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5-8・それはきっと、16歳の少女の心からの叫びだったのだろう。

ー/ー



 初めて訪れた美穂ちゃんの家は都内の住宅街にあるマンションの一室だった。ご両親は共働きで家を空けているらしく、今部屋には彼女と俺しかいない。
「それで、私を捕まえてまで話したいことってなんなんですか」
 不機嫌丸出しのご様子で美穂ちゃんが自室のベッドに座る。俺は床に座っている。
 空気悪いな。そうさせたのは他でもない俺自身だから仕方ないけど。
「奈保ちゃんから聞いたよ。美穂ちゃんの身体のこと」
 端的に告げると、美穂ちゃんは険しい表情から一転して複雑な表情を浮かべた。
「よく知らないで無神経なことを言って、美穂ちゃんを傷つけてたんだね。ごめん」
 続けて俺は頭を下げる。謝ったからといってどうにかなることではないけれど、それでも、ここはしっかり言わなければならない。
 俺は美穂ちゃんを見ているだけだった。可愛い女の子、変わった女の子、明るい女の子。そういうラベルを貼ってずっと外側を眺めているだけで、彼女の中身を見ようとしなかったのだ。
 がっついてると思われたくなくて、自分で一線を引いて大人のふりをしていた。
 俺がもっと、初めの頃から美穂ちゃんの中身を見るようにしていれば、どうして眠れないのか有耶無耶にしていなかったら、もっと早く彼女のことを知れたかもしれないのだ。
 今の状況は俺が招いたものだ。めんどくさがった結果、美穂ちゃんを傷つけてしまった。
「……別に、いいんです」
 頭を下げていると、絞り出すような彼女の声が聴こえてくる。
 頭をあげると、美穂ちゃんの目の輝きは消え失せていて、どこか寂しそうな顔をしていた。
「私のことなんて、どうせ誰にも理解されないので。別に、無理して謝らなくてもいいです」
 ハァッとため息を吐く美穂ちゃん。自分の身体について、理解されないことへの悲しみというより、諦めのような感情が見受けられる。
 俺はスクっと立ち上がり、彼女の足元まできてまた座り込む。
「美穂ちゃんが眠れなくなったのは病気のせいなんだろ?」
 彼女を一身に見つめながらそう訊ねると、美穂ちゃんは自分の身体を抱きしめ、目を伏せた。
「数か月前、君は学校を休んだ。月一の定期健診じゃなくて、普通に。鼻血が出たんだってね」
 数日前に奈保ちゃんから聞いた話を俺は語る。伏せていた彼女がピクッと反応する。
 俺は相手のリアクションを逐一観察しながら話を進めていく。
「最初聞いた時はなんで鼻血くらいで学校をって思ったよ。でも実際は違った。ただ鼻血が出ただけじゃなかったんだね」
 顔を覗き込むように小首を傾げる。しかし美穂ちゃんはなにも言わない。
「夜中に地震があった。このベッドのヘッドボードにスマホを置いて寝ていて、地震のせいでスマホが落ちてきた。しかも運悪く顔に。でも君は痛みを感じないから、起きなかった」
 初めて無痛症の話を聞いた時、俺は正直ほんの少しだけ便利かもなんて思った。
 でも実際は違う。生きていくうえで、痛みを感じないなんて苦痛でしかない。
「スマホが顔に落ちてきて、鼻にぶつかって、当たり所が悪かったみたいで鼻血を出した。だけど君は起きない。朝になって起きたとき、鼻から下、胸の辺りまで血まみれだったらしいね」
 もしも俺が同じ状況に陥っていたとしたら、冷静ではいられないだろう。なにか良くないことが起きた。そもそもどこから血が出ているのか。なぜ途中で気付かなかったのか。なにもかも分からなくなって、パニックに陥るはず。
 そしてそれは美穂ちゃんも同じだった。お母さんはなんとか娘を落ち着かせ、その日は大事をとって休ませたらしい。血を拭きとってハイ終わりというわけにはいかなかったのだろう。
 美穂ちゃんの反応を窺う。あのときのことを思い出しているのか、どこか怯えているかのように身体を震わせていた。
「君が眠れなくなったのは、それからだ。いや、正確にはその日の夜から……ねぇ美穂ちゃん。君は、見たんじゃないのか?」
 震えている彼女に触れる。自分を抱きしめている右手に俺は手を重ね、問いかける。
 すると彼女は血色の悪い顔をこちらに向けてようやく口を開いた。
「見たって、なにをですか」
「夢だよ。あのときの光景。自分が鼻から血を流して倒れてるところを夢に見なかった?」
 目を大きく見開き、息を呑む彼女。どうしてそれを知ってるのか。そんな表情で見てきたので、俺はフッと微笑みかけた。
 そりゃあ知ってるよ。分かってる。だって俺もそうだったから。
 あの日、高校生チャンピオンになったのに、まだ名前が売れてない海外から来たプレイヤーに負けた。それもただ負けたんじゃない。こてんぱんにされた。
 あのときのことを夢に見ていた。入らないサーブ、あっさりと抜かれるパス、不意を突いたはずなのに返されるショット。キラキラと光り輝く相手と汗だくになってもがいている自分をコートの外から見ている。
 もうやめてくれと叫ぶのに、夢の中の自分はちっとも諦めない。
 無理やり意識を覚醒させると、そこには呼吸が乱れて汗だくの自分がいる。また目をつぶればあの夢の世界へ落ちていくような気がして、もう眠ることなんてできなかった。
「……こわいんです」
 美穂ちゃんが俺の手を握る。ポタポタと涙がこぼれ落ち、彼女の太ももに落ちる。
「寝ている間に物が倒れたり、窓が割れたり、火事が起きたり、知らない人が部屋に入り込んできて乱暴してきたり、そんなこと起きないって分かってるのに、でも怖いんです。だって私は! 痛みを感じないから!」
 涙をこぼしながら美穂ちゃんが語る。あまりにも突拍子のない出来事だ。だけど、偶然によって怪我をした彼女はもはやそれが絶対に起こらないとは思えない。
 痛みを感じないということは、恐怖を感じないことではない。むしろ、痛みを感じないからこそ、彼女は未知のものに対して敏感に恐怖を感じているのだ。
「私が安心して眠れる場所なんて、この世界のどこにもない! 家に帰ったときも、寝る前と起きた後にも、自分の身体を鏡で見てどこも怪我してないか確認して、毎日毎日! なんで私だけこんなことしなきゃいけないの! 私だって、皆みたいに何も考えずベッドに入りたい!」
 それはきっと、16歳の少女の心からの叫びだったのだろう。
 彼女はずっと、我慢していた。生まれ持ったものだったから、彼女のために気をもむ人達がいたから――なにより、言ったってどうせ誰も理解してくれないから。
 明日部美穂はずっと、理解されないという痛みに晒されて生きてきたのだ。
「……痛みは我慢しないでいいんだよ、美穂ちゃん」
 俺は立ち上がり、彼女の隣に腰掛ける。手で顔を覆ってさめざめと泣く彼女の肩に手を置く。
「自分の気持ちは、ちゃんと訴えていいんだ。そういう気持ちをため込んでいくと、結局息詰まって、破裂して、萎んでいく。だからちゃんと、吐き出すんだ」
「……吐き出して、それでなにが変わるの。変えられないでしょ。なんの意味もない」
「意味はあるよ。どうにかなる」
「どうにか!? どうにかなるってなに!? なら日之太さんに私のことがどうにかできるの!? 私に気付かなかったくせに!」
 泣きながら怒りを露にする美穂ちゃん。俺が伸ばした腕を肩から払いのけようとする。
 だが俺は決して手を離さない。むしろさっきよりも強く、痛いくらいに力を込めて肩を掴む。
「俺と一緒に寝ればいい」
 ただ一言、オレンジ色の瞳を見つめ、そう口にする。
 あまりにも単純なその言葉に、美穂ちゃんは呆気にとられた表情を浮かべ――と思ったらキッと鋭い目で睨んで怒り出した。
「なにそれ! そんなことが解決方法!?」
「寝てるときなにかあっても俺の方が身体デカいから、怪我をするのは俺が先。で、美穂ちゃんが怪我する前に俺がなんとかする」
「なんとかって、1週間とか1ヶ月の話じゃないんだよ。ここ最近ずっとなの。ヘタしたらこれからずっとかもしれない」
「じゃあ毎日一緒に寝ればいい。美穂ちゃんが1人でも眠れる日がくるまで一緒に寝るよ」
 俺の淡々とした口調での反論に、美穂ちゃんは再び言葉を失う。顔が赤くなったまま、俺が掴んでいる肩を見て、キッと鋭い目で見上げてくる。
「そんなこと、できるわけない。私にも日之太さんにも生活があるのに。私がなにかの事情で遠くに行ったときはどうするつもり?」
「俺もついてく。それか、寝るときだけ美穂ちゃんの傍にいるよ」
「いい加減なこと言わないで。大体、付き合ってもないのにそんなことするのおかしい」
「じゃあ付き合えばいいよ」
 俺の返事に美穂ちゃんは「はぁ?」と大きな声を出し、やがてなにを言われたのか理解したようで、カーっと耳まで顔を赤くした。
「付き合えばいいって、そんな適当な言い方っ」
「適当なんかじゃない」
 グイっと掴んだ肩を寄せ、彼女の手を掴む。オレンジ色の瞳を見つめ、俺は続ける。
「美穂ちゃんのおかげで、俺は人間になれたんだよ。俺と美穂ちゃんは、違う生き物だった。テニスを失って、それでも当たり前に過ぎる日々が憎くて、なにも残ってない自分が虚しくて、俺はずっと自分が嫌いだった。だから誰かと付き合っても長く続かなかった。自分のことなんてどうでもよかったから、相手のことなんてもっとどうでもよかったんだ」
 俺は無味乾燥な存在だった。だから勝手にレッテルを貼られて、自分を下げられて、挙句の果てにフラれても傷つかなかった。傷ついているふりをしていた。
 人生に意義を見出したくて、だけどなにも見つからなくて、空虚な日々を送っていたんだ。
「だけど美穂ちゃんに出会った。なにも持ってない俺を、君は必要だと言ってくれた。それが嬉しくてたまらなくて、俺は君が悩んでることなんて無視してしまった。愚かだった。なにも見えてなかった。君が泣いてる顔を見て初めてひとりよがりなことに気がついた。これからはちゃんと向き合うよ。だから……また一緒に俺と寝てほしい」
 ジッと、美穂ちゃんを見つめる。数日前からずっと考えていた言葉だ。ちゃんと伝えたくて何度も頭の中で繰り返した。
 それを今まっすぐに伝えることができた。あとは彼女を抱きしめてあげるだけ――
「そんなのダメ」
 彼女を引き寄せようとしたところで止められた。
 グイっと、身体全体で肩を押され、俺達の間に距離ができる。
 時間が止まる。いきなり拒否されて俺はどうすることもできず呆けるだけ。
「日之太さんのことは好き。でも私の病気のことでこれ以上迷惑かけたくない」
「お、俺は迷惑だなんて、思ったことないよ」
「私はあるの。迷惑かけてるって。だからもういいの。もう……」
 美穂ちゃんが言葉を溜める。やめてくれ。それ以上言うな。その言葉だけは聞きたくない。
「一緒にいたくない」
 2人の距離がやたら遠くに感じた。いけると思ったのに、説得できたと思ったのに、俺ではやはり彼女を引き留めることはできないのだろうか。
 だめだ、ここで黙ったら終わりだ。でもどうする。なにを言えばいい。どうすれば、彼女はこっちを向いてくれるんだ。これ以上なにを言えば――
「……それは、なんていうか、こ、困る」
 咄嗟に出てきたのはただの弱音だった。力なく項垂れて、ガリガリと頭を搔く。
「は? なに……言ってるの? 困る?」
「うん、困る。なんていうか、嫌だ。俺は美穂ちゃんのこと好きだから、一緒にいたい」
「……日之太さん? なんなの?」
 美穂ちゃんが首を傾げながら俺を覗く。分かってる。自分でも変なこと言ってる。でも仕方がない。もうこれしかないんだ。着飾った言葉はもう使ってしまったから、素直に今の俺の気持ちを伝えるしかない。
 俺はなんとか顔をあげ、距離を詰めた。
「俺には美穂ちゃんが必要なんだよ」
 手を伸ばし彼女の腕を掴む。離れないように、逃げないように、強く握りしめた。
 美穂ちゃんがまた泣きそうな顔をする。あぁ、この顔は嫌だ。泣きたいのはこっちなのに。
「美穂ちゃんが隣で寝ているとき、俺は穏やかな時間を過ごせた。ここにいていいんだって思えた。少しずつだけど、自分のことが好きになれた。もう、手放したくないんだ」
「……私が、一緒にいたくないって本当に思ってても?」
「それでも。美穂ちゃんには悪いけど受け入れてほしい。本当に俺のことが好きなら」
 まずい、普通に泣きそうだ。これじゃあ泣き落としじゃないか。
 グッと鼻に力を込めて泣くのを我慢する。瞬きしないように目を見開いて彼女を見つめる。
 やがて、美穂ちゃんは目を伏せてふるふると首を横に振った。
「……るい」
 ボソッと美穂ちゃんがなにか呟く。俺は「え?」と言って眉間に皺を寄せ、耳をそばだてる。
「ごめん美穂ちゃん。今なんて――」
「日之太さんずるい! 私はダメって言ってるのに、泣きながら迫るなんてずるい!」
「えっ、いや、別に泣いてるわけじゃ――」
「泣いてるから! さっきまであんな強気だったのに! 急にしょぼんってして! 私に泣きついて! 捨てないでって! そんな、そんなカッコ悪いところ見せつけて……」
 見せつけてないし、捨てないでとは言ってないんだけど。とは言える雰囲気じゃなかった。
 なんだろう、上手くいったのか。もうなにがなんだか分からなくなってきたぞ。
「私が、日之太さんのカッコつけてるところより、カッコ悪いところ好きなの知ってるからって、ほんとひどい。絶対全部分かっててやってるでしょ。絶対そう。そういうとこほんと……ほんとに、大人の男の人みたい……」
 泣きながら美穂ちゃんが俺に抱き着いてきた。ただそのハグは感極まってというよりも、まるで小さな子供を放っておけないみたいな、そんな心配からのハグだった。
 いやだから、大人の男の人なんだよ。なんて言いたかったけどやめた。もういいや。
 どうにも綺麗に決まらなくて情けない限りだが、ひとまず彼女は泣きついてくれたのだ。それで十分だろう。
 抱き着いてきた美穂ちゃんを、俺は抱きしめ返す。何も言わずただそうしていると、やがて胸の中から彼女の寝息が聴こえてきた。


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「それで、私を捕まえてまで話したいことってなんなんですか」
 不機嫌丸出しのご様子で美穂ちゃんが自室のベッドに座る。俺は床に座っている。
 空気悪いな。そうさせたのは他でもない俺自身だから仕方ないけど。
「奈保ちゃんから聞いたよ。美穂ちゃんの身体のこと」
 端的に告げると、美穂ちゃんは険しい表情から一転して複雑な表情を浮かべた。
「よく知らないで無神経なことを言って、美穂ちゃんを傷つけてたんだね。ごめん」
 続けて俺は頭を下げる。謝ったからといってどうにかなることではないけれど、それでも、ここはしっかり言わなければならない。
 俺は美穂ちゃんを見ているだけだった。可愛い女の子、変わった女の子、明るい女の子。そういうラベルを貼ってずっと外側を眺めているだけで、彼女の中身を見ようとしなかったのだ。
 がっついてると思われたくなくて、自分で一線を引いて大人のふりをしていた。
 俺がもっと、初めの頃から美穂ちゃんの中身を見るようにしていれば、どうして眠れないのか有耶無耶にしていなかったら、もっと早く彼女のことを知れたかもしれないのだ。
 今の状況は俺が招いたものだ。めんどくさがった結果、美穂ちゃんを傷つけてしまった。
「……別に、いいんです」
 頭を下げていると、絞り出すような彼女の声が聴こえてくる。
 頭をあげると、美穂ちゃんの目の輝きは消え失せていて、どこか寂しそうな顔をしていた。
「私のことなんて、どうせ誰にも理解されないので。別に、無理して謝らなくてもいいです」
 ハァッとため息を吐く美穂ちゃん。自分の身体について、理解されないことへの悲しみというより、諦めのような感情が見受けられる。
 俺はスクっと立ち上がり、彼女の足元まできてまた座り込む。
「美穂ちゃんが眠れなくなったのは病気のせいなんだろ?」
 彼女を一身に見つめながらそう訊ねると、美穂ちゃんは自分の身体を抱きしめ、目を伏せた。
「数か月前、君は学校を休んだ。月一の定期健診じゃなくて、普通に。鼻血が出たんだってね」
 数日前に奈保ちゃんから聞いた話を俺は語る。伏せていた彼女がピクッと反応する。
 俺は相手のリアクションを逐一観察しながら話を進めていく。
「最初聞いた時はなんで鼻血くらいで学校をって思ったよ。でも実際は違った。ただ鼻血が出ただけじゃなかったんだね」
 顔を覗き込むように小首を傾げる。しかし美穂ちゃんはなにも言わない。
「夜中に地震があった。このベッドのヘッドボードにスマホを置いて寝ていて、地震のせいでスマホが落ちてきた。しかも運悪く顔に。でも君は痛みを感じないから、起きなかった」
 初めて無痛症の話を聞いた時、俺は正直ほんの少しだけ便利かもなんて思った。
 でも実際は違う。生きていくうえで、痛みを感じないなんて苦痛でしかない。
「スマホが顔に落ちてきて、鼻にぶつかって、当たり所が悪かったみたいで鼻血を出した。だけど君は起きない。朝になって起きたとき、鼻から下、胸の辺りまで血まみれだったらしいね」
 もしも俺が同じ状況に陥っていたとしたら、冷静ではいられないだろう。なにか良くないことが起きた。そもそもどこから血が出ているのか。なぜ途中で気付かなかったのか。なにもかも分からなくなって、パニックに陥るはず。
 そしてそれは美穂ちゃんも同じだった。お母さんはなんとか娘を落ち着かせ、その日は大事をとって休ませたらしい。血を拭きとってハイ終わりというわけにはいかなかったのだろう。
 美穂ちゃんの反応を窺う。あのときのことを思い出しているのか、どこか怯えているかのように身体を震わせていた。
「君が眠れなくなったのは、それからだ。いや、正確にはその日の夜から……ねぇ美穂ちゃん。君は、見たんじゃないのか?」
 震えている彼女に触れる。自分を抱きしめている右手に俺は手を重ね、問いかける。
 すると彼女は血色の悪い顔をこちらに向けてようやく口を開いた。
「見たって、なにをですか」
「夢だよ。あのときの光景。自分が鼻から血を流して倒れてるところを夢に見なかった?」
 目を大きく見開き、息を呑む彼女。どうしてそれを知ってるのか。そんな表情で見てきたので、俺はフッと微笑みかけた。
 そりゃあ知ってるよ。分かってる。だって俺もそうだったから。
 あの日、高校生チャンピオンになったのに、まだ名前が売れてない海外から来たプレイヤーに負けた。それもただ負けたんじゃない。こてんぱんにされた。
 あのときのことを夢に見ていた。入らないサーブ、あっさりと抜かれるパス、不意を突いたはずなのに返されるショット。キラキラと光り輝く相手と汗だくになってもがいている自分をコートの外から見ている。
 もうやめてくれと叫ぶのに、夢の中の自分はちっとも諦めない。
 無理やり意識を覚醒させると、そこには呼吸が乱れて汗だくの自分がいる。また目をつぶればあの夢の世界へ落ちていくような気がして、もう眠ることなんてできなかった。
「……こわいんです」
 美穂ちゃんが俺の手を握る。ポタポタと涙がこぼれ落ち、彼女の太ももに落ちる。
「寝ている間に物が倒れたり、窓が割れたり、火事が起きたり、知らない人が部屋に入り込んできて乱暴してきたり、そんなこと起きないって分かってるのに、でも怖いんです。だって私は! 痛みを感じないから!」
 涙をこぼしながら美穂ちゃんが語る。あまりにも突拍子のない出来事だ。だけど、偶然によって怪我をした彼女はもはやそれが絶対に起こらないとは思えない。
 痛みを感じないということは、恐怖を感じないことではない。むしろ、痛みを感じないからこそ、彼女は未知のものに対して敏感に恐怖を感じているのだ。
「私が安心して眠れる場所なんて、この世界のどこにもない! 家に帰ったときも、寝る前と起きた後にも、自分の身体を鏡で見てどこも怪我してないか確認して、毎日毎日! なんで私だけこんなことしなきゃいけないの! 私だって、皆みたいに何も考えずベッドに入りたい!」
 それはきっと、16歳の少女の心からの叫びだったのだろう。
 彼女はずっと、我慢していた。生まれ持ったものだったから、彼女のために気をもむ人達がいたから――なにより、言ったってどうせ誰も理解してくれないから。
 明日部美穂はずっと、理解されないという痛みに晒されて生きてきたのだ。
「……痛みは我慢しないでいいんだよ、美穂ちゃん」
 俺は立ち上がり、彼女の隣に腰掛ける。手で顔を覆ってさめざめと泣く彼女の肩に手を置く。
「自分の気持ちは、ちゃんと訴えていいんだ。そういう気持ちをため込んでいくと、結局息詰まって、破裂して、萎んでいく。だからちゃんと、吐き出すんだ」
「……吐き出して、それでなにが変わるの。変えられないでしょ。なんの意味もない」
「意味はあるよ。どうにかなる」
「どうにか!? どうにかなるってなに!? なら日之太さんに私のことがどうにかできるの!? 私に気付かなかったくせに!」
 泣きながら怒りを露にする美穂ちゃん。俺が伸ばした腕を肩から払いのけようとする。
 だが俺は決して手を離さない。むしろさっきよりも強く、痛いくらいに力を込めて肩を掴む。
「俺と一緒に寝ればいい」
 ただ一言、オレンジ色の瞳を見つめ、そう口にする。
 あまりにも単純なその言葉に、美穂ちゃんは呆気にとられた表情を浮かべ――と思ったらキッと鋭い目で睨んで怒り出した。
「なにそれ! そんなことが解決方法!?」
「寝てるときなにかあっても俺の方が身体デカいから、怪我をするのは俺が先。で、美穂ちゃんが怪我する前に俺がなんとかする」
「なんとかって、1週間とか1ヶ月の話じゃないんだよ。ここ最近ずっとなの。ヘタしたらこれからずっとかもしれない」
「じゃあ毎日一緒に寝ればいい。美穂ちゃんが1人でも眠れる日がくるまで一緒に寝るよ」
 俺の淡々とした口調での反論に、美穂ちゃんは再び言葉を失う。顔が赤くなったまま、俺が掴んでいる肩を見て、キッと鋭い目で見上げてくる。
「そんなこと、できるわけない。私にも日之太さんにも生活があるのに。私がなにかの事情で遠くに行ったときはどうするつもり?」
「俺もついてく。それか、寝るときだけ美穂ちゃんの傍にいるよ」
「いい加減なこと言わないで。大体、付き合ってもないのにそんなことするのおかしい」
「じゃあ付き合えばいいよ」
 俺の返事に美穂ちゃんは「はぁ?」と大きな声を出し、やがてなにを言われたのか理解したようで、カーっと耳まで顔を赤くした。
「付き合えばいいって、そんな適当な言い方っ」
「適当なんかじゃない」
 グイっと掴んだ肩を寄せ、彼女の手を掴む。オレンジ色の瞳を見つめ、俺は続ける。
「美穂ちゃんのおかげで、俺は人間になれたんだよ。俺と美穂ちゃんは、違う生き物だった。テニスを失って、それでも当たり前に過ぎる日々が憎くて、なにも残ってない自分が虚しくて、俺はずっと自分が嫌いだった。だから誰かと付き合っても長く続かなかった。自分のことなんてどうでもよかったから、相手のことなんてもっとどうでもよかったんだ」
 俺は無味乾燥な存在だった。だから勝手にレッテルを貼られて、自分を下げられて、挙句の果てにフラれても傷つかなかった。傷ついているふりをしていた。
 人生に意義を見出したくて、だけどなにも見つからなくて、空虚な日々を送っていたんだ。
「だけど美穂ちゃんに出会った。なにも持ってない俺を、君は必要だと言ってくれた。それが嬉しくてたまらなくて、俺は君が悩んでることなんて無視してしまった。愚かだった。なにも見えてなかった。君が泣いてる顔を見て初めてひとりよがりなことに気がついた。これからはちゃんと向き合うよ。だから……また一緒に俺と寝てほしい」
 ジッと、美穂ちゃんを見つめる。数日前からずっと考えていた言葉だ。ちゃんと伝えたくて何度も頭の中で繰り返した。
 それを今まっすぐに伝えることができた。あとは彼女を抱きしめてあげるだけ――
「そんなのダメ」
 彼女を引き寄せようとしたところで止められた。
 グイっと、身体全体で肩を押され、俺達の間に距離ができる。
 時間が止まる。いきなり拒否されて俺はどうすることもできず呆けるだけ。
「日之太さんのことは好き。でも私の病気のことでこれ以上迷惑かけたくない」
「お、俺は迷惑だなんて、思ったことないよ」
「私はあるの。迷惑かけてるって。だからもういいの。もう……」
 美穂ちゃんが言葉を溜める。やめてくれ。それ以上言うな。その言葉だけは聞きたくない。
「一緒にいたくない」
 2人の距離がやたら遠くに感じた。いけると思ったのに、説得できたと思ったのに、俺ではやはり彼女を引き留めることはできないのだろうか。
 だめだ、ここで黙ったら終わりだ。でもどうする。なにを言えばいい。どうすれば、彼女はこっちを向いてくれるんだ。これ以上なにを言えば――
「……それは、なんていうか、こ、困る」
 咄嗟に出てきたのはただの弱音だった。力なく項垂れて、ガリガリと頭を搔く。
「は? なに……言ってるの? 困る?」
「うん、困る。なんていうか、嫌だ。俺は美穂ちゃんのこと好きだから、一緒にいたい」
「……日之太さん? なんなの?」
 美穂ちゃんが首を傾げながら俺を覗く。分かってる。自分でも変なこと言ってる。でも仕方がない。もうこれしかないんだ。着飾った言葉はもう使ってしまったから、素直に今の俺の気持ちを伝えるしかない。
 俺はなんとか顔をあげ、距離を詰めた。
「俺には美穂ちゃんが必要なんだよ」
 手を伸ばし彼女の腕を掴む。離れないように、逃げないように、強く握りしめた。
 美穂ちゃんがまた泣きそうな顔をする。あぁ、この顔は嫌だ。泣きたいのはこっちなのに。
「美穂ちゃんが隣で寝ているとき、俺は穏やかな時間を過ごせた。ここにいていいんだって思えた。少しずつだけど、自分のことが好きになれた。もう、手放したくないんだ」
「……私が、一緒にいたくないって本当に思ってても?」
「それでも。美穂ちゃんには悪いけど受け入れてほしい。本当に俺のことが好きなら」
 まずい、普通に泣きそうだ。これじゃあ泣き落としじゃないか。
 グッと鼻に力を込めて泣くのを我慢する。瞬きしないように目を見開いて彼女を見つめる。
 やがて、美穂ちゃんは目を伏せてふるふると首を横に振った。
「……るい」
 ボソッと美穂ちゃんがなにか呟く。俺は「え?」と言って眉間に皺を寄せ、耳をそばだてる。
「ごめん美穂ちゃん。今なんて――」
「日之太さんずるい! 私はダメって言ってるのに、泣きながら迫るなんてずるい!」
「えっ、いや、別に泣いてるわけじゃ――」
「泣いてるから! さっきまであんな強気だったのに! 急にしょぼんってして! 私に泣きついて! 捨てないでって! そんな、そんなカッコ悪いところ見せつけて……」
 見せつけてないし、捨てないでとは言ってないんだけど。とは言える雰囲気じゃなかった。
 なんだろう、上手くいったのか。もうなにがなんだか分からなくなってきたぞ。
「私が、日之太さんのカッコつけてるところより、カッコ悪いところ好きなの知ってるからって、ほんとひどい。絶対全部分かっててやってるでしょ。絶対そう。そういうとこほんと……ほんとに、大人の男の人みたい……」
 泣きながら美穂ちゃんが俺に抱き着いてきた。ただそのハグは感極まってというよりも、まるで小さな子供を放っておけないみたいな、そんな心配からのハグだった。
 いやだから、大人の男の人なんだよ。なんて言いたかったけどやめた。もういいや。
 どうにも綺麗に決まらなくて情けない限りだが、ひとまず彼女は泣きついてくれたのだ。それで十分だろう。
 抱き着いてきた美穂ちゃんを、俺は抱きしめ返す。何も言わずただそうしていると、やがて胸の中から彼女の寝息が聴こえてきた。