古い石橋――氷見橋(ひみばし)にたどり着いた。川面は薄氷に覆われ、星明かりをぼんやり映している。この橋は、夜に立つと氷に自分の過去と未来が映る――そんな噂のある名所らしい。

「お待ちしておりましたわ」

 橋の欄干のそばに立つソーマが、ゴシックドレスの裾をつまみ、しとやかに一礼した。

「その格好で、寒くないの?」

「私、寒さにはめっぽう強いのですわ。ユートは?」

「僕は、この鎧を着ていれば平気だよ」

 黄金色に輝く精霊器ラクメトには体温調整機能がある。ちょっとした外出で鎧を着るのは面倒だが、風邪をひくよりかはましだ。

「それで、話って何? こんな場所に呼び出して」

 周囲を照らす魔石の光が揺れ、ソーマの横顔に淡い陰影を落とす。

「聞いてほしいことが、ございますの」

 ソーマは身を寄せ、震える声で続けた。

「最近、怖い夢を見るのです。この町に近づくほど内容が鮮明なものになっていきまして――」

「怖い夢って?」

 勇斗が尋ねると、ソーマは一瞬口をつぐんだあと、視線を落とした。

「わたくしが、死ぬ夢です。見知らぬ誰かに囚われ、全てを奪われて無残に――」

 ソーマの小さな両手が、逃がさぬように勇斗の腕に絡みつく。

 指先が震えている。勇斗は慌てて彼女の手を包み込んだ。

「そんな……でも、所詮は夢だよ。気にしすぎ」

「夢では、ないと思いますの」

 俯いたままソーマは首を横に振った。

「あれは本当にあったこと。今ではない、ずっと昔の――」

 その言葉が胸に突き刺さる。

 ――あの娘の全てを奪ってやったよ。ざまぁないね。

 ――黙れ。

「ソーマ、きみは、もしかして本当に――」

 言い切る前に、思考を断ち切るような温かい感触が唇を塞いだ。

 勇斗の視界がホワイトアウトした。熱いものが体内へと流れ込む。鼓動が荒く波打った。

 やがて、ソーマの唇が離れる。

 勇斗は、放心したまま立ち尽くしていた。 胸の奥に、説明のつかない冷たさが残ったままだった。

「今度こそ、守ってくださいませ、勇者様」

 頭がぼんやりし、考える前にうなずいていた。

「もう一度だけ、いいかしら? まがい物の口づけではなく、本物の口づけを――」

「あぁ、うん」

 勇斗はソーマを抱き寄せ、再び接吻を交わした。華奢な体の震えを腕の中で感じ取り、決意を胸に刻み込む。

 ソーマはレタの生まれ変わりだ。ルークの力を受け継ぐ自分が、必ず守らなければならない。何があろうとも。

 唇を離してまぶたを開けると、ソーマは儚げな笑みを浮かべていた。


 翌朝、勇斗たちは大精霊の手掛かりを求め、ウルパの町を二手に分かれて聞き込みを始めた。東側を勇斗とランパ、西側をチカップとソーマが担当する。湯宿の玄関で決めた、じゃんけんの結果だった。

 本当はソーマの傍にいたかった勇斗だが、彼女の「ご心配なさらず」という笑顔に押し切られ、渋々引き下がったという経緯がある。

 勇斗はぼんやり歩きながら、昨夜の残像を振り払えずにいた。耳に残る囁き、唇の温み、肌の柔らかさ――鎧の内側で胸の火照りが消えない。
 
「ピャー! やっぱり寒い! どうにかしてくれぇー!」

 甲高い絶叫で、現実に叩き戻された。石畳の真ん中で、ランパが震えながら叫んでいる。道行く人々が冷たい視線を向けていた。

 勇斗は眉間にしわを寄せ、ランパの口を素早く手でふさぐ。そのままひょいと抱え上げ、路地を駆け抜けた。

「温かい服買ってあげるから、静かにして!」

 勇斗は語気を強めた。

 ランパはじたばたしていたが、店に滑り込むころには観念したようだった。

 木造の古着屋には、毛皮や厚手の編み物が天井まで並んでいた。指輪や首飾りなどの装飾品も棚を彩っている。ソーマにもなにか買ってやろうかな。彼女は何が好きなのだろう?

「オイラ、これがいい」

 ランパが指差したのは、もこもこの茶色い毛皮コートだった。値札を見て勇斗の眉が跳ね上がる。だが背に腹は代えられない。これ以上騒がれるのは御免だ。

 会計を済ませると、ランパはご満悦でフードを被ったり脱いだりを繰り返した。

 勇斗は苦笑しながら外へ出る。途端、ランパの表情が曇った。

「なぁ、ユート」

「どうしたの?」

「お前とソーマ、昨日の夜……どこに行ってたんだ?」

 胸の奥がひやりと凍る。勇斗は口を開きかけ、言葉を探した。

「夜中、しょんべんに行く途中で見たんだ。雪まみれのお前ら二人が、一緒に部屋に入るとこ」

「ね、寝ぼけてたんじゃない? 僕は……ずっと寝てたよ?」

 視線を逸らすと、ランパは緑色の瞳でじっと見据えてきた。

「本当か? 嘘ついてないよな?」

 鼓動が速くなる。勇斗は乾いた唇を舐めた。

 ――今晩のことは、わたくしとユートだけの秘密にしておいてくださいませ。特に、ランパさんには絶対内緒で。

 昨夜、二人きりの部屋でソーマに念押しされた言葉が脳裏をよぎる。

「嘘なんて――ついてない、よ」

 声が、自分でもわかるほど頼りなかった。

 重い沈黙のあと、ランパは頬をふくらませ、頭の後ろで手を組む。

「じゃあオイラ、夢でも見てたのかもな」

「そ、そう、夢だよ。アハハ――」

 ぎこちない笑い声が雪まじりの風にさらわれ、胸の奥に、冷たい息苦しさが広がる。

 思わず勇斗は鉛色の空を仰いだ。

 空から落ちる雪は勢いを増し、白さを深めていた。


 チカップの調べでは、ウルパの西にそびえるタプカ山の中腹には巨大な湖があり、かつて水の大精霊を祀る儀式が営まれていたという。雪崩よけや水脈の浄化を願う祭事だったらしい。
 
「湖への道順もバッチリっスよ」

 メモを広げたチカップは、羽根ペンを指の間で器用にくるりと回した。

「よし、出発しよう」

 勇斗はソーマと視線を交わす。ソーマはゆっくりうなずいた。

「ところで、ユート」

 チカップの額にある第三の目が、勇斗を真っ直ぐ射抜いた。

「昨日、何かあったっスか」

「い、いや。何もないよ?」

 勇斗はたじろぎ、視線を泳がせつつ首を振った。

「そうっスか。自分の気のせいっスかね。何か雰囲気が違ったもんで――」

 パン、と鋭い拍手が響く。

「急ぎましょう! 日が暮れたら山は危険ですわ」

 ソーマが勇斗の手をつかみ、そのまま走り出した。

「ちょ、ちょっとソーマ」

 振り返った勇斗の視界に、不思議そうに首を傾げるチカップと、俯いたままフードの陰で表情を隠すランパが映る。

 ランパは微かに肩を揺らし、歯ぎしりをした。


 雪を踏みしめながら、勇斗たちは山の斜面を登っていた。
 
 やがて道は二手に分かれた。左はなだらかに曲がる雪道、右は崖沿いの細い獣道。
 
 チカップがメモを見やり、口を開く。

「左は遠回りだけど安全っス。右は早いけど、崖が崩れかけてる場所があるみたいっス」

 どちらへ進むべきか、勇斗は悩んだ。残り体力と日没までの猶予を秤にかければ、到着の早い右を選びたい。だが崖沿いの獣道を、ソーマの脚で無事に越えられるだろうか――

「右の道、少し怖いですわ。でも、頑張ってついていきますから」

 ソーマは甘く囁きながら、そっと勇斗へ身を寄せた。

「じゃあ、右を進もう。ゆっくり進めば平気だよ」

 そうだ。もし彼女に危険が及んでも、自分が守ればいい。今の自分なら大丈夫だ――そう思い込もうとした。

 勇斗が歩み出そうとした瞬間、後ろからランパの声が飛んだ。

「止めとけ。右の道はヤバいぞ。草花がそう言ってる」

「え?」

 振り向くと、ランパは道端の白い花を撫でながら、真剣な目をしていた。

「こいつら、さっきからオイラに逃げろ、ってずっと叫んでる。崖が崩れているだけじゃない。あっちには、やばいのがいる」

 勇斗は戸惑いを隠せないまま、言い返した。

「でも、のんびりしていると、ソーマが――」

「ユート!」

 ランパは一歩前に出て、勇斗をまっすぐに見た。

「なあ、ユート。誰の声を聞いてる?」

 勇斗は息を呑んだ。

 ソーマは俯き、爪が食い込むほど手を握りしめていた。

「僕は――」

 言いかけて、声が止まる。なぜソーマの一言で即断してしまったのか、自分でもはっきりわからなかった。


 結局、左の道を選ぶことになった。

 樹氷のアーチをくぐり抜け、一行はなだらかな雪斜面をひたすら歩いた。

「そういやソーマ、お前、あのときどこ行ってたんだ?」

 歩きながら、ランパは腕を組み、細めた目をソーマに向けた。

「いつのことです?」

 ソーマが首を傾げる。

「モッケ族の里で勇斗とワンコが助けられたときだ。オイラが目を覚ましたら、広間にはチカップしかいなかった」

「そういや、ランパが起きる前に、外に出て行ってたっスよね」

「ユートが心配だっただけですわ。外を歩いていたら、ユートと魔族が戦っている場面を見てしまって――激しい戦いで、わたくし、怖くて動けなくなってしまいましたの」

「本当にそれだけか?」

「わたくし、嘘はついてませんわ」

 俯いたソーマは、震える声を出した。

「ランパ、やめてよ。ソーマが困ってる。過去のことなんて今はどうでもいいじゃないか」

 勇斗は眉間にしわを刻んだ。さっきからランパの言動が胸を締めつけてくる。

「ユート……オイラ、オイラは――」

 ランパは歯を噛みしめ、視線を雪面に落とした。
 

 タプカ山を登り始めて二時間ほど経った頃、勇斗たちの眼下に氷の眼が現れた。
 
 見下ろす斜面の先、雪で縁取られた円形の凹地に氷で閉ざされた湖が静かに横たわっている。中央には岩の小島があり、その上に削り出したような台座がぽつんと突き出ていた。

「あれが、タプカ湖っスね」

 チカップはため息をつき、氷の湖を眺めた。

「あそこに、最後の大精霊が……」

 勇斗の体の内側で、ドクドクと鼓動が高鳴った。

「ユート、気をつけろ」

 低い声で言ったランパが、精霊樹の枝を構える。

 足元がわずかに揺れる。低い唸りが地面から伝わり、空気を震わせる。

 振り返ると、純白のたてがみを翻す巨大な獅子が雪煙の中で静かに佇んでいた。


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 ランパとチカップが眠ったことを確かめると、勇斗は鎧を装着し、音を立てぬよう蒼樹の湯宿を抜け出した。
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 黄金色に輝く精霊器ラクメトには体温調整機能がある。ちょっとした外出で鎧を着るのは面倒だが、風邪をひくよりかはましだ。
「それで、話って何? こんな場所に呼び出して」
 周囲を照らす魔石の光が揺れ、ソーマの横顔に淡い陰影を落とす。
「聞いてほしいことが、ございますの」
 ソーマは身を寄せ、震える声で続けた。
「最近、怖い夢を見るのです。この町に近づくほど内容が鮮明なものになっていきまして――」
「怖い夢って?」
 勇斗が尋ねると、ソーマは一瞬口をつぐんだあと、視線を落とした。
「わたくしが、死ぬ夢です。見知らぬ誰かに囚われ、全てを奪われて無残に――」
 ソーマの小さな両手が、逃がさぬように勇斗の腕に絡みつく。
 指先が震えている。勇斗は慌てて彼女の手を包み込んだ。
「そんな……でも、所詮は夢だよ。気にしすぎ」
「夢では、ないと思いますの」
 俯いたままソーマは首を横に振った。
「あれは本当にあったこと。今ではない、ずっと昔の――」
 その言葉が胸に突き刺さる。
 ――あの娘の全てを奪ってやったよ。ざまぁないね。
 ――黙れ。
「ソーマ、きみは、もしかして本当に――」
 言い切る前に、思考を断ち切るような温かい感触が唇を塞いだ。
 勇斗の視界がホワイトアウトした。熱いものが体内へと流れ込む。鼓動が荒く波打った。
 やがて、ソーマの唇が離れる。
 勇斗は、放心したまま立ち尽くしていた。 胸の奥に、説明のつかない冷たさが残ったままだった。
「今度こそ、守ってくださいませ、勇者様」
 頭がぼんやりし、考える前にうなずいていた。
「もう一度だけ、いいかしら? まがい物の口づけではなく、本物の口づけを――」
「あぁ、うん」
 勇斗はソーマを抱き寄せ、再び接吻を交わした。華奢な体の震えを腕の中で感じ取り、決意を胸に刻み込む。
 ソーマはレタの生まれ変わりだ。ルークの力を受け継ぐ自分が、必ず守らなければならない。何があろうとも。
 唇を離してまぶたを開けると、ソーマは儚げな笑みを浮かべていた。
 翌朝、勇斗たちは大精霊の手掛かりを求め、ウルパの町を二手に分かれて聞き込みを始めた。東側を勇斗とランパ、西側をチカップとソーマが担当する。湯宿の玄関で決めた、じゃんけんの結果だった。
 本当はソーマの傍にいたかった勇斗だが、彼女の「ご心配なさらず」という笑顔に押し切られ、渋々引き下がったという経緯がある。
 勇斗はぼんやり歩きながら、昨夜の残像を振り払えずにいた。耳に残る囁き、唇の温み、肌の柔らかさ――鎧の内側で胸の火照りが消えない。
「ピャー! やっぱり寒い! どうにかしてくれぇー!」
 甲高い絶叫で、現実に叩き戻された。石畳の真ん中で、ランパが震えながら叫んでいる。道行く人々が冷たい視線を向けていた。
 勇斗は眉間にしわを寄せ、ランパの口を素早く手でふさぐ。そのままひょいと抱え上げ、路地を駆け抜けた。
「温かい服買ってあげるから、静かにして!」
 勇斗は語気を強めた。
 ランパはじたばたしていたが、店に滑り込むころには観念したようだった。
 木造の古着屋には、毛皮や厚手の編み物が天井まで並んでいた。指輪や首飾りなどの装飾品も棚を彩っている。ソーマにもなにか買ってやろうかな。彼女は何が好きなのだろう?
「オイラ、これがいい」
 ランパが指差したのは、もこもこの茶色い毛皮コートだった。値札を見て勇斗の眉が跳ね上がる。だが背に腹は代えられない。これ以上騒がれるのは御免だ。
 会計を済ませると、ランパはご満悦でフードを被ったり脱いだりを繰り返した。
 勇斗は苦笑しながら外へ出る。途端、ランパの表情が曇った。
「なぁ、ユート」
「どうしたの?」
「お前とソーマ、昨日の夜……どこに行ってたんだ?」
 胸の奥がひやりと凍る。勇斗は口を開きかけ、言葉を探した。
「夜中、しょんべんに行く途中で見たんだ。雪まみれのお前ら二人が、一緒に部屋に入るとこ」
「ね、寝ぼけてたんじゃない? 僕は……ずっと寝てたよ?」
 視線を逸らすと、ランパは緑色の瞳でじっと見据えてきた。
「本当か? 嘘ついてないよな?」
 鼓動が速くなる。勇斗は乾いた唇を舐めた。
 ――今晩のことは、わたくしとユートだけの秘密にしておいてくださいませ。特に、ランパさんには絶対内緒で。
 昨夜、二人きりの部屋でソーマに念押しされた言葉が脳裏をよぎる。
「嘘なんて――ついてない、よ」
 声が、自分でもわかるほど頼りなかった。
 重い沈黙のあと、ランパは頬をふくらませ、頭の後ろで手を組む。
「じゃあオイラ、夢でも見てたのかもな」
「そ、そう、夢だよ。アハハ――」
 ぎこちない笑い声が雪まじりの風にさらわれ、胸の奥に、冷たい息苦しさが広がる。
 思わず勇斗は鉛色の空を仰いだ。
 空から落ちる雪は勢いを増し、白さを深めていた。
 チカップの調べでは、ウルパの西にそびえるタプカ山の中腹には巨大な湖があり、かつて水の大精霊を祀る儀式が営まれていたという。雪崩よけや水脈の浄化を願う祭事だったらしい。
「湖への道順もバッチリっスよ」
 メモを広げたチカップは、羽根ペンを指の間で器用にくるりと回した。
「よし、出発しよう」
 勇斗はソーマと視線を交わす。ソーマはゆっくりうなずいた。
「ところで、ユート」
 チカップの額にある第三の目が、勇斗を真っ直ぐ射抜いた。
「昨日、何かあったっスか」
「い、いや。何もないよ?」
 勇斗はたじろぎ、視線を泳がせつつ首を振った。
「そうっスか。自分の気のせいっスかね。何か雰囲気が違ったもんで――」
 パン、と鋭い拍手が響く。
「急ぎましょう! 日が暮れたら山は危険ですわ」
 ソーマが勇斗の手をつかみ、そのまま走り出した。
「ちょ、ちょっとソーマ」
 振り返った勇斗の視界に、不思議そうに首を傾げるチカップと、俯いたままフードの陰で表情を隠すランパが映る。
 ランパは微かに肩を揺らし、歯ぎしりをした。
 雪を踏みしめながら、勇斗たちは山の斜面を登っていた。
 やがて道は二手に分かれた。左はなだらかに曲がる雪道、右は崖沿いの細い獣道。
 チカップがメモを見やり、口を開く。
「左は遠回りだけど安全っス。右は早いけど、崖が崩れかけてる場所があるみたいっス」
 どちらへ進むべきか、勇斗は悩んだ。残り体力と日没までの猶予を秤にかければ、到着の早い右を選びたい。だが崖沿いの獣道を、ソーマの脚で無事に越えられるだろうか――
「右の道、少し怖いですわ。でも、頑張ってついていきますから」
 ソーマは甘く囁きながら、そっと勇斗へ身を寄せた。
「じゃあ、右を進もう。ゆっくり進めば平気だよ」
 そうだ。もし彼女に危険が及んでも、自分が守ればいい。今の自分なら大丈夫だ――そう思い込もうとした。
 勇斗が歩み出そうとした瞬間、後ろからランパの声が飛んだ。
「止めとけ。右の道はヤバいぞ。草花がそう言ってる」
「え?」
 振り向くと、ランパは道端の白い花を撫でながら、真剣な目をしていた。
「こいつら、さっきからオイラに逃げろ、ってずっと叫んでる。崖が崩れているだけじゃない。あっちには、やばいのがいる」
 勇斗は戸惑いを隠せないまま、言い返した。
「でも、のんびりしていると、ソーマが――」
「ユート!」
 ランパは一歩前に出て、勇斗をまっすぐに見た。
「なあ、ユート。誰の声を聞いてる?」
 勇斗は息を呑んだ。
 ソーマは俯き、爪が食い込むほど手を握りしめていた。
「僕は――」
 言いかけて、声が止まる。なぜソーマの一言で即断してしまったのか、自分でもはっきりわからなかった。
 結局、左の道を選ぶことになった。
 樹氷のアーチをくぐり抜け、一行はなだらかな雪斜面をひたすら歩いた。
「そういやソーマ、お前、あのときどこ行ってたんだ?」
 歩きながら、ランパは腕を組み、細めた目をソーマに向けた。
「いつのことです?」
 ソーマが首を傾げる。
「モッケ族の里で勇斗とワンコが助けられたときだ。オイラが目を覚ましたら、広間にはチカップしかいなかった」
「そういや、ランパが起きる前に、外に出て行ってたっスよね」
「ユートが心配だっただけですわ。外を歩いていたら、ユートと魔族が戦っている場面を見てしまって――激しい戦いで、わたくし、怖くて動けなくなってしまいましたの」
「本当にそれだけか?」
「わたくし、嘘はついてませんわ」
 俯いたソーマは、震える声を出した。
「ランパ、やめてよ。ソーマが困ってる。過去のことなんて今はどうでもいいじゃないか」
 勇斗は眉間にしわを刻んだ。さっきからランパの言動が胸を締めつけてくる。
「ユート……オイラ、オイラは――」
 ランパは歯を噛みしめ、視線を雪面に落とした。
 タプカ山を登り始めて二時間ほど経った頃、勇斗たちの眼下に氷の眼が現れた。
 見下ろす斜面の先、雪で縁取られた円形の凹地に氷で閉ざされた湖が静かに横たわっている。中央には岩の小島があり、その上に削り出したような台座がぽつんと突き出ていた。
「あれが、タプカ湖っスね」
 チカップはため息をつき、氷の湖を眺めた。
「あそこに、最後の大精霊が……」
 勇斗の体の内側で、ドクドクと鼓動が高鳴った。
「ユート、気をつけろ」
 低い声で言ったランパが、精霊樹の枝を構える。
 足元がわずかに揺れる。低い唸りが地面から伝わり、空気を震わせる。
 振り返ると、純白のたてがみを翻す巨大な獅子が雪煙の中で静かに佇んでいた。