春風が桜の花びらを舞わせる四月の朝。
校門へと続く道には、ピンクの絨毯を敷き詰めたように桜の花びらが散り、時折吹く春風がそれを優しく巻き上げていた。
入学式に出るために、白い襟元のついた真新しい服に身を包んだ梨乃の目には、学校の喧騒が異質な風景として映っていた。名も知らない子供たちの声が、まるで遠い世界の音楽のように聞こえていた
幼稚園から共に進む友が一人もいないという事実が、六歳の少女の胸を不安で満たしていた。
ランドセルの皮の匂いが鼻孔をくすぐる。母親の手を握る小さな掌には、緊張の汗が滲んでいた。
見知らぬ子供たちが群れをなし、互いの存在を確認し合うように声を上げている。
「おなじクラスになれてよかったね」
「いっしょにがっこういこうね」
幼き日の記憶を共有する者たちの歓喜の声はあまりにも羨ましく、梨乃の胸に寂しさを募らせていた。
子どもたちは自然と小さな輪をつくっていた。
梨乃はその輪に加われず、一人で席に座った。窓越しに見える桜の木から、一枚の花びらが儚げに舞い落ちるのを見つめていた。
彼女は心の中で問う。
「どうしてわたしだけひとりぼっちなの」
翌朝からの登校は苦痛の時間となった。
玄関を出ようとすると、腹部に鋭い痛みが走る。それは、おなかの奥からやってくる“行きたくない”のサインであった。
涙する娘を前に、母親は「大丈夫よ」と言葉をかけ、愛情の手を重ねる。
だが校門に辿り着けば、梨乃は母の手を離すことができず、すすり泣く彼女を教師がなんとかなだめすかして教室へと導いた。そうした日々が続き、梨乃も母親も毎朝が戦いであった。
ある算数の時間のこと。隣席の少女が消しゴムを探して筆箱の中や机の中を掻き回す音が聞こえてきた。梨乃は無言のまま、自分の消しゴムをそっと差し出した。
少女の驚きに満ちた表情は、一瞬の後に微笑みへと変わり、「ありがとう!」という一言が梨乃の胸に小さな温もりを灯した。その何気ない一言が、梨乃にはとても嬉しく感じたのだった。
梨乃は、給食当番も掃除当番も積極的に取り組んでいた。丁寧に拭き掃除をする彼女に、担任は
「心がこもったおそうじだね。ありがとう」
と声をかけた。
そうした言葉の一つ一つが、彼女の自信を高めていくこととなった。
ある雨の日の休み時間、前席の男子が折り紙のカエルを跳ねさせて遊んでいるのを、梨乃はじっと見つめていた。彼は
「やってみる?」
と問いかけた。
共に遊び、笑顔で言葉を交わした。今まで遊んだことのない子と一緒に遊べた。それだけで梨乃は嬉しかった。
国語の授業で「好きなもの」を発表する機会があった。おずおずと手を挙げた梨乃は、飼い猫のミーちゃんの話をした。猫が机のものを落として叱られる様子、寝るときに上に乗ってくる愛らしさ、そんな日常の一片を語ると、クラスの笑い声が返ってきた。
「うちにもねこ、いるよ!」
「うちはいぬだけど、おなじことしてるよ!」
と、彼女の発表にたくさんの反応が返ってきた。
それは梨乃にとって、自分の存在が認められた証のように感じられた。
ある日の休み時間、チューリップが風に揺れる校庭で、梨乃はクラスメイトの直子に声をかけてみた。
「いっしょにあそぼ」
短い言葉ではあったが、これは彼女の全勇気を注いだ問いかけであった。
直子の
「うん、あそぼ!」
という返答は、梨乃の心を解き放った。
鬼ごっこに興じ、砂場で山を築き、スコップを奪い合って笑ったひとときは、梨乃の心の中で特別な輝きを放った。
帰宅後、母からの
「今日はどうだった?」
という問いに、梨乃は小さく、けれども確かな声で答えた。
「きょう、おともだちができたよ」
母親がそっと握った手の温もりに、梨乃は明日への希望をもつことができた。母親の笑顔は、梨乃の心を明るくした。
次第に学校は恐怖の場から、可能性に満ちた場へと変わっていった。
朝の別れ際に母の手を強く握ることも少なくなり、自ら「行ってきます」と言える日も増えた。
直子との仲は日々深まり、共に過ごす時間は梨乃にとって、小学校での楽しみの一つとなった。
しかし、友達との仲はいつもうまくいくとは限らなかった。
休み時間、二人で描いていた絵に、直子がピンクのクレヨンで花を描き足した時、梨乃は
「かってにかかないでよ!」
と声を荒げた。
「かわいくしてあげようとおもったのに」
直子は席を立ち、別の子のところへ行ってしまった。
梨乃は一人で窓の外を見つめていた。孤独の感覚が再び彼女を覆った。
帰宅すると、母は
「何かあったの?」
と察して声をかけた。
梨乃は涙を流しながら、今日のやり取りを語った。
「きっとね、直子ちゃんは梨乃のために、手伝いたかったんじゃないかな。でも、自分の絵に描かれて梨乃がびっくりしたのもわかるよ」
母の言葉に、梨乃は涙を流した。
翌朝、入学当初の頃のように「学校に行きたくない」と泣く梨乃であったが、
「行ってごらん。謝るのは勇気がいるけど、梨乃の言葉はきっと伝わるよ」
という母の励ましに背中を押され、なんとか学校まで足を運ぶことができた。
教室で直子と目が合った瞬間の緊張、心臓の高鳴り……
「きのうはごめんね」
という言葉が、なんとか梨乃の唇から発せられた。
直子はしばしの沈黙の後、
「いいよ。わたしもごめんね」
と返す。
「いいよ」
二人は仲良しに戻ることができた。
給食後、昼休みに二人は花壇のチューリップを見に行った。
「このおはな、きのうかいたえに、にているね!」
と直子が笑った時、梨乃も心から笑うことができた。
帰宅後、母親に
「今日はどうだった?」
と尋ねられた梨乃は、胸を張って答えた。
「ちゃんとあやまったよ。なかなおりしたよ」
母親の笑顔と褒め言葉は、梨乃の自信を少しだけ大きくしてくれた。
春も終わりに近づいたある日、梨乃のクラスに転校生が入ってきた。
「さくら」という小柄で長い髪の少女は、緊張に縮こまり、自己紹介では声も小さく、誰からも声をかけられないままでいた。
梨乃の後ろの席に案内された彼女の不安げな顔を見て、梨乃は数ヶ月前の自分自身を思い出した。
休み時間、教科書を開いたり閉じたりしているさくらに、梨乃は声をかけた。
「さくらちゃん」
顔を上げたさくらに、梨乃は自分の経験を語った。
「わたしもさいしょは、ともだちいなかったんだ」
驚いた表情を見せるさくら。
「いっしょにあそぼ」
という梨乃の問いかけに、
「うん」
と返ってきた返事は、かつての自分への返事でもあるように思えた。
昼休み、二人は校庭のアジサイを見に行った。
「アジサイって、いろがかわるんだよ。きみどりだったのが、あかくなったりあおくなったりするんだよ」
というさくらの言葉に、
「そうなんだ。すごいね。さくらちゃんも、いろがかわったりして」
「そんなわけないでしょ」
「ううん。きのうときょうでは、さくらちゃん、なんだかちがってみえるよ」
と梨乃は答えた。
それからの日々、さくらは少しずつクラスに馴染んでいった。
梨乃と直子と三人で遊ぶことも増えてきた。
やがてさくらは、自分から
「いっしょにあそぼ」
と声をかけるまでになった。
その姿を見て、梨乃はなぜだか自分が立派になったような気持ちになった。
風が街路樹の葉を揺らしている。
下校の途中、梨乃は買い物帰りの母と会い、一緒に家に向かった。
「あのね、あたらしいおともだちができたの」
家の前にたどり着くと、母がぽつりと言った。
「前は、『行きたくない』って泣いてたのにね」
梨乃は恥ずかしくなって、思わず空を見上げた。
軽く笑って、梨乃は言った。
「うん。いまはね、がっこう、たのしみなんだ」
その言葉の響きには、もうあの頃の不安はなかった。
小さなやりとりの積み重ねの中で、梨乃は学校に自分の居場所をつくってきたのだ。
そして今、同じように戸惑っていた友達の居場所を作ってあげることができた。そのことが、梨乃にとっては何よりも嬉しかった。
自分に「はじめての友達」ができたこと、自分が「誰かのはじめての友達」になれたこと。そのことを梨乃は、なんだか自慢したいような気持ちになったのであった。
< 了 >