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校庭の桜

ー/ー




 あれは、雲ひとつない綺麗な星空が、よく見えた夜だった。

 1つ上の先輩が卒業していった3月1日の夜。なんとなく散歩をしたい気分になった私は、ひとりで家を出て、慣れ親しんだ通学路を歩いていた。
 草花のいい匂いが漂う道端で、満開の桜が花びらを散らす。そういえば、学校の校庭に植えられている桜が大きくて綺麗だった。
 ふいにそのことを思い出し、学校へ歩みを進めた。

  真っ暗な敷地で、校舎内の職員室と思われる場所だけ明かりが灯っているのが見える。
 先生たちは今も仕事をしているのか。
 心の中で労いの言葉を唱えながら、そのまま目線を上げて桜を見た。
 静かな校庭で、桜が風と共に奏でる音が心地よい。
 暗い中でも月明かりに照らされる桜は、とても綺麗に見えた。

「……誰かいるのか?」
「えっ」

 桜に見惚れていると、少し離れた位置から声が聞こえてきた。私は驚き、焦りながら声の主を探す。校舎側から歩いてくる黒い人影が見えた。
 だんだんとこちらに近づいてきた人は、ボタンを開けたままのジャケットとネクタイを風になびかせながら、まっすぐ私を見ていた。

「……あ、広瀬(ひろせ)先生」
若狭(わかさ)?」

 厚みのある黒いビジネスバッグを手に持っている広瀬先生は、この学校の国語教師だ。授業でしか関わりはなかったけれど、どうやら私のことは覚えているみたい。
 強い風が私と先生の間を吹き抜け、桜の花びらを散らしていく。ふたりで上を見上げてみると、満天の星空の下で淡い桃色が華麗に舞っていた。

「先生も、桜を見に?」
「……あぁ」

 先生は桜に視線を向けたまま、かけている黒縁眼鏡を押し上げる。そして、どこか遠くを見るような目つきで、小さく言葉を継いだ。

「桜は、咲くのも早いけれど、散るのも早い。だけどその早さが妙に儚くて、切なく思う。特に、可愛い教え子を送り出した後とか。国語教師なのに、毎年この感情だけは、上手く言葉に表せない」

 ——先生が、消えてしまいそう。

 いつの間にか職員室の電気も消えて、敷地内を月明かりだけが照らす。
 その光に照らされる広瀬先生の姿が、私には儚く見えた。

「若狭は何をしていたんだ?」
「私は散歩をしていました。その道中、学校の桜が綺麗なことを思い出して、来てみたんです」
「……そうか」

 気がつくと、私は桜ではなく広瀬先生の横顔を見つめていた。
 先生は、桜が好きらしい。
 この学校に赴任してから、毎年ここで桜を見ているのだと微笑んだ。

 桜と、星空と、先生。
 春の風が吹き抜けていく静かな夜。
 まるで一枚の絵かのような美しい光景に、私は目が離せなかった。




 あの日を境に、私の中で広瀬先生への想いが変わっていった。

 3年生に進級した私の担任は、偶然にも広瀬先生になり、毎日その姿を見ることで、特別な感情が募っていったのだ。
 広瀬先生は何をするにも完璧で、真面目で優しい人だった。
 だけど、楽しむときはしっかりと楽しめる。体育祭や文化祭では、クラスがひとつになれるよう、先生も生徒に混じって本気で関わっていた。

 その姿が私には特別に思えた。
 けれど、それ以上は特に何もなかった。


「——散るさくら 空には夜の 雲(うれ)ふ」

 自身の卒業式を終え、友達たちと別れたあと、桜の木へ向かった。
 胸ポケットで主張する赤いコサージュを一度視界に入れ、そのまま空を仰ぐ。ふいに頭の中をよぎった俳句を呟き、散りゆく桜を眺める。
 今年の開花は例年よりも早かった。そのため散るのも早い。
 その儚さが、妙に寂しくて、哀しくて、心揺さぶられるような気がした——。

「……石田(いしだ)波郷(はきょう)の俳句を呟くには、まだ時間が早い」
「あ……広瀬先生」

 真っ黒な背広に白いネクタイが映える。
 それらをまた風になびかせながら、ゆっくりとこちらに近寄ってきた。

「その俳句は、散っていく桜を惜しむかのように、夜空が曇っているという風景を詠んだものだ」
「知っています」
「知っているのか」

 小さく鼻で笑った広瀬先生が、ゆっくりと空を見上げる。その動きに合わせて、私も空を見上げた。
 桜の花びらが風に乗り、木々は大きな音を立てる。
 去年、夜空の下で見た桜と、何ら変わりない。

「ここの桜、やはりいいな」
「……はい。素敵です」

 個人面談などで、広瀬先生とふたりきりになって話すことももちろんあった。何度もその機会は訪れた。けれど、一度もあの桜を見た日が話題に上がることはなかったのだ。
 去年のあの夜は『なかったこと』になっていたのか。そんなふうに思っていたからこそ、今のこの時間が、何にも代えがたいくらい嬉しく思える。


「……ねぇ、広瀬先生。ずっと、先生のことが好きでした」
「……」
「今も、これからも、私は広瀬先生のことが好きです」

 桜を視界に入れたまま、隣に立つ先生に言葉を投げかける。
 隣を見る勇気がなくて、広瀬先生がどんな表情をしているのかは分からない。
 心臓がうるさいくらいに音を立てる。
 自然と頬が紅潮していく。
 その感情を悟られないように、私は桜から目を逸らさなかった。

「……そうか」

 風の音だけが響く校庭にて、小さく、小さく。風の音に飲み込まれそうなくらい小さな、小さな声だけが聞こえてくる。
 いつもの声量はどこへ行ったのか。
 鳥のさえずりよりも小さく聞こえる声に、私は耳を澄ませ、目を閉じた。

「……ありがとう」

 胸が痛み、涙が一筋零れ落ちる。
 震える一言が、広瀬先生の気持ちをすべて表しているような気がして、私は何も言えなかった。




 それから月日は経ち、また1年後の春。

 なんとなく散歩に出かけ、吸い寄せられるように母校へ向かった。
 桜はちょうど見頃を迎えている。
 通学路だった道にも桜が咲き誇り、幻想的な雰囲気を醸し出していた。

 学校に着き、私は敷地の外から桜の木を眺めた。
 草花のいい匂いが漂うこの場所で、満開の桜が花びらを散らす。
 夜空の下で映える桜の花びらが、綺麗で、美しく思えた。


「——散るさくら 空には夜の 雲愁ふ」
「……え?」
「今こそ、この俳句だろ。何ボケーっと突っ立ってんの?」
「……広瀬先生」

 私が歩いてきた道路の反対側から、私服姿の見慣れた人がやってきた。
 カジュアルな服装に、上げた前髪。だけど、黒縁眼鏡だけはあの頃と変わりない。
 広瀬先生は私の隣に立ち、ゆっくりと空を見上げた。

「……去年、若狭が卒業した後、隣の市に異動となったんだけど、どうしてもこの学校の桜が見たくてね。今日は早めに仕事を切り上げて、やってきたんだ」

 先生は横目で私の方を見て、そのまま桜に視線を戻す。
 そして左手を桜に向かって高く掲げ、ゆっくりと握りしめるような仕草をした。

「若狭、実は最近、結婚したんだ」
「……え?」
「君と出会う前から付き合っていた人がいた。結婚まで考えていた相手だった。正直な話……少しだけ気持ちが揺れ動いた時期があったけどね」
「……」
「あの夜、若狭と見た桜が妙に特別に思えたんだ。教師失格だけど、君の担任になったとき、無性に君のことが気になった。彼女には悪いと分かっていたが、たぶん……あの時は、君に惹かれていたんだと思う」

 ふいに聞かされた話に、心臓が激しく跳ねる。
 締め付けられるように胸が痛み、涙が勝手に零れ落ちた。

 私は先生の方を見ることができなかった。
 上を向き、桜を眺める。けれど、それでも涙が止まらず、自分ではもうどうしようもできない。

「去年、この場所で若狭が告白をしてくれたこと、ほんとうに嬉しかった。あの言葉が、その後どれだけ心に残っていたか、きっと君は知らないだろう」
「……」
「俺の『ありがとう』という言葉に対して、若狭は何も言わなかった。だから、気持ちにけりが付いたんだ。彼女を心から愛そう。そう、思えた」
「……私が何かを言っていたら、未来は変わっていたのですか?」
「……わからない」

 私は何も言えずに、ただ桜を見上げ続けた。胸の奥がぎゅっと締め付けられる感覚がする。それと同時に、涙が止めどなく頬を伝って落ちていく。
 私は大きく息を吸い込み、そのまま吐き出した。
 広瀬先生はひどい人だ。
 聞いてもいないのに結婚しただなんて——そんな話、私が傷つくとわかっているくせに。

 風に乗る草花のいい匂いと一緒に、広瀬先生の匂いもする。
 1年前は香水の甘い匂いがしていたのに、今は洗濯洗剤のような、清潔そうな匂いがしていた。
 その現実がまた、心苦しい。

「……広瀬先生。私、今も好きです」
「若狭……」
「私はこれからも桜を見るたびに、きっとあなたのことを思い出す——」
「……うん」

 先生はそれ以上、何も言わなかった。
 静かに桜を見上げ続け、舞う花びらをひたすら見つめている。

「桜——、今年も綺麗だな」
「……はい」

 より一層の強い風が吹き、桜の花びらが私たちの間を通り過ぎていく。
 交わらなかった想いが、静かに別れを告げるような気がした。

 私は、少しだけ背筋を伸ばす。
 そして、ゆっくりと目を閉じた。

 この春を、きっと忘れない。
 桜が舞う季節こそが、私の心で〝たしかに〟光っていた、紛れもない青春だったから。


「……」


 私はゆっくりと目を開け、そっと横に顔を向ける。


 視界に入ってきたのは、宙を舞うたくさんの桜の花びら。
 その向こうにあったはずの広瀬先生の姿は、もう、どこにもなかった。










春の夜、花びらだけが知っていた   終

 


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 あれは、雲ひとつない綺麗な星空が、よく見えた夜だった。
 1つ上の先輩が卒業していった3月1日の夜。なんとなく散歩をしたい気分になった私は、ひとりで家を出て、慣れ親しんだ通学路を歩いていた。
 草花のいい匂いが漂う道端で、満開の桜が花びらを散らす。そういえば、学校の校庭に植えられている桜が大きくて綺麗だった。
 ふいにそのことを思い出し、学校へ歩みを進めた。
  真っ暗な敷地で、校舎内の職員室と思われる場所だけ明かりが灯っているのが見える。
 先生たちは今も仕事をしているのか。
 心の中で労いの言葉を唱えながら、そのまま目線を上げて桜を見た。
 静かな校庭で、桜が風と共に奏でる音が心地よい。
 暗い中でも月明かりに照らされる桜は、とても綺麗に見えた。
「……誰かいるのか?」「えっ」
 桜に見惚れていると、少し離れた位置から声が聞こえてきた。私は驚き、焦りながら声の主を探す。校舎側から歩いてくる黒い人影が見えた。
 だんだんとこちらに近づいてきた人は、ボタンを開けたままのジャケットとネクタイを風になびかせながら、まっすぐ私を見ていた。
「……あ、|広瀬《ひろせ》先生」
「|若狭《わかさ》?」
 厚みのある黒いビジネスバッグを手に持っている広瀬先生は、この学校の国語教師だ。授業でしか関わりはなかったけれど、どうやら私のことは覚えているみたい。
 強い風が私と先生の間を吹き抜け、桜の花びらを散らしていく。ふたりで上を見上げてみると、満天の星空の下で淡い桃色が華麗に舞っていた。
「先生も、桜を見に?」
「……あぁ」
 先生は桜に視線を向けたまま、かけている黒縁眼鏡を押し上げる。そして、どこか遠くを見るような目つきで、小さく言葉を継いだ。
「桜は、咲くのも早いけれど、散るのも早い。だけどその早さが妙に儚くて、切なく思う。特に、可愛い教え子を送り出した後とか。国語教師なのに、毎年この感情だけは、上手く言葉に表せない」
 ——先生が、消えてしまいそう。
 いつの間にか職員室の電気も消えて、敷地内を月明かりだけが照らす。
 その光に照らされる広瀬先生の姿が、私には儚く見えた。
「若狭は何をしていたんだ?」
「私は散歩をしていました。その道中、学校の桜が綺麗なことを思い出して、来てみたんです」
「……そうか」
 気がつくと、私は桜ではなく広瀬先生の横顔を見つめていた。
 先生は、桜が好きらしい。
 この学校に赴任してから、毎年ここで桜を見ているのだと微笑んだ。
 桜と、星空と、先生。
 春の風が吹き抜けていく静かな夜。
 まるで一枚の絵かのような美しい光景に、私は目が離せなかった。
 あの日を境に、私の中で広瀬先生への想いが変わっていった。
 3年生に進級した私の担任は、偶然にも広瀬先生になり、毎日その姿を見ることで、特別な感情が募っていったのだ。
 広瀬先生は何をするにも完璧で、真面目で優しい人だった。
 だけど、楽しむときはしっかりと楽しめる。体育祭や文化祭では、クラスがひとつになれるよう、先生も生徒に混じって本気で関わっていた。
 その姿が私には特別に思えた。
 けれど、それ以上は特に何もなかった。
「——散るさくら 空には夜の 雲|愁《うれ》ふ」
 自身の卒業式を終え、友達たちと別れたあと、桜の木へ向かった。
 胸ポケットで主張する赤いコサージュを一度視界に入れ、そのまま空を仰ぐ。ふいに頭の中をよぎった俳句を呟き、散りゆく桜を眺める。
 今年の開花は例年よりも早かった。そのため散るのも早い。
 その儚さが、妙に寂しくて、哀しくて、心揺さぶられるような気がした——。
「……|石田《いしだ》|波郷《はきょう》の俳句を呟くには、まだ時間が早い」
「あ……広瀬先生」
 真っ黒な背広に白いネクタイが映える。
 それらをまた風になびかせながら、ゆっくりとこちらに近寄ってきた。
「その俳句は、散っていく桜を惜しむかのように、夜空が曇っているという風景を詠んだものだ」
「知っています」
「知っているのか」
 小さく鼻で笑った広瀬先生が、ゆっくりと空を見上げる。その動きに合わせて、私も空を見上げた。
 桜の花びらが風に乗り、木々は大きな音を立てる。
 去年、夜空の下で見た桜と、何ら変わりない。
「ここの桜、やはりいいな」
「……はい。素敵です」
 個人面談などで、広瀬先生とふたりきりになって話すことももちろんあった。何度もその機会は訪れた。けれど、一度もあの桜を見た日が話題に上がることはなかったのだ。
 去年のあの夜は『なかったこと』になっていたのか。そんなふうに思っていたからこそ、今のこの時間が、何にも代えがたいくらい嬉しく思える。
「……ねぇ、広瀬先生。ずっと、先生のことが好きでした」
「……」
「今も、これからも、私は広瀬先生のことが好きです」
 桜を視界に入れたまま、隣に立つ先生に言葉を投げかける。
 隣を見る勇気がなくて、広瀬先生がどんな表情をしているのかは分からない。
 心臓がうるさいくらいに音を立てる。
 自然と頬が紅潮していく。
 その感情を悟られないように、私は桜から目を逸らさなかった。
「……そうか」
 風の音だけが響く校庭にて、小さく、小さく。風の音に飲み込まれそうなくらい小さな、小さな声だけが聞こえてくる。
 いつもの声量はどこへ行ったのか。
 鳥のさえずりよりも小さく聞こえる声に、私は耳を澄ませ、目を閉じた。
「……ありがとう」
 胸が痛み、涙が一筋零れ落ちる。
 震える一言が、広瀬先生の気持ちをすべて表しているような気がして、私は何も言えなかった。
 それから月日は経ち、また1年後の春。
 なんとなく散歩に出かけ、吸い寄せられるように母校へ向かった。
 桜はちょうど見頃を迎えている。
 通学路だった道にも桜が咲き誇り、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
 学校に着き、私は敷地の外から桜の木を眺めた。
 草花のいい匂いが漂うこの場所で、満開の桜が花びらを散らす。
 夜空の下で映える桜の花びらが、綺麗で、美しく思えた。
「——散るさくら 空には夜の 雲愁ふ」
「……え?」
「今こそ、この俳句だろ。何ボケーっと突っ立ってんの?」
「……広瀬先生」
 私が歩いてきた道路の反対側から、私服姿の見慣れた人がやってきた。
 カジュアルな服装に、上げた前髪。だけど、黒縁眼鏡だけはあの頃と変わりない。
 広瀬先生は私の隣に立ち、ゆっくりと空を見上げた。
「……去年、若狭が卒業した後、隣の市に異動となったんだけど、どうしてもこの学校の桜が見たくてね。今日は早めに仕事を切り上げて、やってきたんだ」
 先生は横目で私の方を見て、そのまま桜に視線を戻す。
 そして左手を桜に向かって高く掲げ、ゆっくりと握りしめるような仕草をした。
「若狭、実は最近、結婚したんだ」
「……え?」
「君と出会う前から付き合っていた人がいた。結婚まで考えていた相手だった。正直な話……少しだけ気持ちが揺れ動いた時期があったけどね」
「……」
「あの夜、若狭と見た桜が妙に特別に思えたんだ。教師失格だけど、君の担任になったとき、無性に君のことが気になった。彼女には悪いと分かっていたが、たぶん……あの時は、君に惹かれていたんだと思う」
 ふいに聞かされた話に、心臓が激しく跳ねる。
 締め付けられるように胸が痛み、涙が勝手に零れ落ちた。
 私は先生の方を見ることができなかった。
 上を向き、桜を眺める。けれど、それでも涙が止まらず、自分ではもうどうしようもできない。
「去年、この場所で若狭が告白をしてくれたこと、ほんとうに嬉しかった。あの言葉が、その後どれだけ心に残っていたか、きっと君は知らないだろう」
「……」
「俺の『ありがとう』という言葉に対して、若狭は何も言わなかった。だから、気持ちにけりが付いたんだ。彼女を心から愛そう。そう、思えた」
「……私が何かを言っていたら、未来は変わっていたのですか?」
「……わからない」
 私は何も言えずに、ただ桜を見上げ続けた。胸の奥がぎゅっと締め付けられる感覚がする。それと同時に、涙が止めどなく頬を伝って落ちていく。
 私は大きく息を吸い込み、そのまま吐き出した。
 広瀬先生はひどい人だ。
 聞いてもいないのに結婚しただなんて——そんな話、私が傷つくとわかっているくせに。
 風に乗る草花のいい匂いと一緒に、広瀬先生の匂いもする。
 1年前は香水の甘い匂いがしていたのに、今は洗濯洗剤のような、清潔そうな匂いがしていた。
 その現実がまた、心苦しい。
「……広瀬先生。私、今も好きです」
「若狭……」
「私はこれからも桜を見るたびに、きっとあなたのことを思い出す——」
「……うん」
 先生はそれ以上、何も言わなかった。
 静かに桜を見上げ続け、舞う花びらをひたすら見つめている。
「桜——、今年も綺麗だな」
「……はい」
 より一層の強い風が吹き、桜の花びらが私たちの間を通り過ぎていく。
 交わらなかった想いが、静かに別れを告げるような気がした。
 私は、少しだけ背筋を伸ばす。
 そして、ゆっくりと目を閉じた。
 この春を、きっと忘れない。
 桜が舞う季節こそが、私の心で〝たしかに〟光っていた、紛れもない青春だったから。
「……」
 私はゆっくりと目を開け、そっと横に顔を向ける。
 視界に入ってきたのは、宙を舞うたくさんの桜の花びら。
 その向こうにあったはずの広瀬先生の姿は、もう、どこにもなかった。
春の夜、花びらだけが知っていた   終