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二話

ー/ー



「折原くん、放課後、話があるのだけれど」
 六時間目が終わったところで、不意に声をかけられた。松本七海が席の横に立っている。「そんなに時間は取らせない」
 相変わらずの無表情だ。考えがよく読めない。
 先月の文化祭で、お化け屋敷の看板づくりを一緒にやった。看板班は四人だが、僕ら以外は予備校通いを口実に、ほとんど参加しなかった。
「高三の秋だから、仕方ないよ。でもこういうのは真剣にやったほうが楽しいのにな」
 七海はあまり気にするふうでもなく、セーラー服にエプロン姿で、黙々と絵筆を握っていた。段ボールを縦一メートル、横二メートルに繋ぎ合わせ、模造紙を貼りつける。その上に、痩せて髪の長い女を描いていた。
 あまり話したことはなかったけれど、学年で一二を争う秀才なのは知っていた。絵心まであることに驚かされる。
「自分がモデル?」と僕は尋ねた。
「私はここまで痩せていないし、吊り目でもない。長髪で色白だが、口も耳まで裂けてない。そんなに似てる?」
「雰囲気が、何となく」
「応挙の幽霊画の模倣だよ」
「応挙?」
「円山応挙。江戸時代の絵師。円山派の祖。折原くん、私と同じ文系だよね。日本史で習わなかった?」
「覚えてない」
 四つん這いからあぐらになり、七海はバケツに絵筆を放った。「――ところで折原くんはなぜ帰らないんだ?」
「一応、僕も看板班だし」
 もう半分の本心は黙っていた。かなり変わった女の子だが、遅くまで一人残すことには躊躇があった。
「受験は? 志望校決めているよね?」
「それも一応」
 進路調査は適当に答えていた。自分が何になりたいのか、まだよくわからなかった。両親を見ていると、学歴や就職先は幸せを担保しないと理解できる。
「松本は?」
「東大の法学部を狙っている。父も祖父も東大なんだ」
 最難関だが、七海なら受かりそうにも感じられた。
「官僚になりたいんだよ、文科省の」
「官僚?」
 七海は頷き、ペットボトルの紅茶を飲んだ。「中学時代、不登校の同級生がクラスにいた」
「仲良かったの?」
「とりたてて。私には、親密な友だちは一人もいない」
 求めているとは思えないし、自虐の気配も感じられない。たぶん七海のこういうところが、みんなから踏み込む余地を奪っているのだ。人は人の弱さに惹かれる。自分の中にも同じ弱さがあるからだ。弱さ同士が共鳴する。七海には、響いて惹きあう弱い部分がうかがえない。
「高一のクラスにも、不登校の男子がいた。夏休み明けに来なくなった。私の席の斜め前、窓際の真ん中あたりに座っていた。いなくなって気がついたんだ」
「何に?」
「差し込む日差しを彼が遮ってくれていたこと。その影の心地よさ」
 それで彼の家まで行ったらしい。何度か門前払いを食ったあと、短時間だけ話ができた。
「学校が楽しくない――と言っていた。辛そうだった。私は激しく自分を恥じたよ」
「なぜ?」
「学校を楽しむ場所だと認識していなかった。同世代の男女が集まり、勉強し、運動し、文化活動するところ。そういうものだと捉えていたんだ。想像力が欠けていた」
「それで文科省を目指すんだ」
「全国の不登校の児童生徒は四十万を超えるという。それだけいるなら、構造的な問題だろう。制度にまで踏み込まないと変わらない」
「現場の個別対応だけじゃ、もぐら叩きになるってことか」
 そう、と答え、七海は続けた。「教職員の労働時間や賃金体系、家計格差と進学先の相関性、SNSで巧妙化するいじめ問題――。調べると、教育界には課題が山積していた。官僚として少しずつでも解決したい」
 それからときどき会話を交わすようになっていた。僕はもっぱら聞き役だ。
「昨日、地震があっただろ? 家でプリンを食べていたんだ。プリンの語源は英語のpudding。だが揺れる様子を眺めていると、プリンプリンと音が聞こえる感じがした。名は体を表すというけれど、その逆も然りだな」
「今朝庭で、カマキリが交尾していた。雌が雄を食べながら、だ。『完全変態』という生物用語が頭に浮かんだ。でもカマキリは蛹にならず、分類上は『不完全変態』だ。もやっとする」
 視点がいちいち独特で、「どう思う?」と問われるたびに答えに窮した。
 
 七海が僕を見つめている。こんなふうに「話がある」と切り出されるのは初めてだった。
「わかった。教室に残ればいい?」
「管理棟の一階に、自販機部屋があるだろう。あそこにしよう」と七海は答えた。そのタイミングで教室にサトセンが入ってくる。「みんな着席。帰りのホームルームを始めるよ」
 七海は廊下側の自分の席に戻っていった。その姿を目で追って、寺西小春と視線が重なる。含み笑いの表情で、口をぱくぱくさせていた。「あとで」と言いたいようだった。七海と話していることに、興味を持ったに違いない。スルーすると、頬を膨らせ、机を叩く仕草をした。サトセンに「寺西さん、何かあった?」と見とがめられ、首を振り、僕にあっかんべーの顔を向けた。
「じゃ最後に注意事項。これから寒暖の差が激しくなります。みんな夜遅くまで勉強してると思うけど、しっかり食べて、なるべく寝てね。先生は高三の二学期に、焦ってピアノを弾きすぎて、腱鞘炎になっちゃいました」
 教室に静かな笑いが起きた。サトセンこと佐藤美和先生は、担任で音楽教諭だ。ミッション系の音大のピアノ学科を卒業し、教師になって三年目。ボブカットにスーツ姿で、まだ就活生のようにも見える。
 ホームルームが終わるとともに、七海はクラスを出て行った。代わりに小春が駆けてくる。
「岳人、一緒に帰ろうよ」
「予定がある」
「おや、七海ちゃんとデートかな?」
「何だそれ」
「さっき、こそこそ話してたじゃない」
「こそこそじゃない。松本にそういうのは似合わない」
「随分と七海ちゃんを知ってるような口ぶりだね」
「小春だって同級生だろ。松本がどういうやつかわかってるよな」
「才色兼備」
「で孤高の変人」
 小春はわずかに顔をゆがめ、「そういう言い方、七海ちゃんに失礼だよ。みんな違ってみんないい」と口にした。幼なじみのこういうところは変わらない。
 中学時代、小春は年の離れた弟を亡くしている。ハンデがあった。乳児の頃、感染症に罹患して、四肢に麻痺が残ったのだ。小学校から、小春は授業が終わると真っすぐ帰宅し、パートの母と代わりばんこにケアを担った。
 最期は誤嚥性肺炎だった。食べ物が気管に入ってしまい、一一九番したものの、救急車はなかなかやってこなかった。着いたら着いたで受け入れ先が見つからない。コロナが流行っていた時期だ。
 通夜の席でも葬儀でも、小春はずっと泣いていた。
「怖くてお骨を見られない」
 火葬場の控室でしゃくりあげられ、小春を外に連れ出した。暑い夏のことだった。僕にもたれた薄い体が震えている。シャンプーと汗の混じった匂いがした。初めて幼なじみに異性を感じた。たぶん小春も同じだろう。泣き顔を、僕の胸に埋めるように隠していた。
 雲一つない青空に、白い煙が立ち上る。無遠慮な蝉の音が、重なる僕らを暴力的に包んでいた。
 四十九日が過ぎたあと、小春は言った。「岳人、私、看護師になるよ」
 
「――で、七海ちゃんと何話してたの?」
「やけに絡むな。焼きもちか?」
「はぁ? つきあってもいない相手になぜ焼きもちなんて焼くのよ!?」
 小春は僕の額にデコピンした。リュックを背負い、踵を返す。「一人で帰る。非モテのくせに、幼なじみが自意識過剰で痛すぎる」
「お前だって彼氏いたことないだろう」
「そうだよ。全部断ってる」振り返らずに、小春は言った。
 モテることは知っていた。弟を亡くしたあと、中学でも高校でも、同級生や先輩たちから何度も打ち明けられていた。
 飛びぬけた美少女ではない。スタイルが抜群にいいわけでもない。でもすがすがしいのだ。誰のことも分け隔てず、笑顔で接する。よく気がつくし、みんなに優しい。だから男女を問わずに好意を持たれる。
 でも僕は、そんな小春が痛々しくてならなかった。
 ハンデのある弟のお姉さん――。その属性が小春のキャラのかなりの部分をつくっている。
 弟のバギーを押しながら、公園を駆け回る子どもたちを、虚ろに眺める小春の姿を覚えている。「弟さんが気の毒だから、みんなで寺西さんを励まそう」と中学校の教師に言われ、クラスで微笑み、校舎の裏で悔しそうに泣いてた姿も。
 姉として、ハンデを抱えた弟に、ありったけの愛情を注ぐべきだ。頑張って、献身的に接することこそ正解だ――。
 周囲が描いた「理想の姉」の肖像は、真綿のように小春を締めつけ、立ち振る舞いを律していた。小春に宿った強迫性は、でも弟を失って、発露の先の迷子になる。
 あの笑顔も優しさも、代償行為にほかならない。
 小春にとって、僕はたった一人の例外なのだ。剥き出しに近い姿をさらけ出し、気を抜ける。変わっちゃいけない唯一の居場所。自分のことを、そんなふうに感じてきた。
 だからこそ、あの夏の日以来、ずっと戸惑い続けている。
 僕は男で小春は女だ。気づいてしまえば、もうお互い、それ以前には戻れない。幼なじみであり続けるなら、男女の意識は封印すべきだ。でもその禁を、僕も小春も、ときどき侵してしまいそうになる。
「――岳人。いつまでも、あると思うな親と金、だよ」
「何だそれ?」
「当たり前に続くものなんか一つもない、って意味」
「それはわかる。だから何が言いたいんだよ?」
「いつまでも、いると思うな幼なじみ」
 言い捨てて、じゃあね、と再び踵を返し、小春は廊下に出て行った。


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 六時間目が終わったところで、不意に声をかけられた。松本七海が席の横に立っている。「そんなに時間は取らせない」
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「高三の秋だから、仕方ないよ。でもこういうのは真剣にやったほうが楽しいのにな」
 七海はあまり気にするふうでもなく、セーラー服にエプロン姿で、黙々と絵筆を握っていた。段ボールを縦一メートル、横二メートルに繋ぎ合わせ、模造紙を貼りつける。その上に、痩せて髪の長い女を描いていた。
 あまり話したことはなかったけれど、学年で一二を争う秀才なのは知っていた。絵心まであることに驚かされる。
「自分がモデル?」と僕は尋ねた。
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「雰囲気が、何となく」
「応挙の幽霊画の模倣だよ」
「応挙?」
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「覚えてない」
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「それも一応」
 進路調査は適当に答えていた。自分が何になりたいのか、まだよくわからなかった。両親を見ていると、学歴や就職先は幸せを担保しないと理解できる。
「松本は?」
「東大の法学部を狙っている。父も祖父も東大なんだ」
 最難関だが、七海なら受かりそうにも感じられた。
「官僚になりたいんだよ、文科省の」
「官僚?」
 七海は頷き、ペットボトルの紅茶を飲んだ。「中学時代、不登校の同級生がクラスにいた」
「仲良かったの?」
「とりたてて。私には、親密な友だちは一人もいない」
 求めているとは思えないし、自虐の気配も感じられない。たぶん七海のこういうところが、みんなから踏み込む余地を奪っているのだ。人は人の弱さに惹かれる。自分の中にも同じ弱さがあるからだ。弱さ同士が共鳴する。七海には、響いて惹きあう弱い部分がうかがえない。
「高一のクラスにも、不登校の男子がいた。夏休み明けに来なくなった。私の席の斜め前、窓際の真ん中あたりに座っていた。いなくなって気がついたんだ」
「何に?」
「差し込む日差しを彼が遮ってくれていたこと。その影の心地よさ」
 それで彼の家まで行ったらしい。何度か門前払いを食ったあと、短時間だけ話ができた。
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「なぜ?」
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「それで文科省を目指すんだ」
「全国の不登校の児童生徒は四十万を超えるという。それだけいるなら、構造的な問題だろう。制度にまで踏み込まないと変わらない」
「現場の個別対応だけじゃ、もぐら叩きになるってことか」
 そう、と答え、七海は続けた。「教職員の労働時間や賃金体系、家計格差と進学先の相関性、SNSで巧妙化するいじめ問題――。調べると、教育界には課題が山積していた。官僚として少しずつでも解決したい」
 それからときどき会話を交わすようになっていた。僕はもっぱら聞き役だ。
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 視点がいちいち独特で、「どう思う?」と問われるたびに答えに窮した。
 七海が僕を見つめている。こんなふうに「話がある」と切り出されるのは初めてだった。
「わかった。教室に残ればいい?」
「管理棟の一階に、自販機部屋があるだろう。あそこにしよう」と七海は答えた。そのタイミングで教室にサトセンが入ってくる。「みんな着席。帰りのホームルームを始めるよ」
 七海は廊下側の自分の席に戻っていった。その姿を目で追って、寺西小春と視線が重なる。含み笑いの表情で、口をぱくぱくさせていた。「あとで」と言いたいようだった。七海と話していることに、興味を持ったに違いない。スルーすると、頬を膨らせ、机を叩く仕草をした。サトセンに「寺西さん、何かあった?」と見とがめられ、首を振り、僕にあっかんべーの顔を向けた。
「じゃ最後に注意事項。これから寒暖の差が激しくなります。みんな夜遅くまで勉強してると思うけど、しっかり食べて、なるべく寝てね。先生は高三の二学期に、焦ってピアノを弾きすぎて、腱鞘炎になっちゃいました」
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 ホームルームが終わるとともに、七海はクラスを出て行った。代わりに小春が駆けてくる。
「岳人、一緒に帰ろうよ」
「予定がある」
「おや、七海ちゃんとデートかな?」
「何だそれ」
「さっき、こそこそ話してたじゃない」
「こそこそじゃない。松本にそういうのは似合わない」
「随分と七海ちゃんを知ってるような口ぶりだね」
「小春だって同級生だろ。松本がどういうやつかわかってるよな」
「才色兼備」
「で孤高の変人」
 小春はわずかに顔をゆがめ、「そういう言い方、七海ちゃんに失礼だよ。みんな違ってみんないい」と口にした。幼なじみのこういうところは変わらない。
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 最期は誤嚥性肺炎だった。食べ物が気管に入ってしまい、一一九番したものの、救急車はなかなかやってこなかった。着いたら着いたで受け入れ先が見つからない。コロナが流行っていた時期だ。
 通夜の席でも葬儀でも、小春はずっと泣いていた。
「怖くてお骨を見られない」
 火葬場の控室でしゃくりあげられ、小春を外に連れ出した。暑い夏のことだった。僕にもたれた薄い体が震えている。シャンプーと汗の混じった匂いがした。初めて幼なじみに異性を感じた。たぶん小春も同じだろう。泣き顔を、僕の胸に埋めるように隠していた。
 雲一つない青空に、白い煙が立ち上る。無遠慮な蝉の音が、重なる僕らを暴力的に包んでいた。
 四十九日が過ぎたあと、小春は言った。「岳人、私、看護師になるよ」
「――で、七海ちゃんと何話してたの?」
「やけに絡むな。焼きもちか?」
「はぁ? つきあってもいない相手になぜ焼きもちなんて焼くのよ!?」
 小春は僕の額にデコピンした。リュックを背負い、踵を返す。「一人で帰る。非モテのくせに、幼なじみが自意識過剰で痛すぎる」
「お前だって彼氏いたことないだろう」
「そうだよ。全部断ってる」振り返らずに、小春は言った。
 モテることは知っていた。弟を亡くしたあと、中学でも高校でも、同級生や先輩たちから何度も打ち明けられていた。
 飛びぬけた美少女ではない。スタイルが抜群にいいわけでもない。でもすがすがしいのだ。誰のことも分け隔てず、笑顔で接する。よく気がつくし、みんなに優しい。だから男女を問わずに好意を持たれる。
 でも僕は、そんな小春が痛々しくてならなかった。
 ハンデのある弟のお姉さん――。その属性が小春のキャラのかなりの部分をつくっている。
 弟のバギーを押しながら、公園を駆け回る子どもたちを、虚ろに眺める小春の姿を覚えている。「弟さんが気の毒だから、みんなで寺西さんを励まそう」と中学校の教師に言われ、クラスで微笑み、校舎の裏で悔しそうに泣いてた姿も。
 姉として、ハンデを抱えた弟に、ありったけの愛情を注ぐべきだ。頑張って、献身的に接することこそ正解だ――。
 周囲が描いた「理想の姉」の肖像は、真綿のように小春を締めつけ、立ち振る舞いを律していた。小春に宿った強迫性は、でも弟を失って、発露の先の迷子になる。
 あの笑顔も優しさも、代償行為にほかならない。
 小春にとって、僕はたった一人の例外なのだ。剥き出しに近い姿をさらけ出し、気を抜ける。変わっちゃいけない唯一の居場所。自分のことを、そんなふうに感じてきた。
 だからこそ、あの夏の日以来、ずっと戸惑い続けている。
 僕は男で小春は女だ。気づいてしまえば、もうお互い、それ以前には戻れない。幼なじみであり続けるなら、男女の意識は封印すべきだ。でもその禁を、僕も小春も、ときどき侵してしまいそうになる。
「――岳人。いつまでも、あると思うな親と金、だよ」
「何だそれ?」
「当たり前に続くものなんか一つもない、って意味」
「それはわかる。だから何が言いたいんだよ?」
「いつまでも、いると思うな幼なじみ」
 言い捨てて、じゃあね、と再び踵を返し、小春は廊下に出て行った。