春の光はどうしてこうもやわらかく人の心に忍び込んでくるのだろう。
カーテンの隙間から差し込むその淡い光に目を細めながら、私はクローゼットの扉を開けた。
季節の移ろいに、心が遅れてついていくような感覚。冬の残り香が胸の奥にくすぶっていた。
けれど、片づけなければならない。春が始まってしまう。
冬服をベッドの上に並べていく。
折り重なった布地ひとつひとつに時が宿っていた。
最初に手に取ったのは、ダークグレーのコート。
あの冬、職場で初めて任されたプレゼンテーションの日に着ていったものだ。
緊張のあまり、出勤の途中で逃げ出そうとさえ思った。けれども、このコートの重みがどこかで自分を支えていたように思えた。
袖口には、今もかすかに残るコーヒーのしみ。あの朝、慌ただしさに手を滑らせてこぼした記憶が、しみとなって留まっていた。
赤いセーター。クリスマスの夜、友人たちと狭い部屋で笑い合った夜を思い出す。
キャンドルの灯り、ホットワインの湯気、そして、別れ際に残された言葉の余韻。
ポケットから一枚のレシートが出てきた。コンビニで買った、ワインとチーズ。それだけの記録なのに、なぜだか愛おしく感じられた。
黒いタートルネックは、母と過ごした日の記憶を連れてきてくれた。
街の雑踏のなか、母は少し照れたように言った。
「これ、あなたに似合うと思うの」
帰り道、雪が降り始めた。あの頃の母は元気だった。もっと言葉を交わしておけばよかった……
チェック柄のマフラー。そこには、ひと冬を共にした恋人の記憶が染み込んでいる。
私の首に巻いてくれたその動作には、彼のやさしさが宿っていた。
けれど、あたたかさと別れが、背中合わせで存在していたとは、その時は知る由もなかった。
ニット帽。一緒に雪遊びをした姪の小さな手を思い出す。雪だるまを作る真剣な顔。
あの無垢な時間は、たしかに私の心を解かしてくれた。
祖母が編んでくれた毛糸のカーディガンも出てきた。
太い毛糸、やや不揃いな編み目。何度も編み直した跡があった。
「これで冬もあったかく過ごせるね」
そう言った祖母の声は、カーディガンのあたたかさと共に私の中に残っていた。
私は畳む手を止め、ぼんやりと布地の上に視線を落とす。
これらは単なる衣服ではなかった。
私という人間の、ひとつひとつの「証」であるように見えてきた。
過ぎていった日々は、確かにあった。
笑い声、手の温もり、喪失、そして、戻らない時間──
そのどれもが、私の今を作っている。
こうして一着ずつ手に取ってみると、すべては、たしかに「在った」のだと改めて感じさせられた。
忘れたと思っていた日々は、私の中にしっかりと息づいていたのだった。
冬服をすべて畳み終え、収納ケースの蓋を手に持った。
そして、声にならない声で呟いた。
「冬服さん、お疲れ様でした。たくさんの思い出をありがとう……」
蓋を閉め、私は立ち上がる。
窓の外は、桜の花びらが風に舞っている。
私はクローゼットから春服を取り出し、一枚のブラウスを胸元にあてがった。
その布地は、とても軽く感じられた。
もう、重いものを抱えなくていい────
私は過去を手放し、未来へと歩き始めていた。
< 了 >