菜々海が高校時代の友人あっちゃんこと、梓が住む東京のアパートにやってきたのは桜が見頃を迎え、ひとひらふたひらと散り始めた四月の晩のことだった。
夕飯を近くのファミレスで済ませ、部屋でくつろいでいると、
「ほら、懐かしいでしょ?」
梓がロフトから一冊の本を引っ張り出してきた。
手渡されるまま、受け取ると、菜々海は梓を振り仰ぐ。
「高校のアルバム!」
ズシリと腕に感じる高校三年間に、うっすらかぶった埃を払い落とす。
菜々海は梓が隣に腰を下ろすのを待ってから、アルバムを広げた。
歴史ある木造二階建て三棟の校舎は老朽化や耐震の強度不足のため、来年には取り壊され、三階建ての新校舎が建設されると噂で聞いた。
変化する。すべては変化する。
高校を卒業してから四年目の春。菜々海は地元のコンビニでフリーター、梓は都内のK大に通う大学四年生になっていた。お互いにそれぞれの道を歩き出してから、それ相応の時間を重ねている。
菜々海はアルバムをめくった。
クラス別の個人写真。三年A組、B組……。
廊下ですれ違っただけの人もいれば、視線を交わしただけの人だけの人もいる。中には今はすっかり音信の途絶えた友人もいる。
C組、D組、E組、F組──次第に指に重圧が掛かってきて、次のG組に辿り着けない。胸には苦い思いが渦巻いていた。
「早くG組を見ようよ」
「う、うん」
梓に急かされ、ページをめくる指が小さく震えた。禁断の扉を押し開くような、緊張にも似た恐怖。喉からこぼれそうになる悲鳴を押し込んで、菜々海は悟られないよう親友に笑みを向けた。
三年G組、三十一人の個人写真。青い壁紙を背に、みんな思い思いの笑顔を浮かべている。懐かしい顔が溢れていた。
菜々海は意識的に上から三段目、左から四番目を視界から追い出して、写真の梓と現在の梓を見比べる。
「三年G組、出席番号十九番、小林梓。あっちゃん、キレイになったね」
「そりゃあ、そうよ。素材がいいんだから」
ドヤ顔ながら梓は照れくさそうに頬を紅潮させた。高校時代、自らを「ぽっちゃり系女子」と称していた彼女の面影と現在の姿が重なる気配は微塵もない。すっきりとした顎のライン、丸い瞳、健康的に引き締まった体。それに比べて、あたしは──。
「三年G組、二十番、坂下菜々海。あんたは何にも変わらんね」
「失礼ね、それって褒め言葉なの?」
「褒めてる、褒めてる。笑顔が可愛いあたしの親友」
「どうだか」
アルバムの菜々海はどこか居心地が悪そうにはにかんだ笑顔だ。確か、撮影の際、カメラマンのおじさんが無理矢理笑わせようとして面白くもないダジャレを言ったから、愛想笑いを浮かべた。その瞬間を収めた写真であるから、変顔にも半笑いにも見える。
「早いもんだわ。あたしたち、もうすぐ二十二よ。この人、上田さんなんか、子供ができて大学を中退したって聞いたわ」
梓は感慨深げに唸り、ひとりの女子生徒を指さした。
「わかった。相手は付き合ってたC組の中谷君でしょ?」
「まさか、あいつにそんな度胸ないって。相手は三十代のサラリーマン」
「おじさんじゃん」
「高橋君は美容師になって、表参道で働いているって。莉那ちゃんは変な宗教に引っかかったって噂。あと、宮本さんは……」
梓の声が遠ざかる。どこか遠い世界の誰も聞いたことのない外国語のように耳から抜けていった。菜々海は唇を噛みしめていた。
そう、すべては変化する。変化するのだ。
菜々海の知らないところでこのクラスメイトたちは、それぞれの三年間を過ごしている。
それぞれの場所で、新しい出会いがあり、別れがあり、幸か不幸か、時に悩み、喜び、見えぬ明日に向かい、生きている。
ひとりずつクラスメイトの名前と顔、声を忘れ、自分が三年G組の生徒だったことを忘れていく。すべては菜々海を置いて変化していくのだ──。
「で、菜々海はどうなの?」
突然、水を向けられ、慌てて思考が止まる。
「えっ? どうって?」
「近況よ、近況」
「別に。いつもLIMEしている通りだよ」
「もう、そうじゃないってば。実際、言葉として聞きたいじゃない? 例えば、イケメンのお客さんが来るとか、トキメキはないの?」
「わかっているくせに。あの町にイケメンなんかいないって。お客さんはみーんな近所のおじいちゃん、おばあちゃんで、顔見知りばっか」
「時給は? あのコンビニは長いから時給上げてもらっているんでしょ?」
「店長、ケチだから上げてくれないの」
「大変ね、フリーターも」
梓の声に同情が乗り、菜々海の心に蔓延る苦い思いがますます苦味を増した。
菜々海は卒業式を迎えるまで、人生の岐路というものが確かに存在していることを理解していなかった。
みんなが受験勉強であくせくしているとき、ひとり孤島で傍観しているような感覚だったのを今でも覚えている。
生活感が一変するような大学進学や就職はしなかった。夢や目標のために地元を飛び出し、フリーターを選ぶ同級生もいたが、菜々海の場合、いずれも選べず、高校時代からアルバイトを続けてきたコンビニで惰性のままフリーターをすることになったのだ。
夢も目標もない砂を噛むようなザラザラとした毎日が、ただただ繰り返されていくだけ。ふらふらとたゆたう不安を覚えては、焦燥のみが空回り。全てが茫洋としている。
「あたし、就活で新聞社を受けてみようと思っているの」
「あっちゃんに似合っていると思うよ」
将来を語る梓の瞳には太陽の煌めきに負けない光がある。菜々海は眩しさに思わず眼を細めた。嫉妬にも似た感情が湧き起こりそうになるのを抑え込む。
未来には壁がある。見上げてもてっぺんが見えないほど高い高い壁だ。
みんながやすやすとその壁を越えてゆく姿を指をくわえて眺めていても、菜々海は壁の向こうにある景色を想像さえしなかった。壁を乗り越える力が備わっているにもかかわらず、ひとり止まり続けていた。
進めない。ここから先へは進めない。
「高校は楽しかったなあ」
菜々海のこぼした本音を合図に、梓が腰を上げた。ひとり用の小型冷蔵庫から缶ビールを二本取り出し、そのうちの一本を菜々海に投げて寄越す。
「まあ、飲みねえ」
フタを引き開ける乾いた音が六畳の部屋に響いた。梓が気持ちのいいほど喉を鳴らすのを見てから、菜々海は一口含んだ。炭酸が喉を通過する際の刺激。下に残る苦い味。やっぱり大人の味、好きになれない。
梓は大きなげっぷと一緒に息を吐いた。
「あんたといるとホッとする。高校時代を思い出すからかな。故郷に帰ってきたみたい」
「あたし、あっちゃんのお母さんじゃないもん」
「おかーさん、今晩のメニューは何だべさ?」
梓は地元の方言を交え、おどけてから、「でも正直、怖いくらい」と声のトーンを落とした。
「怖い?」
菜々海は、梓の真意が分からず、首を傾げた。
「前に進めばいいのに」
「え?」
芯のある強い瞳にじっと見つめられ、菜々海はたじろいだ。
「あんた、ひとりが取り残されているんじゃないわ、前に進むのを拒絶しているだけよ。何か進めない理由があるんじゃないの? 菜々海は高校時代に縛り付けられている」
「縛り付けられてる? あっちゃんにはあたしの気持ちがわからないわ。あたしの学生時代は高校が最後だったの。大学に進んだあっちゃんが思うより高校が愛しいし、思いだって格別よ」
菜々海は声を押し殺した。たった一口なのに、アルコールが巡り、頬は熱を帯びている。
「そうね、どうせあたしは菜々海の気持ちなんかわからないわよ」
梓はにべもなく言い、残りのビールを一気にあおった。
にわかに訪れた居たたまれない空気に菜々海は背を丸め俯いた。両手で握りしめた缶ビールを膝の上でカチカチ鳴らす。
禁じていた上から三段目、左から四番目と目が合った。出会った日以来、二度目の視線が絡み合った。この目に、あたしは映ったのだろうか。
胸がひどく波立った。動悸。緊縛。苦しい。アルコールのせい? いや──。
「進めない理由は、そいつのせい? 恩田航星」
菜々海は弾かれたように顔を上げた。
「目、泳いでる」
アルバムの上から三段目、左から四番目の恩田航星は、涼しげな目元で微笑みかけていた。
菜々海の脳裏には高校時代が映し出される。