朝の光が、シェアハウス《casa-sora》のキッチンをゆっくりと照らしていた。
新生活の2日目。まだ生活リズムの合わない8人の中で、一番にキッチンへ現れたのは——優真だった。
「……よし、まずはお湯沸かすとこからだな!」
ガスをつけ、ケトルに水を注ぎながら、彼は誰に見られているでもないのに鼻歌を口ずさむ。
冷蔵庫には誰かが昨日置いていった牛乳、テーブルの上には、用意されたばかりのティーパックやインスタントコーヒーの小瓶。
(こういう何気ない風景が……始まりって感じするよな)
カップを3つ出し、手際よく湯を注ぐ。
その時——後ろから小さな声がした。
「……手、早いんだね」
振り返ると、淡い色のパジャマ姿の晴が、キッチンの入り口で立ち止まっていた。
髪を一つに束ねて、表情はまだ眠たげ。でも、目だけは、優真の動きをずっと見ていた。
「おはよ、晴! よかったらコーヒー飲む?」
「……もらう。ありがとう」
彼女の前にそっとカップを置く。
小さな“ありがとう”とともに、湯気がふわりと立ち上る。
「晴ってさ、朝、強そうなイメージだったけど」
「……よく言われる。でも、全然そんなことない。むしろ、朝は“緊張する”」
「緊張?」
「まだ誰にも会ってないから、今日がどんな日になるか予測できなくて、怖いっていうか……」
ふと口をつぐむ晴の横顔に、優真は驚いたように見入った。
「そっか。俺は“何が起こるか分かんない”ってとこが、逆に楽しみなんだけどな」
「……信じられない」
晴が微笑んだ。それは皮肉ではなく、純粋な驚きからの反応だった。
「だって、もし“悪いこと”が起こったら?」
「そしたら、それを“面白くする”のが俺の仕事でしょ」
その言葉に、晴はコーヒーを一口すすったあと、ポツリと漏らす。
「……強いね、優真って。きっと私とは全然、見てるものが違うんだと思う」
「違うかもな。でも、それって別に“遠い”ってことじゃないぜ」
「どういう意味?」
「お互い見てる方向が違ってても、ちょっと体を傾けたら同じ景色が見えるかもしれないだろ?」
晴は少し考え込むように俯いたあと、小さく笑った。
「……それ、名言っぽいのに、なんか優真らしくてズルい」
「でしょ。俺、口だけは達者だからな」
そんな会話を交わしていると、キッチンにゆっくりとした足音が近づいてきた。
「朝からテンション高いね……」
現れたのは、瑞季だった。手にスマホを持ちながら、やや目を細めている。
「コーヒーあるよ。いる?」
「もらう。……ってか、すでに何か“話が進んでる感じ”がして怖いんだけど」
「大丈夫大丈夫。俺たちまだ全然スタートライン。むしろ今、“心のストレッチ中”って感じ?」
「うるさいストレッチだな……」
そう言いながらも、瑞季はマグカップを受け取り、椅子に腰を下ろした。
「……晴、顔がゆるんでる」
「え?」
「いや……ただ、昨日より“ここにいていいって思ってる感じ”がするなって」
言われて初めて、晴は自分が微笑んでいたことに気づいた。
そして、ほんの少しだけ、背筋を伸ばした。
「……うん。なんか、ちょっとだけ、そう思えた気がする」
「よっしゃ! 朝からいい言葉聞けたな〜」
「……調子に乗らないで」
「乗るよ。全速力で!」
三人の笑い声がキッチンに広がる。
その奥で、いつの間にか来ていた真吾が、コーヒーを飲みながらポツリと呟いた。
「……悪くない、朝だな」
まだ始まったばかりの春の生活。
けれど、確かに“信号”は点った。
一杯のコーヒーと、他愛のない会話。
そこには、誰かの心が静かに動き始める音があった。