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木として

ー/ー



人間関係に疲れていた。
朝、顔を合わせては曖昧な笑顔を交わし、昼、言葉の綾に傷つき、夜、胸に渦巻く後悔をひとり噛み締める。そんな毎日だった。
呼吸をすることさえ、煩わしかった。
家に帰れば、妻が微笑みかけた。
子どもたちが声をあげて駆け寄った。
その温もりさえ、時には重荷に感じた。
「もう、誰とも関わりたくない」
思考は、いつしかその一点へと収束していった。
ある晩、私は町外れの川にかかる橋の上に立った。
遠くに灯る街の光がぼんやりと川面に滲んでいた。
風が冷たい。
私は欄干に足をかけた。
冷たい風が頬をなぶり、コートの裾を激しく揺らす。
下を覗き込めば、遠く地面が霞んで見えた。
あと一歩、身を任せれば、すべてが終わる。
人間関係の軋みも、誰かに傷つけられる痛みも、もう味わわずに済む。
そのとき、ポケットの中の携帯電話が小刻みに震えた。
反射的に取り出すと、画面に妻の名前が浮かび上がっていた。
シンプルなその二文字が、鋭い楔のように胸に打ち込まれる。
──なぜ、今。
手が震えた。
電話には出られなかった。ただ、ただ画面を見つめる。
私には、妻がいる。
まだ幼い子どもたちもいる。
私がいなくなったら──
泣くだろうか。
探すだろうか。
それとも、時間がすべてを洗い流して、私のことなど、やがて忘れていくのだろうか。
胸の奥に、裂け目ができる。
鋭い痛みがそこからあふれ、呼吸すらままならない。
「──見ているだけでいいのなら」
風の中、そんな声が聞こえた気がした。
見ているだけ?
その言葉の意味が、私には分からなかった。
ただ、思った。
家族を見守れるのなら──
そばにいられるのなら──
死んで、すべてを手放してしまうより、どんな形であれ、家族を見つめ続けていたい。
私は、そう願った。
静かに目を閉じる。
手すりを握り締めていた指先が、力を失う。

──そして、目を開けた。
そこは、見慣れた自宅の庭だった。
けれど、何かがおかしい。
視界は不自然に高く、私の体は動かない。腕を伸ばそうとした。
けれど、腕はなかった。
代わりに、太く堅い幹がそこにあった。
風が吹き抜けると、ざわざわと枝葉が揺れる感覚だけが、わずかに伝わる。
私は──木になっていた。
戸惑いと恐怖が心を満たした。
声を上げようにも、口はない。
駆け寄ることも、抱きしめることもできない。
ただ、ここに、在るだけ。
そのとき、ふと、思い出した。
あのとき耳にした囁き。
「──見ているだけでいいのなら」
見ているだけとは、こういう意味だったのか。
どこかで静かに納得する自分がいた。
もう、何もしてやれない。
けれども、ここにいて、見守ることはできる。
それが、私に与えられた、最後のかたちだった。
春の陽射しが葉を透かして光っていた。
夏の夜風が枝を撫でた。
秋の虫の音が幹に染み渡った。
冬の雪が静かに積もった。
家族は私の失踪を受け止めきれず、何度も私の名前を呼んでいた。
警察にも届け出た。近所にビラを配った。
だが、私を見つけることはできなかった。
私はここにいるというのに。
こんなにも、そばにいるのに。
声をあげたかった。
枝を伸ばして、妻の手に触れたかった。
だが、私はただの木だった。

妻たちは少しずつ、生活を取り戻し始めた。
子どもたちは、学校へ通った。
季節が巡るたび、私のことを口にする回数は減っていった。
私は絶望した。
こんな結末を望んだわけではなかった。
ただ、苦しみから逃れたかっただけだった。
人との関わりを断ち切ったその代償が、こんなにも重いものだとは。
何か伝えなければ。
私は必死に願った。
どうか、気づいてくれ。
私はここにいる。
私はあなたたちを──

それから、私は変わろうとした。
春には、これまで見たこともないほど色鮮やかな花を咲かせた。
甘く、やわらかな香りを庭に満たした。
夏には、葉を茂らせ、熱い陽射しを和らげた。
木陰では、子どもたちが昼寝をした。
秋には、瑞々しい果実を実らせた。
それを口にした妻が、
「こんな実がなるなんて、知らなかった」
と驚いた。
冬には、枝をきらきらと霧氷で飾り、夜空に銀の網を編んだ。
私は、全身で家族に語りかけた。
「ここにいるよ」
「ずっと、あなたたちを見ているよ」
「愛しているよ」
だが、言葉のない叫びでは、やはり届かなかった。
人間はただの木に、そんな想いが宿っているとは思わない。

年月は流れた。
子どもたちは成長し、それぞれの道を歩みはじめた。
妻は白髪を増やしながらも、時折、庭に椅子を出し、私の根元に座った。
そして小さな声で、誰にともなく語っていた。
──あなたがどこかで生きていてくれたら、それだけでいい。どうか、幸せでいてほしい。
その声を聞くたびに、私は根幹の奥深くで震えた。
生きている。
私はここで、生きているというのに。
でも、もう、妻に触れることはできない。

春、私はこれまでで一番多くの花を咲かせた。
庭いっぱいに、白と薄紅の花が溢れた。
家族が集まり、花の下で写真を撮った。
笑い声が風に運ばれていった。
私は、幸福だった。
たとえ声を持たずとも、姿を持たずとも、
誰かのそばに在ることは、確かに、生きることだった。
次の季節も、その次の季節も、私はここにいる。
静かに、変わらず、誰かを見守りながら。
誰にも気づかれなくとも、
それでも私は、確かに、ここにいる。

春は何度も巡った。
子どもたちはそれぞれの家庭を持ち、たまに孫たちを連れて帰ってきた。
にぎやかな笑い声が庭にあふれるたび、私は、もうそれだけで満たされた思いになった。
だが、妻の身体は少しずつ衰えていった。
背は曲がり、歩みはゆっくりになった。
それでも、季節ごとに必ず庭に出て、私の根元に腰掛けた。
手編みの膝掛けをかけ、熱いお茶を手にして、空を仰いだ。

ある春の日のことだった。
花が咲き乱れ、木漏れ日がきらきらと揺れていた。
妻はいつもの椅子に座り、しばらく私を見上げたまま、ぽつりとつぶやいた。
「……あなた、なんでしょう?」
私は驚いた。
葉も、枝も、凍りついたように、じっと妻を見た。
「この木、こんなに優しい木だったかしら。こんなに、花を咲かせる木だったかしら。こんなに、見守るように立っていたかしら……」
妻の声は、まるで夢を語るようにかすれていた。
「あなたが……あなたが、この木になって、ずっと私たちを見ていてくれたのだとしたら……」
そう言って、妻はそっと私の幹に手をあてた。
皺だらけの、か細い手。
その手から、私にぬくもりが伝わってきた。
私は涙を流したかった。
けれど、木に涙はない。
声も、言葉もない。
だから私は、枝を揺らし、花びらをぱらぱらと降らせた。
それは、妻の肩に、髪に、優しく積もった。
妻は目を閉じ、深く息を吸った。
花の香りと、陽だまりの匂いと、長い年月の思い出とを、すべて胸に抱き込むようにして。
「ありがとう……」
妻はそう言って、微笑んだ。
それは若かりし頃、私が初めて恋に落ちたときと同じ微笑みだった。

妻は静かに庭を後にし、
穏やかにこの世を去った。

私は何もできなかった。
葉の隙間から、白くまぶしい光が差し込んでいる。
きっと、妻はあの光の中にいる。
もう、苦しみも孤独もない場所にいるのだろう。
私は「そこ」に向かって枝を伸ばす。
届くことはないと知りながら、それでも、ただ、伸ばした。
人間であった頃の後悔も、痛みも、愛しさも、すべてこの幹に刻まれている。
誰にも気づかれなくともかまわない。
たったひとり、気づいてくれたのだから。
これからも、私はここに在る。
いつまでも、変わらずに。


< 了 >


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人間関係に疲れていた。
朝、顔を合わせては曖昧な笑顔を交わし、昼、言葉の綾に傷つき、夜、胸に渦巻く後悔をひとり噛み締める。そんな毎日だった。
呼吸をすることさえ、煩わしかった。
家に帰れば、妻が微笑みかけた。
子どもたちが声をあげて駆け寄った。
その温もりさえ、時には重荷に感じた。
「もう、誰とも関わりたくない」
思考は、いつしかその一点へと収束していった。
ある晩、私は町外れの川にかかる橋の上に立った。
遠くに灯る街の光がぼんやりと川面に滲んでいた。
風が冷たい。
私は欄干に足をかけた。
冷たい風が頬をなぶり、コートの裾を激しく揺らす。
下を覗き込めば、遠く地面が霞んで見えた。
あと一歩、身を任せれば、すべてが終わる。
人間関係の軋みも、誰かに傷つけられる痛みも、もう味わわずに済む。
そのとき、ポケットの中の携帯電話が小刻みに震えた。
反射的に取り出すと、画面に妻の名前が浮かび上がっていた。
シンプルなその二文字が、鋭い楔のように胸に打ち込まれる。
──なぜ、今。
手が震えた。
電話には出られなかった。ただ、ただ画面を見つめる。
私には、妻がいる。
まだ幼い子どもたちもいる。
私がいなくなったら──
泣くだろうか。
探すだろうか。
それとも、時間がすべてを洗い流して、私のことなど、やがて忘れていくのだろうか。
胸の奥に、裂け目ができる。
鋭い痛みがそこからあふれ、呼吸すらままならない。
「──見ているだけでいいのなら」
風の中、そんな声が聞こえた気がした。
見ているだけ?
その言葉の意味が、私には分からなかった。
ただ、思った。
家族を見守れるのなら──
そばにいられるのなら──
死んで、すべてを手放してしまうより、どんな形であれ、家族を見つめ続けていたい。
私は、そう願った。
静かに目を閉じる。
手すりを握り締めていた指先が、力を失う。
──そして、目を開けた。
そこは、見慣れた自宅の庭だった。
けれど、何かがおかしい。
視界は不自然に高く、私の体は動かない。腕を伸ばそうとした。
けれど、腕はなかった。
代わりに、太く堅い幹がそこにあった。
風が吹き抜けると、ざわざわと枝葉が揺れる感覚だけが、わずかに伝わる。
私は──木になっていた。
戸惑いと恐怖が心を満たした。
声を上げようにも、口はない。
駆け寄ることも、抱きしめることもできない。
ただ、ここに、在るだけ。
そのとき、ふと、思い出した。
あのとき耳にした囁き。
「──見ているだけでいいのなら」
見ているだけとは、こういう意味だったのか。
どこかで静かに納得する自分がいた。
もう、何もしてやれない。
けれども、ここにいて、見守ることはできる。
それが、私に与えられた、最後のかたちだった。
春の陽射しが葉を透かして光っていた。
夏の夜風が枝を撫でた。
秋の虫の音が幹に染み渡った。
冬の雪が静かに積もった。
家族は私の失踪を受け止めきれず、何度も私の名前を呼んでいた。
警察にも届け出た。近所にビラを配った。
だが、私を見つけることはできなかった。
私はここにいるというのに。
こんなにも、そばにいるのに。
声をあげたかった。
枝を伸ばして、妻の手に触れたかった。
だが、私はただの木だった。
妻たちは少しずつ、生活を取り戻し始めた。
子どもたちは、学校へ通った。
季節が巡るたび、私のことを口にする回数は減っていった。
私は絶望した。
こんな結末を望んだわけではなかった。
ただ、苦しみから逃れたかっただけだった。
人との関わりを断ち切ったその代償が、こんなにも重いものだとは。
何か伝えなければ。
私は必死に願った。
どうか、気づいてくれ。
私はここにいる。
私はあなたたちを──
それから、私は変わろうとした。
春には、これまで見たこともないほど色鮮やかな花を咲かせた。
甘く、やわらかな香りを庭に満たした。
夏には、葉を茂らせ、熱い陽射しを和らげた。
木陰では、子どもたちが昼寝をした。
秋には、瑞々しい果実を実らせた。
それを口にした妻が、
「こんな実がなるなんて、知らなかった」
と驚いた。
冬には、枝をきらきらと霧氷で飾り、夜空に銀の網を編んだ。
私は、全身で家族に語りかけた。
「ここにいるよ」
「ずっと、あなたたちを見ているよ」
「愛しているよ」
だが、言葉のない叫びでは、やはり届かなかった。
人間はただの木に、そんな想いが宿っているとは思わない。
年月は流れた。
子どもたちは成長し、それぞれの道を歩みはじめた。
妻は白髪を増やしながらも、時折、庭に椅子を出し、私の根元に座った。
そして小さな声で、誰にともなく語っていた。
──あなたがどこかで生きていてくれたら、それだけでいい。どうか、幸せでいてほしい。
その声を聞くたびに、私は根幹の奥深くで震えた。
生きている。
私はここで、生きているというのに。
でも、もう、妻に触れることはできない。
春、私はこれまでで一番多くの花を咲かせた。
庭いっぱいに、白と薄紅の花が溢れた。
家族が集まり、花の下で写真を撮った。
笑い声が風に運ばれていった。
私は、幸福だった。
たとえ声を持たずとも、姿を持たずとも、
誰かのそばに在ることは、確かに、生きることだった。
次の季節も、その次の季節も、私はここにいる。
静かに、変わらず、誰かを見守りながら。
誰にも気づかれなくとも、
それでも私は、確かに、ここにいる。
春は何度も巡った。
子どもたちはそれぞれの家庭を持ち、たまに孫たちを連れて帰ってきた。
にぎやかな笑い声が庭にあふれるたび、私は、もうそれだけで満たされた思いになった。
だが、妻の身体は少しずつ衰えていった。
背は曲がり、歩みはゆっくりになった。
それでも、季節ごとに必ず庭に出て、私の根元に腰掛けた。
手編みの膝掛けをかけ、熱いお茶を手にして、空を仰いだ。
ある春の日のことだった。
花が咲き乱れ、木漏れ日がきらきらと揺れていた。
妻はいつもの椅子に座り、しばらく私を見上げたまま、ぽつりとつぶやいた。
「……あなた、なんでしょう?」
私は驚いた。
葉も、枝も、凍りついたように、じっと妻を見た。
「この木、こんなに優しい木だったかしら。こんなに、花を咲かせる木だったかしら。こんなに、見守るように立っていたかしら……」
妻の声は、まるで夢を語るようにかすれていた。
「あなたが……あなたが、この木になって、ずっと私たちを見ていてくれたのだとしたら……」
そう言って、妻はそっと私の幹に手をあてた。
皺だらけの、か細い手。
その手から、私にぬくもりが伝わってきた。
私は涙を流したかった。
けれど、木に涙はない。
声も、言葉もない。
だから私は、枝を揺らし、花びらをぱらぱらと降らせた。
それは、妻の肩に、髪に、優しく積もった。
妻は目を閉じ、深く息を吸った。
花の香りと、陽だまりの匂いと、長い年月の思い出とを、すべて胸に抱き込むようにして。
「ありがとう……」
妻はそう言って、微笑んだ。
それは若かりし頃、私が初めて恋に落ちたときと同じ微笑みだった。
妻は静かに庭を後にし、
穏やかにこの世を去った。
私は何もできなかった。
葉の隙間から、白くまぶしい光が差し込んでいる。
きっと、妻はあの光の中にいる。
もう、苦しみも孤独もない場所にいるのだろう。
私は「そこ」に向かって枝を伸ばす。
届くことはないと知りながら、それでも、ただ、伸ばした。
人間であった頃の後悔も、痛みも、愛しさも、すべてこの幹に刻まれている。
誰にも気づかれなくともかまわない。
たったひとり、気づいてくれたのだから。
これからも、私はここに在る。
いつまでも、変わらずに。
< 了 >