歓送迎会の会場は勤務先でよく使う店舗で、最寄りは大きなターミナル駅になり、複数の路線が乗り入れていた。
帰り道、葉音と路線も方向もまったく同じメンバーはいなかったが、駅そのものは参加者の大半が利用するため同じ道を行くことになる。
しかし、少人数のグループに分かれて会話が交わされている中、連れのいなかった葉音の隣に誰かが立つのがわかった。
同じ職場の男性社員である
紙屋だ。
確か三十代半ばだったろうか。尚登や奈津美よりいくつか歳上だった筈。
普段はほぼ仕事での絡みもないため、挨拶程度はともかく会話を交わした記憶もすぐには探せない。
彼が話し掛けて来るのに作り笑顔で相槌を打ちながら、正直なところ開放して欲しいと考えていた。
せめて奈津美やそれなりに親しくしている女性の先輩なら、と思ったものの、彼女たちは同期や上司と話が弾んでいる様子だ。
「山際さん。ほら、あれ」
指差す彼に釣られて見上げた空には、下弦の月。
満月を半分切り落としたようなその月から目を離した葉音に、紙屋が言葉を発した。
「『月が綺麗ですね』」
目を見てはっきりと、一字一字明瞭に発音する。
──まるで漫画みたい。今まで私がずっと夢見てたのはこういうことだったのかも。
この言葉を、こういう演出を求めていたのだ、と改めて感じた。
大元の大作家の手を離れたその表現は、今では手垢の付いた陳腐なものになり果てたのかもしれない。
ましてや葉音自身が「人間関係などシンプルが一番」と考えて体現しているにも関わらず、矛盾していると理解もできている。
そこまでわかっていてさえも、目に見える、形として示してもらうのが大切なこともあるのだ。
尚登は一度も、ひとつも与えてはくれなかったもの。
「なあ、山際さん。次は二人で飲みに行かないか?」
さすがにその誘いにはすぐに頷くこともできず、葉音は曖昧な笑みを受かべた。
「おはようご──」
翌朝、出勤して挨拶し掛けた葉音は、どこか強張った表情の奈津美に腕を引かれた。
「山際さん、余計なお世話は承知で言うわ」
そのままオフィスから葉音を連れ出した彼女は、廊下の端で唐突に切り出す。
「紙屋さんには気を付けて。そもそもあなた婚約中でしょ? 疚しいことがなくても、行動には注意した方がいい」
昨夜のことを指しているのはすぐにわかった。
紙屋と並んで歩く羽目になったのはほんの偶然だ。
しかも二人きりというわけでもない。多少離れてはいたものの、前後には課の人間が揃っていた。
……それでも婚約者ではない男と二人で視線を交わし、「普通の関係」ならまず口の端に上ることはない言葉がその間にあったのは事実だ。
もし誰かに聴かれていたら、「なんでもない」という言い逃れさえ白々しい。
葉音は彼の台詞を拒絶もしなかったのだから。
「いい大人にこんなこと言いたくないのよ。でもあなたはあたしにとって、幸せになって欲しい可愛い後輩なの。鬱陶しいお局だと思われてもいい」
「わ、私はそんな風には──」
それはわかってるから大丈夫、と奈津美が静かに宥めてくれる。
「ねえ、考えてみて。紙屋さんは山際さんが結婚決まってるのも当然知ってるのよ」
「あ、……はい、それはもちろん」
答えた葉音に彼女が畳み掛けて来る。
「つまり、『結婚迫られることもなくてあと腐れない』ってこと。相手が乗って来なかったら冗談で流せば済むわ」
それは悪意が過ぎるのでは……、と感じたのが伝わってしまったのか、奈津美が嘆息して口を開いた。
「──あの人、さすがに公にはなってないけど前科あるのよ。だから女性だけじゃなくて、男性社員にもちょっと距離置かれてるでしょ? みんな仕事には私情入れないけどさ」
そこまで言われて初めてようやく、確かに課内にはそういう雰囲気があることに思い至る。
あとはあなたの判断だから、と奈津美が葉音の肩を軽く叩いて去って行くのを呆然と見送るしかできなかった。
◇ ◇ ◇
「月が綺麗ですね」
──あの人は、きっと誰にでも同じことを言うんだわ。
そして、簡単に心変わりする。
葉音の心を揺らしたあの台詞など、単なる小道具でしかないのだから。
恋人がいる、……結婚が決まっていることもよく知る女に平然と「知っていれば告白に等しい」台詞を吐ける男が
誠実なわけがない。
結婚して二人で幸せな家庭を、と同じ方向へ進んでいた筈の大切な人を、無意識のうちに蔑ろにしてしまっていた。
やはり自分は愚かで、年齢不相応に幼いのだ。
奈津美に苦言を呈されるまでもなく、自ら危機感を覚えなければならない事態だったのに。
尚登には決して知らせない。
こんなくだらないことで、彼の良さを再認識させられたなどと。
月が綺麗だったあの夜に、葉音は尚登だけではなく己の『恋心』に出逢ったのだ。
突然葉音に舞い降りた恋は、時を経て熟成されこのまま愛に育つのだろう。夫婦として、……家族としての。
おそらくは
揺蕩っていたこの気持ちそのものが、巷でいう「マリッジブルー」というものなのではないか
結婚式は、家族と親しい友人だけの人前式。
「式にお金かけるなら新居と、あとどうせなら旅行の方がよくない? こんな堂々と長期休暇取れる機会ってそうはないよ。葉音ちゃんはどこ行きたい?」
「私、旅行ってあんまり興味なかったから……。尚登さんは? 行きたいところないの?」
「僕も出不精だから別に。でもさ、そういう二人だからこれが最初で最後の旅行になるかもしれないよ? 思い切って二泊や三泊じゃ行けないところにしよう。新婚旅行だから」
結婚を決めて打ち合わせをする中での尚登との会話が、不意に蘇る。
ハネムーン。
Honeymoon、……蜜月。
葉音と尚登の関係には、ことあるごとに『月』が顔を出し切り離せない。
十六夜月夜の運命のような出逢いから、まるで月が二人を追い掛けて来るようだ。
この先一生を共に過ごすなら、いつか彼と本当の
青い月が見られる日も来るかもしれない。
~END~