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直子

ー/ー



 朝食の載ったトレイをドアの前に置いた。
 中からは何の物音も聞こえてこない。まだ寝ているのだろうか。
由佳(ゆか)。朝ごはん、お部屋の前に置いておくからね」
 試しにそう声をかけてみた。反応はない。やはりまだ寝ているのかもしれない。それとも単に(わたし)と会話をしたくないだけなのか。
 娘の由佳が学校に行かなくなってから、この五月でちょうど二年になる。当時中学一年生だった由佳が暗い顔をして学校から帰ってきたのがゴールデンウィーク前最後の平日。それから連休が始まり、休みが明けても由佳は学校に行こうとはしなかった。はっきりとした原因のわからないまま彼女の不登校は続き、今ではトイレのとき以外ほとんど部屋から出てこない。
「それじゃお母さん、仕事行ってくるね」
 閉じられたドアに向かって言い、部屋の前を後にした。あの子に「いってらっしゃい」と最後に言ってもらえたのはいつになるだろう。あの子の「いってきます」の声を聞いたのも――。
 外に出ると、ちょうど向かいの家から藤田(ふじた)さんが出てくるところだった。向こうも私に気が付き、おはようございます、挨拶を交わす。そのまま駅まで一緒に行く流れになった。
 藤田さんは四年ほど前にうちの向かいに引っ越してきた。当時は奥さんも一緒で、きちんと熨斗(のし)の付いた菓子折りを持って挨拶に来てくれたことをよく覚えている。年齢はたしか四十前後のはずだが、見た目は若々しく、三十代前半くらいに見える。
 天気の話や連休をどう過ごしたかといったような、ありきたりな話題を取り交わしながら駅に向かって歩く。するとそこへ後ろから賑やかな声が聞こえてきた。色とりどりのランドセルが私たちを颯爽と追い抜いていく。彼らを避けるため、一時的に道の端に追いやられるような形になる。
「大丈夫ですか?」
 藤田さんに声をかけられ、大丈夫です、と返事を返す。小学生たちを避けようとした際、道の凹凸に躓いて少しよろけてしまったのだ。
「道が狭いんですよね」藤田さんが言った。「この道って、通学路でしたっけ?」
「いえ、通学路ではないんですけど、この道を通ると学校までの近道になるみたいで」
 由佳が小学生のころ、同級生の中にはここを遊び場にしている子たちもいるという話を聞いたことがある。幅が狭く日当たりの悪い細道は、子どもたちにとっては隠れ家みたいな感覚なのだろうか。
「でも、危ないですよね。今みたいなこともあるし、最近は物騒な事件もあるから」
 話の流れから、藤田さんの言う「物騒な事件」が何を指しているのかはすぐにわかった。連続児童誘拐殺人事件。少し前から世間を騒がせている凶悪な事件だ。たしかに、日中も人通りの少ないこの道は、犯人にとって格好の「狩り場」になり得るだろう。
五十嵐(いがらし)さんのようにお子さんのいる家庭は、毎日気が休まらないですよね」
「……まあ、うちの子は、もう大きいですから」
 もちろん、これまでの被害者がみな小学校低学年の児童だったからといって、中学生がその標的にならないと決まっているわけではない。けれどそれ以前に、そもそも不登校で部屋に引きこもっている状態の我が子がその被害に遭うことは、やはり考えづらかった。
 藤田さんとはその後もとりとめのない会話をしながら駅まで歩いた。「それじゃ、お仕事頑張ってください」と反対側のホームに向かう彼に、「はい、藤田さんも」と手を振り返す。
 ホームへと続く階段を上っていくその背中を、少しの間、見つめていた。


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 朝食の載ったトレイをドアの前に置いた。
 中からは何の物音も聞こえてこない。まだ寝ているのだろうか。
「|由佳《ゆか》。朝ごはん、お部屋の前に置いておくからね」
 試しにそう声をかけてみた。反応はない。やはりまだ寝ているのかもしれない。それとも単に|私《わたし》と会話をしたくないだけなのか。
 娘の由佳が学校に行かなくなってから、この五月でちょうど二年になる。当時中学一年生だった由佳が暗い顔をして学校から帰ってきたのがゴールデンウィーク前最後の平日。それから連休が始まり、休みが明けても由佳は学校に行こうとはしなかった。はっきりとした原因のわからないまま彼女の不登校は続き、今ではトイレのとき以外ほとんど部屋から出てこない。
「それじゃお母さん、仕事行ってくるね」
 閉じられたドアに向かって言い、部屋の前を後にした。あの子に「いってらっしゃい」と最後に言ってもらえたのはいつになるだろう。あの子の「いってきます」の声を聞いたのも――。
 外に出ると、ちょうど向かいの家から|藤田《ふじた》さんが出てくるところだった。向こうも私に気が付き、おはようございます、挨拶を交わす。そのまま駅まで一緒に行く流れになった。
 藤田さんは四年ほど前にうちの向かいに引っ越してきた。当時は奥さんも一緒で、きちんと|熨斗《のし》の付いた菓子折りを持って挨拶に来てくれたことをよく覚えている。年齢はたしか四十前後のはずだが、見た目は若々しく、三十代前半くらいに見える。
 天気の話や連休をどう過ごしたかといったような、ありきたりな話題を取り交わしながら駅に向かって歩く。するとそこへ後ろから賑やかな声が聞こえてきた。色とりどりのランドセルが私たちを颯爽と追い抜いていく。彼らを避けるため、一時的に道の端に追いやられるような形になる。
「大丈夫ですか?」
 藤田さんに声をかけられ、大丈夫です、と返事を返す。小学生たちを避けようとした際、道の凹凸に躓いて少しよろけてしまったのだ。
「道が狭いんですよね」藤田さんが言った。「この道って、通学路でしたっけ?」
「いえ、通学路ではないんですけど、この道を通ると学校までの近道になるみたいで」
 由佳が小学生のころ、同級生の中にはここを遊び場にしている子たちもいるという話を聞いたことがある。幅が狭く日当たりの悪い細道は、子どもたちにとっては隠れ家みたいな感覚なのだろうか。
「でも、危ないですよね。今みたいなこともあるし、最近は物騒な事件もあるから」
 話の流れから、藤田さんの言う「物騒な事件」が何を指しているのかはすぐにわかった。連続児童誘拐殺人事件。少し前から世間を騒がせている凶悪な事件だ。たしかに、日中も人通りの少ないこの道は、犯人にとって格好の「狩り場」になり得るだろう。
「|五十嵐《いがらし》さんのようにお子さんのいる家庭は、毎日気が休まらないですよね」
「……まあ、うちの子は、もう大きいですから」
 もちろん、これまでの被害者がみな小学校低学年の児童だったからといって、中学生がその標的にならないと決まっているわけではない。けれどそれ以前に、そもそも不登校で部屋に引きこもっている状態の我が子がその被害に遭うことは、やはり考えづらかった。
 藤田さんとはその後もとりとめのない会話をしながら駅まで歩いた。「それじゃ、お仕事頑張ってください」と反対側のホームに向かう彼に、「はい、藤田さんも」と手を振り返す。
 ホームへと続く階段を上っていくその背中を、少しの間、見つめていた。