その日は、何気ない一言から始まった。
「来週、ちょっと家、空けるかも」
昼下がりのリビングで、瑞季がコーヒーを飲みながら言った。
軽く。まるで“雨が降りそうだね”くらいのテンションで。
「実家?」
「うん……まあ、ちょっと。予定があって」
彼女はそう言って笑った。
でもその笑みは、ほんの少し“ずれて”いた。
みづきが横で眉をひそめる。
「予定って、急じゃない?」
「急に決まっただけ」
「……ふうん」
誰もそれ以上、問い詰めなかった。
けれど、その場にいた全員が“何か”を感じ取っていた。
夜。
瑞季の部屋からは、電話の小さな声が漏れていた。
「うん、わかってる。……でも、あの病院は……やっぱり気が進まない」
「……一回だけだから。すぐ帰るから」
そして、ため息。
その後、しばらく沈黙が続いた。
——電話の相手は、たぶん母親。
誰かの“事情”に深く立ち入るのは、簡単なことじゃない。
だからこそ、誰も何も言わない。けれど、言葉にされない気配は、確かに家の中に漂っていた。
翌日。
リビングに置かれた「casa-sora日誌」の一番最後に、みづきの書き込みが増えていた。
“ほんの少しの違和感を見過ごすのって、
“気づいても何もできない自分が嫌だから”だったりする。
でも、黙ってるだけじゃ、優しさにならないこともある。”
それを読んだ真吾は、夜のリビングで瑞季に声をかけた。
「……体調とか、大丈夫?」
「え?」
「いや、なんとなく。最近の様子見てて。俺、あんまり気を利かせられる方じゃないけど」
瑞季は、驚いた顔のまま一瞬黙った。
「……ううん、平気。ちょっと家のことでバタバタしてるだけ」
「そっか。……でもさ、“ちょっと”って時ほど、誰かに話すと楽になることあるよ」
「……私、嘘つくの得意じゃないって、自分で思ってた」
「得意じゃないよ。今、たぶん“分かってほしくなさそう”な顔してるし」
「……そういうとこ、ほんと厄介だね。朝陽と同じくらい、見透かしてくる」
それでも、瑞季はようやく目を伏せながら、ぽつりと本当のことを話し始めた。
「弟が……入院してて。付き添いで帰るの。
でも、家の人にも“シェアハウスの人たちに迷惑かけるな”って言われてて。だから、なんか……話しづらかった」
「話しづらいのは、わかる。
でも、話してくれたの、嬉しいよ」
真吾の声は、変わらず淡々としていた。
でも、その“変わらなさ”が、瑞季にとっては何よりありがたかった。
その晩、彼女は日誌に一言だけ書いた。
“嘘をついた。つもりじゃなかったけど、結果的にそうなった。
でも、誰かが気づいてくれたことで、自分も“ここにいていい”って思えた。”
それを翌朝読んだ優真は、日誌の横にカラーペンで大きく書き足した。
“なーにがあっても! 俺らが瑞季を取り巻く防護壁だからな!!”
みづきがそれを見て、鼻で笑った。
「……この人、騒がしいけど、たぶん一番バカ正直」
晴がふっと笑った。
「でも、そういう人がいてくれると、安心するよね」
小さな嘘は、時に心を守るための“盾”になる。
でも、誰かがその盾越しにそっと手を伸ばしてくれた時——
人は、もう一度自分の“本当”を取り戻せる。
この家には、そういう手があった。
それだけで、瑞季の中に少しだけ“救い”が灯っていた。