『春の歩み』と名付けられた手書きのノートがある。
その筆者は1985(昭和60)年上半期放送の平均視聴率44.3(最高視聴率55.3)%を記録したNHK連続テレビ小説『澪みおつくし』(みおつくし)や1987(昭和62)年放送の平均視聴率39.7(最高視聴率47.8)%を記録した大河ドラマ『独眼竜政宗』(どくがんりゅうまさむね)そして美女シリーズ『江戸川乱歩の美女シリーズ』の一作『天国と地獄の美女』(視聴率16.6%)で知られる脚本家、ジェームス三木だ。そのノートに彼は、自らと関係を持った女性の評価を書いている。
女性たちはABCの三つのランクに分類され、彼女たちの肉体や行為についてジェームス三木が抱いた嘘偽りのない感想が克明な描写付きで簡潔に記されており、好事家たちは「さすが名脚本家だ」と唸ったが夫の書斎を掃除中に秘匿されていた『春の歩み』を見つけた妻の山下典子が発した唸り声は感心してのものではない。その時の彼女は屈辱に耐えたが、再発見した際に女性の名前が二桁から三桁に増えていたのには耐えられず、ジェームス三木版『ヰタ・セクスアリス』(ウィタ・セクスアリス)とも言うべき秘密ノートの内容や夫の度重なるドメスティックバイオレンス・犬畜生にも劣る動物虐待・冷酷極まる障碍者差別についてを赤裸々に綴った衝撃の暴露本『仮面夫婦』を出版する。
これにジェームス三木は激怒した。そして妻に対し損害賠償と離婚の裁判を起こす……のだが、それはこの際どうでもいい。ゼット氏が自分なりの『春の歩み』を書こうとしているので、その話をする。
「やめとけ」
ゼット氏の友人ワイ君は、その話を聞かされて即座に言った。
「どうしてだい?」とゼット氏は不服そうである。
「面白いと思うよ。それに、新鮮だと感じてもらえそうだよ。そういった傾向の作品、トップページに見つからないもの」
ワイ君は呆れた様子である。
「レイティングに載っているんだよ」
「かもね」とゼット氏は否定しない。別の点を否定する。
「とにかく、僕は出すよ。春がテーマの祭典に」
「春の短編祭り、だっけか? なおさら止めとけ。マジで、それに出すのは止した方がいい」
「だから、どうしてだよ」
「削除されるって」
「でも年齢制限については何も書いてない」
ワイ君は首を横に振った。
「運営は表示を認めるだろう。だが、内心は嫌だなと思う。歓迎しないけれど、認めるさ。投稿数が少ないからな。でも、普通のを出せって、大方の人間は考えるんだ。それをさ、わざわざ書いて出すなんて、どうかしている」
友人の意見を聞き、ゼット氏は考え込んだ。
「それもそうだけど……でも、もうすぐ千字になるんだ。今さら方針は変えられないよ」
「勝手にしろ」
「でも、もう投稿最低文字数は超えたから、自家版『春の休み』は書かないで投稿できると思う」
そう言うゼット氏が書いた文章を読んで、ワイ君は感想を述べた。
「ジェームス三木と山下典子夫婦の話を書いてある前半の方が面白いな」
「後半は、昼ご飯を食べてから書いたんだ。そうしたら、眠くなって」
「そっか、それならしょうがないな」
「ね、これで出すよ」
「え、これで?」とワイ君は驚いた。もうちょっと、ちゃんと書いたら……と彼が停める間もなくゼット氏が【後悔】ボタンを押す。
間違った。【公開】ボタンだった。