表示設定
表示設定
目次 目次




【1】

ー/ー



鈴木(すずき)さん。鈴木 眞美子(まみこ)さん、診察室へどうぞ」

「あ、はい!」
 乳腺外科前の待ち合いのソファ。
 落ち着かないまま呼ばれるのを待っていた眞美子は、看護師の声に立ち上がって診察室へ向かった。

「えーと、鈴木 眞美子さん。……はい、検査の結果は問題ありません。大丈夫ですよ」
 優しげな年配の医師の台詞に、知らず緊張していたらしい全身から力が抜けるのがわかった。
「あ、ありがとうございます。……よかった」
「早期発見が大事ですから、今後も検診はきちんと受けてくださいね」
 再度担当医に礼を述べ、ドアを開けてくれた看護師にも頭を下げて診察室を後にする。
 職場で申し込んで受けた乳がん検診。その結果として、要精密検査の通知が届いたのは一か月ほど前だった。
 一瞬目の前が真っ暗になったのを、眞美子は昨日のことのように覚えている。
 すぐに検診を受けた病院に精密検査の予約を入れたが、もともと乳がん検診は週に一回とのことで今日になってしまったのだ。
 今の時代、がんだからと言って即『死』に繋がるわけではない。医療の進歩は凄まじいものがある。早期発見ならなおさら生存率は高い。
 頭ではわかっていても、実際に結果を知るまでどうしても不安が拭えなかった。
 この一か月、心のどこかに常に巣食っていた不安を振り切って、眞美子は久しぶりに晴れやかな気分で病院の敷地を出た。
 来院した時も確かにあったはずなのに、今ようやく気づいた桜の大木。
 薄桃色の祝福のような花びらが宙を舞うのに、灰色の視界が一気に色付いた気がした。

 秋が来れば、眞美子は四十七歳になる。
 来月で結婚してちょうど二十年。たまたま雨には見舞われなかった六月の結婚式が、何故か不意に頭を過ぎった。特に「六月の花嫁(ジューンブライド)」に憧れていたわけでもなかったのに、わざわざ六月にした理由さえもう思い出せない。
 今年大学に入学した一人娘は、夏に十九歳になる。
『がんかもしれない』
 初めてその可能性を我が事として捉えたとき頭に過ぎったのは、今の状態のまま生を終えたくない、ということだけだった。
 もしも長くは生きられないというのなら、限られた時間を夫と一緒に過ごすのは嫌だ。
 仕事でも娘でも、自分の命そのものでさえなく。真っ先に眞美子の心を占めたのは、そんな感情だったのだ。

 ずっと我慢して夫と生活して来たわけではない。
 少なくとも、眞美子には「我慢して来た」という自覚はなかった。
 仕事と育児で文字通り目の回るような日々を送って来て、愚痴を零す暇さえなく過ぎた年月。
 己の人生に後悔はない。仕事では結果も出して来た。娘も十分いい子に育ってくれたと思っている。
 けれども、今まで不満を抱くことがなかったとは到底言えないのも確かだった。
 生活の中にいくつもあった不満の種を、育てる余裕など時間にも心にもなかっただけ。

 ──時間がなくなる、かもしれない現実に直面して、眠らせてしまっていた種が芽吹いたのだ。




スタンプを贈って作者を応援しよう!

次のエピソードへ進む 【2】


みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



「|鈴木《すずき》さん。鈴木 |眞美子《まみこ》さん、診察室へどうぞ」
「あ、はい!」
 乳腺外科前の待ち合いのソファ。
 落ち着かないまま呼ばれるのを待っていた眞美子は、看護師の声に立ち上がって診察室へ向かった。
「えーと、鈴木 眞美子さん。……はい、検査の結果は問題ありません。大丈夫ですよ」
 優しげな年配の医師の台詞に、知らず緊張していたらしい全身から力が抜けるのがわかった。
「あ、ありがとうございます。……よかった」
「早期発見が大事ですから、今後も検診はきちんと受けてくださいね」
 再度担当医に礼を述べ、ドアを開けてくれた看護師にも頭を下げて診察室を後にする。
 職場で申し込んで受けた乳がん検診。その結果として、要精密検査の通知が届いたのは一か月ほど前だった。
 一瞬目の前が真っ暗になったのを、眞美子は昨日のことのように覚えている。
 すぐに検診を受けた病院に精密検査の予約を入れたが、もともと乳がん検診は週に一回とのことで今日になってしまったのだ。
 今の時代、がんだからと言って即『死』に繋がるわけではない。医療の進歩は凄まじいものがある。早期発見ならなおさら生存率は高い。
 頭ではわかっていても、実際に結果を知るまでどうしても不安が拭えなかった。
 この一か月、心のどこかに常に巣食っていた不安を振り切って、眞美子は久しぶりに晴れやかな気分で病院の敷地を出た。
 来院した時も確かにあったはずなのに、今ようやく気づいた桜の大木。
 薄桃色の祝福のような花びらが宙を舞うのに、灰色の視界が一気に色付いた気がした。
 秋が来れば、眞美子は四十七歳になる。
 来月で結婚してちょうど二十年。たまたま雨には見舞われなかった六月の結婚式が、何故か不意に頭を過ぎった。特に「|六月の花嫁《ジューンブライド》」に憧れていたわけでもなかったのに、わざわざ六月にした理由さえもう思い出せない。
 今年大学に入学した一人娘は、夏に十九歳になる。
『がんかもしれない』
 初めてその可能性を我が事として捉えたとき頭に過ぎったのは、今の状態のまま生を終えたくない、ということだけだった。
 もしも長くは生きられないというのなら、限られた時間を夫と一緒に過ごすのは嫌だ。
 仕事でも娘でも、自分の命そのものでさえなく。真っ先に眞美子の心を占めたのは、そんな感情だったのだ。
 ずっと我慢して夫と生活して来たわけではない。
 少なくとも、眞美子には「我慢して来た」という自覚はなかった。
 仕事と育児で文字通り目の回るような日々を送って来て、愚痴を零す暇さえなく過ぎた年月。
 己の人生に後悔はない。仕事では結果も出して来た。娘も十分いい子に育ってくれたと思っている。
 けれども、今まで不満を抱くことがなかったとは到底言えないのも確かだった。
 生活の中にいくつもあった不満の種を、育てる余裕など時間にも心にもなかっただけ。
 ──《《真に》》時間がなくなる、かもしれない現実に直面して、眠らせてしまっていた種が芽吹いたのだ。