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section09「境界線の向こうにあるもの」

ー/ー




 午後、雨が降り出した。
 窓の外の景色はぼやけて、街の輪郭は柔らかく溶けていくようだった。
 リビングでは誰もいない。音のない空間に、ぽつぽつと雨音だけが静かに響いていた。
 その中で、真吾は珍しくキッチンに立っていた。
 電子レンジで温めたスープの湯気をぼんやり眺めながら、思考は宙を彷徨っていた。
「……なんだかな」
 うまく言えない不安。
 このシェアハウスでの生活は、思っていた以上に“感情”のやりとりが多かった。
 人と交わることで、何かが増える。
 でもそれと同じだけ、揺れる。ズレる。ぶつかる。
 ——距離の取り方が難しい。
「真吾くん?」
 声に振り返ると、晴がそっとリビングに入ってきた。
 髪は少し濡れていて、どうやら外から戻ったばかりのようだった。
「……外、出てたんだ」
「うん。本屋に行ってた。ちょっと探したい資料があって……でも、思ったより降られちゃった」
「タオル、使う?」
「あ、うん……ありがとう」
 真吾が差し出したタオルを受け取るその手に、どこか遠慮が滲む。
 晴は器用に人と話すタイプではないが、それでも相手に心を向けることだけは誠実だった。
「この前、みんなで話してるとき……私、たぶん空回りしてたよね?」
 唐突な言葉だった。だが、真吾は否定も肯定もしなかった。ただ、少しだけ考えて答えた。
「……空回りっていうか、すごく真っすぐに話そうとしてるなって、思ってた」
「……そう見えたなら、少し安心した」
「晴さんってさ、“近づきすぎないようにしてる”って感じ、ちょっとあるよね」
「え……」
「いや、責めてるわけじゃない。俺も似たようなもんだから」
 真吾はスプーンでスープをゆっくりかき回す。
「俺さ、“人に期待されるのが苦手”なんだ。期待されると、それに応えなきゃって思って、でも応えきれなかったときに、勝手に自分が壊れる」
「……うん。わかる、かも」
 晴はタオルで髪を拭きながら、小さな声で言った。
「私も……昔、信じすぎて傷ついたことがあって。そこから、あんまり人に“期待される自分”を見せるのが怖くなった」
「信じすぎて?」
「うん。……向こうは、ただ“良い子”だって思ってただけなのに、私はそれを“信頼”だと思い込んでて。気づいたときには、誰にも踏み込めなくなってた」
 真吾は静かにうなずいた。
「……だから、こうやって距離を測ってくれる人って、すごくありがたい。わざと近づかないっていうのも、ひとつの“信頼”だと思う」
 その言葉に、晴の目が少し見開かれる。
「……信頼、なんだ。これって」
「うん。無理に話さなくても、無理に寄り添わなくても。そばにいるだけで、ちゃんと気にしてるってこと、伝わるときもあるから」
 晴はタオルを置き、真吾の隣の椅子に座った。
「……今日、話せてよかった。なんか、少し肩の力が抜けた」
「俺も。……スープ飲む?」
「もらう」
 真吾がカップを差し出すと、晴はふわりと笑った。
 それは少しだけ、距離の向こうに差し込む“光”のようだった。


 境界線を越えなくてもいい。
 でも、越えても大丈夫だと気づけたなら——
 それはもう、新しい関係の始まりだった。


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 午後、雨が降り出した。
 窓の外の景色はぼやけて、街の輪郭は柔らかく溶けていくようだった。
 リビングでは誰もいない。音のない空間に、ぽつぽつと雨音だけが静かに響いていた。
 その中で、真吾は珍しくキッチンに立っていた。
 電子レンジで温めたスープの湯気をぼんやり眺めながら、思考は宙を彷徨っていた。
「……なんだかな」
 うまく言えない不安。
 このシェアハウスでの生活は、思っていた以上に“感情”のやりとりが多かった。
 人と交わることで、何かが増える。
 でもそれと同じだけ、揺れる。ズレる。ぶつかる。
 ——距離の取り方が難しい。
「真吾くん?」
 声に振り返ると、晴がそっとリビングに入ってきた。
 髪は少し濡れていて、どうやら外から戻ったばかりのようだった。
「……外、出てたんだ」
「うん。本屋に行ってた。ちょっと探したい資料があって……でも、思ったより降られちゃった」
「タオル、使う?」
「あ、うん……ありがとう」
 真吾が差し出したタオルを受け取るその手に、どこか遠慮が滲む。
 晴は器用に人と話すタイプではないが、それでも相手に心を向けることだけは誠実だった。
「この前、みんなで話してるとき……私、たぶん空回りしてたよね?」
 唐突な言葉だった。だが、真吾は否定も肯定もしなかった。ただ、少しだけ考えて答えた。
「……空回りっていうか、すごく真っすぐに話そうとしてるなって、思ってた」
「……そう見えたなら、少し安心した」
「晴さんってさ、“近づきすぎないようにしてる”って感じ、ちょっとあるよね」
「え……」
「いや、責めてるわけじゃない。俺も似たようなもんだから」
 真吾はスプーンでスープをゆっくりかき回す。
「俺さ、“人に期待されるのが苦手”なんだ。期待されると、それに応えなきゃって思って、でも応えきれなかったときに、勝手に自分が壊れる」
「……うん。わかる、かも」
 晴はタオルで髪を拭きながら、小さな声で言った。
「私も……昔、信じすぎて傷ついたことがあって。そこから、あんまり人に“期待される自分”を見せるのが怖くなった」
「信じすぎて?」
「うん。……向こうは、ただ“良い子”だって思ってただけなのに、私はそれを“信頼”だと思い込んでて。気づいたときには、誰にも踏み込めなくなってた」
 真吾は静かにうなずいた。
「……だから、こうやって距離を測ってくれる人って、すごくありがたい。わざと近づかないっていうのも、ひとつの“信頼”だと思う」
 その言葉に、晴の目が少し見開かれる。
「……信頼、なんだ。これって」
「うん。無理に話さなくても、無理に寄り添わなくても。そばにいるだけで、ちゃんと気にしてるってこと、伝わるときもあるから」
 晴はタオルを置き、真吾の隣の椅子に座った。
「……今日、話せてよかった。なんか、少し肩の力が抜けた」
「俺も。……スープ飲む?」
「もらう」
 真吾がカップを差し出すと、晴はふわりと笑った。
 それは少しだけ、距離の向こうに差し込む“光”のようだった。
 境界線を越えなくてもいい。
 でも、越えても大丈夫だと気づけたなら——
 それはもう、新しい関係の始まりだった。