section10「まだ名もない種を、拾ってくれる人」
ー/ー夕方、雨は止み、地面にはまだ濡れたままのアスファルトの匂いが残っていた。
シェアハウスの玄関に置かれた傘立てには、数本の傘が無造作に差されている。
その傍で、桜子は靴を履きかけたまま、動けずにいた。
手には、薄い封筒。
中には、しわくちゃになったワークショップのチラシが入っている。
《市民センター企画・演劇体験講座 “動いてみたい人のための3日間”》
参加自由、未経験歓迎。
そう書かれた文字は、どこか気軽で、でもその“気軽さ”がかえって桜子には重くのしかかっていた。
「やってみたいなら、やればいいと思うよ」
その声に、肩がびくりと動いた。
振り返ると、朝陽が階段の途中からこちらを見ていた。
「……また、見てたの?」
「“見てた”っていうより、“気づいた”だけ。目の動きと指の力の入り方見てたら、気づくよ」
「怖……」
「よく言われる。でも、悪意で観察してるわけじゃない」
朝陽はゆっくりと降りてきて、傘立ての横に立った。
「その紙、演劇の講座でしょ? 昨日、冷蔵庫の上にあったの、俺も気になって読んでた」
桜子は少しだけ目を伏せて言う。
「……こういうの、好きなの。人前に立つのは怖いけど、でも、何かを表現するのって、たぶん……ずっとやりたかったことなんだと思う」
「なら、やってみなよ」
「でも、笑われそうで……“何もできないくせに”って」
「誰に?」
「……自分に」
その言葉に、朝陽の視線がふっと和らぐ。
「俺さ、実は中学の時、演劇部だったんだ」
「えっ」
「一瞬だけ。台詞覚えるのは得意だったけど、“人前で失敗したらどうしよう”って思って、結局最後までやりきれなかった。でも、今でもちょっとだけ、あの時の自分に“もう少しやってみろよ”って言いたくなる」
桜子は、封筒を強く握り直す。
「……怖いよ。やってみたいけど、“できなかった”ってなるのが一番怖い」
「うん。でも、“できなかった”って思えるほど何かをやってみるのって、かっこいいと思う」
その言葉は、慰めでも励ましでもなかった。
ただ、自分の実感から出た、等身大のことば。
「……桜子さんは、“今の自分”をちゃんと見てる人だと思うよ。だから、きっと“何が怖いか”も、ちゃんと分かってる。そういう人が何かに挑戦するって、すごいことなんだ」
桜子は目を伏せたまま、小さく呟く。
「……やってみようかな。“やってみたい”を、“やってみた”に変えるだけでも、きっと違うよね」
「うん、違う。すごく違う」
朝陽はふっと微笑んだ。
「それに、誰も“全部できる”なんて思ってないよ。やってみたってだけで、たぶん、みんな少し惚れる」
「……え、それ、今ナチュラルに口説いた?」
「違う。“観察”からの分析」
「……余計に怖い」
それでも、桜子の声には、確かに笑みがにじんでいた。
彼女の足は、もうためらっていない。
自分の中にずっとあった、まだ名もない“好き”の種。
それを拾って、そっと掌に乗せてくれる誰かがいるだけで、
人は、明日へ向かう強さを少しだけ得られる。
雨上がりの夕空は、少しだけ朱色を滲ませていた。
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