由香と慎が戻ってきた店内は、先ほどより少しだけ照明が落とされ、夕刻の柔らかな陰影が天井にゆらめいていた。
時計の針は午後七時を過ぎ、そろそろ帰り支度をするべき時間帯——なのに、誰も席を立つ様子はない。
風雅は、そんな空気の緩さを楽しむようにカップを回していた。
「……なあ、杏奈って、子どもの頃から理系だったの?」
彼の素朴な問いに、杏奈はタブレットから視線を上げる。
「“理系”というより、たぶん“解釈する癖”があったんだと思う。“どうして?”って疑問を持つことを止めなかっただけ」
「うわ、それ……正直すぎてちょっと怖いな」
「そう? 風雅さんこそ、“どうでもいい”って顔して、たぶん一番好奇心強いタイプだと思うけど」
「……それは、バレてる。正直、“なんでだろう”って思うことは多いよ。でも、たいてい答えは出ないし、“まあ、いっか”で済ませてる」
杏奈は少し首をかしげて、言葉を選ぶように言った。
「それって、“信じてる”ってこと?」
「……え?」
「答えが出なくても、“まあ、いっか”で終わらせられるのは、“どこかで大丈夫だ”って思ってるからでしょ? 根拠のない希望。……でも、私は、それがずっとできなかった」
静かに語られる言葉に、店内の空気がわずかに緊張した。
「私はずっと、“感情”が苦手だった。“好き”とか“嫌い”とかって、定義できないし、他人と比べられない。だから、“心で信じる”って行為も……信用できなかった」
「じゃあ、今は?」
杏奈は一瞬だけ、黙った。
そして——テーブルの上にある空のカップを見ながら、ぽつりとつぶやいた。
「……今は、“信じてみてもいいかも”って思えるようになった」
その言葉に、風雅は少しだけ驚いたような顔をした。
杏奈の中で、何かが静かに揺れているのを感じ取ったからだ。
「何があったの?」
「……風雅さんが、“答えが出ないことを許してる”のを見て、ちょっとだけ羨ましかった。……そして、ちょっとだけ、真似したくなった」
照れたように視線を逸らした杏奈に、風雅はにやりと笑った。
「真似って、けっこう深いやつだよ。それってつまり……“わかってみたい”って思ったってことだろ?」
「うん、たぶん」
その“たぶん”の一言に、杏奈らしい曖昧さと確かな覚悟が混ざっていた。
ふと、泉がココアのカップを両手で包みながらぽつりと漏らした。
「私も……もっと人を信じられたらいいのにって、思ってた」
由真が驚いたように泉の方を見る。
「泉さんは、いつも誰にでも優しいのに……信じてないの?」
「違うの。……私、すぐ人の言葉に影響されちゃうから、自分の“軸”がない気がして。だから、“本気で信じる”ってことが怖いの」
その言葉に、一瞬皆が言葉を失った。
だが、その時、創が静かに言った。
「それでも、今日ここに来て、“誰の言葉に耳を傾けるか”を自分で選んだんでしょ。それだけで、ちゃんと“自分”を動かしてると思う」
創は、今までほとんど話さなかったが、言葉に迷いがない。
その一言に、泉の目が見開かれた。
「……そっか。そうかも。自分で選んだ……んだよね、今日の場所も、会話も」
「うん。完璧じゃなくても、選んだってことが大事」
皆の視線が泉に向かう。
由真も、そっと言葉を添えた。
「……私も、今日ここにいてよかったって、思ってる」
その一言に、静かな共鳴が走る。
《アンサンブル》という名のこの店に、ふさわしい時間だった。
店の時計が、20時のチャイムを静かに鳴らした。
誰かの“変化”が、始まりの音を鳴らした気がした。