カラン、という鈴の音とともに、由香は静かにドアを閉じた。
外に出ると、街灯の灯りが商店街の石畳に淡く反射している。電話の着信は止まっていたが、発信者の名前が画面に残っている。
《母》——
(また……だよ)
由香は一度深呼吸してから、通話ボタンを押した。
すぐに、電話口から少し高めの声が響く。
『あ、やっと出た。今どこ? もうすぐ夕飯なのよ。帰ってこられる?』
「……今、友達と。カフェにいるの。夕飯は、外で済ませると思う」
『そう……でも、あまり遅くならないようにね。最近、帰りが遅いから心配してるの』
「心配って……高校生じゃないし」
『由香、あなたのことが心配なの。予定が崩れるのも好きじゃないでしょ? 急に何かあったら、あなた混乱しちゃうじゃない』
由香は、ぐっと携帯を握りしめた。
母親の言葉は、常に“善意”で塗り固められている。でも、それがいつも、無意識の“縛り”になっていた。
「……予定は、自分で立てた方が落ち着くの。勝手に組み立てないでよ」
『なによ、それ。言い方が冷たくない?』
「ごめん。でも、今日は……ちゃんと自分で“決めたい日”だから」
通話を切ると、由香はしばらくその場に立ち尽くしていた。
秋風が、髪を揺らす。遠くで電車の通る音がした。
(どうしてだろう。私はいつも“次”を決めてないと落ち着かないのに、今日は……先のこと、なにも考えてない)
もう一歩先を描けないのが、怖いのに。
だけど、なぜか今日はその“空白”を許されている気がした。
その時、背後から声がかかった。
「大丈夫? ちょっと、顔こわばってたけど」
声の主は慎だった。
いつの間にか店を出てきて、道の向こうで待っていたらしい。
「……ううん。大丈夫。なんか、いろいろ考えすぎただけ」
「それ、ちゃんと話す相手がいた方がいいよ」
「慎くんって、いつも“穏やか”だよね。なんでそんなに冷静でいられるの?」
慎は少しだけ考えてから、静かに答えた。
「たぶん……“早く走れない”からだよ。崇みたいに瞬発力もないし、杏奈みたいに分析できるわけでもない。でも、ゆっくりでも、ちゃんと歩いてきたら、いろんなことが見えるんだ」
「……かっこよく言ったけど、ほんとは気にしてるんでしょ、自分のスピードの遅さとか」
「うん。気にしてるよ。でも、それを気にしすぎたら、きっと何もできなくなるから」
その言葉に、由香の心にわずかに灯りがともる。
それは、形にならないけれど、確かに“寄り添われた”という実感だった。
「ありがとう。……もう少しだけ、外にいようかな。次の予定なんて立てずに」
「うん、いいと思う」
二人は並んで、小さな喫茶店の灯を見上げた。
《アンサンブル》という店名の意味が、少しだけ腑に落ちた気がする。
誰か一人の音じゃ、音楽は生まれない。
でも、誰かの音が加わった時、それは“調和”に変わるのだ。
由香はふっと笑った。
「……ねえ、戻ろっか。そろそろ、あったかいココアが飲みたい気分」
「了解。僕も、ちょっと冷えたし」
歩き出したその背中には、もう先ほどまでの緊張はなかった。
喫茶店のドアが再び開き、あの鈴の音が、再び静かな奇跡を奏ではじめる。