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直子

ー/ー



 作った夕食をトレイに載せる。朝食はやはり食べてくれていなかった。昼食用にと一緒に置いておいたお金も手つかずのままだ。
 今日は部屋から一歩も出ていないのだろうか。いや、そんなはずはない。トイレにはさすがに一回は行ったはずだ。ドアの前に置かれた料理も、お金も、そのときにきっと目にしているだろう。なのにどちらにも手を付けていないということは、やはりあの子は私を拒絶しているのだろうか。
 料理の載ったトレイを手に持とうとし、思い直してやめた。なにも持たずに階段を上る。暗い廊下は静寂に満ちている。一つ深呼吸をして、部屋のドアをノックした。
「由佳、起きてる? お母さんいま帰ってきたんだけど、その……よかったら、一緒に夜ごはん、食べない?」
 返事は返ってこない。まるで中に誰もいないかのように静かだ。あの子は普段、部屋の中で何をして過ごしているのだろう。昔から、あまり外に出て遊ぼうとしない子だった。家の中で絵を描いたりして過ごしていることが多かった。一度、自作の漫画を見せてもらったこともある。小さな男の子や女の子が活躍する話で、よく書けてるねと褒めてやると、嬉しそうに笑っていた。
 思い出の中の由佳の笑顔が脳裏に甦る。思い出せる笑顔は全て、あの子がまだ小学生だったときのもの。この二年間のあの子の笑った顔を脳内に浮かべることはできない。
 今の由佳は、どんなふうに笑うんだろう。どんなふうに泣き、どんなふうに怒るのだろう。今のあの子のことを私は何も知らない。知らないのは、知ろうとしなかったからだ。こうして昔のあの子のことを思い出すばかりで、いま現在の由佳を正面から見ようとしなかった。美化された思い出に縋り、直視すべき現実から逃げ続けて。自分の中に閉じこもっていたのは、私のほうだ。
「由佳」
 もう一度、呼びかける。返事は返ってこない。けれど、私は続けた。
「由佳、ごめんね。お母さん、これまでちゃんと由佳のことを見てあげようとしなかった。中学に上がってから、学校から帰ってきた由佳がどこか暗い顔をしてるのを、気づいてたのに、気づかないふりをしてた。今では、すごく後悔してる。あのときもっと由佳の話を聞いてあげられてたら……もっと、由佳のそばにいてあげられてたらって。……由佳はきっと、お母さんのことが信用できなくなっちゃったのよね? ごめんね、由佳。お母さん、本当に……心から、反省してる。……ねえ、由佳。今からじゃ、もう遅いかな? あなたの辛いこと、苦しんでること……何でもいい、私に聞かせてほしいの。今のあなたのこと、私に教えて」
 言い終わるとすぐに、しんとした静寂が辺りを包んだ。……駄目か。やっぱり、あの子は私を――
 と、そのとき、部屋の中から微かに物音がした。その音はゆっくりと、しかし確かにこちらに近づいてくる。
「由佳……」
 思わず、ドアノブに手を触れようとする。すると先に中からガチャリと音がし、私たちの間を隔てていた板がゆっくりと開かれた。
「お母さん……」
 目の前に、由佳が立っていた。その姿をしっかりと捉えたいのに、目に溢れるものがそれを邪魔していた。
「由佳――」
 かけたい言葉は、話したいことはたくさんあるはずなのに、言葉はそれ以上続かない。すると、おずおずと私を見上げた由佳が先に口を開いた。
「お母さん、あのね、……向かいの家の人、子どもを……誘拐、してるかも……」


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 作った夕食をトレイに載せる。朝食はやはり食べてくれていなかった。昼食用にと一緒に置いておいたお金も手つかずのままだ。
 今日は部屋から一歩も出ていないのだろうか。いや、そんなはずはない。トイレにはさすがに一回は行ったはずだ。ドアの前に置かれた料理も、お金も、そのときにきっと目にしているだろう。なのにどちらにも手を付けていないということは、やはりあの子は私を拒絶しているのだろうか。
 料理の載ったトレイを手に持とうとし、思い直してやめた。なにも持たずに階段を上る。暗い廊下は静寂に満ちている。一つ深呼吸をして、部屋のドアをノックした。
「由佳、起きてる? お母さんいま帰ってきたんだけど、その……よかったら、一緒に夜ごはん、食べない?」
 返事は返ってこない。まるで中に誰もいないかのように静かだ。あの子は普段、部屋の中で何をして過ごしているのだろう。昔から、あまり外に出て遊ぼうとしない子だった。家の中で絵を描いたりして過ごしていることが多かった。一度、自作の漫画を見せてもらったこともある。小さな男の子や女の子が活躍する話で、よく書けてるねと褒めてやると、嬉しそうに笑っていた。
 思い出の中の由佳の笑顔が脳裏に甦る。思い出せる笑顔は全て、あの子がまだ小学生だったときのもの。この二年間のあの子の笑った顔を脳内に浮かべることはできない。
 今の由佳は、どんなふうに笑うんだろう。どんなふうに泣き、どんなふうに怒るのだろう。今のあの子のことを私は何も知らない。知らないのは、知ろうとしなかったからだ。こうして昔のあの子のことを思い出すばかりで、いま現在の由佳を正面から見ようとしなかった。美化された思い出に縋り、直視すべき現実から逃げ続けて。自分の中に閉じこもっていたのは、私のほうだ。
「由佳」
 もう一度、呼びかける。返事は返ってこない。けれど、私は続けた。
「由佳、ごめんね。お母さん、これまでちゃんと由佳のことを見てあげようとしなかった。中学に上がってから、学校から帰ってきた由佳がどこか暗い顔をしてるのを、気づいてたのに、気づかないふりをしてた。今では、すごく後悔してる。あのときもっと由佳の話を聞いてあげられてたら……もっと、由佳のそばにいてあげられてたらって。……由佳はきっと、お母さんのことが信用できなくなっちゃったのよね? ごめんね、由佳。お母さん、本当に……心から、反省してる。……ねえ、由佳。今からじゃ、もう遅いかな? あなたの辛いこと、苦しんでること……何でもいい、私に聞かせてほしいの。今のあなたのこと、私に教えて」
 言い終わるとすぐに、しんとした静寂が辺りを包んだ。……駄目か。やっぱり、あの子は私を――
 と、そのとき、部屋の中から微かに物音がした。その音はゆっくりと、しかし確かにこちらに近づいてくる。
「由佳……」
 思わず、ドアノブに手を触れようとする。すると先に中からガチャリと音がし、私たちの間を隔てていた板がゆっくりと開かれた。
「お母さん……」
 目の前に、由佳が立っていた。その姿をしっかりと捉えたいのに、目に溢れるものがそれを邪魔していた。
「由佳――」
 かけたい言葉は、話したいことはたくさんあるはずなのに、言葉はそれ以上続かない。すると、おずおずと私を見上げた由佳が先に口を開いた。
「お母さん、あのね、……向かいの家の人、子どもを……誘拐、してるかも……」