表示設定
表示設定
目次 目次




ー/ー



 週明けの月曜は朝から大雨だった。差したところでほとんど無意味な傘を頭上に広げ、駅までの道を歩く。こういう突然のどしゃ降りはいかにもこの時期らしい。ここ数年は桜よりも降る雨の量で春の訪れを実感できる。この雨で大学の桜はほとんど散るだろう。そしてみんなそこに桜があったことすら忘れていく。
 十分以上遅れてやってきた電車はいつも以上に満員だった。湿気や熱気、人の体から発されるさまざまな臭気から逃れるように顔を上に向けると、中吊り広告に印字された「留学」の文字に目が留まった。学生を対象とした海外留学の支援制度の広告のようだった。
 留学。それはかつておぼろげに夢見ていたことだった。すくなくとも大学に入学した時点では自分は間違いなくするだろうと思っていたし、そもそもいまの大学を志望したのだって外国語教育や留学プログラムに力を入れている学校だったからだ。そのために受験勉強も頑張った。
 そんな自分がいまのようになってしまったのはいつからだろう。大学の留学プログラムに参加するために必要なTOEFLの基準スコアが思っていたより高いと知ったときだろうか。学内で留学生に英語で話しかけられ、まともな返事ひとつ返せないでいるところをそばを通った帰国子女たちにくすくすと笑われたときだろうか。高校まではいちばんの得意教科だった自分の英語力が、大学ではむしろ下のほうのレベルだと気づいてしまったときだろうか。
 そのすべてがきっかけなのかもしれないし、べつにどれも大きな要因にはなっていないのかもしれない。単純に自分が本質的にただのなまけものだっただけかもしれない。顔を上げたままぼんやりと立っていると、電車が揺れ、体がよろめいた。すぐ後ろにいた乗客に肩がぶつかる。ちっ、と舌打ちの音が聞こえた。
 大学の最寄り駅で電車を降りると、心もち早足で一限の教室に向かった。座席はすでにほとんどが埋まっており、しかたなく空いていた最前列の席に腰を下ろす。英語の再履修者用クラス。一年のときに英語の単位を一つ落としている俺は、通常二年までで終わりのはずの英語を三年になってもまだやっている。席に着いて一分もしないうちに、もじゃついた白髪頭の講師が教室に入ってきた。わざわざ月曜一限なんてクソみたいな時間の授業をとっているのは、担当教員が日本人である授業がほかの時間になかったからだ。
 授業は毎回ディクテーションの小テストから始まる。テキストの英文を講師が読み上げ、それを紙に書きとっていく。読んでいるのがネイティブの講師だったら白紙のままテストを終えていただろうが、同じ日本人の発音する英語なら聴きとるのはそう難しくはない。
 丸つけは不正がないよう隣の席のやつとたがいの答案を交換して行なう。のだが、今日は隣が無人だった。どうすべきかと講師に目で訴えていると、ようやくそれに気づいた講師が「そこは前後でやって」と面倒くさそうに指示をくれた。前後? 後ろを振り返ると肩幅が俺の倍はありそうな黒人の大男が座っている。まじかよ。黒人くんは白い歯をむき出しにしてニカッと笑い、自分の答案を差し出してくる。いや、まじかよ。
 しぶしぶ答案を交換し、講師が配布した解答を見ながら手早く丸つけを済ませていく。違っている箇所を赤で修正していると、後ろからちょいちょいと肩をつつかれた。振り向くと黒人くんが困ったような顔をして俺の答案の一か所を指さしている。
「ワズィスレラ」
 黒人くんが言った。英語だということはわかる。が、内容はもちろんわからない。なにも返事を返せずぽかんとしている俺に、黒人くんはまた同じ言葉をかけてくる。いやだからわかんないんだって。すると黒人くんは「フゥーン」と吐息まじりの声を出し、今度は一単語ずつ区切るように同じ言葉をゆっくりと発音した。
「ワッ、ィズ、ズィス、レラー」
 なんだ? whatって言ってる? 「レラー」って、もしかしてletterか? letterは「手紙」以外に「文字」という意味もある。要するにこいつは「この文字はなんだ?」というようなことを言っている。たぶん。
「エス」
 黒人くんが指さした部分に書かれているアルファベットを発音すると、黒人くんは顔に似合わぬ高い声で「アー」と発し、なにやら納得した様子で俺の書いた単語に正解のマークをつける。なんだったんだ、いったい。添削を終えた紙を返却し前に向きなおると、後ろからまたちょいちょいと肩をつつかれた。なんだよ。振り返ると黒人くんがなにやら話しかけてくる。キャーント、リードゥ、ハンドゥライティング。ヒアリング能力のない俺にしっかり聞かせるようにゆっくり発音してくれたおかげで、大部分の単語は聴きとれた。おまえの書くアルファベットは、一部クセが強くて読みづらい。要するにそう言いたいらしい。
 黒人くんは自分の答案を裏返した白紙にアルファベットをいくつか書いて俺に見せてくる。こうやって書くんだよ、ということなのだろう。ニコニコした彼の顔を見るに、おそらく親切心からやってくれてるんだと思う。でもおかげで俺の小さなプライドはさらにズタズタだ。ああ、そうだな、そうかもな。俺みたいなやつはいっそ中学に戻って、アルファベットを正しく書けるようになるところからやりなおしたほうがいいのかもしれないな。ちょっと定期テストでいい点とれたからっていい気になってないで、苦手なヒアリングやスピーキングもちゃんと練習して。大学に自分よりできるやつばかりいるからって、いちいち傷ついてないで努力を続けるべきだったんだ。
 わかってる。わかってるよそんなことは。叶うことなら俺だって過去に戻って全部やりなおしたい。でも現実の俺はもう大学三年生で、そろそろ就活のことを考えはじめなきゃいけない時期だ。いまさら英語の勉強をやりなおしてる時間も、ましてや留学してる余裕なんかあるわけない。未来を選びなおすことは、もうできない。
 授業を終え、教室を出る。雨に濡れた大量の桜の花びらが外の地面にへばりつくように落ちていた。二限の教室に向かう気にはなれなかった。スマホを取り出し、見慣れた連絡先にメッセージを送る。


スタンプを贈って作者を応援しよう!

次のエピソードへ進む


みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



 週明けの月曜は朝から大雨だった。差したところでほとんど無意味な傘を頭上に広げ、駅までの道を歩く。こういう突然のどしゃ降りはいかにもこの時期らしい。ここ数年は桜よりも降る雨の量で春の訪れを実感できる。この雨で大学の桜はほとんど散るだろう。そしてみんなそこに桜があったことすら忘れていく。
 十分以上遅れてやってきた電車はいつも以上に満員だった。湿気や熱気、人の体から発されるさまざまな臭気から逃れるように顔を上に向けると、中吊り広告に印字された「留学」の文字に目が留まった。学生を対象とした海外留学の支援制度の広告のようだった。
 留学。それはかつておぼろげに夢見ていたことだった。すくなくとも大学に入学した時点では自分は間違いなくするだろうと思っていたし、そもそもいまの大学を志望したのだって外国語教育や留学プログラムに力を入れている学校だったからだ。そのために受験勉強も頑張った。
 そんな自分がいまのようになってしまったのはいつからだろう。大学の留学プログラムに参加するために必要なTOEFLの基準スコアが思っていたより高いと知ったときだろうか。学内で留学生に英語で話しかけられ、まともな返事ひとつ返せないでいるところをそばを通った帰国子女たちにくすくすと笑われたときだろうか。高校まではいちばんの得意教科だった自分の英語力が、大学ではむしろ下のほうのレベルだと気づいてしまったときだろうか。
 そのすべてがきっかけなのかもしれないし、べつにどれも大きな要因にはなっていないのかもしれない。単純に自分が本質的にただのなまけものだっただけかもしれない。顔を上げたままぼんやりと立っていると、電車が揺れ、体がよろめいた。すぐ後ろにいた乗客に肩がぶつかる。ちっ、と舌打ちの音が聞こえた。
 大学の最寄り駅で電車を降りると、心もち早足で一限の教室に向かった。座席はすでにほとんどが埋まっており、しかたなく空いていた最前列の席に腰を下ろす。英語の再履修者用クラス。一年のときに英語の単位を一つ落としている俺は、通常二年までで終わりのはずの英語を三年になってもまだやっている。席に着いて一分もしないうちに、もじゃついた白髪頭の講師が教室に入ってきた。わざわざ月曜一限なんてクソみたいな時間の授業をとっているのは、担当教員が日本人である授業がほかの時間になかったからだ。
 授業は毎回ディクテーションの小テストから始まる。テキストの英文を講師が読み上げ、それを紙に書きとっていく。読んでいるのがネイティブの講師だったら白紙のままテストを終えていただろうが、同じ日本人の発音する英語なら聴きとるのはそう難しくはない。
 丸つけは不正がないよう隣の席のやつとたがいの答案を交換して行なう。のだが、今日は隣が無人だった。どうすべきかと講師に目で訴えていると、ようやくそれに気づいた講師が「そこは前後でやって」と面倒くさそうに指示をくれた。前後? 後ろを振り返ると肩幅が俺の倍はありそうな黒人の大男が座っている。まじかよ。黒人くんは白い歯をむき出しにしてニカッと笑い、自分の答案を差し出してくる。いや、まじかよ。
 しぶしぶ答案を交換し、講師が配布した解答を見ながら手早く丸つけを済ませていく。違っている箇所を赤で修正していると、後ろからちょいちょいと肩をつつかれた。振り向くと黒人くんが困ったような顔をして俺の答案の一か所を指さしている。
「ワズィスレラ」
 黒人くんが言った。英語だということはわかる。が、内容はもちろんわからない。なにも返事を返せずぽかんとしている俺に、黒人くんはまた同じ言葉をかけてくる。いやだからわかんないんだって。すると黒人くんは「フゥーン」と吐息まじりの声を出し、今度は一単語ずつ区切るように同じ言葉をゆっくりと発音した。
「ワッ、ィズ、ズィス、レラー」
 なんだ? whatって言ってる? 「レラー」って、もしかしてletterか? letterは「手紙」以外に「文字」という意味もある。要するにこいつは「この文字はなんだ?」というようなことを言っている。たぶん。
「エス」
 黒人くんが指さした部分に書かれているアルファベットを発音すると、黒人くんは顔に似合わぬ高い声で「アー」と発し、なにやら納得した様子で俺の書いた単語に正解のマークをつける。なんだったんだ、いったい。添削を終えた紙を返却し前に向きなおると、後ろからまたちょいちょいと肩をつつかれた。なんだよ。振り返ると黒人くんがなにやら話しかけてくる。キャーント、リードゥ、ハンドゥライティング。ヒアリング能力のない俺にしっかり聞かせるようにゆっくり発音してくれたおかげで、大部分の単語は聴きとれた。おまえの書くアルファベットは、一部クセが強くて読みづらい。要するにそう言いたいらしい。
 黒人くんは自分の答案を裏返した白紙にアルファベットをいくつか書いて俺に見せてくる。こうやって書くんだよ、ということなのだろう。ニコニコした彼の顔を見るに、おそらく親切心からやってくれてるんだと思う。でもおかげで俺の小さなプライドはさらにズタズタだ。ああ、そうだな、そうかもな。俺みたいなやつはいっそ中学に戻って、アルファベットを正しく書けるようになるところからやりなおしたほうがいいのかもしれないな。ちょっと定期テストでいい点とれたからっていい気になってないで、苦手なヒアリングやスピーキングもちゃんと練習して。大学に自分よりできるやつばかりいるからって、いちいち傷ついてないで努力を続けるべきだったんだ。
 わかってる。わかってるよそんなことは。叶うことなら俺だって過去に戻って全部やりなおしたい。でも現実の俺はもう大学三年生で、そろそろ就活のことを考えはじめなきゃいけない時期だ。いまさら英語の勉強をやりなおしてる時間も、ましてや留学してる余裕なんかあるわけない。未来を選びなおすことは、もうできない。
 授業を終え、教室を出る。雨に濡れた大量の桜の花びらが外の地面にへばりつくように落ちていた。二限の教室に向かう気にはなれなかった。スマホを取り出し、見慣れた連絡先にメッセージを送る。