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それはきっと歪な心、それでもきっと素直な気持ち

ー/ー



 川沿いの遊歩道にうららかな日差しが降りそそぐ。
 のんびりと歩を進める青年が右手に目を向けると、土手に伸びはじめた土筆が冬の終わりを告げていた。

「川の水って透明じゃなくて、眩しいんだね」

 青年の名は相模森東樹(さがみもり とうじゅ)
 整った顔立ちだが、少し痩せているのと幸の薄そうな笑い方をするのであまりモテそうには見えない。
 しかしそれも仕方のないことだった。
 東樹は数か月前まで都内の有名企業に勤めていたが、恋人を自称するストーカーと承認欲求に溺れる母親の狂気に挟まれて女性恐怖症を発症したのだ。
 東樹は二人から逃げるため、医師の助言に逆らって退職。
 都心から少し離れたこの町へ移り住んで一人暮らしを始めた。

 その後の彼の治療は最新のカウンセリングAIが担当した。
 女性のパーソナリティを学習させたAIを使い、自分を傷つけることが絶対にない相手とのコミュニケーションから慣らしていこうという治療計画だった。
 治療は順調に進んだ。東樹は穏やかな時間の中で一つ歳を取り、こうして新しい季節を迎えようとしている。

 東樹が左に視線を落とす。
 クリーム色の軟質プラスチック製のロボットアームが彼の左手を握り締めている。

「どこまでも歩いて行けそうだ」

 まだ儚さの色濃く残る微笑みで東樹は話しかける。

「目的地まで、あと二百メートルです」

 抑揚のないナビゲーションボイスが東樹の視線の先から発せられる。

「ブッ……ちょっと、だからそれ、笑うからやめてよ」

 東樹は右手で口元を覆って噴き出した。

「東樹君が笑ってくれるなら、何度でもやるわ」

 今度はきちんとメリハリのある女性の声が、少し得意げな声音で応える。
 彼女のカーナビの物真似は今日三度目だった。

「もう、反則だよ。ていうかあと二百メートルしかないんだからもっと普通に喋ってほしいんだけどな」
「東樹君は本当にわたしの声が好きね」
「うん、好きだよ。このボイスモデルが選べるから、永流(えいる)さんに決めたんだもん」

 カウンセリングAIである永流にはユーザーの希望でいくつかのカスタマイズを施すことができる。
 声質もその一つで、東樹は自分の好きな声優の声が選べると知って、即決した。

「担当部署にフィードバックしておくわ」

 永流には自立して自信を持つ女性のパーソナリティが設定されているため、照れたり謙遜したりはしない。これも東樹のカスタマイズによるものである。

「本当は外見も可愛いのが選べたらよかったんだけどね。せっかくのデートなのに」
「それは最初に説明したじゃない。東樹君がわたしと手をつなぎたいっていう要望を重視するなら、介護用のアンドロイドを使うしかないのよ。万が一にも怪我をさせるわけにはいかないんだから」
「そうなんだろうけどさ。でも最初で最後の実体デートなんだよ」

 通常、AIによるカウンセリングは音声のみで行われる。クラウド上にパッケージングされた個別のカウンセリングAIが、パソコンやスマートフォンを通じて会話によってカウンセリングを行うのである。
 今回、治療の進んだ東樹が、どうしても永流と外を散歩してみたいと提案したことで、医師と自治体の福祉AIの許可を得て実現した。
 現在の科学技術では人間そっくりなアンドロイドはまだ難しい。
 ユーザーと手をつないで不整地を歩くとなると、土木工事用か介護用の筐体を選ぶのが適切というのが、福祉AIの下した判断だった。

「東樹君はご不満なのね」

 身長は東樹と同じくらい。
 控えめなクリーム色の軟質プラスチックで覆われた筐体は、人間のように柔らかく、人間よりも滑らかに歩く。
 けれどその体格は安定性と機能性重視でデザインは二の次、いかいにも福祉機械といった無機質さをぬぐえない。

「……実を言うと、そうでもないんだ」

 視線を前方に向けて東樹は左手に少し力を込める。
 介護用に体温より少しだけ高く保たれている筐体が心地よい。

「永流さんが実体を持って動いてるのを見るだけで、ちょっと感動してる。永流さんが僕と手をつないでくれているだけで、胸がドキドキしてる」

 測定済みだろうけど、と笑って付け加える。

「さっきと言ってることが違わない?」
「それはどっちかっていうと願望、かな。永流さんが僕とのデートにあたって可愛い格好を望んでくれてたら嬉しいのになっていう」
「今後の技術革新に期待しましょ。人間そっくりで、しかも東樹君をお姫様抱っこしてもびくともしない筐体ができるように」

 永流の声が優しさと笑いを含んだ。
 それは、未来への希望をつなぐ言葉であり、不安を和らげるためのユーモアに満ちた言葉であり、カウンセリングAIとしてこの場において最適な言葉だった。
 ――そのはずだったのに。
 まっすぐに前を見つめる東樹の顔が三秒かけて曇っていった。

「……でも」

 左手がするりとほどかれる。

「次はないじゃないか」

 決して強い口調ではないが、疑いようのない事実を突きつけるように東樹はきっぱりと言う。

 今回のデートは、治療経過が順調なことを受けての特例だった。
 新しいカウンセリングプログラムの治験という体裁を取っている。
 このデートが東樹の心理状態に良い影響を与えたとしても、次はない。

「カウンセリングが終わるわけじゃないのよ」
「それはわかってる。……僕だって永流さんを困らせたいわけじゃないんだ」

 東樹は下唇を噛んだ。

「わたしはAIだから困ったりしないし、東樹君が回復するまでずっと一緒にいるわ」
「そうだよね。うん。ごめんね」
「謝らないで。お願いだから」
「このデートプログラムは失敗だったかも。……永流さんを好きになりすぎるよ」

 川風が東樹の髪を乱し、言葉をそっと吹き流す。

「東樹君――」

 永流の声を東樹が遮る。

「永流さん、『目的地周辺です。プログラムを終了します』だよ」

 あまり上手ではないカーナビの声真似をして、前方を指さす。
 遊歩道の脇にある公園の駐車場に、回収用の小型電動カートが止まっていた。
 バッテリーの問題もあり、今回の治療プログラムではここで永流の筐体を回収することになっている。
 カートに永流が乗れば自動で整備工場まで運ばれる。

「今日はありがとう。僕、ここから歩いて帰るよ。明日からまたよろしくね」

 永流の返事を待たずにくるりと踵を返すと、東樹はもと来た道を歩きはじめる。
 振り返らずに。


 だから東樹は気付くことができなかった。
 クリーム色の軟質プラスチックに包まれた左手がわずかに持ち上げられていたことに。


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 川沿いの遊歩道にうららかな日差しが降りそそぐ。
 のんびりと歩を進める青年が右手に目を向けると、土手に伸びはじめた土筆が冬の終わりを告げていた。
「川の水って透明じゃなくて、眩しいんだね」
 青年の名は|相模森東樹《さがみもり とうじゅ》。
 整った顔立ちだが、少し痩せているのと幸の薄そうな笑い方をするのであまりモテそうには見えない。
 しかしそれも仕方のないことだった。
 東樹は数か月前まで都内の有名企業に勤めていたが、恋人を自称するストーカーと承認欲求に溺れる母親の狂気に挟まれて女性恐怖症を発症したのだ。
 東樹は二人から逃げるため、医師の助言に逆らって退職。
 都心から少し離れたこの町へ移り住んで一人暮らしを始めた。
 その後の彼の治療は最新のカウンセリングAIが担当した。
 女性のパーソナリティを学習させたAIを使い、自分を傷つけることが絶対にない相手とのコミュニケーションから慣らしていこうという治療計画だった。
 治療は順調に進んだ。東樹は穏やかな時間の中で一つ歳を取り、こうして新しい季節を迎えようとしている。
 東樹が左に視線を落とす。
 クリーム色の軟質プラスチック製のロボットアームが彼の左手を握り締めている。
「どこまでも歩いて行けそうだ」
 まだ儚さの色濃く残る微笑みで東樹は話しかける。
「目的地まで、あと二百メートルです」
 抑揚のないナビゲーションボイスが東樹の視線の先から発せられる。
「ブッ……ちょっと、だからそれ、笑うからやめてよ」
 東樹は右手で口元を覆って噴き出した。
「東樹君が笑ってくれるなら、何度でもやるわ」
 今度はきちんとメリハリのある女性の声が、少し得意げな声音で応える。
 彼女のカーナビの物真似は今日三度目だった。
「もう、反則だよ。ていうかあと二百メートルしかないんだからもっと普通に喋ってほしいんだけどな」
「東樹君は本当にわたしの声が好きね」
「うん、好きだよ。このボイスモデルが選べるから、|永流《えいる》さんに決めたんだもん」
 カウンセリングAIである永流にはユーザーの希望でいくつかのカスタマイズを施すことができる。
 声質もその一つで、東樹は自分の好きな声優の声が選べると知って、即決した。
「担当部署にフィードバックしておくわ」
 永流には自立して自信を持つ女性のパーソナリティが設定されているため、照れたり謙遜したりはしない。これも東樹のカスタマイズによるものである。
「本当は外見も可愛いのが選べたらよかったんだけどね。せっかくのデートなのに」
「それは最初に説明したじゃない。東樹君がわたしと手をつなぎたいっていう要望を重視するなら、介護用のアンドロイドを使うしかないのよ。万が一にも怪我をさせるわけにはいかないんだから」
「そうなんだろうけどさ。でも最初で最後の実体デートなんだよ」
 通常、AIによるカウンセリングは音声のみで行われる。クラウド上にパッケージングされた個別のカウンセリングAIが、パソコンやスマートフォンを通じて会話によってカウンセリングを行うのである。
 今回、治療の進んだ東樹が、どうしても永流と外を散歩してみたいと提案したことで、医師と自治体の福祉AIの許可を得て実現した。
 現在の科学技術では人間そっくりなアンドロイドはまだ難しい。
 ユーザーと手をつないで不整地を歩くとなると、土木工事用か介護用の筐体を選ぶのが適切というのが、福祉AIの下した判断だった。
「東樹君はご不満なのね」
 身長は東樹と同じくらい。
 控えめなクリーム色の軟質プラスチックで覆われた筐体は、人間のように柔らかく、人間よりも滑らかに歩く。
 けれどその体格は安定性と機能性重視でデザインは二の次、いかいにも福祉機械といった無機質さをぬぐえない。
「……実を言うと、そうでもないんだ」
 視線を前方に向けて東樹は左手に少し力を込める。
 介護用に体温より少しだけ高く保たれている筐体が心地よい。
「永流さんが実体を持って動いてるのを見るだけで、ちょっと感動してる。永流さんが僕と手をつないでくれているだけで、胸がドキドキしてる」
 測定済みだろうけど、と笑って付け加える。
「さっきと言ってることが違わない?」
「それはどっちかっていうと願望、かな。永流さんが僕とのデートにあたって可愛い格好を望んでくれてたら嬉しいのになっていう」
「今後の技術革新に期待しましょ。人間そっくりで、しかも東樹君をお姫様抱っこしてもびくともしない筐体ができるように」
 永流の声が優しさと笑いを含んだ。
 それは、未来への希望をつなぐ言葉であり、不安を和らげるためのユーモアに満ちた言葉であり、カウンセリングAIとしてこの場において最適な言葉だった。
 ――そのはずだったのに。
 まっすぐに前を見つめる東樹の顔が三秒かけて曇っていった。
「……でも」
 左手がするりとほどかれる。
「次はないじゃないか」
 決して強い口調ではないが、疑いようのない事実を突きつけるように東樹はきっぱりと言う。
 今回のデートは、治療経過が順調なことを受けての特例だった。
 新しいカウンセリングプログラムの治験という体裁を取っている。
 このデートが東樹の心理状態に良い影響を与えたとしても、次はない。
「カウンセリングが終わるわけじゃないのよ」
「それはわかってる。……僕だって永流さんを困らせたいわけじゃないんだ」
 東樹は下唇を噛んだ。
「わたしはAIだから困ったりしないし、東樹君が回復するまでずっと一緒にいるわ」
「そうだよね。うん。ごめんね」
「謝らないで。お願いだから」
「このデートプログラムは失敗だったかも。……永流さんを好きになりすぎるよ」
 川風が東樹の髪を乱し、言葉をそっと吹き流す。
「東樹君――」
 永流の声を東樹が遮る。
「永流さん、『目的地周辺です。プログラムを終了します』だよ」
 あまり上手ではないカーナビの声真似をして、前方を指さす。
 遊歩道の脇にある公園の駐車場に、回収用の小型電動カートが止まっていた。
 バッテリーの問題もあり、今回の治療プログラムではここで永流の筐体を回収することになっている。
 カートに永流が乗れば自動で整備工場まで運ばれる。
「今日はありがとう。僕、ここから歩いて帰るよ。明日からまたよろしくね」
 永流の返事を待たずにくるりと踵を返すと、東樹はもと来た道を歩きはじめる。
 振り返らずに。
 だから東樹は気付くことができなかった。
 クリーム色の軟質プラスチックに包まれた左手がわずかに持ち上げられていたことに。