ハルタくんが会社に退職願を提出したのはそれからすぐ後のことだった。
人員不足を理由に無理矢理引き留められそうにもなったが、幾ばくもしないうちにその必要もなくなった。会社の運営する飲食店の売り上げが、前期とは比較にならない程に下がってしまったからだ。
あれから一年。会社は倒産し、ハルタくんは故郷の岩手に帰った。
「富をもたらす座敷童のお主が会社を去ったんじゃ。当然の帰結じゃろう」
古い家屋の屋根の上。
桜色がちらほらと顔を見せる山景を見渡すぬらりひょんの隣に、藤乃は腰かけている。
黒いおかっぱ頭に、赤い小袖の着物。やはり、リクルートスーツよりは、こちらの格好の方がしっくりと馴染む。
「……富が招くのが幸福だけじゃないってこと、分かっているつもりだった」
大人になったハルタくんと一緒に居たかった藤乃が彼についていったせいで、入社した企業に意図せず過剰な儲けをもたらすことになってしまった。
「お主がうっかり労働契約書などにサインをするから、儂がああして連れ戻す事態になったんじゃぞ、分かっておるのか?」
「……うう、ごめんなさい。だって、人間のつくった契約書にあんな効力があるなんて、思ってもいなかったんだもの」
「約束事を侮るからじゃ、バカタレ」
厳しめに叱られ、藤乃はシュンとする。
あの時は、たくさんの妖怪仲間にも世話をかけてしまった。
みんなは「久々に人を驚かせて楽しかった」と喜んでくれたが、ぬらりひょんはそんなに甘くない。
藤乃は今年「お花見参加禁止」の罰を言い渡されている。
妖怪仲間が人間たちの花宴にこっそりと紛れて楽しむのを、ここでひっそり眺めているわけだ。
そもそも花見なんて好きじゃないし、悔しくなんかない。
そう思っていた筈だが、やっぱり少し寂しかった。
「……ハルタくん、大人になっても優しかったな」
座敷童である藤乃は、大人になった人間の目には見えない。
あの日ハルタくんと話せたのは、舞い散る桜の妖力と、会社と交わした労働契約書の効力が相まってのことだ。二度とない奇跡だった。
「そうしょんぼりとするな。来年の春には、お主にも花宴に出る許可を出す」
「別にしょんぼりしてないし……。あっ」
屋根の上からぼんやりと桜を眺めていた藤乃の視界に、ハルタくんの姿があった。
田舎に帰ってきても世話焼きな性分は変わっていないようで、桜を眺める大勢の人に飲み物や食べ物を手渡している。
「……変わらないなぁ」
ようやくひと段落したのか、ハルタくんは一人、シートの上に腰を下ろす。
自分の紙コップにお茶を注ぎ、次に別のコップにオレンジジュースを注ぐ。
それを別の人に渡すのかと思ったら、何故だか誰も座っていない空間の前にぽつんと置いた。傍らには、桜餅が添えてある。
藤乃はハッと目を見開いた。
桜の花を眺めるハルタくんの表情は穏やかで、昔と同じように優しかった。
「……ん、どうしたお主。顔が赤いぞ」
ぬらりひょんが問う。
藤乃はぷいっと顔を背け、何も聞こえていないふりをした。
来年の花見がすごく楽しみになったのはヒミツだった。