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section07「言えなかったことに、言葉が届く」

ー/ー



 夜、リビングにはわずかにジャズの音が流れていた。
 誰が流し始めたのかは分からない。でも、その音は、この空間に妙にしっくりきていた。
 キッチンカウンターでは、桜子がマグカップを抱えたまま、しばらく中身を口にせずにいた。
 その背中に気づいたのは、瑞季だった。
「……それ、冷めないうちに飲んだ方がいいよ」
「わ……びっくりした」
「いつからそこに?」
「わりと最初からいたけど、話しかけるタイミング、探してただけ」
 桜子は少しだけ困ったように笑う。
「……今日、ちゃんと話せてたかなって、ちょっと反省してて」
「話せてたと思うよ。テンション高すぎるとこはあったけど、それも“らしい”って感じだった」
「……それって、いい意味?」
「どっちとも取れる」
 瑞季のその淡々とした返しに、桜子はくすっと笑った。
「瑞季さんってさ、自分をちゃんと出せてる感じがして、うらやましい」
「そう見えるだけ。私はむしろ、“出したくない”と思ってる方」
「え?」
「他人に見せていい部分と、見せたくない部分を、無意識に選んでる。だからたぶん、素を出してるように見えてるとしたら、それは“計算済みの素”なんだと思う」
「……難しいな、それ」
「うん。自分でもわかんない。でも、“見せたいと思える人”に出会えたら、その時がたぶん、本当の意味で“言える”時なんだろうなって思ってる」
 桜子は少し黙ったあと、ぽつりと言った。
「私、いっつも“やる気ある自分”を演じちゃうの。誰かに期待されたくて。……でも、期待されたら苦しくなるのに、それを手放せない」
「……期待されると、“答えなきゃ”ってなる?」
「うん。無理してでも。でも、期待されないと、自分がここにいる理由がわからなくなるの」
 瑞季は、静かにその言葉を受け止めていた。
 そして少しだけ背筋を伸ばし、マグカップの中を見つめたまま、言った。
「……そういうの、わかるよ」
「え?」
「私も、“いてもいなくても変わらない”って思われるのが、一番怖い。だから、空気になりたがる癖がある。目立たないようにして、それでいて、誰かに見つけてほしいって思ってる」
 桜子は、その言葉に明らかに驚いた顔をした。
「……そうは、見えなかった」
「でしょ。でも、みんなそうじゃない? 優真も、雅樹も、みづきも。……たぶん、全員が“自分をちゃんと見つけてほしい”って、どこかで願ってるんだと思う」
「それって、普通のこと……なのかな」
「うん。だから、無理して明るく振る舞うのも、素でいられないって悩むのも、全部“ここにいたい”って思ってる証拠だよ」
 静かな言葉が、桜子の胸に、ゆっくりと染み込んでいく。
 それは、励ましでも慰めでもない。ただ、共鳴だった。
 ふいに、背後から優しい声が差し込んだ。
「……なんか、いい話してる?」
 振り返ると、朝陽がソファの後ろから顔を出していた。
「聞いてたの?」
「聞こえたってだけ。……でも、ちょっとだけわかる気がする。誰かに見つけてほしいって思うのは、きっと“今”をちゃんと生きてる証拠なんだよ」
 桜子は、ほんの少し涙ぐんで、だけど笑って言った。
「……なんか、今夜はよく泣くな、私」
「泣いていいよ。泣けるのも、ここにいる証拠だから」
 その言葉に、瑞季もこくりと頷いた。


 夜が深まる中、少しずつ、少しずつ、
“言えなかったこと”に、言葉が届きはじめていた。
 それはまるで、寒い夜に差し出された毛布のように。
 重くないけど、確かに温かい。


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 夜、リビングにはわずかにジャズの音が流れていた。
 誰が流し始めたのかは分からない。でも、その音は、この空間に妙にしっくりきていた。
 キッチンカウンターでは、桜子がマグカップを抱えたまま、しばらく中身を口にせずにいた。
 その背中に気づいたのは、瑞季だった。
「……それ、冷めないうちに飲んだ方がいいよ」
「わ……びっくりした」
「いつからそこに?」
「わりと最初からいたけど、話しかけるタイミング、探してただけ」
 桜子は少しだけ困ったように笑う。
「……今日、ちゃんと話せてたかなって、ちょっと反省してて」
「話せてたと思うよ。テンション高すぎるとこはあったけど、それも“らしい”って感じだった」
「……それって、いい意味?」
「どっちとも取れる」
 瑞季のその淡々とした返しに、桜子はくすっと笑った。
「瑞季さんってさ、自分をちゃんと出せてる感じがして、うらやましい」
「そう見えるだけ。私はむしろ、“出したくない”と思ってる方」
「え?」
「他人に見せていい部分と、見せたくない部分を、無意識に選んでる。だからたぶん、素を出してるように見えてるとしたら、それは“計算済みの素”なんだと思う」
「……難しいな、それ」
「うん。自分でもわかんない。でも、“見せたいと思える人”に出会えたら、その時がたぶん、本当の意味で“言える”時なんだろうなって思ってる」
 桜子は少し黙ったあと、ぽつりと言った。
「私、いっつも“やる気ある自分”を演じちゃうの。誰かに期待されたくて。……でも、期待されたら苦しくなるのに、それを手放せない」
「……期待されると、“答えなきゃ”ってなる?」
「うん。無理してでも。でも、期待されないと、自分がここにいる理由がわからなくなるの」
 瑞季は、静かにその言葉を受け止めていた。
 そして少しだけ背筋を伸ばし、マグカップの中を見つめたまま、言った。
「……そういうの、わかるよ」
「え?」
「私も、“いてもいなくても変わらない”って思われるのが、一番怖い。だから、空気になりたがる癖がある。目立たないようにして、それでいて、誰かに見つけてほしいって思ってる」
 桜子は、その言葉に明らかに驚いた顔をした。
「……そうは、見えなかった」
「でしょ。でも、みんなそうじゃない? 優真も、雅樹も、みづきも。……たぶん、全員が“自分をちゃんと見つけてほしい”って、どこかで願ってるんだと思う」
「それって、普通のこと……なのかな」
「うん。だから、無理して明るく振る舞うのも、素でいられないって悩むのも、全部“ここにいたい”って思ってる証拠だよ」
 静かな言葉が、桜子の胸に、ゆっくりと染み込んでいく。
 それは、励ましでも慰めでもない。ただ、共鳴だった。
 ふいに、背後から優しい声が差し込んだ。
「……なんか、いい話してる?」
 振り返ると、朝陽がソファの後ろから顔を出していた。
「聞いてたの?」
「聞こえたってだけ。……でも、ちょっとだけわかる気がする。誰かに見つけてほしいって思うのは、きっと“今”をちゃんと生きてる証拠なんだよ」
 桜子は、ほんの少し涙ぐんで、だけど笑って言った。
「……なんか、今夜はよく泣くな、私」
「泣いていいよ。泣けるのも、ここにいる証拠だから」
 その言葉に、瑞季もこくりと頷いた。
 夜が深まる中、少しずつ、少しずつ、
“言えなかったこと”に、言葉が届きはじめていた。
 それはまるで、寒い夜に差し出された毛布のように。
 重くないけど、確かに温かい。