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第百三十六話

ー/ー



 そこは、どこか戦乱の中。当人にその場所は分からず、しかしそれでいて嫌な記憶が蘇る。その記憶の通りなら、この後、『彼女』は負けてしまう。
 女はその場に倒れ伏していたはずなのに、前へ進むことを決め、走り出したのだ。
 連絡用デバイスも駄目になり、魔力も底を付き。今まさにその場へ向かう体も傷だらけ。それでも、行きつく未来を止めたくて。守りたい存在を庇いたくて。
「どこ……どこにいるの!?」
 女は、自身の体を一切労わろうとしない。酷く傷ついているはずなのに、必死でその場で叫んだと思ったら、また全速力で走りだす。しかし戦火揺らめく中、肺はやられそうで、さらに劫火燃え盛る中女の声は届かない。
 どこまで走ろうと、目的の存在は見つからず。代わりに自分ばかりが火傷等の傷を負う。
 次第に、視界が暗くなり始めた。一酸化炭素中毒になり、意識が朦朧とし始めたのだ。
 進む足も鈍くなり始め。肺は焼け。
 どこまで行ったとしても自分は『そこ』に辿り着くことすら叶わず、自身の無力感をただその身で味わうのみ。
 誰の姿も見つけることは叶わず。自分はそんな火事の現場で倒れ伏していた。そんなひとしきりの絶望を味わった後。

 女は――――そこで目が覚めた。

 午前五時半、エヴァ一人が暮らす、彼女の寮にて。
 アラーム鳴りやまぬ中、エヴァは汗だくの状態で目を覚ます。酷い夢を見たような気がする、そんな心からの喪失感を味わいつつも、その正体は分からず。
 無意識ではあるが、天井に手を伸ばしていた。何を求めて宙に左手を伸ばしていたのか。その正体を無意識下で悟った瞬間、彼女はその左手で顔を口惜しそうに覆うのだった。
 何度、あの悪夢を見ただろうか。誰であれ、大切な存在はいるだろうが、エヴァにももちろん存在する。礼安と、今の仲間たちと、あと一人。
 ずっと、ずっと。彼女の中で『その時』は反芻し、乱反射し続ける。彼女の意志など関係なしに、心のわだかまりとしてそこにあり続ける。まるで、当人の行動すべてを縛り付ける楔のように。
 シャツを脱ぎ、体中の汗を拭う。季節は夏、夢など見る見ない以前に、寝汗を掻くもの。上半身のみ一糸纏わぬ姿となったものの、今の彼女には気にする相手が存在しない。
 「エヴァ=クリストフのせいで」。ずっと、彼女の中に残り続ける呪いの言葉。
「――――お風呂、入らなきゃ。まだ……時間には余裕があるし」

 風呂場に向かう道すがら、上裸だったのにも拘らず、下着すら道中で脱ぎ捨て、一糸纏わぬ姿となる。これらを片付けるには、明日の自分に任せる以外ない。礼安に対して気にする要素はあるのだが、自分のこととなると、とんと無頓着に。
 エヴァの寮は、現在一人のみ。普通なら、礼安と院のように、一軒家の寮に二人以上が住むことは校則によって確定している。しかし、エヴァに関してはある程度『便宜』が図られた結果、たった一人で生活をしている。しかし、生活能力は皆無に等しいため、最初バーベキューを行ったときにも判明したが軽いゴミ屋敷状態にあった。
 その便宜が図られた理由は。同じ寮に住んでいた相棒が、ある日突如として行方不明となったから。
 相棒がいたころは、こんな悲惨な部屋ではなかった。何故なら、相棒が無類の掃除好きかつお人よしであったからこそ。そしてエヴァは何もしていない訳ではなかったものの、優れた武器を作り上げ英雄学園の地力を上げ貢献。
 礼安に嫁ぐなら、ある程度の花嫁修業は必要だろうが……今のエヴァにそんな気力はない。やりたいという意識は先行しているが、何をしたらいいか分からないのだ。数学を極めよう、という人間が、四則演算すらできていないのと同じようなものである。原理が分からないのだ。
 無気力に風呂場の扉を開け、自堕落にシャワーを浴びる。廊下に脱ぎ捨てた衣服は知らない。それこそが、相棒がこの学園を去り、礼安がこの学園にやってくるまでの固定ムーブであった。今でも、最悪の記憶が蘇るたびに、これほど自堕落になっているのだ。
 安物のシャンプーを頭で乱暴に泡立てながら、鏡に映る彼女の表情は、実に物鬱げ。礼安たちと接しているときは負担にならない程度に猫をかぶり、明るく振舞ってはいるが、彼女の心の底にはいまだ闇が巣食っていたのだ。
 ゆえに、未だ本当の彼女を知る者はいない。行方不明となった、相棒以外に。
(――今日は、礼安さんたちと慰安旅行だ。合同演習会の記憶は『なぜか』一部抜け落ちているけど……大騒ぎになった上に酷く傷ついた礼安さんを……心配させないようにしないと)
 手櫛をしつつ、静かに流していく。ある程度頭を振って水を乱暴に払ったら、リンスで腰ほどまである長い髪全体をケアしていく。しかし、かなり大雑把であった。それでそこまでの美貌、美しい髪を保てている方が凄いものである。
 ボディーソープを手に取り、タオルを使わず手で泡立て、体の各所を丁寧に洗っていく。
 エヴァ自身、武器の設計、製作に時間を割くことが多く、二日三日、何ならば一週間ほど風呂に入らないことはままある話。こうして朝から風呂に入るというのは、夏場でない限り、そして何かしら粒だった用事が無い限り、そう有り得ない話である。礼安たちのために体を清めているといっても過言ではない。
 彼女のおかげで、エヴァは希死念慮を抱くことは少なくなった。かつての自分が嫌になったタイミングでそういった思考が蘇るものの、それでも礼安がいなかったときと比べると、見違えて変化が生まれたのだ。
 全てを洗い流し、鏡に映る自分に示すよう、頬を一回張って気合を入れる。
「――今回の慰安旅行、礼安さんを癒してみせる。頑張れ、私!」
 恋、というものは当人の原動力として、実に理に適ったものである。その感情を認識したのち、盲目になるような存在はこの世にごまんと存在するが、それでもあらゆる行動を起こす上で重要な燃料となる。走り出したら止まらないのだ。
 しかし。こんな恋する乙女であるエヴァの立ち居振る舞いが、約一時間後の電話一本でほぼ無意味なものと成り果てることとなる。
 その電話主は、あろうことか礼安本人。その声は、非常に悲しそうなものだった。



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 そこは、どこか戦乱の中。当人にその場所は分からず、しかしそれでいて嫌な記憶が蘇る。その記憶の通りなら、この後、『彼女』は負けてしまう。
 女はその場に倒れ伏していたはずなのに、前へ進むことを決め、走り出したのだ。
 連絡用デバイスも駄目になり、魔力も底を付き。今まさにその場へ向かう体も傷だらけ。それでも、行きつく未来を止めたくて。守りたい存在を庇いたくて。
「どこ……どこにいるの!?」
 女は、自身の体を一切労わろうとしない。酷く傷ついているはずなのに、必死でその場で叫んだと思ったら、また全速力で走りだす。しかし戦火揺らめく中、肺はやられそうで、さらに劫火燃え盛る中女の声は届かない。
 どこまで走ろうと、目的の存在は見つからず。代わりに自分ばかりが火傷等の傷を負う。
 次第に、視界が暗くなり始めた。一酸化炭素中毒になり、意識が朦朧とし始めたのだ。
 進む足も鈍くなり始め。肺は焼け。
 どこまで行ったとしても自分は『そこ』に辿り着くことすら叶わず、自身の無力感をただその身で味わうのみ。
 誰の姿も見つけることは叶わず。自分はそんな火事の現場で倒れ伏していた。そんなひとしきりの絶望を味わった後。
 女は――――そこで目が覚めた。
 午前五時半、エヴァ一人が暮らす、彼女の寮にて。
 アラーム鳴りやまぬ中、エヴァは汗だくの状態で目を覚ます。酷い夢を見たような気がする、そんな心からの喪失感を味わいつつも、その正体は分からず。
 無意識ではあるが、天井に手を伸ばしていた。何を求めて宙に左手を伸ばしていたのか。その正体を無意識下で悟った瞬間、彼女はその左手で顔を口惜しそうに覆うのだった。
 何度、あの悪夢を見ただろうか。誰であれ、大切な存在はいるだろうが、エヴァにももちろん存在する。礼安と、今の仲間たちと、あと一人。
 ずっと、ずっと。彼女の中で『その時』は反芻し、乱反射し続ける。彼女の意志など関係なしに、心のわだかまりとしてそこにあり続ける。まるで、当人の行動すべてを縛り付ける楔のように。
 シャツを脱ぎ、体中の汗を拭う。季節は夏、夢など見る見ない以前に、寝汗を掻くもの。上半身のみ一糸纏わぬ姿となったものの、今の彼女には気にする相手が存在しない。
 「エヴァ=クリストフのせいで」。ずっと、彼女の中に残り続ける呪いの言葉。
「――――お風呂、入らなきゃ。まだ……時間には余裕があるし」
 風呂場に向かう道すがら、上裸だったのにも拘らず、下着すら道中で脱ぎ捨て、一糸纏わぬ姿となる。これらを片付けるには、明日の自分に任せる以外ない。礼安に対して気にする要素はあるのだが、自分のこととなると、とんと無頓着に。
 エヴァの寮は、現在一人のみ。普通なら、礼安と院のように、一軒家の寮に二人以上が住むことは校則によって確定している。しかし、エヴァに関してはある程度『便宜』が図られた結果、たった一人で生活をしている。しかし、生活能力は皆無に等しいため、最初バーベキューを行ったときにも判明したが軽いゴミ屋敷状態にあった。
 その便宜が図られた理由は。同じ寮に住んでいた相棒が、ある日突如として行方不明となったから。
 相棒がいたころは、こんな悲惨な部屋ではなかった。何故なら、相棒が無類の掃除好きかつお人よしであったからこそ。そしてエヴァは何もしていない訳ではなかったものの、優れた武器を作り上げ英雄学園の地力を上げ貢献。
 礼安に嫁ぐなら、ある程度の花嫁修業は必要だろうが……今のエヴァにそんな気力はない。やりたいという意識は先行しているが、何をしたらいいか分からないのだ。数学を極めよう、という人間が、四則演算すらできていないのと同じようなものである。原理が分からないのだ。
 無気力に風呂場の扉を開け、自堕落にシャワーを浴びる。廊下に脱ぎ捨てた衣服は知らない。それこそが、相棒がこの学園を去り、礼安がこの学園にやってくるまでの固定ムーブであった。今でも、最悪の記憶が蘇るたびに、これほど自堕落になっているのだ。
 安物のシャンプーを頭で乱暴に泡立てながら、鏡に映る彼女の表情は、実に物鬱げ。礼安たちと接しているときは負担にならない程度に猫をかぶり、明るく振舞ってはいるが、彼女の心の底にはいまだ闇が巣食っていたのだ。
 ゆえに、未だ本当の彼女を知る者はいない。行方不明となった、相棒以外に。
(――今日は、礼安さんたちと慰安旅行だ。合同演習会の記憶は『なぜか』一部抜け落ちているけど……大騒ぎになった上に酷く傷ついた礼安さんを……心配させないようにしないと)
 手櫛をしつつ、静かに流していく。ある程度頭を振って水を乱暴に払ったら、リンスで腰ほどまである長い髪全体をケアしていく。しかし、かなり大雑把であった。それでそこまでの美貌、美しい髪を保てている方が凄いものである。
 ボディーソープを手に取り、タオルを使わず手で泡立て、体の各所を丁寧に洗っていく。
 エヴァ自身、武器の設計、製作に時間を割くことが多く、二日三日、何ならば一週間ほど風呂に入らないことはままある話。こうして朝から風呂に入るというのは、夏場でない限り、そして何かしら粒だった用事が無い限り、そう有り得ない話である。礼安たちのために体を清めているといっても過言ではない。
 彼女のおかげで、エヴァは希死念慮を抱くことは少なくなった。かつての自分が嫌になったタイミングでそういった思考が蘇るものの、それでも礼安がいなかったときと比べると、見違えて変化が生まれたのだ。
 全てを洗い流し、鏡に映る自分に示すよう、頬を一回張って気合を入れる。
「――今回の慰安旅行、礼安さんを癒してみせる。頑張れ、私!」
 恋、というものは当人の原動力として、実に理に適ったものである。その感情を認識したのち、盲目になるような存在はこの世にごまんと存在するが、それでもあらゆる行動を起こす上で重要な燃料となる。走り出したら止まらないのだ。
 しかし。こんな恋する乙女であるエヴァの立ち居振る舞いが、約一時間後の電話一本でほぼ無意味なものと成り果てることとなる。
 その電話主は、あろうことか礼安本人。その声は、非常に悲しそうなものだった。