折れて地面に転がった聖剣クトネシスを見た勇斗は、途端に動悸が激しくなった。
これまで一度も、刃こぼれすらしなかった聖剣が、あっさりと折られた。信じられない気持ちに支配される。
着地の瞬間、衝撃が貫いた。ギナスの拳が、勇斗の脇腹をえぐっていた。
血と砕けた鎧の破片を撒き散らしながら、勇斗の体は宙を舞い、地面を転がった。
「もう終わりか? 大したことねぇな、勇者ってやつもよ」
ギナスは、葉巻の煙をくゆらせながら笑った。
勇斗は、ドラシガーを強く噛み、よろよろと立ち上がった。足を前に出す。
「ほう、あれだけ吹き飛ばされても、葉巻だけは離さないか。やるじゃねぇか」
ギナスの笑い声が遠くに聞こえる。
勇斗は煙を吸い、痛みを和らげたあと、眉間にしわを寄せた。
さらに煙を吸い込む。落ち着け、まだ戦える。
しかし、この状況、どうする? 聖剣クトネシスは時間が経てば修復する。それまで逃げ回るか。いや、もし剣が復活しても、再度折られてしまうかもしれない。
勇斗は、倒れているミュールをちらりと見た。時間がない。焦燥感に追い立てられる。
瞬間、勇斗の脳内に声が響いた。
――ぼかぁの力は、剣だけに宿るもんじゃないんだなぁ。
――せ、聖剣は折られようとも、わ、わたしたちは、あなたと一心同体なんです!
――あなたの体内には、ルークから受け継がれたラマシルが存在します。ルークの戦い方は、すでにあなたの中にあります。
大精霊たちの声だった。
そうか。これまで傷の治りが早かったのも、戦闘時の体の使い方やマナの使い方がわかったのも、自分の中にラマシルが宿っていたからなんだ。
ルークは、剣なしでも戦っていた。それなら――
勇斗は目を閉じ、煙を深く吸い、吐いた。体内のラマシルが脈動し、戦闘エネルギーが全身に満ちていく。
今、頼るものは、剣ではなく、自分の肉体――
勇斗はゆっくりと目を開いた。敵を見据え、構えを取る。
「拳で来るか。ハッ、上等だ」
一瞬の静寂の後、二人は同時に地を蹴った。
緑煙を纏った勇斗が、一気に距離を詰める。ルークの体に刻まれた格闘術――それが、思考を超えて体を動かす。
右ストレート、左掌底、膝蹴り。拳と脚には、大地と風の精霊術が付与されている。土煙が舞い、地面が砕ける。
「やるねぇ」
ギナスの拳が飛ぶ。勇斗は仰け反って回避。呼吸、重心、気配――相手のすべてが手に取るように読めた。
反撃。回し蹴りからの三連撃。
人を殴ったり蹴ったりするのは初めてだった。人を絶対に殴っちゃだめ、と母に言われた記憶が蘇る。そんなルールは、この世界では通用しない。自分が生きるため、他人を守るためには、甘いことなど言っている暇なんてない。
勇斗はギナスの攻撃を寸前でかわしつつ、攻撃を繰り出す。巨体を一気に貫けるわけではない。だが、一撃一撃が確実にギナスの筋肉を揺らしていた。
「いいじゃねぇか。スマートだ」
ギナスは、楽しそうだった。
「じゃあ、こっちも反撃といくか」
ギナスの右フックが、勇斗の頬に直撃した。ゴキッという衝撃と共に、ドラシガーと数本の歯が宙を舞う。
「ぐっ、ぅう――」
地面を転がった勇斗は、すぐに起き上がり、二本目のドラシガーを取り出した。素早く火を灯し、咥える。
煙を一気に吸い込み、吐く。マナが全身を駆け巡る。ドラシガーの三分の一が瞬く間に燃え尽きた。
脚に炎を纏わせ、爆発的な勢いで跳び上がった勇斗は、ギナスの首元に灼熱のハイキックを叩き込んだ。
「グウウウゥッ」
ギナスがよろめく。
勇斗はすかさず着地し、大地の精霊術を拳に集中。渾身の掌底を放つ。
「オオォォッ!!」
一撃が、ギナスの腹部に炸裂した。ギナスの体は弾き飛び、廃屋に激突。瓦礫が崩れ、白い煙を噴き出している葉巻が地面に転がった。
勇斗は、淡い緑色の煙を吐く。ドラシガーの長さはすでに半分以下になっていた。
「いいねぇ――ゾクゾクする」
ギナスが、瓦礫を払いのけて立ち上がる。まだ、倒れてないのか――
勇斗は再び構える。
「楽しくて仕方がねぇぜ。さぁ、第二ラウンドだッ!」
ギナスが咆哮し、突進してきた。反応がやや遅れたが、寸前で攻撃を防ぐことができた。
拳と拳がぶつかる。
時間がない。早くこの戦いを終わらせなくては、ミュールが危ない。
勇斗は、煙を深く鋭く吸いこむ。
刹那、視界がぐにゃりと歪んだ。頭に鋭い痛みが走る。呼吸が荒くなる。
ドラシガーの煙を過剰摂取すると、ラマシルの制御が難しくなり、体に負担がかかる――コタが言っていた言葉が脳裏をよぎった。
「オラァァァァッ!」
しまっ――
ギナスの怒涛の連撃が、勇斗を襲う。拳、膝、肘、蹴り――全てが鋭く命中した。身を包んでいる鎧に次々とひびが入る。
「ぁ、がふっ」
背中から地面に叩きつけられた。金属が一気に砕け散る音。ドラシガーが口から飛び、地面に転がる。
「ああ、惜しいな。あと一歩だったのにな」
ギナスの掌底が、勇斗の胸を打ち砕く。
「ゴフッ――」
肺が圧迫され、一瞬呼吸が止まった。
「命令なんかどうでもいい。オレ様を楽しませてくれた礼だ。受け取れ」
勇斗の顔が掴まれ、全身が宙に持ち上げられる。
「ふんっ」
鈍い音。
顎の骨を折られた勇斗は、再び地面に叩きつけられた。
ギナスは翼を広げ、空高く上昇。そして急降下。
勢いのついた拳が、勇斗の腹に突き刺さる。
「グッ――ゴハァァァッ!」
勢いよく血が吐き出され、意識が遠のく。
「さて、終わりにするか……ん?」
ギナスの足元に、どす黒い影が出現した。無数の黒い手が、彼の両足を掴む。
「チィッ――誰の仕業だァァァ!?」
叫びが響いた瞬間、ギナスの体は闇へと沈んだ。
静寂が訪れる。
ぽつり、と雨が落ちる。
血に染まった勇斗の体に、冷たい雨が容赦なく降り注いだ――
勇斗は、石の上に寝かされていた。石をくり抜いて作られた、簡素な寝台だった。形は簡素だが、動物の毛皮が敷かれている。
上体を起こし、周囲を見回す。壁はむきだしの岩肌。天井は低い。天井近くの岩棚に置かれた瓶の中で、灯りが揺れている。
洞窟の中だろうか。助かったのか?
部屋の隅には、綺麗に修復された聖剣クトネシスと精霊器ラクメトが静かに佇んでいた。
「ぐっ――」
体を動かした途端、全身が悲鳴を上げるように痛んだ。身体中が包帯で覆われている。見張りの塔で目を覚ましたときと、よく似ていた。あのときは、ミュールが入ってきたっけ。
そうだ、ミュールは無事なのか?
激しい痛みに耐えながら、勇斗はベッドから降りた。
精霊器ラクメトに取り付けられているマントに手を伸ばし、ドラシガーを取り出す。左手にガントレットをはめ、ドラシガーに火をつけた。
しばらく、ドラシガーを燻らせる。痛みが和らぎ、徐々に力が戻ってくる。
部屋の外へ出ると、わずかに傾斜のある岩の通路が続いていた。
どこかから、人の話し声が聞こえてくる。勇斗はふらつく足取りで、声の方へと向かった。
途中、布で仕切られた小部屋を見つける。そっと覗くと、ランパとチカップの姿が見えた。
「みんな!」
勇斗の声に、二人がこちらを振り向く。
「ユート!」
ランパが飛びついてきた。目が潤んでいる。
「目が覚めたんスね。よかったっス」
チカップも安堵の息を漏らし、微笑んだ。
「ここは、どこ?」
「モッケ族の集落から少し離れた避難所っスよ。里の生き残りが暮らしてる場所らしいっス」
チカップの話によれば、瀕死だった自分とミュールは、避難所にいたモッケ族たちに救助され、ここに運び込まれたという。
「オイラの応急措置が間に合わなかったら、二人とも、もうダメだった」
ランパが眉をひそめた。
「じゃあ、ミュールも無事なんだよね?」
勇斗が前のめりな姿勢になる。
わずかな沈黙のあと、チカップは視線を伏せ、手を強く握りしめた。
「無事……とは、言い切れないっス」
曖昧な返答に、不安が広がる。
「来てくれ、ユート」
ランパのあとに続き、奥の部屋へと足を運んだ。
石のベッドの上で、ミュールは横たわっていた。全身に包帯が巻かれ、うっすらと血がにじんでいる。呼吸はかすかに確認できるが、声をかけても反応はなかった。胸の奥が、重く沈んだ。
「オイラの精霊術じゃ、治せなかった」
ランパが悔しそうに顔を歪める。
「もう、目を覚まさないの?」
「わからねぇ。あとは、ワンコの気力次第だ」
「そう――か」
そのとき、甲高い声が響いた。
「ユート!」
ソーマが駆け寄ってくる。頬が濡れていた。
「目を覚まして、よかったですわ! あいつにやられそうになったとき、わたくし、もう頭がおかしくなりそうでして」
彼女はその場に膝をつき、両手で顔を覆った。
勇斗は、何も言えず、ただ撫でることしかできなかった。
「ユート、モッケ族の族長が、呼んでるっス。最深部にある集会所まで来てほしいって」
チカップの声に、勇斗は小さく頷いた。
岩の通路を五分ほど進むと、天井の高い大広間に出た。そこが集会所だった。
広い空間には、老若男女のモッケ族が身を寄せ合っていた。低く話し込む者。横たわる者。虚ろな目をした者。誰の瞳にも、喪失の影が沈んでいた。
「きみが、勇者ユートか」
背後から、低く重い声が響いた。
振り向くと、大柄なモッケ族の男が立っていた。逞しい肉体と鋭い眼光。一目で、戦士とわかる佇まいだった。
「あなたは――」
「族長のウォルゼだ。きみのことは、オル族の少年から聞いている。息子が世話になったようだな」
「息子って、ミュールのことですか?」
ウォルゼは、黙ってうなずいた。
「あいつが、あんな有様になった経緯を聞かせてくれ」
勇斗は、ギナスとの戦いを包み隠さず語った。ミュールの弟がギナスに殺されたことも話した。途中、何度か言葉に詰まりそうになったが、何とか最後まで伝えきった。
「――大馬鹿者め」
ウォルゼが唸るように言った。
「冷静さを欠き、一人で突っ込むなど、戦士として最低の判断だ」
「僕が、止めていれば――」
勇斗の悲痛な嘆きがこぼれる。
「責任を負うな。あれは、あいつ自身の意思だ。自分のけじめのために動いたのだ」
勇斗は、言い返せなかった。
「息子は、もうきみたちと旅を続けることはできん。今の状態では、全快するまでにかなりの時間がかかる。私はあいつを、モッケ族の聖域へ連れていくつもりだ。治療に専念させる」
ウォルゼはわずかに目を伏せたのち、静かに言葉を続けた。
「――きみは、きみの使命を果たせ。勇者ユート」
踵を返したウォルゼは、集会所の奥へと消えていった。
翌朝。勇斗たちは、避難所から少し歩いた先にある高台に立っていた。曇天の空。その隙間から、わずかに陽の光が差し込んでいる。淡い光が、廃墟となったモッケ族の里を静かに照らしていた。
ミュールは、結局目を覚まさなかった。その体は、ウォルゼの腕に抱えられ、モッケ族の聖域と呼ばれる場所へと運ばれていった。
「もう、ワンコのメシ、食べられねぇんだな」
うなだれたランパが、ぽつりと呟いた。
そのとき、ランパの手に握られていた精霊樹の枝が、鋭く光を放った。彼方へと、まっすぐな光線を描く。
「あの方角は――コルーン地方っスね。確か、雪原地帯っス」
行くっスよ、と言ったチカップは、ミュールが使っていた大きなリュックを背負った。ずっしりと重そうだ。
「何入ってんスか、これ」
ボヤくように言いながらも、彼の体はしっかりとリュックを支えていた。
「ユート、どうしましたの?」
ソーマが勇斗に声をかける。
「僕は――勇者として、未熟すぎた」
後悔せず、生きて元の世界に戻るためには、今のままではいけない。次は、誰も置いていかない。
勇斗は顎を上げ、空を見上げながら、拳をぎゅっと握りしめた。